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《故・遠藤金吾先生を偲ぶ》
空襲警報下での修学旅行と遠藤先生の逝去

原田 泰一  (昭和十九年卒業生)
昭和七年一月二十五日生(六十二歳)

昭和十八年頃は戦争は増々激しくなった。毎日学校では朝礼の時に戦争の情況のお話があり、戦争の激しさを感じさせられた。戦地の兵隊さんは日曜日もなく、月々火水木金々であると聴かされ乍ら、体育の時間には実習畑二反部位の農作業を毎日先生と一緒に働き、また援農の日も多かった。
先生は公用も多いらしく、時々役場へ出張された。
そな時は奥さんが見えて、家庭科を教えられ、高学年は自習し乍ら低学年の勉強を見て上げたりした。
日本本土や又北海道も空爆され始めた頃であった。先生は公用の為自転車で役場へ急ぐ途中、下り坂の急カーブの所で前から来た馬と出合い、事故にみまわれた。乗っていた自転車は二十八吋の車輪の大きな車で、然もブレーキが効かない車だったので、急停止しようとハンドルを切り両足を地面についた時、前にのめって下腹部を強くハンドルに打ちつけてしまった。それ以来ずーっと体調が悪く、町へ疎開して来た女医者さんへ通院し、旭川へ出るには学校の事もあり遂に我慢を重ねた様だった。
その時は上富良野のお医者さんは応召で不在で、疎開の女医者さんが八町内の住宅の一室で内科の診療を始めたものだったが、外科の方は不得手の様であった。
その頃は日本中どこも同じ物不足で、市街地から三里山奥に勤務する校長にも自転車の配給もなく、しかたがないので先生は普通の人の乗れない大車輸の車を探し当て、乗って居られて此の様な怪我をされたのだった。
十八年七月、私共五、六年生九人は日頃待望を抱いて居た修学旅行の時がやってきた。
行先目的地は日高の三石海岸だった。
汽車に乗ったことのない子供達は遠藤先生に引率されて一週間の予定で、三十一日早朝出発した。私達は希望がかない夢の様な気持ちの中で列車に乗り込んだ。
札幌駅で乗替えをしたが仲々列車は発車しない。その内サイレンが鳴り出した。空襲警報だという。何時間も待たされ先生も大層心配された。
やっと発車し列車は日高方面へ向って走り出し、翌朝九時頃ようやく目的の海岸に到着した。
初めて見る果てしなく広い海、白波の打寄せては又引いて行く自然の営み、数知れぬ海鳥の波乗り、何もかもが山の中の私達には初めてのもので、見る光景に見取れて暫くは言葉もなかった。
朝早く、夜が明けると同時に、昆布採りのボートが沖から海岸へ帰って来る。長さ三メートル以上もある長い昆布を浜のおじさん、おばさん達が砂利浜へ引張り上げて乾かす作業を、私達生徒も一緒になって手伝い、それが終ると朝食をして又潮の引いた海へ出て行く、あっという間に一週間はたってしまった。然し何時も快活に遊んだり、仕事をしたりする先生は全く元気がなかった。
後日聴いたことだが、あの時先生は相当身体の調子が悪かったようで、我慢しての我々の引率であり、修学旅行が終った後に通院を始められたのだった。
授業は休むことなく続けられ、翌十九年三月私達は卒業式を迎え、無事卒業が出来た。
卒業後、私は農業を手伝うことになった。
一年経って、昭和二十年八月十五日、ポツダム宣言受諾との天皇陛下のラジオ放送があり、日本が負けたことを知った。
在学中は毎日朝礼で、日本は勝つ、欲しがりません勝つ迄は、と教えられて、その気になって来た私達少年は嘘の様に思えてならなかった。
その年は春から気温の低い日が続き、農作業は冷害凶作が決定的な中で、大人達の動揺も感じられるところへ、今度は九月十一日遠藤校長先生逝去の知らせが入り部落内は一層重苦しく、押し潰される様な感じがした。先生は上富良野での通院加療では効果は見えず、旭川の病院へ入院されたが中々快方には向わず、むしろ余病を併発し、手術を要する状態になったが、手術に必要な薬も揃わず、薬の取り揃えるのを待ち乍ら他界されてしまったのです。
清富の人達は大人も子供も、深い深い悲しみの中で部落葬で二日間の葬儀を終えたのでした。

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉