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上富良野町のアイヌ語地名解釈再考

佐藤 輝雄 大正十五年五月十五日生(七十歳)

はじめに

北海道。幼いときから呼び慣れてきたこの名は、日本の最も北の地にある名にふさわしい地名であると思う。
わたしどもが常日頃使っている富良野の名はアイヌ語地名からきたものである。アイヌ語の地名であったフーラヌイ(フラヌイ)。まことに美しい名の地名で、北海道と同じくこんにちの田園の地にふさわしい名である。
最初にフラヌイの名を著わしたのは北方探検家として知られる間宮林蔵で、これを詳らかにしたのは同じく探検家であった松浦武四郎である。
松浦武四郎以外の人が残したアイヌ語を語源とした地名もあるが、これらの地名において、従来からの地名解釈に疑問を抱かざるを得ないものもあるようなので解釈の見直しの必要性を感じ、解釈の再考を行った。
解釈に当たっては、明治中期に抜群のアイヌ語学者といわれた永田方正氏。アイヌ文化、郷土史研究家であった更科源蔵氏。アイヌ言語学者として多くの研究著書を成した知里真志保博士。氏とともに北海道のアイヌ語地名を研究された山田秀三氏。などの著書を参考文献とした。
さらに、松浦武四郎などの歴史研究者として知られる松浦武四郎研究会代表秋葉 實氏。アイヌ語地名の研究者であるオホーツク文化資料館長伊藤せいち氏の指導校正を得て解釈の再考を行ったものである。
再考における心構え
アイヌ語地名の解釈は非常に難しく、辞典や地形図をみながら考えた机上における推論と、現地における照合確認の対比調査でも解釈に問題ありとして課題を残すときには、藁にもすがりたい気持ちで大いに悩む。すがって聞くべきアイヌの古老はいまでは捜し当てる術もない。
アイヌが発音した地名の言葉を聞き、書き取る時点の誤りも実に多いらしい。いまから約一四〇年ほど前に北海道の山川地理を調査して歩き、アイヌと寝起きをともにし、驚くほど多くのアイヌ語地名を書き残していた箱館奉行支配松浦武四郎でさえ誤るほどアイヌ語の発音は、実に聞き取りづらいものであったようだ。
永田方正氏は、『北海道蝦夷語地名解』の著書で次のように述べている。
「あいぬ古ヨリ文字アラズ地名ヲ記スル和人ヨリ始ル而シテ和音自ラ異同アルヲ以テ古今地名ヲ記シタル者簿記ニ地圖二其訛謬少シトセズ且ツあいぬト雖モ久シク和人ニ接スル者及壮年輩ニ至テハ頗ル訛音アリ遂ニ轉々相訛リテあいぬノ原語ヲ錯亂シ地名ノ意義湮滅シ今得テ解ス可ラサル者少ナカラズ故ニ地名ヲ解セント欲セバ必ズ其地ノ故老あいぬニ質サヽルヲ得ズ地名ノ言語ハ唯故老あいぬノ頭上ニ在テ存スルノミ若シ故老あいぬ死スレバ地名モ亦従テ亡ブ是岩村北海道廳長官卜永山北海道廳長官ノ共ニ愛惜セラル所ニシテ特ニ方正ニ命シ此書ヲ著述セシムル所以ナリ」
           明治二十三年三月
                     北海道廳屬 永田方正識
永田方正氏が明治十六年函館縣令の命を受け、その後北海道廳長官より更に引き続き命を受けわずか八年足らずで脱稿した『北海道蝦夷語地名解』には解釈の経緯と蝦夷語を和語にした既往の地名に誤謬多きことに驚き、その最たるものは松浦武四郎氏であると指摘している点も見逃せない。
百年以前の時点で既にアイヌ語の発音を正しく聞き取ることが如何に難しかったか、当時のアイヌが和人との接触で蝦夷語の発音に訛り音をすでに持つ者がおり、永田氏は「古老アイヌがいなくなれば、地名もままた亡ぶ」と大きな危惧感を述べている。
知里真志保著『和人は舟を食う』(北海道出版企画センター刊)の文章に<『愛国』私はこう思う―知里真志保「アイヌ語もろくにわからぬ連中がマスコミの波に乗ってアイヌ研究を随筆化し、そのでたらめにたえかねて私などがたまに真実をあばくと、やれ偏狭だの思い上がっているのだとふくろだたきの目にあうのが現状だ。学問の世界ですら正直者はバカをみるのが現状であってみれば、名誉ある孤立を守って地味な仕事をこつこと続けてゆくのがささやかながら僕の愛国心の発露だと思っている」>(『毎日新聞』昭和三十五年十一月十八日朝刊)
知里氏は『アイヌ語入門』(北海道出版企画センター刊)で、こうも述べる。「シロートはコワイ!……」―(筆者の要約による概要―「アイヌの老人がいったとしても間違いはある。それをそのまま鵜呑みにする人々がよくあり、学者の中にさえそれがある。だから、シロートはコワイ!……。アイヌの古老でも、かならずしも常に真実を語るものではない。長いアイヌ研究家としての生活の過程において、イヤというほど思い知らされているのである。故に、よく研究して取り組んでいく必要がある」)
この説諭は他の付随文章と絡(から)み学者としての姿勢のあり方として物議を醸したものであるが、アイヌ出身の言語学者として、母語の研究に一生を貫き通し、貴重な学術書を残して逝った知里真志保氏は、己に対しても極めて厳しかったのであろう。
※『北海道駅名の起源』昭和二十五年発行に、駅名の解釈を委嘱された学問の分野的権威者であったいまは亡き歴史学者の高倉新一郎、アイヌ語学者である知里真志保、郷土史研究家の更科源蔵、以上三氏が次のように述べている。
                                        (昭和二十五年十二月)
「漁獵民であったアイヌは、私供より裸の自然に接し、これを利用することが必要だったので、地名もその立場からつけられています。だから地名を聞くと、その土地の昔の姿、それをアイヌがどんなふうに感じ、利用していたかを想像することができます。ただ口から口へと傳えられている間に、發音が變り、殊に漢字をあてはめられるようになってから、漢字が充分にアイヌ語の發音を現わさないため、無理な當て字が多かったのと、漢字そのものに意味があって、漢字で現わした地名はアイヌ語のそれと全く違って受取れるため、奇妙なものになってしまったのです。…(筆者中略)…残念なことには、アイヌが地名をつける法則、アイヌ語の文法、それが和人の口に移される法則などを考えずに行われたものがすくなくなかったのです。私供はここに目をつけて、古い資料をでるだけ集めその元の形をさがし、アイヌ語の法則に照らして怪しいものは、正しいと思う解釋に従いました」
私は知里氏がいうところの「アイヌ語もろくにわからぬ連中……」の部類にも入らぬ論外の者との自覚をもち、三氏が指摘するところの、アイヌが地名をつける法則、アイヌ語の文法、和人の口に移される法則などの学問も、不勉強のためきわめて乏しい者であるが、解釈の心構えの基本として、学者、研究者の既述の言葉を常に戒めのものとして頭よりはなさず、解釈に当たる姿勢を支える柱としてきた。
山田秀三氏は、「アイヌ語の言葉の順序は日本語と殆ど同じで、従って訳もアイヌ語の言葉の順に書いた」。即ち、アイヌ語を発音順序に訳すれば綴りよい整った日本語になるということであろうか。
自分なりに学術書、地図などを参考文献として、また現地確認を幾度も行い、机上の推論と現地確認との対比を十分にし、更に学識者よりの指導校正をいただいて、ここに取まとめたものである。
歴史なども背景に入れてわかりやすい解釈を行ったが、解釈内容に疑問ありとして今後に積み残した部分個所もあり、完全に解釈を再考したものに至っていない点も多いが、お許しをいただきたい。
≪参考文献資料≫
上富良野地方の地名アイヌ語の解釈にあたって左記の文献を参考、または文章の一部を引用した。
「松浦武四郎『東西蝦夷山川地理取詞図』―(内―富良野付近)安政6年」
「陸地測量部『20万分の一地形図―神居古澤・夕張岳』明治26年輯製」
「北海道廳『20万分の一地形図―旭川〜富良野全域』明治29年印刷」
「陸地測量部『北海道仮製5万分の一地形図』明治29〜31年製版」
「国土地理院『5万分の一地形図―旭川〜富良野全域』昭和62年編集」
「松浦武四郎著『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌―上中下』―安政6年著 秋葉 實解読。昭和60年―北海道出版企画センター刊」
「松浦武四郎著『東西蝦夷山川地理取調紀行―戊午十勝日誌』―万延元庚申年」
「永田方正著『北海道蝦夷語地名解』昭和59年復刻―明治24年初版複刻―草風館刊」
「笹森 敬編輯『上富良野志』明治42年―上川管内志編纂会発行」
「国鉄札幌地方営業事務所『北海道駅名の起源』昭和25年―発行」
「知里真志保著『地名アイヌ語小辞典』平成4年復刻四版―昭和31年初版―」
「知里真志保著『アイヌ語入門』平5年4刷―昭和31年初版―北海道出版企画センター刊」
「吉田武三著『拾遺松浦武四郎』昭和39年―松浦武四郎伝刊行会発行」
「更科源歳著『アイヌ語地名解―北海道地名の起源』―昭和41年―北書房刊」
「岸本翠月編集『上富良野町史』昭和42年―上富良野町役場発刊」
「岸本翠月著『富良野地方史』昭和44年―富良野地方総合開発連絡協議会発刊」
「山田秀三著『北海道の川の名』昭和47年―モレウ・ライブラリー刊」
「日本国有鉄道北海道総局『北海道駅名の起源』昭和48年―改版発行」
「知里真志保著『知里真志保著作集2説和・神謡編V』平成5年―初版第5刷―和48年初版―平凡社刊」
「知里真志保著『知里真志保著作集3生活誌・民族学編』平成5年―初版第5刷―昭和48年―平凡社刊」
「知里真志保著『知里真志保著作集4アイヌ語研究編』平成5年―初版第4刷―昭和49年―平凡社刊」
「知里真志保著『知里真志保著作集―別巻1分類アイヌ語辞典』平成5年―初版第5刷―昭和51年―平凡社刊」
「山田秀三吉『北海道の地名」昭和63年―三版―昭和59年初版―北海道新聞社刊」
「中川 裕著『アイヌ語千歳方言辞典』平成7年―草風館初版発行」
以後記述文章において、上富良野町史、富良野地方史をそれぞれ上富町史、富良野地史。『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』を『戊午日誌』。「戊午東西蝦夷山川地理取調紀行ー戊午十勝日誌』は『十勝日誌』と略記し、紹介諸氏の敬称は、省略させていただく。
富良野の存在を世に知らせた者たち
いまから百八十年ほどの前の昔は、北海道の中央に位置する現在の富良野盆地を和人で詳しく知る者はいなかった。
文政四辛巳(しんし)年(一八二一)、間宮林蔵が著わしたとされる蝦夷図に「シリケンヨマナイ」、「フラヌイ」、「ヌモツヘ」と見えるのが、富良野盆地における最古の文献であると秋葉 實氏より教えを受ける。
安政四丁巳(ていし)年(一八五七)陽暦六月八日、箱館奉行組足軽、松田市太郎がイシカリ川水源を調査した時点で、こんにちにおける十勝岳下の焼山と称するところから硫黄を採取して持ち帰っている。その折の見分を日誌に書き留めているが、「亥(注-北北西)の方遥向にウリウ山見得申候」とありながら盆地の所在については一言も触れていない。(『安政四年イシカリ川水源見分書』より引用)
盆地である富良野を世に詳しく紹介したのは、北海道の名付け親と言われている松浦武四郎である。
安政五戊午(ぼご)年(一八五八)、幕府御雇(箱館奉行支配)松浦武四郎が蝦夷地内陸部の山川地理調査を目的として、石狩からチクベツ(現在の旭川市)を経て美瑛川筋を上って空知水源に入り、上富良野を通って十勝へ向かう途中、陽暦四月二十三日、フウラヌイ「川巾弐間計」の川を越えて当町の日の出地区とおもわれる個所のレリケウシナイという小川の縁で一泊している。
「惣て此処巾は三四里、東西凡十里も有るべきと思ふ平野にして、一ケ国の広狭丈夫に有処にて…中略…実に一大良域と云べきの地味なり」と日誌に書き留め後日発表したるが故に、富良野盆地をフウラヌイの川の名とともに後世に知らしめることになったものである。
故に、富良野という地名の語源はアイヌ語のフーラヌイ(フラヌイ)の音訳であり世に詳(つまび)らかに知らしめたのは松浦武四郎ということになる。
まことに美しい言葉の地名である。
富良野・富良野川の解釈
富良野は既述のごとく、アイヌ語のフーラヌイを転訛した当て字の音訳で、富良野川の意味を指す。富良野川は空知川の支流で十勝岳西側下の前十勝近くに水源を発し、日新・草分・市街地西部・島津地区を縦貫し、多くの枝川を伴って盆地の西部を南南西に向かって流下して空知川に入る。
   ≪富良野・富良野川
松浦武四郎 フウラヌイ「赤川と云義なり。川底皆赤土なるが故に号」
永田方正氏 フーラ ヌイ Hura nui 臭キ火焔……ピイエ川ノ上流ニ硫黄山アリテ臭キ火焔立チアガリタリ此川亦硫黄山ヨリ流レ來ル故ニ硫黄ノ臭氣アリテ飲ムニ堪へズ
上富良野志 因に記す富良野なる名稱は舊土人アイヌの語を蹈踏し來りたるものにして水質の不良を意味するものなりと云ひ或は濕地の多きを形容する語なりとも解す元来同村は水質不良にして又た泥濕地多きを以て何れにも適用さるゝが如し
北海道駅名の起源 アイヌ語「フーラヌ・イ」(臭いところ)の轉訛したもので富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があって、この山から流れ出るこの川の水に硫黄の臭氣があるため、飲むに堪えぬところからこう呼んだものであろう。なおこの流域一体を富良野と呼んでいた。
(筆者注)この解釈記述は昭和25年発行のものより引用した。昭和37年第15版では、……「フラ・ヌ・イ」(においをもつ所)の転かしたもの、と改まっている。
※ 第15版までの解釈については、歴史、アイヌ文学、考古学などの分野ごとの権威者によって監修がされた文献であり、この著書の委嘱監修者に知里真志保氏の名があることから同氏の解釈という説がある。
解釈再考 フラ・ヌ・イ(hura-nu-i)「臭・を持つ・所」の解釈を採る。
武四郎の記述に疑問あり
幕府に提出された報文日誌といえる『戊午日誌』によると、武四郎は渡川地点をフウラヌイと書き、「フウラヌイは赤川と云義なり。水底皆赤土なるが故に号」と、地名の解釈を述べている。
また、一般大衆向けに刊行した東西蝦夷山川地理取調紀行に書かれた『十勝日誌』には次のように記されている。「フウラヌイ小川、此原(源)ビエの硫黄山より落る故に臭気鼻を衝き、一掬を試んとなすや土人等毒有とて制す……(以下文略は筆者)とある。
『戊午日誌』にある「赤川と云義なり」となれば、「フーレ・ペッ(hure-pet)赤くある(川底が赤くなっている)・川という解釈になる。
蝦夷地に六航の体験をし、アイヌとの交わりも永くアイヌ語の知識を豊富にもつ松浦武四郎が、何故に地名と異なる意を記述したのかと疑問を抱き調べてみた。
秋葉 實氏の御高配により頂いた武四郎が日々書き記した手控え帳(野帳)の一枚に、フウラヌイ・赤川、という地名と川の形状を示した記述は確認されたが、地名の意については一文字の記入もなかった。
約百四十年を経たこんにちでも、武四郎が渡ったとおもわれる地点の富良野川の川底はいまでも赤い鉄錆色である。
『戊午日誌』の編纂執筆中における単純な錯覚誤謬をしたものとしか考えられない。
秋葉 實氏も、松浦武四郎がのちに『十勝日誌』を著わすに至り、「ニシバ(旦那)、飲んではいけない!」と制されたこと、「フウラ」は臭気を意味する語であることを思い出し、同日誌のような記述になったものであろうと見解を述べてくれた。
以上のような見解と、古い時代から史実に残された間宮林蔵の記録などより、フラヌイの地名は不動のものであり、その意も、臭を持つ所というのが正しい解読であることを確信して得て疑問は解けた。
   ≪上富良野≫
解釈再考 富良野川の上流にあるため「上」の字を冠したもの。『北海道駅名の起源』(昭和訪年発行)の解釈である。この解釈が最もなものと考える。
   ≪ヌツカクシ富良野川≫
安政時代のアイヌは、……イワゥ・ペッ(iwaw-pet)「硫黄・川」と名付けていた川である。水源を上ホロカメットク、三峰山西部下に発し、・富良野川と同じく数多くの枝川を持ち延長も長い。西に下って旭野地区から日の出地区に入り東部市街地を通り、盆地内を富良野川と並行して流下し、富良野市市街北部郊外でベベルイ川を伴い富良野川に流入する。
明治時代の図面には、ヌプカクシュフーラヌイ川とある。
松浦武四郎 イワヲベツ「小石川、急流。水源ビエ岳にて落ちる。彼硫黄の焼る処より来ると此水酢味有呑がたし」
解釈再考 ヌプ・カ・クシ・フーラヌイ川(nup-ka-kus-hurenui)「泥炭原野・の上・通る・富良野川」
明治29年製版、陸測仮製五万分の一地形図では、中富良野町から富良野市扇山あたりまでの盆地区域は湿原地帯として記載されている。現実にこの地域はそのとおりである。
故に机上論的な解釈であるが、nupをナヨロ方言の「泥炭の原野」を採る。富良野川とは異なり、ほぼ盆地の中央を流れていた昔の川の姿から解釈をしたものである。
   ≪ベベルイ川≫
富良野岳北部下を水源とし、倍本、東中地区を縦貫してから富良野川とは逆に盆地の東部丘陵地裾を次々と支川と結びあって流下し、富良野市市街北部郊外でヌッカクシ富良野川に入る。
平成六年五月十四日、松浦武四郎の『十勝越え』にかかわる調査で、陸上自衛隊演習場奥地のベベルイ川水系を見ることができた。
ベベルイ川の水は澄んで清いが、陸上自衛隊演習場の区域である上流部奥地の川底は、目を見張るばかりの様である。大玉石が敷き詰めたようにあり、驚くなかれ水は清いが底一面が褐色の赤い川に変わっていた。
本川の源流部近くで、ヌッカクシ富良野川に含まれる鉱泉の成分が浸透して入っているのであろう。
水深は浅いが激流の河川であった。
松浦武四郎 『戊午日誌』ベベルイ「川巾七八間浅瀬。転太石(ごろたいし)にして急流。是には魚類なきよし」
松浦武四郎 『十勝日誌』ヘ、ヘルイ 大石川。サッテクベベルイ転太石磊々とし……との記述あり。
山田秀三氏 ペ・ペ・ルイ(pe-pe-rui)「水・水・甚だしい」。
解釈再考 武四郎が渡川したと思われる付近の本川は、無数の白い水しぶきを発する激流の川である。この実態をみるかぎりその激しさからペ・ペッ・ルィ(pe-pet-ruy)「水・川・激しくある」と解釈したい。
武四郎は川の様を正しく書き残していた。「浅瀬転太石にして急流」また、「大石川」。約百四十年前の川は何ら変わることなく生きていた。水深約二十五p、川底一面が大玉石で、流れは激流の川である。また武四郎の記述を率直に解釈するならば次のような解釈も考えられる。
※……ピ・ペッ・ルィ(pi-pet-ruy)「石・川・激しくある」
※……ペ・ピ・ルィ(pe-pi-ruy)「水・石・激しくある」このような解釈、如何であろうか。
※……ベベルイを松浦武四郎の調査記述と切り離して考えてみる。
ベベルイ川は流路延長二十六・四q(現延長)の内約四十七%に当る下流部十二・五qは稲作地帯を流れる。
この稲作地帯を明治26年、同29年当時の地形図をみるに本川は左岸側の東部丘陵地から数多くの支流を抱え込み、紆余曲折しながら丘裾を南西に向かって流れ、富良野市地域に入ると左にチカプントー(現在の鳥沼)、右に無名の大沼(推定面積約六ヘクタール)を伴って西進後、北西に向きを変えヌッカクシ富良野川に入っている。流域で多少なりとも小高い植生地にはヤチダモ、アカダモ、ハンノキ、ヤナギなどが生え、他は湿地帯で特に富良野市地域は大湿地帯の中を流下していたことが図面上から想像することができ、明治時代の湿地帯を流れる本川の名はペペルイとある。
松浦武四郎が本川の上流奥地を渡ってより約三十余年後、地形図に明記されたペペルイはどのような意味のアイヌ語であったのだろうか。
別解釈再考 ペペ・ル・イ(pepe-ru-i)「水溜りが群がって存在する・筋の・所」。筋の・所とは(川)、即ちベベルイ川を指すものと考えたい。
松浦武四郎の日誌に基づいた上流奥地の実態と、下流部における百年前の地形を想像したものとに区分して解釈をしてみたが、非常に難しい課題として、筆者の学力知識では残さざるを得ない。
ベベルイ川の解読については今後に期待するものである。
   ≪江幌完別川≫
富良野川の支流で、町区域の最北端である津郷農場に水源を発し、エバナマエホロカンベツ川、二十七号川、トラシエホロカンベツ川、北二十九号川、北三十号川、旭川、金子川の枝川をもつ。
明治の仮製五万分の一図、ならびに現在の地形図をみる限り、本川延長の約七十五%に当る上流部は、ほぼ直線的に北北西の水路をとり、現在の津郷農場の水源に達している。明治以来、この川を江幌完別川と称している。
水源のその先四百m、また水源の左右それぞれ約三百mの位置は上川と空知の郡界であり、とくに水源の右岸側約四百m離れた地点は、郡界の丘を越えた美瑛町地内の沢地で石狩水源地でもあり、そこには、本川とは逆方向に流下する美瑛川の支流であるルベシベ三線川の水源がある。また左岸側約六百mの郡界を異にした位置には、美瑛川支流の美馬牛大成川が反対方向に流れている。
このように本川の水源は石狩水源に極めて近接して在り、最上流部は石狩川水系にあたる二つの川に挟まれた特異な形状になっている川と言える。
石狩川派流の水源の奥に到達したら、すぐそばで指呼の距離に水源が飛び移ったごとく、並行して水源界を異にする空知水源の川が、逆の反対方向に流れているという地形個所である。
富良野地史 エホロク・ウンペチ「後方に向かう川」という訳をしている
山田秀三氏 エ・ホロカ・アン・ペッ(e-hor-ka-an-pet)「頭(水源)が・後向き・である・川」の意と解釈している
この川も上って行くと、本流とは逆に川下に行くような感じがする川なのでこの名で呼ばれていたと結んでいるが……?
筆者の次のような解釈をしたい。
解釈再考 エ・ホルカ・アン・ペッ(e-horka-an-pet)「頭(水源)が・反対向きに・ある・川」。
接する二つの大きな水源界域の一部において、その上流部で流れも相反する川が接近し、且つ並行して存在する個所の地形は、広い北海道でも少ないようである。なだらかな丘陵地帯を水源界としているからであろう。
   ≪江幌完別川はホロカンベツか≫
安政五戊午年、松浦武四郎が美瑛町は美馬牛奥の石狩水源から空知水源に入ったとき、「ホンカンベツ小川、巾五六尺、…筆者中略…これに添て弐三丁下がり山間にホロカンベツ共に合してソラチえ落る」と日誌にある。
松浦武四郎が描いた『山川地理取調図』の河川線形と、日誌の記述に狂いがあったとしても現地調査の段階では、でき得る限り河川ごとの確認一致の努力をして、「形ばかりの小川」についても見逃さないように心掛けた。
日誌にあるホンカンベツ、ホロカンベツ、この二つのカンベツ川は親子連れの川であり、江幌完別川は、子を伴った親川になるようだ。
『山川地理取調図』にある「ホンホロカンベ」が日誌にあるホンカンベツで、現在の江幌完別川。取調図の「ホロカンベ」が、日誌のホロカンベツに当り、江幌完別川より流路延長が長い現在の金子川であると思われる。
『山川地理取調図』では、この二つの川が合流してホロカンベツとなっている。
空知水源に当たる金子川も上流部では、典型的なホルカアンペッ、即ち反対に流れる川の形を成し、近傍個所に石狩水源に当る美瑛川の派流である妙見川が並行して流れている。
別解釈再考 江幌完別川(古名―ホンホロカンベ)
日誌ではホンカンベツ。
ポン・ホルカ・アン・ペ(pon-hor-ka-an-pe)
「子である・反対に・ある・もの」
ホンカンベツを指すものと考える。
金子川(古名―ホロカンペ。-ホンホロカンベの親川に当る)
日誌ではホロカンベツ。
ホルカ・アン・ペ(horka-an-pe)「反対に・ある・もの」
ホロカンベツを指すものと考える。
※別解釈再考で、『山川地理取調図』のホロカンベが金子川、ホンホロカンペが江幌完別川として解釈したが、pe(もの)がこれらの川を指すものと信じたい。二つの川の位置付けにより、今後における江幌完別川の解読の資料になれは幸いである。解読に期待する。
   ≪トラシエホロカンベツ川≫
江幌完別川の支流で町の北端地域である静修地区の、石狩、空知の水源界近くから発している川である。上流部区間は流れが北進し、右折後は等間隔で江幌完別川に並ぶがごとく南南東に流れて江幌完別川に入る。上流部の北進する区間は、地域の馴染んだ生活実態に合わせた故か、開拓川と名を変えているが、本川の本流に変わりはないので、解釈もこの考えに基づいて行った。
山田秀三氏 トゥラシ・エホロカアンペッ「tu-rashi-ehorokanpet(道が)登っている・江幌完別川(の支流)」と読まれる。
解釈再考 トゥラシ・エホルカアンペッ(turasi-e-horka-an-pet)「それに沿ってのぼる・江幌完別川」と解釈したい。
トゥラシ「それに沿ってのぼる」の(それ)とは、川に沿うてできた獣道(けものみち)でアイヌも往来に利用した道のことと考える。
別解釈再考 (空想的机上論説)
トラィ・シ・エホルカ・アン・ペッ(toray-si-ehorka-an-pet)「湿地の水溜り・本当の・江幌完別川」と解釈したい。
本川は支流として、ヨシトミ川、多湖川を持ち、丘陵地の谷間を流下してきて、盆地の平原に入ったところで、江幌完別川に落ちる。合流点の傍らには二十七号川も流れてきており、明治中期頃の合流点は川の蛇行も多く川口付近は水位も上がり、長くはない区間であろうが水溜りの川ができていたことも考えられる。
本川は江幌完別川より流路延長は約三qほど長いこのような地形的推考の中で、古い時代における本川の川口地帯を空想し、仮定の地理的条件を加味した全くの机上論に基づく解釈を組立てたもので、既往の解釈にない空想的解釈と強調しておきたい。
   ≪エバナマエホロカンペツ川≫
本川は江幌完別川の支流で、町西部の丘陵地である江花二南地区の谷間に水源を発し、いったん中富良野町新田中地区に入ってから向きを逆の北北東に変え再び当町地内に入り、西二線北二十六号地先で江幌完別川に落ちる。流路延長は六q余と短いが、隣町地内から当町に流入する三本の川の一つで、親川の富良野川と一対で見れば完全ともいえるホルカ(horka)「後戻り」をする川の姿を成し、当町で本川のみ、「後戻りする川」と言えよう。
「古代のアイヌは川を生き物と考えていた。川は海から陸に上がって、村のそばを通って、山の奥へ入りこんで行く生物だということである。」(知里真志保氏説)
この川も上流部近くの流路変更地点付近は、エ・ホルカ・アン・ペッ「頭(水源)が、反対に・ある」川にやや似た形をとり、近くには逆方向の富良野に向かって流れるシブケウシ川がある。
解釈再考 エ・パナ・オマ・エ・ホルカ・アン・ペッ(e-pana-oma-e-horka-an-pet)「頭(水源)が、川下の方・にある・江幌完別川」と解釈したい。
   ≪コルコニウシュベツ川≫
水源を西日の出奥に発し、南西に向かって流下してきて町市街地の栄町三丁目で富良野川に入る。
解釈再考 コルコニ・ウシ・ペッ(korkoni-us-pet)「蕗の(葉柄)群生する・川と解釈した。
   ≪ピリカフラヌイ川≫
富良野川の支流で、清富地区の南東奥を水源とし日新地区に入りダムを持ち、その下流約一・八qの地点で富良野川に入る。
解釈再考 ピルカ(pirka-huranui)「良くある(水が)・富良野川」と解釈した。
親川である富良野川は川底が赤く水質も悪い(ウェンwen)であるが、本川は水も清くピルカ。富良野川と対比されて名が冠された川であろう。
本川もそうであるが、pirkaの動詞を使ってビリカ……何々……と表現している。日常生活品でも使用されているのを見掛けることがある。
永田氏はピリカ(pirika)と綴り、アイヌ出身者で幼いときからアイヌ語を覚え、言語学者となった知里氏は、ピルカ(pirka)という。
最近発売されている新しいアイヌ語辞典などにもピリカ(pirka)と記述されている。
この(r)の発音が、アイヌ語に訛りがなく正しく発音されていたものか、またアイヌ語の聞き取りに間違いがなかったものか、永田氏が危惧して述べたときよりすでに百余年を経たこんにち、pirka一つを取り上げてみても、どちらの発音が正しいものかさらに発音に訛りがあったのか、なかったものなのかと深く考えさせられ、アイヌ語の聞き取り、それを和語に書き写す難しさから、驚くほど多くのアイヌ語地名を書き記した松浦武四郎は、誤りもあろうが非常な辛労をしたことであろうと思われる。
   ≪ホロベツナイ川≫
ヌッカクシ富良野川の支流で、東部に当る富原地区の奥、陸上自衛隊演習場奥地を水源として、西に流れ、折れて南西に下り富原六地区の下流(中富良野地内)で親川に入る。昔は俗称、三線川と呼ばれていた。
明治の陸測仮製五万分の一図は、ポロペポッナイと記されている。
解釈再考 ポロ・ペポッ・ナィ(poro-pep-ot-nay)pep-otペポッは、pepe-otペペオッが文法上において必然的に母音の重複をさけるため、pep-otペポッになるものとして解釈をしていく。
ポロ・ペポッ・ナィ(poro-pep-ot-nay)
「親である(大きい)・水々・ゆたかに群在する・沢」と解釈したい。
(pepe)は〔pe(水)の反復形〕で、水々がゆたかにある即ち水々が群がって存在する所と解して、湿地帯に分派した支派川、多くの伏流水の湧出個所、水溜りなどと考える。明治45年頃でも、本川地域一帯は広い湿地帯で湿地には無数の谷地坊主があり、道路を造ることさえできぬ土地であったと古老(岩井清一氏・93歳―宮町二丁目在住)より聞く。
いまは往時の名残として沢地の奥にわき水の池が一つあるのみで、昔の(pepe)はコンクリート造りの川で残り、姿をしのぶ手がかりさえ失いそうだ。
ホロベツナイは、ポロペポッナィが訛ったものと思われるが、如何なものであろうか。
   ≪デポツナイ川≫
ホロベツナイ川の約二qの南側を、ホロベツナイ川と並行して流れ、中富良野町字文四地先でヌッカクシ富良野川に入る。東中一東地区奥を水源としている。昔は俗称で五線川と呼ばれていた。魚が多くおり、イトウなども釣れたという。ホロベツナイ川地域の湿地帯は地続きでつながってきている。
明治の陸測仮製五万分の一図は、ポンペポッナイと記されていることからして、ポロペポッナィ即ちホロベツナイ川とは親子連れの川となり、子に当る川である。
解釈再考 ボン・ペポッ・ナィ(pon-pep-ot-nay)文法上pepe-otはpep-otに変化して(pon-pep-ot-nay)で解釈をしていく。
「子である(小さい)・水々・ゆたかに群在する・沢」と解釈したい。
親であるホロベツナイ川に劣らぬほど、地域に分派した小川、多くの伏流水の湧出個所、水溜りなどがあったようだ。
デポツナイは、ボン・ペポッ・ナィの頭のポンが略され、ベボツナイと訛り、更に訛ってデポツナイになったものではなかろうか。
上富町史に、本川はチエポッナイ(魚の沢山いる沢)の意とあることから、親川のホロベツナイ川も含め、更なる解釈再考の必要があるかもしれぬ。
   ≪江  幌≫
明治27年印刷による北海道庁二十万分の一図にあるアイヌ語の、エホロカアンペッの頭部を採り、漢字を当てた音訳の和語と解釈する。
   ≪江  花≫
江幌と同様、道庁作製図に記されたエバナマエホロカアンペツの頭部エバナを採り、漢字を当てた音訳の和語と解釈する。
   ≪十勝岳≫
上富良野(空知郡)、美瑛(上川郡)、新得(上川郡)三町の境界にあり、標高二千m余の大活火山で石狩水系と十勝水系の水源界の稜線上にも位置する。
明治26年の陸測二十万分の一図に十勝嶽と示され明治29年の道庁二十万分の一図には十勝岳Tokapchidake(トカプチダケ)とあり、同29年の陸測仮製五万分の一図にも十勝岳と記されている。
松浦武四郎による著書(『戊午日誌』安政五、六年著述、六年提出)には、ヒエ岳、ビエ山と記され、また「イワヲベツ(筆者注釈―硫黄川の意味=ヌッカクシ富良野川)…中略…水源ビヱ岳にて落ちる」とあることより、ビヱ岳とも呼ばれていたようだ。
更に安政六年。松浦武四郎作の『山川地理取調図』には、ヒヱノホリとある。これは、ピイェヌプリ(piye-nupuri)「ピイェ・山」のことである。
知里真志保氏の『上川郡アイヌ語地名解』によると、「ピイェ」は「油ぎった」ということであるがそれについては永田氏の『地名解』には「水源ニ硫黄山アリテ水濁り脂ノ如シ」とある。或はもと「ピイ・ペツ」(pii-pet 石・川)から転訛して「ピイェ・ペツ」(piye-pet)となり下部を省略して「ピイェ」となったのかもしれない。この川には石ころが多いというと述べている。
山田秀三氏……『北海道の地名』による説
松浦図にあるヒヱノホリ(注‥piye-nupuri 美瑛の・山)はオタツテンケ(注‥オプタケシケ山)の西南にある処から見て十勝岳のことらしい。
永田地名解に「イワウ・ヌプリ iwau-nupuri 硫黄山。ピイエ川の水源なるを以ってピイエの川流濁りて脂の如し。故にピイエと名く。高橋図に西オプタテシケとあり」と書かれた処から見ると、イワウヌプリの称もあったであろうか。
   ≪十勝という地名≫
山田秀三氏は、さらに次のように述べている。
[トカチペツ]〜 「古名トカプチ也。河上にフシコトカプチと云所あり。トカプチは女の乳の名也。其地に乳の形に似たる丘ある故に地名となれりと、酋長クシヨバック語りき」(文化五年(一八〇八)秦 檍麻呂(はたのあわきまろ)『東蝦夷地名考』)
[トカチ]〜 「夷語トガプチなり。則沼の辺枯る所と訳す。扨トヲとは沼の事、カとはカシケの訓(よみ)にて、上へ又は辺り抔(など)と申意、プは所と申訓、チとは枯と申事にて、此川の中程にトカプチといふ大沼ありて、蝦夷人共山中草深く通行あしきとて此沼辺数年野火を付て焼枯したるゆへ地名になすよし。未詳。」(文政七年(一八二四)上原熊次郎『蝦夷地名考』)
永田方正氏、本名ヲ「シアンルル(Shi anruru)卜云フ遠キ彼方ノ海濱卜云フ義」彼方ノ海濱「トカチ」ハ「トゥカプチ」(Tukapchi)ニテ幽(ゆうれい)ノ義」昔時十勝アイヌノ強暴ヲ悪ミシ詞ナリト云フ
舊地名解ニ「トーカツチ」ハ沼畔ノ樹木枯ル意トアルハ誤ル。
松浦氏云「トカプチ」ハ乳房ノ義河上ニ「フシコトカチ」ト名クル地アリ丘ノ乳房ニ似ルアリ故ニ名クト 然レドモ乳房ハ「トカプ」(Tokapu)と云ヒ斜里郡「アイヌ」ハ「カプ」(Kapu)と云フ 十勝ハ「トゥカプチ」(Tukapchi)ニテ其音異ナリ 音異ナレバ義モ亦異ナリ 豈ニ「トゥカプチ」ヲ以テ「トカプ」ト混スベケンヤ且夫レ「トゥカプチ」ハ「シアンルル」ノ一名ニシテ固ヨリ海濱ノ地名ナリ 然ルニ之レヲ川上ノ乳房丘ニ附會スルハ抑何意ゾ。
山田秀三氏は結びともおもわれる言葉で、幕末は会所が広尾にあったために、広尾を呼んだこともあった。十勝はたぶん十勝川下流の辺の地名からできた名であろうが、大地名となったので発祥地も語義も全く忘れられ、諸説並び行われて来たのである。
松浦武四郎国名建議書は「元名トウカプ。訳て乳之儀。此川口東西二口に分れ、乳の出る如く絶えせぬが故に号しと申伝へ候」と書いた。語尾のチの処が省かれている。むりに読めばトカプシ(tokap-ushi 乳が・ついている処)とでも解すべきか。
永田地名解にあるシアンルルは他地の人の呼んだ名。またトカプチは十勝アイヌが誇りを以って呼んだ名で、幽霊なんかではなさそうである。他地方のアイヌが、語呂合わせみたいに悪名にしていった言葉であろう。松浦氏自筆未刊の報登加智日誌の冒頭には「土人是をトウカブチと云り。何れの原名なるやをしらず」と書いてあり、これが正直なところなのではなかろうかと述べ終えている。
以上、十勝岳の古名ならびに十勝の意義について言語学者、研究者の解説を紹介した。

※文化五戊辰(ぼしん)年(一八〇八)、文政七甲申(こうしん)年(一八二四)当時から十勝の地名解釈については以上のような経緯をもちながら、研究者、学者の諸説は明解に至らずこんにちに及んでいるようである。
   ≪上(かみ)ホロカメットク山≫
石狩水源と十勝水源の境界を成す稜線上で、十勝岳と三峰山の中間地点に位置し、安政火口の真上にかぶさるが如くに横たわる岩石山である。
明治27年印刷の北海道庁二十万分の一図には、カムイメトクヌプリ。
明治29年製版陸測五万分の一図は、カムイメトツクヌプリと記されており、大正10年測図の陸測五万分の一図には上(かみ)ホロカメットク山になっている。
解釈再考1 カマ・イ・メ・トゥ・カ・ヌプリ(Kama-i-me-tu-ka-nuouri)「上を越す・所・寒い・峰・の上・山」。
解釈再考2 カムイ・メ・トゥ・カ・ヌプリ((Kamuy-me-tu-ka-nuouri)「神(も)・寒い・峰の上・山」。
※以上二つの解釈をしてみた、この山に二回の登山経験を持つ感触を基に解釈したものであるが、いかがなものであろうか。
郡界の稜線上に、さほど高くはないが巨岩を累累と積み上げたような小山がある。その一つの小山が本山である。
本山と七qほど離れた位置の十勝側に、頭に下がしも付いた本山と同じ名で標高が二百mほど低い下ホロカメットク山がある。郡界を成す本山の東方に当る十勝側は、本山の傍らまでは傾斜は極めて緩やかであるが、郡界の西側に身を乗り出すと下は千尋の深さに安政火口があり、身が吸いこまれるような恐怖感を覚える。巨岩累積の山頂は尖り足場も悪く危険な恐ろしい山と、認識している。
冬季は雲に届く高さの故と西部から吹きあげる強風により、山下の西側絶壁は、雪氷塊が累々と張り出し、郡界の尾根は壮絶ともいえる吹雪地帯となる。
解釈再考3 上(かみ)ホロカメットク山。(上と山を省いて解釈する)ホルカ・メ・ド・カ(horka-me-tu-ka)「後戻りする・寒い・峰・の上」となり、解釈再考として「後戻りする・寒い・峰・の上」が最もなものと思うが、
解釈再考4 地名文字の綴りより率直に思考した解釈として(上と山を省いて解釈する)。ホルカ・メトッ(horka-metot)「後戻りする・深山」とも解釈できる。
本山の西側直下にあり俗称安政火口と呼ばれる噴火口は、明治初期は活発な噴煙活動をしていたことも考えられる。吹き上げる噴煙は西風により本山を覆って十勝側に落ちる。それがため峰を歩けず後戻りするほどの深山であったのか、あるいは噴火口の左右正面とも大絶壁のため本山に登れず、後戻りする深山の意と解すべきものなのか、釈然としない。
本山は深山幽谷以上の、雲に届く位置にある山という認識が解釈を阻害しているのかもしれぬ。
上ホロカメットク山。この山の地名解釈は難しく今後の解読に期待するところである。
   ≪富良野岳≫
上ホロカメットク山の西南西約三q先の分水界にある山で、富良野市との境をも成す。名は,富良野から採って付けられたものであろうか。
[富良野岳の古名]
安政五戊午(ぼご)年、松浦武四郎は十勝越えをする折、アイヌから聞いた地名を次のように後世に伝えている。
松浦武四郎 ヲツチシベンザイウシベ「……右の方に倍しての高山。頂は岩石……」(筆者注……右の方とは、前富良野岳のこと)。
解釈再考 オクチシ・ペン・サ・ウシ・ペ(okchis-pen-sa-us-pe)「峠の・川かみの・前・そこにいつもある・もの」と解釈した。
「そこにいつもある・もの」とは、即ち富良野岳を指すものである。
また、「川かみ」を意味する当該の川は、布部川奥地上流部と考える。
   ≪前富良野岳≫
富良野岳の峰つづきで約三q西南西先にあり、富良野岳と同様市町界を成す分水嶺にあるが、富良野岳より約三百mほど低い。
富良野岳の右斜め前の位置にあるため、この名が付けられたのであろう。
[前富良野岳の古名]
松清武四郎 ヲツチンバンザイウシベ「上尖りし山。此山のうしろはソラチの川に到るよし」
解釈再考 オクチシ・パン・サ・ウシ・ペ(okchis-pan-sa-us-pe)「峠の・川しもの・前・そこにいつもある・もの」と解釈する。
「そこにいつもある・もの」とは、前富良野岳を指し、「川しも」を意味する当該の川は布部川奥地上流部と考える。
   ≪カラ川(旧名サッテキペペルイ)≫
ベベルイ川の支流で、水源は富良野岳に発し、陸上自衛隊演習場西部区域でベベルイ川と合流する。
解釈再考 カラ川―涸川などに見合った和語と思われる。
本川は融雪後に流水が無くなり、即ち涸川となる。
「水が流れぬカラッカラッの川」、「涸れたカラッポの川」となる。このような実態と「涸川」などの意味を参酌して、和語の「カラ川」という呼び名で改名されたものであろう。改名は昭和40年頃と聞く。
   ≪サッテキペペルイ(現名カラ川)≫
松浦武四郎 サツテキベヾルイ「乾いたベヾルイと云儀なり」此水源ルベシベより来りソラチえ落るなり。川中大岩のみ簇々たり。
解釈再考 サッテク・ペペルイ川(sattek-ペペルイ川)「水潤れする・ペペルイ川」と解釈したい。sattek やせているが原義。川が夏になって水がかれて細々と流れる状態を云うとある。
陸上自衛隊演習場区域内を流れる上流部のベベルイ川、カラ川を見ることができた日は、武四郎の調査月日に対比し、遅れること二十日ほどの五月中旬であったが、その時点で本川には、はや流水は無かった。
カラ川には巨大な岩石が群がるように積み重なり、空間部分の川底の凹部に少々の水が滴る程度で、潤れた川底の地底から地下を流れる水の音が大きく聞こえる個所もあった。
「乾いたべヾルイと云儀なり。……川中大岩のみ簇々たり」と武四郎の記述した『戊午日誌』にあるとおり、本川は安政の時代からこんにちまで、川の名を変えながらも、姿は変わらずにいた。
   ≪ポロピナイ川≫
東十二線北二十号奥の陸上自衛隊演習場奥地に水源を発し、ベベルイ川支流尾藤(びとう)川に温水溜池地先で合流する。
町管理の普通河川で、極めて流路の短い小さな川で、国土地理院の地形図には名も載っていない。
近くに接する中富良野町地域に、ポロ、ポン、を頭にもった親子連れのピナイ(石・沢)川があるが、本川には子に当る川がない。

地域一帯には、大昔も原始以前とおもわれる時代の火山性大爆発によって落下した火山岩や石が無数にみられる。この実態から石沢に間違いはないが、ポロピナイ川という本川の名が、河川台帳にいつから載ったものであるのかそれすら定かでないことからして、昭和四十年時代に隣町の川の名を単純に模倣して名付けられた川であろうと考えたい。
この付近一帯から東部の旭岳(上富良野町)の裾野まで、さらに下って、南南西に当る中富良野町本幸、東富丘まで、筆者が知る限りにおいて、それはもう筆舌では言い表わせぬ驚くほどの石が耕作地に無数にあったことを承知している。
大きな庭石ほどのものがざらにあり、大玉石、栗石などが道路脇に堆積されて山となっていた。
耕地から出る石に農家は非常な苦労をし、毎年泣かされたという。
こんにちでも付近の原野、陸上自衛隊演習場地域に足を踏み入れると露頭する多くの大石がみられ、昔となんら変わらぬ実態がみられる。
本川には子に当る沢の名が付近にないことから単独の沢として解釈をする。
解釈再考 ポロピナィ(poro-pi-nay)「多い・石・沢」……多い石の沢とでも呼ぶべきであろうか。
あとがき
上富良野町のアイヌ地名解釈再考に取り組んで二年余、はじめに述べたごとく、言語学者、言語研究者の調査過程における実態を通じての将来への予見の言葉を、常に戒めの掟として身に付け、地名解釈には全くの未熟者である自覚を忘れずに持ち、参考文献などをひもときながら試行錯誤を繰り返し、再々におよぶ現地の確認を行い、病を持つ身の関係から確認できない高山などは過去の登山体験を回顧しながら再考を行ったものである。
今回発表の機会を得た解釈再考の内容においては間違いもあるものと思われる。また、疑問な点、さらに課題として残したものなどもあるがこれらについてはお許しを乞うものである。
この解釈再考が、今後における解読資料の一部として眼を通していただければ、望外の幸せであり無上の喜びとして受けとめたい。
草稿に対して、貴重な意見をもって指導と校正を下されて、基礎知識の不足な浅学非才である私を導いてくれた松浦武四郎研究会、代表秋葉 實氏。オホーツク文化資料館、館長伊藤せいち氏には、業務多忙の中を割いて幾度となく賜わった温情ある御指導御厚意に対し深く心から感謝の意を表し、結びの言葉とする。

機関誌 郷土をさぐる(第14号)
1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉