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サッポロビールと上富良野

元・上富良野ホップ作業所長 畠山  司
大正八年三月三十日生(七十七歳)

昭和三十七年十月、私は転勤のため第二の故郷の上富良野を後に札幌に向うことになりました。
当日、駅には思いもかけない大勢の方々が来て、中学生は線路端に並んで見送ってくれました。その時別れを惜しんでくれた皆さんの温かさをひしひしと肌に感じ、別離の情は胸に迫るものがあり、走り出した列車の中で、家族四人手を取り合って感涙に咽んだことは未だに忘れられない思い出であります。
それから三十三年、上富良野に着任した昭和二十三年からは半世紀の歳月が流れ、私も喜寿を過ぎボケの予備軍に入り、趣味の木彫りなどを楽しんでいますが、標記の題で寄稿を、との連絡を受け、随分昔の事でもあり、またはOBの立場なのでためらいを感じましたが、上富良野は私も意欲的な若い時に十五年もお世話になり尽きない思い出も多いので、題名に捉われず自由に書かせて頂くことにしました。
本誌第六号で現役の谷越時夫氏が「ホップの由来と栽培歴史」を詳述されておられるので、私は重複を避けて、沿革などは文章構成上の必要最小限に止め、会社が上富良野に生産拠点を設けてからの原料作物の消長や、私が勤務した十五年間のホップや、会社に関わる裏話などを回想録風に述べさせていただきます。
なお、会社は私が入社した昭和十二年頃は、大日本麦酒梶A戦後マッカーサー指令で二社に分割された昭和二十四年からは、日本麦酒梶Aさらに昭和三十九年には現在のサッポロビール鰍ニ変り、私が上富良野に勤務した頃は、レッテルもニッポンビールであったが、本稿ではすべて会社と略称することにします。
上富良野とホップ
北海道開拓使が、今の札幌駅南側に直営ホップ園を設けたのが明治十年、上富良野では大正十二年野崎孝資氏(旭野)、一色仁三郎氏(草分)、五十嵐富一氏(江花)の三氏に試作を委託、大正十四年吉田貞次郎元村長のお骨折りで、富原の本間牧場跡三十ヘクタール弱を購入し、翌十五年札幌工場から御子柴 卓が、菊池謙三郎と職工二名を伴って赴任、村の御協力を待てホップ園と乾燥場を設け、直営と契約栽培に当ったが、数年で不運にも経済不況に見舞われ、昭和五年直営ホップ園は全面休耕、契約栽培も急減に向いました。
昭和十二年支那事変勃発後、外国ホップの輸入が困難となるのを見越し、国産自給を目指して富良野地方では上富良野を中心に、沿線五町村で増反することとし、昭和十六年には菊池謙三郎を常駐せしめ、約四十ヘクタールの作付となったが、戦争の長期化に伴ない物資や労力不足と戦時作物に押され、昭和二十年の敗戦時には半減していました。
戦後も暫く停滞期は続いたが、ビールの消費が漸増するにつれ昭和二十七年頃から再び増産に転じ、昭和四十年にはまた四十ヘクタールに達しました。
この頃には栽培法も集約化し、丸太につるをからませて栽培する方法(棒式)から、鉄線棚方式に改めたり、乾燥花で出荷するなどに改善されて、十アール当り収益も著しく増加したが、日本経済の高度成長に伴い花摘み労力の不足、輸入ホップとの価格競合問題を招き、摘花機の導入、品種更新などの施策を講じたが、再び減反に転じ、北海道一の生産を誇った上富良野も平成七年には約十ヘクタールを数える状況となりました。
戦後この地区の担当者は、昭和二十三年より畠山 司、同三十七年より葉佐利喜蔵、同五十五年より谷越時夫と変り、夫々その時勢に応じて努力したが、国際的作物なるが故に世界的な経済動向に影響せられることが多く、一会社の力では如何ともし難く、以前のホップ作業所は方向を転換して「ホップ研究部」となり、平成六年より日蔭春夫が着任し、将来飛躍の時に備えて研究を主業務としております。
上富良野ホップ躍進の軌跡
従来の北海道農業は大規模経営のため粗放的で、ホップの様に手間のかかる作物は敬遠される傾向があり、昭和二十五年度富良野地方の十アール当り生花収量は、平均的百五十キロで、長野、山形などの平均五百〜六百キロに比べ三分の一以下の農家が多く、これが打開のため会社は関係機関の協力を得て、昭和二十六年頃より次の方策を打出しました。
一、生産指導の綿密化(毎月各戸対面指導、ホップ通信指導、講習会の開催)
二、増収意欲の昂揚(本州との収量差説明、増産共励会の開催)
三、棒式から鉄線棚栽培への転換(昭三十五年達成)
四、早生一品種に晩生を加え大面積栽培へ移行
このため、新種助成金の交付、鉄線棚と乾燥室建設への融資、ホップ生産組合へ助成金交付などを実施した結果、増収、増反、設備改善の意欲も漸次昂まり、日の出の石塚留治氏、高田多三郎氏、富原の大場惣一氏、塚沢賢一氏などが先ず成果を挙げ、さらに東中の大角伊佐緒氏がホップ共助会にて三年連続反収五百キロ以上を記録して「特賞」を獲得するなど、増収がつづき大面積栽培への移行も進み、昭和三十二年には十アール平均生花も四百キロを超えて、この年に市街の佐々木源司氏は北海道としては「夢の千キロ」を突破する千四十二キロ(約九万円)を挙げ、日本ホップ栽培八十年間を飾る快挙となり、これを契機に多収益作物として注目されるようになりました。
また、契約ホップの生花買入方式は、会社乾燥場の処理能力に限界があり、増反希望に対応出来ないので、本州各県の自家乾燥乾花出荷方式に転換することになり、昭和二十九年富原の山田正三氏が先駆者として二坪の乾煉室を建て、煉炭による乾燥を試行して成功、その後通風乾燥機の普及などもあり、昭和三十四年には全量乾花出荷に移行し、収益も増加して、昭和四十二年には平均十アール当り粗収入十万円を超えるに至りました。
上川ホップ農業協同組合の設立
従来ホップ契約栽培農家とビール会社との団体交渉は、全国ホップ振興協議会(任意団体)との間で行われ、買入価格の決定、補助金の交付、生産施設への融資、生産資材の特配などを処理していましたが、昭和三十年代に入りホップ栽培が全国的に盛んになり、ホップ生産農家の意志を結集し法的資格を有する生産者団体創設の必要に迫られ、北海道においては、札幌地区と富良野地区にそれぞれホップ農協を設立する気運となり、当地区は美瑛、上富良野、中富良野、富良野、東山の五市町村を併せ昭和三十五年七月、法人格を有する「上川ホップ農協」が上富良野に誕生し、役員は組合長野崎孝資(旭野)、副組合長松田佐市(江花)、代表監事一色仁三郎(草分)の三氏が選出され、事務所を会社内に置きました。
設立については各ビール会社も賛意を表し、各町村耕作者に異論はなかったが、時恰も農協合併による大型化の勃興期で、先ず上川支庁が真向から反対の意向を示し難渋したが、地元上富良野農協の石川清一組合長が、全国的農民運動の視野に立って御理解を頂き、沿線各農協もこれにならって了解されたので漸やく設立に漕ぎつけ、以後ホップ代金の支払い、ホップ配合肥料、農薬などの配付は、各町村農協で取扱う様に改められ、何のトラブルも無く耕作者は全国ホップ農協連合会の傘下に入り恩恵を受けました。
組合長は野崎孝資氏から松田佐市氏へ、さらに斉藤光久氏(南町)が引継がれましたが、平成八年二月末を以って法人としての「上川ホップ農協」は解散し、同年三月よりは任意団体「上富良野町ホップ生産組合」が発足し、組合長には大角勝美氏(東中)が選任されたのであります。
ホップの花摘み
一般にホップの花と言われている松カサ状の球花は、植物学的には果実で、七月中頃咲く白い金平糖の様な毛花が成熟したものです。
ビールに必要なこの球花を一つずつ摘むので、手間のかかること。摘んだその日に乾燥しないと品質が悪くなる。収穫適期が短いなどいろいろ難問があり、摘む人を集めるのにも苦労がありました。
作業は畑から蔓のまま運んで来てテントや納屋などの日陰で竹かごに摘み、一キロ何円という出来高払いで、会社のホップ園では毎日百五十人位を必要としたので、一般主婦の外に小・中学校にお願いして生徒に集団で来て頂く事も年中行事でした。家計や学用品購入に役立つ反面、手や衣服が汚れる、毛虫が怖い、市街地から遠いなどと敬遠される面もあり、多くの皆さんに大変御苦労をおかけしたと思っています。
昭和三十年頃から鉄線棚栽培に移行し、蔓を切らずに畑で座って摘む様になり、初秋の風物詩などと表現する新聞もあったが、日照りの強い日は、これまた忍耐を要する仕事でありました。
機械化が進んだのは昭和三十七年頃からで、初期は小型の脱穀機の様なものから、次第に中型機に発展し、人手不足を補うために昭和四十年頃から手摘みは急速に影をひそめ、今やアメリカ並の大型機も出現して、花摘みはホップの味のごとく苦い思い出となってしまいました。
ビール大麦の栽培(要約)
北海道におげるビール大麦の本格的な栽培は、明治六年北海道開拓使の七飯町の官園が始まりで、上富良野では大正元年から会社との契約栽培を始め、今日まで続いています。昭和十二年私が入社した当時は、各町村の世話人と会社との予約制で、上富良野は旭野の野崎孝資氏から毎年会社に申込み、会社は個人毎に何俵まで買入れるという承認書(葉書)を発行する方式で、私もこの宛名書きをした記憶があります。
戦後農民運動が盛んとなり、昭和二十四年「北海道麦酒原料耕作組合連合会(五年後ビール原料、に改称)が設立され、生産者団体と会社との契約に移行し、集出荷の実務は各町村農協が担当することになりました。その時、この連合会の上川支部を上富良野ホップ作業所に置いたので、美瑛から南富良野まで沿線六市町村を区域として走り廻りました。
ビール大麦の作付品種は、「二角シバリー」から始まり、「北大一号」、「モラビヤ」、「ハルビン二条」と続いたが、戦後私が上富良野へ着任した頃は「ハルビン二条」も不稔粒が多く退化傾向で、昭和二十四年上富良野の実績は、面積二十八ヘクタール、出荷四百二十俵と振わなかったが、昭和二十九年「春星」次いで昭和四十七年北見農試と会社が共同育生した機械化栽培に適する「星まさり」への転換により急速に増加し、昭和五十一年には二百六十一ヘクタール、一万三千百俵になったが、同五十三年をピークとして漸減しております。
現在の栽培品種は、「りょうふう」(涼風)という近代的な名の良質多収穫に替っているが、輸入麦芽が安値のため、耕作者の増産希望に応じ得ず、北海道の買入契約数は約十六万俵に抑えられ、そのうち、上富良野は約四千八百俵に止っている由で、国際経済の影響をうける作物の宿命として伸び悩んでいます。
上富良野におけるビール大麦生産の代表者は、野崎孝資氏(旭野)が最も長く、その後松田佐市氏(江花)が引継ぎ、ホップと同じ経過を辿っています。
市街地八町内の大火(昭和二十四年六月十日)
上富良野開拓以来の大火で民家のみならず農協倉庫なども被災したので、年輩の人は忘れられない出来ごとと思います。(罹災世帯数四十八戸)。
当日私は、ビール麦の仕事で美瑛町へ出かけており急を聞いて引返したが、この時富原のホップ園からも全員が駆けつけて、消火や倉庫から農産物の搬出などに二日間協力しました。後日この事で北海道食糧事務所から、政府保管の米穀が被災を免れたことに思いがけない感謝状を戴いたが、この宛名が「ホープ員殿」となっていて、誰がどう上申したのかホップを知らない人が「ホープ」と書いたのでしょう。
また、火災発生のとき会社の乾燥場に備付の手押消防ポンプを貸してくれと走って来た会社出入りの大工さんが、農薬散布用の動力噴霧器を間違えて引出したものの全く役に立たず、駅前に放置してあったなど、笑えないエピソードもありました。
ホップ園の花見と湧水
富原に設置のホップ園の入口付近の道路は、右側が高い崖になっていて崖下の潮目から清冽な地下水が湧き出ており、その流れを溜めて三つの池を造り、池の周りには昭和の初めに先輩が植えた「ベニヤマザクラ」が二十本位あって毎年美しい春を告げるミニ公園でもありました。
終戦後あまり娯楽のない時代には、花見も年中行楽のひとつで、常連のメンバーは私たち会社従業員と飛沢医院の皆さんでした。飛沢英寿先生は義侠心に富んだ面倒見の良い人で、農園の人が何かと御高配に預かっていたのでタクシーの無い時代でもあり、当日は保導車で迎えに行き、春のひとときを楽しむのが恒例でありました。
この湧水は、年中九度C位で冷蔵庫が満足にない時代ビールを冷やすのに最適だったが、昭和三十七年に富原二部落から飲料水として分譲方要請があり「困ってる時はお互い様」と関係者の承認を得て、ビニール管による給水に応じたことがありましたが、その後どうなったか聞いておりません。
(編集者註=この飲用水は現在も「富原第一水道組合」として二十一戸の農家が利用しており、初代組合長は小川好太郎氏・二代目が村上富士雄氏で現在は向山慎一氏が当っている。受益者全員で維持管理しており、水量水質とも当初と変っていない)
十勝岳、馬の背の熊狩り
十勝岳に熊のいることは常識であっても、熊狩りを見た人は、上富良野でも少ないと思うのでホップから脇道にそれてしまうが少しふれておきます。
昭和二十五年七月、ホップ園の仲間と夏山登山した時の事です。その日は快晴に恵まれ本峰を極めてから馬の背を通り、旧噴火口に下りて食事中「馬の背の壁を登れるかどうか」の話が出て、論より証拠と私達三人が挑戦し、思ったより楽に馬の背を登り切り、一息入れて富良野岳方向へ歩き出した時、三十米位先を金毛の大熊が二頭の仔熊を両脇に従え、小走りに向ってくるではないか!!思わず二、三歩返って身構えたとき、熊も我々に気付いて東側の緩斜面へ方向を変えて五十メートル位走ったろうか「ダーン」と銃声が鳴り響いた。後で解ったのだが上富良野の大内ポンプ屋さんが、勢子と共に追っていたのだ。親熊は一足跳びに走るが、仔熊が遅れるので速度をゆるめたところを二発目が「ダーン」、うまく命中して親熊は身を草原に叩きつける様に一回転して倒れた!!それを見た仔熊二頭は親を置いて右方向へ走り一頭は射たれて親と運命を共にしたが、他の一頭は這松の中に逃げこんでしまった。熊に出会ってから三十秒位の全く予期せぬ活劇でありました。
その時、大内さんから我々に声がかかり、仔熊を生け捕りにするから手伝ってくれと言う。ソレッ!!とばかり草原を走り這松を五人で囲み追い廻したが、松の幹が縦横に交叉して足場が悪く、仔熊は命がけで逃げ廻り、ピッケルは空振りばかり、二十分もするうちにこちらは疲れて全員ダウン。命拾いをした仔熊がトコトコ斜面を登って別の繁みに入って行くのを唯々見送るばかりだった。
やっと一息ついてから倒れた親熊へ恐る恐る近寄ると、大内さんが「足の裏が見える様に伏せているから死んでいる」と云う。爪が地面に向いてるのは飛びかかって来る危険があると教えられた。
「親熊を山から下す人夫をよこす様、白銀荘の管理人に伝えてくれ」と大内さんから頼まれ、仔熊一頭と銃を預かって急いで馬の背を下りましたが、貴重な体験でした。
十勝岳は眺めて美しく、楽しく登山の出来る山で何十回か登って山気を満喫したが、戦後未だ娯楽の少ない頃、札幌工場の山岳部員がトラックの荷台に乗って大挙登山に訪れたものです。
自家用車を持てない時代のことですから、会社出入りの業者の車を雇い、老若男女四十名が土曜日の夜札幌を出発、警察の眼を逃れる様に夜通し走り、早朝上富良野着、私も案内人として白銀荘へ同行、それからは体力に応じてグループを作り、泥流地帯で高山植物を観賞する者、新噴火口で「もうダメ」という者、競って頂上を制覇する者などいろいろでしたが、夜行事の疲れを忘れて十勝岳の一日を楽しく過ごし、帰り道、会社乾燥場前の広場で小休止、日の出の牛屋さんで求めた新鮮牛乳と、採り立ての苺を賞味するのが皆の楽しみでした。
これは戦後のインフレが漸やく治まりかけた頃の事ですが、四十五年以上経った今でも「あの時の牛乳の味が忘れられない」と言うOBがいます。
その人達の追憶は、十勝岳と上富良野とが今でも一体なのです。
上富良野菊花愛好会の思い出
「花を愛する人に悪人なし」これがスガノ農機叶尠豊治氏の口癖で、会員は良心的な人ばかりでした。
昭和二十九年営林署の苗圃に赴任された二口正二郎氏が菊作りの名人と聞き、数人連れ立って見学に行ったのが始まりで、翌春から二口さん宅に集まって土づくりから手ほどきを受け、昭和三十一年文化祭で上富良野中学校体育館に数十鉢並べたのが第一回菊花展で、その終了直後、全町を区域とする菊花愛好会を結成したのでした。役員は会長二口正二郎、副会長岩田長作(東中)と私畠山 司で発足しましたが、翌年東中地区が独立し、岩田氏に代り菅野豊治氏が就任しました。
初めは大菊三本立てが主体でしたが、二口さん得意の、のし懸崖、段作り、中富良野町梶原惣之助さんから、文人懸崖などを学ぶと共に旭川の翠光園から田島一三園長や三浦健悦氏(文人の名人)を招いて講習会を開き、さらに当時文人や盆栽作りの最高峰と称せられた美唄市・田村忠雄氏の教えを乞うなど本格的な技術導入を図ったので、会員の技量も急速に進み会員数も増え、昭和三十二年以降の菊花展は、文化祭行事の一環として、町役場や関係団体の支援を頂き、会場を公民館に移し町民一般にも親しまれる様になりました。
昭和三十四年旭川で道北大菊花展が開かれ、上富良野からも国鉄の十屯貨車を貸切りで十七点出品したが、菅原 敏さんの盆景(寄せ植)が首席一等に、杉本正一・昌子さんの大菊がそれぞれ三等に入賞するなど、上富良野菊花愛好会の名を挙げると共に、逐年菊作りは盛んとなり、やがて菊花盆栽愛好会に拡大発展しました。
今、発足当時のアルバムを開くと、会員は前述の五人の外(敬称略)、丸藤 正、宮野孫三郎、千秋 薫、佐々木敬止、諏訪武雄、向山安松、小野武雄、笹木庄吉、大場 昇、北原、高松森之助、早川源四郎、女性では菊地マサ、中尾ソノ、杉本昌子、斉藤ふさのさんなどで、また海江田武信町長、酒匂佑一助役、山本逸太郎社長、石川清一農協組合長、土屋久雄さん(盆栽)にも御高配に預ったが、殆ど鬼籍に入られ今や往時を語る術もありません。
石川清一さんの追憶
参議院議員・石川清一さんについて私が述べるのはいささかためらいもありますが、心に残っている方なので、その一端を書き留めさせてもらいます。
お住いが日の出二なので、帰宅の道すがら時折拙宅へ立寄られ、家内共々談笑する事がありましたが、気さくで人間味があり、世間話が面白く代議士風を吹かせる事など微塵もない風格のある人でした。
昭和三十五年、上川ホップ農協創立のとき、弱小農協合併大型化の時流であったにも拘らず、「ホップ耕作者の利益になるのなら」と理解を示されたが、この時監督官庁同様に反対を表明されれば、恐らく上川は勿論札幌ホップ農協も設立は難しかったと思います。
昭和三十八年一月、上富良野町報の巻頭に石川さんの短歌が数首載っていて、その中に

  畠山夫妻この町づくり村づくり菊薫らせて町を去りゆく

とあり、私共への過分のお言葉と解して恐縮した事を思い出します。私達は、「郷に入っては郷に従え」という先輩の教訓を実践すべく、会社の仕事以外でも、町内会、農事組合、PTA、婦人会、菊花会、詩吟会などで微力を尽くしたつもりですが、私共に寄せられたこのお心遣いに対し心から感謝すると共に、その心の広さを感じた次第であります。
上富良野から札幌へ、そして岩手県へと私が転勤してからも文通は続き、岩手から会社の社内誌「サッポロ」をお送りしたのに対し、昭和五十一年七月二十日付消印の礼状を預いたのですが、その内容を要約すると、お礼の言葉と上富良野の記事を見たとの後に『サッポロビールの社員の方で覚えている人というと、札幌農学校出身の矢木久太郎さん、明治二十七年父が引っばった人で大変な努力家だった、ドイツに留学して向うのホップを持ち帰り(中略)ホップの思い出は尽きません。いい事も悪い事も様々でした(中略)畠山さん元気で長生きして下さい』とあり、その一ヶ月後に御逝去の報に接し、あまりの突然に驚樗、遥かに御冥福を祈った次第でありました。
自衛隊駐屯と詩吟会
昭和三十年、特科連隊と特車大隊(第二戦車大隊)が駐屯する様になったとき、営外居住者の住宅が不足し、役場から社宅借入れについての要望がありました。
丁度その春札幌へ転勤者があり空いていたので、古い建物だったが急遽改修し六世帯を受け入れ、毎年正月二日には会社従業員と新年懇親会を開くなどの気配りをしてピンチヒッターの役割を果した事があります。
次いで思い起すのは、詩吟のことで、警務隊長の国分国壮一尉が「日本国風流」の大師範で、町民との親和交流のため、詩吟会を町公民館で毎週一回開くことになりました。
会員には自衛隊員が多く既に有段者も居られたが、町民側は殆ど素人で、役場の加藤 清さん、作報(農林省作物統計事務所)の角谷義雄さん、建築業の黄田義栄さん、警察の和泉巡査など総勢三十名位、大声放吟の楽しみを覚えたわけです。
毎年富良野沿線の合同吟詠大会が、各農協会議室を会場として開催、昇段級試験を併せ行ったので次第に熱が入り、昭和三十七年には東京から宗家、雨宮国風師を迎え旭川市民会館で道北大会があり、この頃には上富良野からも数名が「奥伝、六段」免許を受ける程の上達ぶりでした。
国風流詩吟は質実剛健の気風を養うばかりでなく吟中に和歌、民謡、琵琶、童謡などを採り入れたものもあり、優雅で親しみ易く、自衛隊員と町民との裸の交流に大いに役立ったと思っております。
川中島、金州城まで、初歩のものから楓橋夜泊、五木の子守歌、本能寺、白虎隊など合吟した昔が壊しくてなりません。
むすび―歴史は繰返されるか
サッポロビールと上富良野との関係は、大正元年のビール大麦栽培から始まり平成八年の今日まで、八十五年に亘る歴史を有し、会社の果した役割を振返ると、ホップを主としビール大麦を従とする道央の拠点として、その生産に関わった奥深いものがあります。
北海道開拓使の官営事業を引継いだ性格から、北海道農業振興のため道産ビールは道産原料で≠建前とし乍らも、その作付は時の経済情勢を反映して消長があり、ある時は農民に益し、ある時は期待に背き、今後も自由経済の続く限り「歴史は繰返される」と思われます。
而し、ここに拠点を構えた会社とその従業員は、会社の立場のみに捉われず、拠点とした地域と共に発展したいという願望を念願に努力して来たと思います。
近年外国ホップの安値に押されて、国内産ホップが全国的に減反の状況の中で往時を振返ると、個人的にはホップを天職と心得た私共の努力は一体何だったのかと、心に空しさを覚えることもあります。上富良野をホップの拠点とする会社の考えは今も不動で、現在その名称を「植物工学研究所ホップ研究所」と変え、大学卒研究員を揃え、所謂ハイテクを駆使したホップの研究に主業務を移行している様でありますが、ホップ屋のOBとしての私見を述べるとすれば、日本のホップ栽培は北海道で始まり、長野に移り、戦後北上を続け今や東北地方が主産地となってはいますが、長い眼で見て将来生産コスト面で外国ホップと対抗し得るのは、大規模経営の可能な北海道だと思うので、何とかして上富良野からホップの灯≠消さないで欲しいし、また、上富良野でのホップ研究が成果を挙げ、日本のホップ生産に活用されるばかりでなく、国際的にも貢献できる輝かしい日の来るのを心から期待して止みません。
≪畠山 司氏の略歴≫
大正 8年 3月30日 東鷹栖村(現、旭川市)にて農家の四男として出生
  12年 3月 北海道庁立永山農業学校(農科)卒業 大日本麦酒株式会社(現、サッポロビール梶j札幌工場へ入社(ホップ関係業務)
昭和14年12月  現役兵として旭川第七師団へ入営
  15年 2月〜 北支那派遣軍自動車連隊において、日支事変に引続き大東亜戦争に従事
  19年 1月〜 陸軍航空本部監督被命(国内勤務)
  20年 9月  敗戦により札幌にて復員(陸軍大尉)
    〜 大日本麦酒且D幌工場へ復職
  23年 5月〜 同社上富良野ホップ作業所主任
  37年10月〜 同社札幌工場ホップ課長
  43年10月〜 同社岩手ホップ作業所長
  53年 4月〜 同社直系星北興産鰍ヨ転出。56年7月定年退職
  56年10月〜 趣味として木彫を研習、現在に至る。
平成 3年10月 北海道美術作家協会々員に推挙される。
   8年 喜寿を迎え、妻京子さん(70歳)と札幌にて悠悠自適な日々を送られている。
≪サッボロビール株式会社植物工学研究所・ホップ研究部≫
(旧サッポロビール鰹纒x良野ホップ圉)

〔歴代所長〕  就任年月〜退任年月

初代 御子柴 卓 昭元・1〜昭20・4
二代 菊地謙三郎  20・4〜 23・4
三代 畠山  司  23・3〜 37・10
四代 葉佐利喜蔵  37・10〜 55・11
五代 谷越 時夫  55・1〜平成6・9
六代 日蔭 春夫 平6・9〜現在

〔一般職員〕

只野 源八 昭和21・3〜昭和40・12
鹿内 清見   21・3〜  38・10
小野寺春治   35・6〜  53・4
関口 孝道   35・8〜  46・10
塚沢長太郎   36・5〜平成3・1
堀江 常治   43・4〜  2・10
荒井 康則   49・4〜  3・10
八木橋信治   59・10〜昭和59・10
三浦 祥英   59・10〜  63・10
糸賀  裕   62・5〜現職
後藤 其仲 平成3・3〜現職
小林 泰三   3・3〜7・3
松藤 邦雄   3・3〜3・12
須田 成志   4・4〜現職
稲葉  彰   7・10〜現職

〔上川ホップ農業協同組合〕

組合長 野崎 孝資 昭35・7〜昭42・3
 〃  松田 佐市  42・3〜 57・3
 〃  斎藤 光久  57・3〜平8・2

〔上富良野町ホップ生産組合〕

組合長 大角 勝美 平成8・3〜現職

〔上富良野ビール大麦耕作組合〕

組合長 野崎 孝資 昭29・5〜昭36・2
 〃  松田 佐市  36・5〜 57・3

〔上富農協ビール大麦部会〕

部会長 巽   清 昭57・3〜平1・3

〔JAかみふらのビール大麦部会〕

部会長 富田庄四郎 平成6・3〜現職


機関誌 郷土をさぐる(第14号)
1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉