郷土をさぐる会トップページ     第13号目次

《故・遠藤金吾先生を偲ぶ》
我が人生の恩師 遠藤金吾先生を語る

竹内 正夫 大正十年二月十六日生(七十三歳)

清富地区に尋常小学校を設置を

清富地区は、元松井牧場と呼ばれていました。それは、現在の旭川市三条九丁目にある松井眼科医院の院長先生の祖父である松井延太郎さんが所有する牧場であったからです。
昭和初期、この牧場の入口の方に、私の家を含め二、三戸の農家が小作人として営農していただけでした。部落は日新に属していて清水沢と呼ばれ、日新尋常小学校の通学区域で、通学距離は約六qありました。
それが昭和七年、北海道拓殖計画により松井牧場は分割されて、五十戸の農家に売渡されました。それによって、四十余戸の農家が一斉に入植を始め、学童が急激に増加して来ました。
牧場の入口からの最奥地迄は約六qあり、最奥地に入植した子供が日新尋常小学校まで通学すると十二qの距離になり、しかも道路は笹を刈分けただけで路面は悪く泥々道で、雨でも降ると水溜まりができて避けて通るのが大変な所もあり、通学は非常に困難でした。この様な状況なので、子供達の中には朝家を出るが学校へ行かず、途中で遊んで家に帰る子供も出始めました。
そこで父母達は、何とか松井の地域内に学校を設置して欲しいと村長に陳情しました。しかし、その当時の上富良野村は、数年前に十勝岳大爆発で莫大な被害を受け、その復興も終っていない時なので、今はどうしても学校は建てられないと断わられました。
そこで父母達は致し方なく、自力で日新尋常小学校の分校を建てることとし、ただし先生の給料は村から出して貰うことに話しを取り付けました。
昭和七年頃は、冷害凶作の連続で大不況の時であったので分教場を建てるのは容易なことでなく、拠出金を出せない人もありました。その様な人は労の提供をしたり、又、自分の山林から木材を切り出してその拠出金に充当しましたが、なお足りず村の有志の方々、市街地の商店の方々にもお志をお願いしてようやく一つの教室と先生の住宅を合せて五十坪(一三〇平方メートル)余りの物を建てることが出来たわけです。
工事費は一三〇〇円余りで「日新尋常小学校清水沢特別教授場」と名付けられました。
こうして教授場は出来たのですが、赴任してくれる先生がなかなか見つかりませんでした。
遠藤金吾先生の赴任
その頃の清富は全くの未開地同様で、市街地からは三里(十二q)あり、道路は悪く、時には熊の出没もある上富良野の最僻地なので、先生探しに村の関係者も地元の人達も苦慮していた時、江幌尋常小学校に在職中の遠藤先生が「私でよろしければ行っても良い」と自分から名乗り出て下され、清富の人達は大喜びだったのです。
遠藤先生は江幌尋常小学校在任中は児童に慕われ又、父兄の方々から大変親しまれていたので、他校への転出には相当抵抗もあった様です。
私の高等科同級生の木原庄一君(戦死)は、江幌尋常小学校の直ぐ隣りが家であったためか、彼が私に「遠藤先生は竹内に取られてしまった」と、口惜しそうに何回もぼやいていた姿が今も目に映ります。
この様な経過の中で、昭和九年十二月に遠藤先生は日新尋常小学校清水沢特別教授場に赴任され、十二月十二日開場式が行われたのでした。
森と谷間の分教場に元気な声が
私は昭和八年三月に日新尋常小学校を卒業し、四月一日に上富良野尋常高等小学校高等科に入学したので、遠藤先生とは入れ違いの様な形で、先生から直接授業を受ける機会はありませんでした。
しかしお逢いする事がある度に「遊びに来なさい夜でもいいから」と何度も仰いました。
お言葉に甘えてお邪魔すると、私等、山の中で育った礼儀も何も知らない子供でも、丁寧に接して下さって、色々と世間話しや、御自分の体験談等を聞かせて下さって、何時でも必ずと言って良い程に出て来る言葉は「山の中の子供だからと言って、決して卑屈になってはいけない、人間は努力次第でどんな大きな学校の生徒にも、東京の子供に負けなくても良いのだ、君だって一生懸命努力をすれば大学へだって入れる。ただ大事なのは勉強は若い時にやらなければならない。若い時に覚えた事は忘れないが、年老いてからは幾ら勉強しても、覚えたと思ったことが明日になると忘れている事が多い」と言われるのでした。
先生が着任されて一年余り経つと、生徒の態度がすっかり変って来ました。道路上で人に会うと誰人にも帽子を取って元気良く「お早ようございます」あるいは「今日は」と、お辞儀をする。今までその様な事がなかったので、こちらが恥かしくなる様で、子供達の登校の楽しさがありありと見受けられました。
昭和十年三月、私は高等科を卒業し、家業の農業を手伝う様になりました。畑が学校の周辺だったので、農作業をしながら一日中学校の様子が見え聞えしました。
分教場は前記の様に貧しい中で、父母達が協力して造ったので、遊具等がある筈もありません。そうした中で、誰かの寄贈かボール一個とリレーのバトンが三、四本(丸木に絵具を塗った手製のもの)が事務室の入口に置いてありました。
どの生徒の家も貧しく、そして忙しく、朝早く子供達を追い払う様に登校させたら、後は学校に任せて、こまめに子供の世話等をしてやれる家は一軒もなかったのでした。
学校では何も遊具等が無い中でも、先生が種々配慮されて、競走をやらせたり、角力をとらせたり、一個のボールを色々と最高に利用したりして、子供達は今までにない喜びを感じている様でした。
朝は早々と始業時より一時間以上も前から登校して来る子供達がいました。十人位も来た頃から、校庭が賑やかになって来て、始業の三十分位前には先生の姿も見えました。子供達が揃って先生に向って元気よく「先生、お早ようございます」と挨拶をし、それから校庭は、生徒と先生の声が入り混じった歓声が湧き起り、晴天の日は毎日が運動会の様な賑やかさでした。
始業時になると鐘がなり、今までの歓声がピタリと止み、森の谷間の分教場はしーんとする。「ああ勉強が始まったなあ」と感じる。「ハーイ、ハーイ」と先生の質問に答えようと手を上げている様子が手に取る様に見えます。
この様な情景は、この学校は教室が一つだけで、運動場等の設備が無いためだったかもしれません。
山の子が頑張った勉学とスポーツ
先生は身長六尺(一八〇p)もあるかと思われる当時では抜きん出た長身の人で、スポーツは得意で青年時代は選手とし上川管内大会に出場し、優勝した事もあったと聞きました。
それで、生徒達にもスポーツを熱心に指導され、その成果は顕著に表われました。昭和十一年には村内学童競技会で総合で第二位、昭和十五年は総合第三位と、山間の生徒数僅か四、五十人の単級学校としては驚異的な成績を上げた記録があります。(この事については本誌第十号、石川潤治氏の寄稿を参照下さい)又、私の妹に秀子(昭和二十年没)がおりましたが、先生の授業を受けてから全ての学科で成績が向上し、書道の全国コンクールで第三等に入選して賞品に立派な漆塗りの硯箱セットを副賞として受け、運動ではボール投げ上川大会個人競技で優勝しました。
この様な成績を、多くの科目で見る事が出来たのは、遠藤先生の優れた才能と熱心な御指導をいただいた成果であり、又、常に口にしておられた「努力をすればどこへ出ても人に劣らぬ成績が得ることが出来る」という教訓の正しさを、はっきりと証明しているのであります。
ついこの間まで、山の中の単級学校の子供達に、また、何をやっても最低と思い込んで生きて来た山峡の田舎者に、はかり知れない誇りと勇気、希望を与えてくれたことでしょう。
青年の育成と地域への貢献
さて、先生は学校教育のかたわら、青年教育や住民の文化向上と地域の産業振興の面にも意を注いでくれました。
市街地から離れること三里(十二q)の山の中、普通の徒歩で三時間の何の娯楽の求めようのない山里に、春は運動会、冬は学芸会、春秋には神社祭りの余興等に進んで参画されて、面白味を盛り上げてくれました。
運動会や学芸会は学校の行事ではありますが、そのプログラムの作成に当っては、男女青年、壮年、老人等が出場する内容が盛り込まれ、校下の人々に参加を呼びかけて下さいました。校下の人々もこれに応えて張り切って参加して、松井牧場が解放されて村内外から集って出来た約五十戸の部落の人達は、この行事によって親睦を深める良き機会にもなってました。
昭和十二年秋から私は病に侵されて、旭川で下宿通院や時には入院になったりし、少し良くなって自宅療養をしている頃、先生は上級生を連れて鍬を担いで周囲の山を歩き、木の幼苗を探して掘り、学校周辺に植樹されていました。
柳の沢(ピリカフラヌイ川支流)を一q位上った所に小野寺さんという老夫婦がおり、その家の横に桜と水松の大木があって、その下に実が落ちて自生した幼苗があったのを見つけ、何十本も掘ってグランド周辺や神社境内に植樹されました。その後、校舎の増改築や道路の拡幅工事のためほとんどなくなり、現在残っているのは、川端に桂が二、三本と神社境内に水松が五、六木残っているのみとなりました。
青年育成の大切さを強く叫ばれて、夜学教室等を設け自ら教鞭をとられたり、心身練磨の意味でスポーツを奨励されました。当時は神社のお祭に青年相撲があり、他の部落からも青年が出場したりして賑わいました。
その頃、満州事変は益々拡大し、清富の青年で入隊された方の戦死があったり、又、軍需産業の一つであった木材の造林作業現場で、我々の青年団員が二名も続けて事故死するという事態が生じました。こんな時、先生は先頭に立って行動されました。青年代表者に弔辞の意義を説明されて弔辞を書かせ、それを先生が若干の手直しをし、墨書した弔辞を代表者に持たせて葬儀に参列する様にしていました。
昭和十三年七月、清水沢特別教授場は小学校として認可、「清富尋常小学校」と命名され、初代校長に遠藤金吾先生が就任されました。「清富」は遠藤先生の発案だったと聞いております。
運動会や学芸会、お祭りの用具、相撲の土俵造り、神社のお賽銭箱造り等にも、先生は関与されたり、又は指導されました。
学芸会の劇や遊戯に使う「お面」とか「冠」や舞台のバック、色々な場面を表現するのに使う「月、星、雲、鳥類、花、樹木、時には幽霊の姿」等を厚紙で形取り絵筆を少し加えただけで、結構に実感が出されており感心して見せていただきました。
楽屋の方に入って見ると、狭い六畳間の事務室は通路となり、本当の楽屋は住宅の座敷が使用されているのです。それでも狭くて足の踏場もない位でその時は只狭い、忙しいものだと思うだけでしたが後になって考えさせられたことは、あの時先生を始め先生の御家族の人方の生活はどうなっていたのだろう、あのような行事の度に生活は全く犠牲になっていたことに気付きました。
私が代用教員となって
昭和十五年二月上旬、私は旭川向井病院で肺炎を併発し危篤状態になりましたが、幸いに命を落さず五月末に退院し自宅療養していた八月のある日、先生がお見えになり「清富尋常小学校」が「清富国民学校」と校名が変り、補助教員を置くことになったので「君がその補助教員をやってくれないか、身体の弱いのは十分承知をしているから、無理にならない様に務めてもらえばよい」と言われました。
私は一週間程考えた末に、使ってもらうことを御返事申し上げました。
その年、村では教員住宅の狭陰を認めて校長住宅を新築中であり、校長住宅の落成祝の席で「金子村長」から辞令を受け取って、九月一日から出勤しました。
高等科卒業してから覚えたことは馬の尻をはたくこと、鍬や鎌を振り廻すこと丈で、学校のこと等は全然わからず、子供達との遊び方も知らない私でしたので、先生のむしろ足手纏いになったのではないかと思いました。
何も解らない中で、一ヶ月、二ヶ月と経ち、学芸会の時期が訪れ練習や、用具の準備に手を掛ける様になりました。
例年感心しながら面白く見せてもらって居た学芸会の用具作りは、学校の図画、工作、音楽、体操等の教科の時間に、先生も生徒も一緒になって、楽しく話をしながら授業の一部として、生徒達に考えさせたり、工夫させたり、書かせたり、又工作させたりして造っていることが始めて理解出来ました。
知恵を絞り、工夫努力して物の出来上がった時の喜び、又面白さを子供達は身を以って味わい、次に又新たなものと取組む意欲を起こす。この授業の仕方が子供達を向上させて行く「要」なのだ、ということを学ぶことが出来ました。
十七年七月末頃、先生は半月余りの日程で聖地参拝旅行に九州迄出掛けることになり「留守を頼むよ」と言われ、この時始めて幾らか役に立つと感じたものです。
旅行を終えられた先生は「尊い聖地参拝が出来て大きな収穫であった。貴方が留守をしてくれたからこの旅行が出来た。幾らこの様なチャンスがあっても留守番をしてくれる先生がいなければ、この様な単級学校の校長一人の処では出ること出来ないのだ、本当に良かった」と何回も口にしておられたのを思い出します。
そしてその直後、私に上富良野尋常小学校への転勤命令があり、九月末に上富良野尋常小学校へ赴任しました。戦争は増々激しくなり、学校教育の場でも、勝つ迄は……の掛声の中で、毎日の朝礼には校長の長々とした訓話があり、週一回位戦線の兵隊さんの労苦を偲んで雪中の朝礼もあった。この為虚弱な私は翌年二月に風邪を引き、胸部疾患が再発しそうになり、三月末日に依願退職をしました。
十一月に私は知人の勧誘で転地療養を兼ねた目的で、道南(桧山郡上ノ国村)にある軍需鉱山(本社東京千代田区丸ビル内)に事務職として就職しました。
その就職先へ先生は御多忙の中何回も手紙を下さいました。最後になった手紙の内容が、私には心に残って仕方のないものでした。それは、『勝抜く為、又清富の子供達や青年の人達の前途を思い毎日頑張って来た。昨年十二月、大日本青年団の中から選ばれて、上川支庁主催の青年団活動状況の常会を開いたところ「優良」との講評を受け、それに引続いて二十年一月十六日戦時下の青年活動状況を、NHK旭川放送局から全国放送することになり、これを成功させなければならないと思い、原稿作りから放送の練習で不眠の日が重なりして身体を弱らせてしまい、入院しなければならない様だ。貴方があのまま清富にいてくれたらこんな事にはならなかったと思う。全く残念でしょうがない』という内容だったのです。
昭和十九年頃からは戦況は増々悪くなり、会社内も一日一日人手不足はその度を増し、鉱石の生産命令は月々強化され、私の様な半病人も否応なく残業も又月末の報告物の多い時は徹夜もしなければならなくなり、郷里への手紙を書く気にもなれない多忙な日が続きました。そうした中で、八月十五日敗戦の日を迎えたのでした。
終戦と遠藤先生の逝去
戦争マンガンと言われていたマンガンは戦争が終れば不必要なのは当然だし、軍需鉱山なるが故に優先配給されて居た物資が配給されなくなるのは頷けますが、命の綱の主食もバッタリ止まってしまいました。
従業員達は自分の食糧確保のため走り廻り、本社からは、幹部社員解雇の電話が次々と入りました。
そんな時に朝鮮人労務者約四〇〇人が暴動を起こしました。朝鮮人労務者に直接関係のあった社員は、山林の中へ逃げ込んで隠伏生活の状態となり、これに加えて解雇通告を受け社員の中から生活を苦にし自殺未遂を起こす等、鉱山は、てんや、わんやになりました。
この時私は退職願を出しましたが、然し会社は私が農家の者であることに目を付け退職を認めず、逆に実家に帰って「幾らかでも食糧の獲得に務めよ」との用件を付けて、上富良野への出張命令となりました。
私も終戦の日までは産業戦士として鉱山の皆さんと共に生きる心積もりでいたので、自分だけ食糧の心配の無い実家へ帰れば良いという気持ちになれず、会社の命令に従うことにし、十一月下旬帰って見ると遠藤先生は他界されていました。先生は公務出張の途中、馬車と行き交わす際に自転車のハンドルに下腹部を強く打ちつけたのが原因で、腹膜炎、腸捻転と余病を併発し、手術をするにも薬剤が足りず、取り寄せるのを待ち乍ら四十二歳の若さで亡くなられたということでした。
胸像建立運動
先生は、耕せば黒光りのする沃土に、樹木のすくすくと繁茂し、緑濃き森から湧き出る清水のさらさらと流るる自然の恵み、豊かなこの山間の地を、名実共に「清富」の理想の里に育て様と精魂を傾注しての、清富での勤務であったと窺われます。
そしてその精進の途上において、日本国民として初めて味わう敗戦のみじめさの真只中で、公務途中の事故原因で病を引き起こしました。国内にいる身でありながら適切な医療も叶わず、然も長男は戦場に送って居り、若き奥さんを始め、養育盛りの子供さん八人を残して四十二歳の若さでこの世を去らねばならなかった先生の心中をお察しします。又前記の手紙内容の様に、清富をより良くの目的で、私生活を犠牲に献身的努力を重ねられた事を窺い知る私として、先生の尊い御気持ちに感謝し、又この事を次世代の人達にも申し伝える事の必要を思い、三年前、先生の胸像の建立運動を始めました。
嘗ての先生の教え子の多勢の方々を訪ね、御相談、御協力をお願いしてみました。
終戦後五十年、清富で遠藤先生に教訓を受けた人々の中でも都会に転出された万も多勢いるのですが、誰人も言って下さるのは、清富を出ても遠藤先生から教えられた『山の中の子供でも努力をすれば……と言って教わったことは難事に打ち当った時には思い出され励まされた』と異口同音に告白して居られました。
中でも本誌十号に寄稿された石川 潤さんは「私が大学を出れたのも、又事業に成功出来たのも遠藤先生の教訓の御蔭です。胸像を建立するなら費用は幾らでも出させてもらいます」と言ってくれました。
又、大韓民国の朴 栄魯(元日本名坂本太郎)さんは、終戦直後韓国に引揚げられました。その後四十五年振り(一九九〇年)に清富小学校の校長宛に手紙を寄越されました。その事を一年余り経って聞き、それを見せてもらったら、手紙の本文の真先に、「遠藤先生様どうしていられるか?住所は何処か?知らせて欲しい」と書いてあったので私は詳細に手紙を書き、胸像の運動の事も書きました処、折返し手紙が私宛に来まして「胸像を建てることになったら是非知らせて欲しい、どうしても行って見たい、私の目の中に清富の山川草木、学校も皆写っています」と、五十年前の清富を懐かしみ、遠藤先生追慕の意を示しておられるのです。
敗戦前は、普通には朝鮮の方を見下げた扱いと言動が多かった中にあって、遠藤先生はその様なことは全くなく、教え子には皆平等に愛情をこめて接しておられました。
胸像の建立は、その位置決定の段階で私の力不足から、思い止まらざるを得なくなりました。
ですが先生の清富の人造り、里造りに、身を削って精魂を傾注して下さった遺徳に対し謝恩の誠を表し、これを次世代にも申し送るべく、この寄稿をさせて頂きました。
故・奥さん(遠藤栄子)のこと
奥さんの事も若干書かせて貰い度いと思っていたのですが、予定の頁数が既に越えてしまいました。
奥さんは、昔の日本女性の手本の様な方でした。
先生亡き後、生還を鶴首して待っておられた長男さんは戦死の悲報となり、馴れぬ女の身体で農業を営まれ八人のお子さんの養育が漸く終り、安堵したのもつかの間で、交通事故に会い六十八歳で亡くなられました。女は弱し、されど母は強し(昔のことば)。
今年は先生が逝去されて五十回忌に当ります。只々御冥福をお祈りするばかりです。

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉