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しらぬがほとけ

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(八十歳)

人生八十年の時代というが、私にとってもこの長い人生で、数多くの出来事が思い出される。
特に、若い時赤い令状一枚で海外出張を命ぜられ、経験談が他人より豊富にある。その中から記憶をたよりにペンをとってみよう。

あぁ飛沢先生、持病で合格

昭和十八年十月一日、第五部隊の営門をくぐった翌日、早速身体検査があり、順番が回ってきて私の前に座っている軍医の顔を見てアッと驚いた。何と吾が町の飛沢先生である、「オゥ水谷お前も来たのか、身体はどうかな」と、優しく診察してもらい「よし合格だ元気で行って来い」と激励されて引き下がった。実は私にはヘルニアと痔疾という持病があったのだが、「粉骨砕身軍務に勉励して皆様の御期待に添う覚悟であります」と、大見栄を切って来たので、本当の事は言えなかった。飛沢先生が軍医とは「しらぬがほとけ」、先生も私が寒さに弱い病気持ちとは、「しらぬがほとけ」。
十歳を頭に五人の子持兵とは
首尾よく騎兵隊の一員となった私は、十月の末頃、極秘の中に愈々関東軍の傘下たらんとして、外界を閉した軍用列車に詰め込まれて渡満した。
五部隊に居た時は馬の運動場に起居し、碌な教練もなかったので、愈々これからが本番だ。ソ連のトーチカが見える高台では本格的な乗馬教練、営庭では歩兵同様の基礎訓練、勿論馬は兵器で兵隊より大事に飼育しなければならない。割の悪いこと夥ただしい。
そうこうしている内に家からの便りが届いた。出征の時の写真が同封されていて、班長始めみんなが見て「ナンダお前こんなに子供がいたのか」と驚くのも無理はない、十歳を頭に五人も揃っているのだ。それというのも私が何でも積極的に張り切って同年兵を引っ張ってゆく様な若さなので、テッキリ初年兵ではないかと思っていたらしい。
癖馬と知らず川に落ちズブ濡れ
検閲が終ってやれやれと思い、通信兵として特訓を受けていた矢先、突然の発熱で入院を命ぜられ、漸く回復して原隊に戻ったが、班の編成が替っていて、私の担当する飼育馬も「健軍」という馬に替っており、名実共に良い馬だなと喜んで、早速、点呼前の朝の馬運動に出掛け、水を呑ませながら川の深い所まで進んだ時、突然乗馬のまま転倒、手綱をつかんで離さず漸く這い上り、ズブ濡れのままきゅう舎に戻って大笑いの種にされてしまった。
何の事はない、名馬と見たのは大違いで、実は班内で誰知らぬ者なしの癖馬のレッテルが貼られていたとは。
終戦を知らずなお行事
赤い夕陽の満州を、北に行ったり南へ下ったりして馬と暮している内に、昭和二十年の七月頃、愈々国境を接する東安の地に追い出された。混成旅団の整備も充分とはいえない八月九日未明、空陸両面よりソ連の猛攻撃を受ける羽目となり、迎撃とは名のみ歯の立つよしもなく、山を越え河を渡って、命からがら漸く大咸敞という所に集結した。ソ連軍に挑戦を試みるべく、敵の戦車と自爆する覚悟でタコツボ掘りに汗を流していた。その時速やかに全員下山せよとの命令。どうもおかしいなあーと、兵隊同志で停戦か、いや終戦か、訳の分らぬまま本部まで戻った。
将校を始め下士官連中が、自慢の軍刀をドブンドブンと惜し気もなく傍の池に投げ込んでいる。その内兵隊は各自毛布を一枚づつ持って行軍に移るとのこと、誰からともなく敗戦らしいと、ブツブツ呟きながら行軍していると、先頭の列から防毒マスクを谷底目掛けて投げ飛ばし始め、遂に兵器までも投げ始めたので、軍刀を投げていた将校が駈け付け、兵器だけは最後まで持っている様にと命令が出る始末。聞くところによると、我々が真面目に汗を流して陣地構築していた頃、既に終戦の詔勅が下っていたらしい。
兵隊の悲しさ。
死体の浮いた水で晩飯を炊く
こうして剃刀の刃までも取り上げられ、毛布一枚で露営の夢を結びつつ、命の親の飯盆と米を唯一の頼りに、牡丹江を通り少し降った液河(えきが)という終点地に着いた。
時既に薄暮、兵舎はあったが、設備は壊されて、肝腎の水がない。漸く小さな池を見つけて、腹ごしらえをしたのはいいが、翌朝行ってみて驚いた。池の向う側には人や豚・鶏などの死骸が、プカブカ浮いていた。途端に胸は悪くなったが、腹の方はどうやら異状がないらしいので、一同胸を撫で下ろした始末。
帰国を夢見、着いた所はハバロフスク
傚河の滞留は、閉鎖してあったシベリヤ鉄道を開通した上で、日本人をウラジオに送り帰国さすのだと、誰からともない話を信じていたので、いざ汽車に乗ると、もう日本に帰った様な気分になって、浮き浮きしていたが、さて一夜明けて窓から見た状況が変だ、どうも方向が違う。一度はガッカリしたものの「ノンキな父さん」ではないけれど行先知らない、列車に聞いてくれと開き直ってみたが、一線の望みはハバロフスクに着いたら、そこから船で「ニコライエフスク」に出て、小樽に上陸するのかも知れないと良い方に考えて気を紛らしていた。
いざハバロフスクに着いて見ると、大きな船が十隻近くも、煙をモクモク上げて待機しているように見える。しめた、と思ったのも束の間、全員下車整列をしてから「ロスケ」の歩哨が銃を構えて「ダワイダワイ」と言う、向かって行く所が船でなく山の方である。
三十分程歩いた所にバラック風の家が見えてきた。着いて見たら豈図(あにはか)らんやバラ線が張られ、四方の角に照明付の監視哨が見える。何の事はない、我々は名実共に捕虜として「ハバロフスク」一番乗りだったわけで、忘れもしない昭和二十年九月十五日、内地帰還を夢見ていた行動の果ての「しらぬがほとけ」。
飢えをしのぐ馬鈴薯を匿す
無惨に裏切られた我々を待ち受けていたのは、満洲から分捕ってきた戦利品の陸上げ作業だった。
翌日から恐らく現地の兵隊を使って積み込んだであろうありとあらゆる物資の荷下し、それもパン一切れで昼夜兼行、船の階段を昇り降りして、ヘトヘトに疲れて作業が捗らない、暗くなってからはそれぞれが適当に身を隠して寝ているのを、見つけられて、又、ノロノロと軽い物から少しつつ運ぶ始末、人海戦術でどうやら一段落したら、次は馬鈴薯の選別作業だ、これは余り身体を動かす事なくどっかりと座り込んで一日を過ごし、帰り際に手頃な品をポケットに詰め込んで収容所に戻り、ペーチカで焼いて飢えを癒していたが、ついにロスケの知るところとなり、仕事から帰る途中で全員停止の命令、歩哨が全員の身体検査を始め見つかると取り上げられる始末、窮すれば通ずとやら、丁度自分の所へ来た時、股の中に二個はさみ両手に一個づつ握って万歳をして見せたりで、見つからずに済んで持帰ることができた。
女医さんの小便を水と思い床掃除
栄養失調に加えて「ドンドン」繁殖してゆく虱の為に、バタバタと病人が出て医務室が一杯になると、トラック一台分だけハバロフスクの病院へ運ばれる。
何しろ四十度前後の熱に冒されている者ばかりが、立ったまま輸送されるのだから、余程気を張っていないと座りこんだが最後踏み潰されてしまう。漸く病院に着いて、降りた時には半数が虫の息で、十名ぐらいは息絶えていたものと思われる。
自分は幸いに意識もうろうとなりながらも、漸く病院のベットに臥すことができたが、それからのことは全然覚えておらず、用便を催したのでベットにつかまりながらウロウロしている所を、病院の人に見つけられてからボツボツ食欲も出て、日毎快方に向かうことができ、寒さと飢えを凌ぎながらも病友もでき、大晦日の晩には演芸会に出て一等賞となり、抱え切れない程の黒パンをもらって、自分なりの正月を迎えることができたのは、神仏の御加護があったればこそと、今更ながら感謝の気持で一杯であった。
演芸で認められたせいか、それからはペーチカの当番やら倉庫に一杯となった同胞の屍体を、トラックに積み込んだり、ようやく覚えたロシアの単語のおかげで、軍医や看護婦に重宝がられて、回診の時は付添いをさせられたりしている内に、気候もどうやら春めいてきた頃、病棟の移動があり、大分離れた地区へ軍医達と一緒に行く事になった。
此所はソ連兵の演習用の宿泊施設であったのか、半地下茅葺きで土間に二段ベットの粗末な病院であった。働く事の好きな私は、頼れる事は何でも引受けるので、患者のまま病院に住み込んでいた。
そんな或る日、女医さんばかり五・六名合宿している官舎に頼まれ、遠い所から水を汲んだり掃除をしたりしている時、ベットの下のバケツに少し色の着いた水があり、これ幸いと床の雑布がけをして帰って来た迄は良かったが、後になってそのバケツこそ、虫も殺さぬ御婦人達が朝投げ忘れていった夜間用の小便器であったとは、いかに国柄の違いとはいえ、大変なことをしたと赤面したがもう遅すぎる。
正面切って詫びるのもお互いのプライバシーの問題も残る。ええままよと私なりに割切ったが、私は患者の食事の当番もしていたのだから尚更胸が痛んだ。
― おわりに ―
これだけはまだ誰にも話していない、私だけの秘密だが、四十年以上も経った今なら、時効と思い白状した次第、長い人生で数多くの体験を持ってはいるが、これは秘中の秘で未だに忘れられない珍事だと思っている。

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉