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《故・遠藤金吾先生を偲ぶ》
昭和二十年八月十五日「遠藤先生の最後の言葉」

原田  清  (昭和二十一年卒業生)
昭和8年7月26日生(六十一歳)

私の学校は山間の小さな学校で、一年生から六年生まで一教室に五十余名の児童生徒が入り遠藤先生一人で授業をしていました。狭い教室の中で精力的に勉強を教え、生徒自身が自主的に意欲を持って勉強に励む様な教育をしてくれました。
夏にはグランドに土俵を造り、先生が軍配を持って行司と成り、土まみれとなって体を鍛える意味も有り、角力を指導されたのでした。
冬になると、学校の向いの竹内さんの山をスキー場にしてスキーに乗り、雪だまるの様になりながら滑ったものでした。
先生はスポーツマンでしたので、毎日生徒と一緒にスポーツをやりながら楽しく過してくれました。
やがて第二次世界大戦も次第に激しくなり、国の方針として食糧増産運動も強化されつつあったので、先生は私有地を借り、学校の実習地を設け、大豆、トウキビ、南瓜等を作付けし、その売上金は修学旅行の旅費に当てる、というので皆んな楽しみにしながら、蒔付、草取り、収穫に取組んだものでした。
やがて私が六年生になる頃は戦争も一段と激しくなり、学校教育の中にも、次第に戦争の波が打寄せて来て、防空壕や、タコ壷造り、野草取り(乾燥して出荷)、出征兵士の家の草取りの手伝い、防空演習といって避難訓練も時々する様になっていました。
健康状態が悪く通院中と聞いていた先生が入院ということになり、先生一人の学校で先生が留守になったので、上級生が下級生の面倒を見乍ら自習をする時間が多くなり、何か学校が空洞化された感じに成って来ました。
一日も早く快癒され平常の姿で学校に出られるのを信じながら毎日登校していたのでした。
夏休みに入り、昭和二十年八月十五日暑い日の午後、日本敗戦、無条件降伏の報道は私達子供にも伝わりました。今後学校はどうなるのか、学校に行って勉強が続けることが出来るか……と不安を感じながら、悪友五、六人で学校のグランドで遊んで居たところ、校長先生は病院から帰宅していたのでした。
先生の娘さんが私達のところへ来て「父さんが呼んでいるよ」というので住宅の前まで行くと、窓越しに先生の姿が見え、間も無く窓が静かに開き顔を出した先生は、私達に向ってこう言われました。
その言葉は「新しい日本の国の建設はお前達の肩に懸かっているのだから、一生懸命勉強して新しい良い日本の国を造らなければならない」、その言葉は、あの時から五十年経った今も胸の奥深く残っているのです。
この言葉は、終戦後私達の新たな出発に対する重大なメッセージであり、又先生の私達への最後の言葉となりました。
やがて二学期が始まりましたが、先生が入院不在のため、上富良野小学校より一週間交替に先生が来て勉強を教えてくれることになりました。今までの教科書は、大部分が米軍の指令に依って墨で塗り潰され、勉強内容は百八十度変ったものとなり、大きなギャップを感じながら登校していたのですが、九月十一日突然校長先生が逝去されたとの計報が届きました。
先生は半月前に私達にあの様な言葉を残されて、旭川の病院へ入られていました。私達は先生の言葉を胸に抱き、先生が快癒されて再び清富の教壇に立たれてあの楽しい勉強が出来る事を願っていたのでしたが、私達が再びお会いしたのは変り果てた、無言のお姿でした。
全てを頼りにして来た先生の姿が教壇から消えてしまったのは、大きな支えが一挙に崩れて、空しい気持ちが身体中に流れたのは言うまでもありません。
葬儀は部落葬を以ってとり行われ、晴れた良いお天気の中、大勢の人が参列して、最後の別れを惜しみました。
やがて十月下旬森崎由次校長が東中小学校より着任され、学校は徐々に平常に戻り、二十一年三月に私達は清富小学校を卒業したのでした。
今でも当時を思い浮べると、大変大きな変動の時代の渦の中での小学校生活であったことが偲ばれます。

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉