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銀嶺十勝

浄土真宗大谷派第二十四世法主裏方 (故)大谷 智子
明治三十九年九月一日生れ
平成元年十一月十五日逝去(享年八十三歳)

十勝へ 厳寒の 十勝へ!

はじめて行く北海道の冬山!
長い間憧れてゐた雪の曠野へ―不安と好奇心と喜びとの錯綜した気持で、颯爽と旅路についたのであった。しかし何十時間かの汽車の旅にひきつづいて、殊にはげしく揺れた青函連絡船では、旅馴れた私も、いつになくすっかり酔ってしまった。函館に着いてからが、まだ長い長い汽車の旅、やっとの思ひで石狩の東部、上富良野駅に下車したのは、昭和十四年一月三十日の午後一時頃だった。
駅前には馬橇が待ってゐてくれた。それに身を托して、吹上温泉に向ふ。橇が動くと、カンカンカンカンと馬の首に附けられた鈴が鳴り出した。後方でも、高く低く思ひ思ひの鈴の音をたてて、雪の上を走らせてくる。しかし、音楽的ないい響きがするものと期待してゐた私は、この音を聞いていささか失望した。じつと耳を澄ましてゐるうちに、夏の夜の京の祇園祭りの囃子の音を想ひ起こしたが、これは遥かに非音楽的な音だった。期待が大きかっただけに、すっかりつまらなくなってしまった。
廣い廣い、どこまでも平坦な雪の曠原を走って行く。中茶屋で休憩し、再び馬橇に乗った頃には、もう薄暗くなってゐた。だらだら上りの道を、針葉樹林の中を行くのである。かなり気温も下ってゐるやうだった。
だんだん暗くなって、時計の針も見えなくなってしまふと、ただもう、少しでも早く温泉に着けばよいと思った。でも、割に早く、七時前に吹上温泉に着いた。
通された室に、ストーブが赤々と燃えてゐたこと、浴場がとても遠くて、うす暗い廊下の處々にランプが吊され、しかもその廊下は、表現派の繪畫か、いつか見た「罪と罰」の映畫を思ひ起こさせたほど、気味悪くゆがんでゐたことなどが、疲れた頭にはっきりと意識された。かうして遠い曠野の果ての第一夜が来た。
一月三十一日。晴れたら十勝岳へ、吹雪なら三段山へ、と言ふ豫定で昨夜寝についたのだったが、今朝起こされて見ると晴れてゐる!しかも快晴ではないか!!我が目を疑ひ、驚喜せずには居られないほど嬉しかった。何故なら、冬の十勝岳の快晴は数える程しかないと言ふのだから。一週間滞在しても、十日滞在しても、登ることはおろか、山の姿を見ることさへも出来ずに帰る人もあると言ふのだから。その山が晴れたのだ!まあ、なんと私達の恵まれたこと!。
寒さに對する防備を充分にして、宿をとび出した。
一行の誰の顔も、皆にこにこしてゐる。「いいお天気で」とほほ笑みあふ。陽は燦爛と輝いてゐる。空は秋のやうに高く青く澄みたってゐる。樹氷に日が照って、細かいダイヤモンドを散りばめたやうにキラキラと美しい。「よかった、ほんとうによかった」と、お互ひにささやきあひながらも、何かしら有難くて有難くて、お念佛が口をついて出るのを、禁ずることが出来なかった。
はじめは樹氷輝く森林地帯がつづく。その森林地帯を抜けると、泥流跡スロープに出る。ここは大正十五年の爆発の時に、熔岩が流れた跡ださうである。
いつもならば、雪ですっかり隠れて、いいスロープになるのだとのことだったが、今日は岩が澤山現はれてゐた。
やがて、遠く高く、十勝岳の噴煙の白く上るのが見え出した。私達は眼前の前十勝を目指して、黙々と、否、にこにこと登っていく。嬉しさで一ぱいなためか、少しもつらいとは思はない。ただ寒さが身体は少しも寒いとは思はないのに、顔が寒いと言ふより痛いのである。お腹に入れた懐炉(かいろ)の温みも少しも感じられず、火が消えたのではないかしらと思ったりした。北海高女の小池氏が、「痛いと感じる間はよいのですよ。それを通りこすと痒くなりますが、その時はもう凍傷をおこしてゐるのです。だから痛い間に気をつけて、よくこするとよろしい」と云はれる。そして凍傷をおこした部分は、少し黄味を帯びるとも云はれた。何だか気持が悪くなったので、立ち止まるたびに、頼や鼻や手先きなどを一生懸命摩擦した。
仰げば白雲一つなく、無限に高く高く続いてゐるやうな、廓寥たる碧空。眼を伏せれば、紫外線よけの眼鏡を通して、チカチカと銀粉のやうに光る雪。
噴火口へのとっつきは相當急だった。そして、雪もかたくクラストしてゐて、スキーでは登りにくいやうになってきた。
十一時半噴火口に到着。ゴーゴーと轟く物凄い音とともに、むくむくと盛り上がって来るうす鼠色の噴煙。煙の合間合間に見える火口附近の雪は、すっかり黄色くなってゐるので、奇異の感にうたれた。
これは硫黄が雪に附着してゐるのだとのことである。
ここでスキーをぬぎ、昼食にする。サンドイッチが堅パンのやうに凍り、蜜柑もヂャリヂャリして、まるで氷をかむやうであった。法主がしきりに天候を気にされるので、昼食後、早々に出發した。事實、雪山の天候ほど変わりやすいものはないのだから、カメラによって山上の印象をうまくキャッチしようとなさる法主としては、氣が氣ではないのだらう。
スキーをアイゼンにかへて、右にそびえる前十勝の山腹を登る。間もなく、前十勝の主峰との鞍部に出た。「まあ!きれい!」と、思はず讃美の聲を放つ。
見よ前方には上ホロカメットク山・三段山・富良野岳が姿をあらはし、裾は一望漠々たる雲海にとりまかれて、粛然と立ってゐるではないか。このやうな絶景を見ることが出来ようとは、いつ予期したであらう。思ひがけぬこの美しい大観を前にして、しばし茫然と立ちすくんでしまった。
ふりかへって見ると、噴煙の彼方に、鋸岳・トムラウシ山(北海道第二の高峰)が見え出した。ここから眞直に、前十勝を後にして、主峰に向かって進んだ。やがて北海道の最高峰、大雪山が雪上遥かに姿をあらはした。大雪山連峰も次々と見えて来た。前方には眞白な十勝岳が「待ってゐますよ」と云ひたげに聳えてゐる。嬉しさで……おさへきれない嬉しさで、何か、かう、大きな声で叫んでみたいやうな氣がした。夢のような、この世のものとは思はれない、崇高な清浄な展望の美しさ、何かしらお浄土の一部をそっと見せて頂いたやうな氣がして、嬉しさ、有難さで、胸が一ぱいになるのだった。クラストした雪は、アイゼンでふみしめるたびに、キュッキュッと音を立てた。頂上に近づくほど傾斜は急になり、風は激しくなり、寒氣は身にしんで、吹き飛ばされそうな気さへした。
一時四十分、遂に北海道第三の高峰十勝岳の頂上を極める。寒風の中でやっと記念撮影をして、降りかけると、正面から、いやと云ふほど寒風を叩きつけられた。息も出来ず、物も云へない。アノラックの頭巾をかげる暇さへなくて、瞬間、顔がこはばって動かなくなったやうな氣がした。夢中で走るやうにして下る。百歩も降りるともう風はなく、氣温も暖かく感じられた。零下二十數度、風速七米位あっただらうかと誰かが云ふ。
白皚々として並び立つ山々の偉容に名残を惜しみつつ、噴火口まで下る。このあたりは石が澤山出てゐるのと、雪もかたくクラストしてゐるので、しばらくはアイゼンのままで下り、やがてスキーをはいて時計の振子のやうに斜滑降をしながら、下って行った。
泥流跡スロープからかへり見ると、前十勝が、西にかたむいた陽光をあびてそびえ、噴煙の、むくむくと盛り上りながら青空に消えて行くのが、はるかに見える。美しい大自然の殿堂、荘厳なる永遠の浄土。それは何といふ浄い、氣高い美しさであらう。
あまりにも美しかった今日一日の思ひ出にうっとりしながら、タンネの樹間に建つ白銀荘にしばしいこひ、五時頃宿に歸った。
― 完 ―
『銀嶺十勝』の掲載について 編集委員
浄土真宗大谷派第二十四世法主大谷光暢貌下御裏方である大谷智子さんの著作集『光華抄』(實業之日本社・昭和十五年二月十一日発行)が、上富良野町専誠寺住職増田修一師の蔵書にあり、その『光華抄』文中のW山日記に『銀嶺十勝』として、昭和十四年一月三十一日からの厳寒期の十勝岳登頂での様々の経験や馬橇での吹上温泉行き、吹上温泉の模様等が描写されている旨を、増田修一師より編集委員に話題が提供されました。
法主、御裏方とお揃いでの冬の十勝岳登頂の事実を読み、その体力と行動力に驚くと共に讃えたい気持が昂(たかぶ)り、浄土真宗大谷派明憲寺住職近藤義信師の御了解をいただき郷土をさぐる会誌に転載する事にしました。
大谷智子御裏方は、皇族の久邇宮家の三女として生れ、昭和天皇の皇大后の実妹ですので、その様な体力と行動力は想像もできませんでした。
しかし『山日記』の中に、昭和十年八月に法主と共に立山から槍ヶ岳の百五十q、十日間の夏山縦走を遂げた紀行文がありました。
天候も、晴あり雨あり霧・風等の中での縦走で、自然の風景や高山植物の観察の行脚を十日間も続けたのでした。
昭和十四年の冬山十勝岳登山に際し、明憲寺第二世住職近藤信行師が同行し、山案内人として明憲専檀徒であり幼少の頃よりスキーが上手で十勝岳を知り尽くしている笠原重朗氏が勤めたのです。
当時、旭野地区(山加農場)の宗門の人達は吹上道路添いに並び、御念仏を唱えながらご一行をお迎えしたと、倉本千代子さんが子供の頃の思い出として語っておられ、又、冬期間の吹上温泉への唯一の交通機関であった馬橇の馭者であった六平 健氏は「箱馬橇に毛布、湯ダンボで暖を取るようにして迎えたが、靴のまま毛布の中に入ろうとしたので靴を脱いでお座り下さい」と言い、吹上温泉に到着した時は、長時間に座ったままの姿勢と寒さのために直ぐに立てず「私がおんぶって吹上温泉の玄関に入れたのです。智子御裏方をおんぶったのは私だけでしょう」と六平健氏は五十七年前の思い出を懐かしく語ってくれました。
尚、昭和十五年発行の『光華抄』を原文のまま転載しましたので、旧漢字・旧かなづかいになっています。

機関誌 郷土をさぐる(第14号)
1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉