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戻り川

佐藤 耕一 昭和十四年五月十五日(五十五歳)

― 参考文献 ―

○『地図の風景』 堀 淳一(そしえて社)
○『わたしの北の川』 堀 淳一(北海道新聞社)
  《堀 淳一》一九二六年生、一九五〇年北大理学部卒、一九八〇年まで
  北大教授 現在「日本エッセイストクラブ」「日本国際地理学会」会員
○『川と日本人、田舎をめぐる謎』 竹内 均編(同文書院)
  《竹内 均》一九二〇年生、一九四三年東大理学部卒、東大教授を経て
     現在名誉教授 サイエンスマガジン「Newton」編集長

一、戻り川の正体
上富良野町最北部から、東西を平行して南下する二本の江幌完別川は面白い。それぞれの支流が、下流の方向から流れているからである。
草分沼崎地区の国道とJR富良野線沿いに流れる江幌完別川は、旭川と金子沢川と言う二本の支流をもっているが、何れも東から西へ江幌完別川本川とは逆流しながら合流して南へ向きをかえるのである。
一方本町の西北部静修地区から流れているトラシエホロカンベツ川は、その支流に開拓川がある。
開拓川は支流でありながらその水源地は実にトラシエホロカンベツ川の中流地点に有り、北へ向って流れて本流の分水界近くで合流している。その場所は分水界より約一・三qの距離よりなく、支流である開拓川は、その約三倍程の距離を流れているので本流のトラシエホロカンベツ川と間違えられても仕方のないところである。
さて開拓川の流れる静修開拓地区と山一つ越えた西側地区の二股には二股川が平行して流れている。
この二つの川が並行して北へ流れているのに、なぜエホロカンベツ川が、この二つの川と平行しながら反対の南へ流れているのか地形上とは申せ変った現象である。
地図の達人、堀 淳一氏は、何度もこの不自然な地形の土地を訪れて、その謎を解き明して呉れた。
長くなるが堀氏の数多い著書の中から「頭が後戻りしている川」と「私の北の川源流悠流のドラマ」を引用させて頂いている。
『日本の地形図では珍しい開拓川と、トラシエホロカンベツ川の流れは、うっかりすると流れの方向を見誤る恐れがあるので、流れる方向に矢印が入って居るのである。それ程この本支流は不自然な姿なのである。
ところでトラシエホロカンベツ川の上流は、合流している地点から約一・三qほど登った所で、分水界となってしまうが、川が終わる訳ではない。
それより北方は美瑛町ルベシベ川の支流と連なっているところである。
この場所は道道美瑛・芦別線と、町道江幌・静修練との十字路附近であり、堀氏が再度調査された所で、水路が連なっているし季節によっては水の流れが確認されるであろうと言う事である。
分水界と言っても、三〇八米の高さの谷の中にあり、開拓川の合流地点との標高差は僅かに二〇米に過ぎない、典型的な谷中分水である。
繰返しになるが、二股川と開拓川が平行して北へ向って流れているのに、ルベシベ川の支流と連なっているトラシエホロカンベツ川だけがどうして南に向って流れているのだろうか。
そこで自ずと湧いてくる疑いが、もとはトラシエホロカンベツ川の谷には、二股川の谷と同じ様に、北流してルベシベ川に入る川が流れていて、開拓川もその支流であったのではなかろうかと言うことだ。
一方東方の草分地区江幌完別川にも、支流として北方に流れていた金子沢川、旭川の二つの川も、合流して逆方向の南に流れを変えている事も同じであり、この川も逆向きに北へ流れ、ルベシベ川に入っていたのだろうと推定されるところである。
そこで考えられることは、この一帯にうねっているなだらかな台地は、十勝岳火山から噴出された十勝熔結凝灰岩からなっている。
前記の諸川はこの台地を刻んで、何れも北流していたのだが、断層によって富良野盆地が生れ、台地の南部が南に傾いたため川流れの方向が変わって、瑠辺蘂川の支流の上流が富良野盆地の水系に争奪されたのであろう。
『江幌完別とは、アイヌ語で(頭が後戻りしている川)の意味で、トラシとは(それに沿って上る(と瑠辺蘂川に出る))ということである』堀 淳一氏に今年(平成六年七月)お会いする機会があって川の現地まで同行させて頂いたが、氏の美馬牛峠附近に寄せる関心の深さは、新刊本「私の北の川、源流悠流のドラマ」によって一層愛すべき地形であると感じさせられた。
一方又カメラマンとしての堀氏が撮った美しい豊富な写真を見ても流石であるが、次の様な文章の一部も是非紹介したい。
「上富良野町と美瑛町との境界で、境界に沿って地図に無い道路があったのを幸いと、川まで行って見る。
ここでは水源地に見られる相変らない南北ともに叢に覆われた細い水路であった、だが水路の溝は土管で道の下を潜っているのに水の流れはつながっておらず、土管の両サイドは雑草に覆われていた。
そしてごく僅かでかすかな水の流れを聞いて屈み込んでよく観察したところ、南側の水は南向きに流れ北側では北向きに流れていた。又この辺一帯のなだらかな丘なみは、手弱かに横たわる艶かしい女性の柔肌を想わせる」と書き表している。
二、山岳と川のある町に暮らして知ったこと
江幌完別川は草分地区を流れ、西四線北二十七号上でトラシエホロカンベツ川と合流(高士氏の北)して、更に西二線北二十六号で富良野川と合流(扇町一丁目附近)して、江幌完別川としての役目を終える事になるけれども、此処からが江幌完別川の始まりと考えた人が居るだろうか。
昔アイヌの人達は、川は海から山に向かって上るものと考えていた。これは川も生きものとして考えたことから正しいという。
「川と日本人田舎を巡る謎」竹内 均偏によると、川を一本の木に例えて見よう。太い幹を石狩川と見なすと、根は日本海に張り、太い枝の一本に空知川が入る、富良野川はその枝の枝、江幌完別川は枝の又枝、そして多数の細い枝先き(支流)と言う様に、上へ遡って行く、それで河口が上で支流が下であると考えることも自然なのであろう。
筏などで上流から川下りをする人達も、元は下流から筏を以って上流へ登るであろう。
河口から中流、そして多数の支流を知り、水源地に辿り着く、その為に川の名前には河口の地名が付けられたり、辿り着いた上流の水源地の山岳には、その川の名前が付けられている場合が多い。
今地図で川の名を知る場合、最も上流の水源地から下流を辿る場合が多い。それは例えば忠別川の水源を求める為に、忠別岳を先ず探ると言う逆の方法が日常の習慣となっているからである。
話が横道に入って行く様だが、川が始りで、最後が山なのだ、と言う事に関連してくる。
嘗ては、山が川を作るのだと信じられていた。大地が隆起して山となり、そこへ降った雨が流れ出して川となると考えられていた事がある。
然し、雨水など地表の流れが谷をつくり、段々と深くして行き、残された処が山となって行く。
間違いなく川が山をつくったのである。
無数の地表の流れ、つまり支流は次々と支流同志で合流し会う、川の合流地点は、特殊な場合を除いて、高さが同じ処である、合流点の間に出来た高い地形が山であり、川が地形をつくるという証拠なのである。
この説は歴史的にそれ程古い事ではないそうだ。

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉