郷土をさぐる会トップページ     第13号目次

― 子どもの作文 ―

町内各学校の協力を戴いて、本号では小学生に続いて、中学生の作文を四篇載せることが出来ました。
明日の郷土を担い、築く青少年のふる里上富良野への思いや、希望・決意が、具体的な生活や学習体験を通して育っており頼もしく思います。(尚、中学生の学年は、平成六年に原稿依頼した時の学年になっています。)    (編集委員)

十勝岳と私の住む上富良野

上富良野中学校二年  若林千恵美
昭和55年12月8日生(14歳)

十勝岳は、最も活動的な火山で、大正十五年の噴火、私もよく知っている昭和六十三年の噴火など、これまでに何度も噴火を繰り返してきました。
昭和六十三年の噴火では、小規模の火砕流でとどまり大事には至らず、私も安心でした。
しかし、大正十五年の噴火では、大規模な泥流を引きおこし、死者百四十四名の被害をもたらしたそうです。
そして、その中には、私の祖母の母や兄弟六人も含まれていました。
多くの人たちの命とともに、自分たちで築き上げてきた畑や水田も一瞬のうちに泥流にのみこまれ、上富良野の半分が泥一面になったそうです。
その状態から上富良野を復興させていくために頑張ってきた町の人たち。その苦労は、私にはよくわからないけど、生きるか死ぬかの大変な苦労だったと思います。
やがて苦労が実り、河川も整備され、田畑にも緑がよみがえり、この苦労があってこそ、現在の上富良野があるのだと思います。
しかし現在、私たちの住んでいるこの上富良野の町、そして十勝岳の自然や緑が、少しずつ減っていっているように思えます。
私たちは、もっと十勝岳の大自然と仲よくしていかなければならない。山を傷つけることなく、壊すことなく、汚すことなく、これからも山が春夏秋冬の美しい姿を残していけるように……。
山ばかりでなく、そこに住む私たちも、豊かな心、ふれあいのある温かい心を持っていたい。そこからきっと思いやりの気持ちが生まれ、町が、人々が、輝いていくと思います。
私たちがいつも十勝岳を見つめているように、十勝岳や、この上富良野を、そして、そこに住む私たちを見つめている。先人の残した苦労を無にせず、これからは私たちが、この上富良野を豊かでふれあいのある町にしていかなければならない。一人一人がそう認識して、頑張らなくては、と思っています。

町にも個性化の時代

上富良野中学校二年  桐生 大輔
昭和55年12月15日生(14歳)

町には、明日を夢見る顔がある。
今、新しい意味でのふるさと運動、町づくり、村おこしの大きなうねりがあります。困難な課題があってもそれを乗り越え、地域を考え、地域の未来を考える力強い活動が展開されなければならない。
しかし一方で、道路がよくなり、生活が豊かになり、情報化社会の進展で、意識の多様化、産業構造の変化による地縁社会の変革によって、郷土に対する認識が薄くなってきています。
自分が住んでいる地域を考えなくても、さして、困る人は少ないのが実態です。町が徐々に衰退したり住みにくくなってきても、その日の生活に困らなければ、あえて行動する人は少ないと思います。
過疎化に悩んできた農村などの中には、過疎化に一定の歯止めがかかったと見る人もいますが、実際のところは、定住意識の強い高齢者の存命率の向上によって支えられている市町村が多く、必ずしも構造的過疎から脱却したといい難い状況です。
私は町づくりは、郷土愛に支えられた定住意欲から進めなければならないと思います。そして、その郷土愛、郷土意識を高めるには、住民一人一人が誇りを持ち、外からも認められる何かを持つことが大切だと思います。
「あなたの町の自慢は何ですか」「他から客がみえた時、どこへ案内し、何を土産に持たせますか」「郷土の偉人はだれですか」等々を質問してみると、「うちの町には何もないよ」と答える人が多いと思います。
しかし、私たちの町にも誇りにできる素材や資源がたくさんあると思います。それに磨きをかけることによって、外から高く評価されることはいくらでもあると思います。
町の自慢ができることによって、おのずと郷土愛が生まれ、町への愛着が強まり、町の活動が生き生きしてくることだと思います。町のイメージを高めることによって、外部からも評価される町になってゆくと思います。
この様な町をつくり上げて行くのは、町民一人ひとり、即ち私でありあなたであると思います。

稲作実習から学んだこと

東中中学校二年  安井 優希
昭和55年4月28日生(14歳)

「今年の田んぼは刈りにくそうだな。」
先日の雨でたくさん水がたまっている実習田を見て、私はそう思いました。実際に入ると思ったよりひどく、水田靴は沈んでいくし、刈った稲も泥だらけになるといった状態でした。ですから、稲をしばる時もひと苦労でした。ぬれているので、なかなかきつくしばれなくて稲が抜けていき、終わった後も落ち穂がたくさんあったので、拾うのが大変でした。でも何とか無事に今年の稲刈りも終わりました。
このようにして、私たちの学校では毎年稲作実習を全校生徒で行っています。私たちの家のほとんどは農家ですが、実際に田植えや稲刈りをしたことのある人は少ないのが現状です。でも、私たちはこの稲作実習によって、地域の産業である農業の苦労や喜びなどを体験しています。
春の田植えのことも紹介しましょう。まず初めに「ころ」という道具を使い、田んぼに植える印をつけます。
でも、水が深いところや滞っているところでは、その跡も見えなくなります。ですから、まっすぐ植えたつもりでも曲がってしまい、後ろを振り向いてため息を吐くということもありました。それでも何とか植え終わり、苗が根付くのを待ちました。
ところで、今はどこの農家でも田植機やコンバインなどの農機具を使って作業をしているのに、どうして私たちの実習田では手で苗を植え、かまで刈らなくてはならないのでしょうか。農作業は機械を使った方が明らかに速く、能率がいいはずです。
しかし、機械がない時代の農家の人々は、全て手作業が当たり前でした。それも、私たちの実習田のような狭い面積ではなく、とても広い面積の田んぼを少ない人数でやっていたのです。つまり、昔の農家の人々は、大変な苦労をしていたということがよくわかります。
機械を使い効率よく農作業をすることは、もちろん大切なことです。でも、自分の手で直接農作物に触れ、育てるということはもっと大切なことだと思います。なぜなら、そうすることによって、昔の人の苦労を知ることができ、その苦労があるからこそ実りの喜びが実感できるからです。
昨年は冷夏だったので、思うように作業ができず収穫も多くありませんでした。しかし、今年は天気の良い日が多く、稲穂の粒も大きいように思います。おそらく、農家の人々も大喜びでしょう。稲作実習をやっている私たちには、そのことがよくわかります。
私は、稲作実習で多くの事を学んだことに感謝しています。

東中清流獅子舞に思うこと

東中中学校三年  工藤 友恵
昭和54年7月22日生(15歳)

私は今年の夏休みに「少年の船」に参加し、グアム、サイパンに行って来ました。そこでは、今までに体験したことのない様々な行事や自然に触れることができました。その中に、私たちが日本の浴衣を着て、自分の国の風俗を現地の人々に紹介するという場面がありました。その時、あらためて日本という国、そして自分の故郷を考えさせられました。
自分の国を紹介するということは、若い私たちにとって自信があるとは言えません。でも、私たちは日本そして故郷「東中」を紹介する一つのものに恵まれています。それは、「東中清流獅子舞」という郷土芸能です。
「清流獅子舞」は、昭和五十八年に活動開始となりました。この舞には、「清い水の流れに沿いながら、笛や大太鼓、鉦の音にのって天狗が舞い、それに獅子が挑むように踊る」という姿が表現されているそうです。当初は、地元の老人クラブ「睦会」の人々が中心となって様々な行事に参加していましたが、現在は私たち東中中学校の生徒にバトンタッチされています。さらにこの活動は、先輩から後輩へと伝えられることで、私たちに東中の住民としての意識も強めているようです。
私たちの活動で一番大きなものは、秋に行われる東中神社祭です。その日は、地域中を回り獅子舞を披露します。小さな子供からお年寄りまでが集まって、私たちが演じる獅子舞を楽しみに待っていてくれるのです。私たちは、喜んで見てくれる人たちに応えるために、笛の音を高く、太鼓を威勢よくたたきます。また、獅子が子供の頭をくわえると、その子の健康を守ると言われていますが、そのために獅子が近づくと、怖がって日にいっぱい涙をためて泣く子もいたりと、ほほえましい光景も見られます。
その他に、学校を訪れた外国の人たちに獅子を披露したり、過去には先輩方は、遠く登別や旭川まで出かけたこともあるそうです。これは、清流獅子舞が東中地域だけでなく、外にも広がりをみせるようになりつつあるということでしょう。
「もっともっとたくさんの人に、東中の伝統を披露し、感動を与えたい。」
私は、三年間獅子舞をやってきて、今ではそう思うようになりました。
では、なぜ私たちがこのような郷土芸能を伝えなければならないのか。その意義を考えてみたいと思います。
それはたぶん、私たちが大人になって故郷を思い出した時、「清流獅子舞という郷土芸能をやっていたな」と、一つの心の支えになるからではないでしょうか。伝統というものは、一人だけで残せるものではなく、何代も何代も受け継いでこそ、その価値があるのだと思います。私たちも、東中に生まれて十数年も生きてきたのですから、これからもこの伝統を守り続けていかなければならないはずです。そして、故郷でのこのような積み重ねが、将来の自分の自信をつくり上げるとも言えるのです。そして、私は日本を紹介できるような郷土芸能が、自分のすぐ身近にあることを幸せに、そして、誇りに思います。

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉