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留萌鰊場ひざくりげ

佐川 亀蔵 明治四十二年七月五日生(八十四歳)


はじめに

この話は、私が幼い頃の出来事で、当時、父が夜中に帰宅したことなど、断片的でおぼろげな記憶が、のちの父の語らいで鮮かになりつながった物語で、開拓の頃の一つの出来事として書いてみました。


精進講
開拓の頃、内地(本州)から移住した人達は、入殖地でも、それまで育った故郷の風俗や習慣、しきたりなど、また食べ物から行事まで、そのまま受継ぎ守っておりました。特に集団で入殖した団体ほど、長い間続いていた様です。
佐川団体の人達は、内地から当麻村伊香牛に入殖してそれから十年後に、当地新井牧場に移って来たのですが、続けていた年中行事の一つに、精進講がありました。
精進講とは、春三月と秋十月に、女は十二日、男は十三日に集って、その日一日に限って肉類などを断って精進料理のみで一日を過ごし、祖先を偲び、互いに親睦を深める行事で、佐川団体の人達はその後三重団体へ移った人達をも含めて、昭和十年頃まで行ったり来たりして続け、楽しんでいました。
運・不運
何時の年であったか定かでありませんが、春の精進講が我が家で催され、幾人かの方が集って歓談しているうちに、誰言うとなく鰊場行きの話となりました。
当時、新井牧場は全くの原始林でしたが、樹木はあっても、村内では木材として売れず、また、自分達の食料を得るのが精一杯の苦労の生活で、別途、小遣い銭を稼ぐ仕事は無い様な有様でした。それで当時は、町の人も男ばかりでなく女も銭を稼ぐために、錬場に働きに出ていた様です。
そんな事から、話題となった鰊場に稼ぎに出掛ける話は本決りとなり、翌日、父とその仲間、あわせて四人が連れ立って、早速出発することとなりました。
一番年上は伊藤八重治さん、次は父の従兄弟北村留五郎さんと言って、続いて何時も民おんっさんと呼ばれていた父民五郎、最後は一番若い佐藤繁夫さんでした。
往く時の切符は各自めいめいで買い、汽車に乗り込みました。やがて、留萌に着いた時は、繁夫さんの懐に五円があるだけで、他の人はそれこそ無一文同様でした。兎に角、金取りに来たんだから稼ごうと言う事で、五円で四人は宿に着き、鰊の獲れるのを待つことにしました。
けれどもその年は不漁で鰊はあまりとれず、持ち金はスッカリ使い果してしまい、仕方なく親方に頼んで船に寝泊りさせてもらい錬を待ちました。しかし、一週間待っても鰊の群来はなく、そのうちに雪も次第に融け暖かくなって来たので、我が家の農作業が心配になり、小遣い稼ぎどころでなくなり、衆議一決、徒歩でわが家へ帰ることになりました。
帰路膝栗毛
漁場では、これ迄に獲れた鰊を加工して、身欠きや油粕にしており、親方も「食う位なら、身欠きを持って行け」と言って呉れたが、「一日も働かないのに貰えない」と言って、ただ一本も貰わずに帰路につきました。それぞれの懐には何銭かの残金しかありません。
どの位歩いただろうか。線路伝いにすすむ中に、次第に腹も空いて来て、弱音を吐く者も出る始末。
でも文無しでは致し方がない。
「残った金集めて大豆を買おう」と留五郎さんが言い出した。留五郎さんは、佐川団体では発明家アイデアマンで通っており、大豆を妙って歩きながら噛り、水で腹をふくらまそうと言う訳だ。途中の農家で大豆を一升求めたが、どこの家へ寄っても、それを炒る鍋を貸してもらえない。それもその筈、大の男四人は線路伝いにトンネルを潜ったりしたので顔は煤けて其黒、それに眠く目をこすりこすりするので恐ろしい形相になっているので無理はない。
そのうちに、民おっさんに歯が無く、炒り豆は食べられんのに気が付いた。それで、変更し今度は豆腐屋に寄って豆腐と交換することにした。当時、一升の大豆は何丁の豆腐になったか定かでないが、とに角、豆腐を注文し、醤油代二銭かかる処を、一銭代だけにして、テーブルの前に坐り待っていた。
そのテーブルの上には、丁度女中さんがこぼしていったジャガイモの塩茹でがあり、繁夫さんは「勿体ない」と拾って食べ始めた。他の三人も喉から手の出る程だったけれども、若い繁夫さんの為我慢していた。この豆腐屋は丁度、深川辺りだったようだ。
ここで幾らか腹の膨れた四人は、旭川廻りか、下富良野廻りで帰るか話し合ったが、伊藤さんが、芦別にいる倉本某に五円の貸しがあるので、そこへ寄ろうと言う事になり、下富良野廻りをとおることとなった。
再び線路伝いに歩くうち、途中の鉄橋の手前で、民おっさんが便意を催し、野糞をすることになって、傍らの薮の中に馳け込んでいった。しかし、いくら待っても帰ってこない。終るのを待っていた三人は、誤って鉄橋から落ちたのではと心配し、大声で呼んで見たが、やっと姿を見せたので聞いて見ると、用便中に、ついうとうとと眠気を催したの事で、まあ無事で良かったと、また芦別を目指して枕木を渡り始めた。
漸やく芦別に着き、目当ての倉本さん宅に立寄ったが、突然のことでお金は戻らなかったけれども、この時ご馳走になったトウキビのご飯は、この上なく美味しいものだった。
しばらく休憩させて貰い出発したが、野花南まではかなりの距離で、互いに無言でただ黙々と歩いていると次第に腹の減るのを覚える。すると突然「空知川の滝が有名だから、折角の機会だ。一寸寄って見て行こう」と言う者がいて、そうしようと言う事になり、滝見物と洒落込んだ。「いい滝だ、見事なものだ」と、空腹を抱えて風流なものと、暫く眺め楽しんだ。
やがて、下富良野を過ぎやっと上富良野に辿り着き、開拓当時から通りなれた今の日の出ダムの少し手前、西山さんの畑の凹地を過ぎ、通称西山の坂の上の三角点にたどり着いた。佐川団体の人達は、いつも此処を通る時休憩場所としており、家も近くホッとする所だった。体力の一番弱かった繁夫さんは、ここに腰を下ろすと、安堵からかすぐぐったりとしてしまった。
途中、市街に寄れば、無一文でも食事の出来る処ぐらいあったけれども、所謂「武士は食わねど高揚子、鷹は死すとも穂は摘まず」と、変なところで痩せ我慢をし、意地を張って市街を素通りして、やっと此処まで辿り着いたのでした。眠りこけようとする繁夫さんを他の三人は、眠ってそのままいかれては大変と、くすぐったり髪を引張ったりして、兎に角、家まで帰らねばと懸命だった。
やがて我が家に帰り着いたのは夜中だった。家では、おっかあ達は「親父共はきっと、お金を沢山持って帰って来るに違いない」と、宮城衆の言葉で、望外の期待をすることを「箆(へら)で尻(けつ)を叩いて待っている」というけれど、この言葉通り待ちに待っていたところが、夜中に蚊の鳴く様な声でやっと辿り着いたのだから、その場の光景は、何とも哀れな様でした。
むすび
その後、春秋の精進講の時は勿論、何かの集会の際など、この留萌からの道中話しは、必ずと言ってよい程何時も話題になり大笑いしていた。しかし、今考えて見ると何か教えられるものがある様な気がする。
繁夫さんの息子、章雄さんから、この事を書き残して欲しいと頼まれていたが、心に掛けつつも諸事に取りまぎれ果さないで来たが、此の度、怪我で湯治に来て、この機会にとペンをとり、やっと果した次第です。
以上、開拓当時の実際にあった忘れられない道中話であります。
(平成五年九月二日、凌雲閣にて記す)

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉