囹圉記(16)
自 昭和二十一年十一月二十五日
至 昭和二十二年七月十九日
昭和二十一年十一月二十五日
昨年の今頃は、ドモアンキャンプで労役に服しながらも、比較的安楽な生活を続けていた頃だ。今にして思えば忘れられない思い出である。
十二月二日
炊事当番に上番する。常に問題を醸している炊事勤務であるが増食されているだけに助かる。あまり好まないが当番であれば仕方なし。
十二月九日
全監房中より一部の者がカードに栂印をさせられた。これらの者は、近く出獄との事である。自分も又、その中に加わる事が出来たが、残る者の事を思えば一人喜んではならぬ事であるが待望の出獄である。一種の興奮さえ禁じ得ない。早朝、精神異常に依り入室中の兵站部隊兵一名死亡。
十二月十三日
取調べは依然として続き、独房に収監されている者達は生か死かの境地にたっている。一方に出獄情報あり、他に残留の者あり、監房内は、悲喜交々、気持の動揺が激しい。一部の者には脱走を企図している者もあると聞く。
十二月十六日
栂印した者は今週中に全部出獄との確報あり。
一方独房の取調べは続いている。我々は出獄の時を鶴首して待っているが、独房の戦友を思うと全く言葉がない。
絞首刑の宣告を受けた、山脇曹長終身刑に減刑された。
十二月十七日
鈴木曹長の「遺書」の一部を記す
自然の日記昭和二十一年八月二十八日刑宜告日に記す運命を決する宣告の日だ、身を浄め如何なる判決にも動じない心の準備をして外に出る。(中略)法廷に行く最後の階段を登りながら「お前は覚悟が出来たか、最悪の場合に対する心構えは出来たか」と何処からか、ささやくように感じた。ふっと眼の前を母のまぼろしが飛んだ。(中略)十時開廷、長文の弁護と検事の論告が各々英文により、約一時間余りに渡り読みつづけられた。この弁護のため、相内大佐殿並びに斉藤通訳官殿は昨夜、徹夜されたと聞く何んと感謝し何んとお礼を言おう(中略)そしてその後、十数分間をおき遂に断は下された。分隊長(松岡大尉)、加藤曹長と共に絞首の刑を宣告された。意外と言うか無茶と言うか、予ねて予想はしていたとは言え、あれ程事件がはっきりし認めるところは認め、各人の責任も明らかにされた筈であるのにこの不当な宣告とは。然し、この死の宣告を受けた瞬間さした心の動揺も見ず、態度も崩れず、顔色も変らなかった自分が不思議であった。自分は分隊長と異なり、この死の宣告を下されることを予期していなかったし、勿論覚悟も出来ていなかった。(中略)只、不当な、余りにも一方的なこの断を下した裁判官に無性に腹が立ち憎しみを感じた。そして、じっと裁判官をにらむ。だが悲痛な面持で裁判官をみつめる弁護人を見返った瞬間、これまで闘い、あれ程の努力が水の泡に帰しがっかりし、呆然たる姿に己が身よりも、その人の身が気の毒に感じられた。
昭和二十一年十一月九日絞首刑執行される
住所 東京都滝ノ川区滝川町
十二月十八日
ダヴイ警備隊の一部、百五十名程出獄す。一喜一憂の色益々濃くなって来る。
十二月二十日
夕食後、明日出獄の命令を受けた。この時の来るのをどれ程待った事か、思えば一年有余の地獄のような生活であった。夕食後、一同会食を実施し、残る者出る者夜半まで語り続けた。残される者の気持は耐えられぬ事であろう。
十二月二十一日(出獄)
出獄の日である。天下晴れて釈放の身となる。午前八時三十分、獄内の広場に整列して携帯品の検査を受ける。この日記もズボンの内側に縫込んで難を逃れた。厳重な人違いの有無の点検を受けた上、十一時いよいよ出獄である。四列にならんで足音を揃え、唯、黙々と整然としてラングーン刑務所の大門を出た。この気持はなんと表現したら良いか分からない。感無量であろう。
唯、残された者が監房の室から淋しそうに見送ってくれる姿を見て後髪をひかれる思いがする。刑務所から出たとたんに、現地人から石でも投げつけられるのではないかと皆で噂したものだが、現地人の表情は極めて平穏のようだ。約三十分歩いて「アロン」に致り、一般の労務部隊に合流して広場の一遇に新設されたキャンプに収容された。我々の部隊長である田中中尉より訓示を受けて幕舎に入る。
十二月二十二日
此処は蘭貢河畔の埠頭広場で、一面は一般部隊、西側はラングーン河が悠々と流れている。一万屯級の船舶が出入りしているベンガル湾にそそぐ大河口である。
キャンプの周囲には柵が廻され警戒兵もいるが、キャンプ内は自由行動も出来る。全く開放的気分が満喫出来る。唯、水のないのが苦しみである。内地に大地震ありとの情報あり。
十二月二十三日
これからの生活は英軍司令部より、我々の部隊本部に命令され部隊本部より、一般に下達して毎日の行動が始まる事になる。夕刻より、一般労務部隊側で我々のために歓迎の演芸大会を開いてくれた。全く素晴しい演劇であった。皆が我を忘れて熱狂した。
一般部隊側では、刑務所生活をして来た我々に非常に同情してくれた。そして温い気持で我々を迎えてくれた。
十二月二十四日
労務に就く関係か編成替を実施した。今度は二十八名編成である。
十二月二十五日
営内の清掃設営等で、一日中使役である。
十二月二十六日
若干の被服を支給され、更に煙草も支給された。
獄中生活を思えば、全く此処は楽天地と言わねばならない。
十二月二十七日
終戦以来、何処へ移動しても付きものの物々交換が始まった。夕闇せまる頃より柵越に現地人が集まって来る。歩哨に発見され次第、拘禁所入りを覚悟せねばならない。
十二月二十八日
一般部隊の規律は誠に厳正である。この点刑務所出身の者は見習い注意せねばならぬ、一年有余半に渡る地獄生活ですっかり軍律が地に落ちてしまった。
ややもすれば団体生活を乱す。
特に軍隊側では、獄生活の我々に同情の念を以って見ていてくれるばかりでなく、復員の優先権をも我々に与えてくれるとの噂も聞く。心せねばならない事だ。夜、演芸会を見る。
十二月二十九日
平和当時の師走を思い出す。郷里は今頃どうしているか、噴煙遥かに十勝岳の白銀が眼に浮ぶ。
原田憲正大尉辞世 昭和二十一年、九月十一日、絞首刑
チャンギー刑務所
○万歳を唱えて我れも武士の
ゆきとう道をゆき きわめばや
○南冥の嵐に幹の吹き折れて
みのらぬままに枯れ 果てるかも
○妹よ病兄を援けてねんごろに
父母の祭を たやさざらめや
(終戦処理司令部から入手)
十二月三十一日
獄生活の一年も終りを告げんとしている。顧みてこの一年こそは、人生苦難の最大航路であった。将来を通じて忘れてはならぬ昭和二十一年である。郷里では私の健在を信じているだろうか、刑務所の上司戦友は今、何を考えているだろうか。
きらきら星の輝く中天に、半絃の月を眺め万感胸に迫るものあり。
昭和二十二年元旦
ラングーン河のほとり幕舎の中に新年を迎う。
絞首台の露と消えた先輩諸氏や、刑務所に残された戦友を思えば勿体ない身分である。
敗戦三年目の年である。祖国は今だ安定せず混乱状態と聞く、世界の情勢も又、大きな二つの対立が目立って来た。我々は一体これからどう歩むべきか、夜、寿中尉や田中中尉より講演を聞く、戦犯者の遺書や日本の国情、世界の情勢がテーマである。
一月二日
お正月と言っても、特別なご馳走がある訳けでもなし、体日があるでなし、今日から平日通りの服務である。夜、お正月にふさわしい演劇を見物す。
一月三日
労役を今日より始める事になった。アロンキャンプに於ける作業班は、約六十ケ斑あって各種各様であるとの事。今日は六班に出された、六班の作業所は造船場である、別名を鬼が島と称している。一日中炎天下に照りつけられるだけで参ってしまった。
一月四日
今日も又、キャンプで物々交換をしている所を歩哨に発見された。このため夜九時頃、日本軍側の衛兵が、連合軍の歩哨に小銃を逆さに持って打ちのめされている。今の我々はどのような事があっても忍耐のみである。「助けてくれ」と、かすかに聞こえたがどうする事も出来ない。早々に幕舎にもぐりこんだ。
一月五日
今日は日曜日である。作業も休みで、これからは日曜日が何よりの休養日として楽しむ事が出来る。
尺八の同好会が作られ、これに参加して発表会を行う。
一月六日
アロン地区、JSPキャンプオフィスの前にA国旗が毎日、掲揚の時には付近の者は皆不動の姿勢をとらされる。そして、A国旗の下に起き伏している事を常に強く知らしめられるのだ。
一月七日
第二回目の労役に出る。午前中、二車輌のトラックに鉄材を積み込んだだけで一日の作業を終えた。
敗戦軍とは言え、ポツダム宣言に反して三年目にも拘らず、このビルマで労役に使う。連合軍に勤勉であらねばならぬ理由は更にない。
一月八日
労役に出る事は一つの楽しみでもある。埠頭の荷役、黒人兵舎の使役、造船所の作業等々、出れば必ず何にかを手に入れて来る事が出来る。
一月九日
苦力の群の中に混って働いている自分を思うと情ない思いがして来る。A国旗を掲げた気船が幾隻も岩壁に横づけされている。倉庫の出入りも繁しい。
こんな港の中をぶらりぶらりとボロを着て歩いている日本人の姿は、誠に俘虜そのものである。
一月十日
労役も今のところ三日目に一度宛位の休日がある。
刑務所生活の事を思えば、精神的苦痛もなくなった。
一月十一日
我々は、苦力と一緒に働かされているのだが、此の苦力の行動が面白い毎日。如何にして怠け、如何にして品物を盗もうかと、それのみに終始しているようだ。埠頭内の公衆便所へ行ったら足の踏み場もない程ビール瓶が捨てられている。彼等は、用便を足すのではなく船に積却しするビール瓶を盗んで来ては飲んでいる。取締る筈のビルマ警察迄が一緒になって飲んでいるのだから始末が悪い。午後三時、苦力の引揚げる時間には、さながら花見帰りのようにどの苦力も酔っている。
一月十二日
どこの作業に行っても、休んでいるとビルマ人がやって来て話しかける。タキンオンサンは、目下ビルマ独立のため印度を経てロンドンに向っている。
若し、独立不能の場合は、ビルマ人が一丸となって暴動を起すものと思われる。その時日本人はどちらに付くかと、どのビルマ人も異口同音に尋ねる。治安悪化した場合の準備を考えておかなければならない。
一月十六日
連合軍病院の労役に行く。元の日本軍一〇六病院のあとである。昔の面影は残っているが、全く一変した別の世界であることに驚く。
一月十七日
この頃、労役も要求が多くなり連日の就労である。
労務も行き先によっては休憩も出来ない処があり、意地の悪い外人に当れば非常に苦労である。こうした毎日の就労に皆は、ぼつぼつ疲労が目立って来た。
一月十八日
労務についている我々は、現地人の苦力のもう一級下の取り扱いである。仕事も彼等は三時に帰るが我々は四時半である。朝も我々が現場へ到着してからそろそろやって来る。俘虜の悲哀が身にしみる。
一月十九日
今日は日曜日である。この頃、詩・短歌・尺八・洋楽・英語等と同好の志が集まって、それぞれ余暇を楽しむ姿が見えるようになって来た。
一月二十日
今日の労務は四十三班ビルマ鉄道作業である。我々の仕事の能率をあげると横になる為なら請負仕事にすればよいのだが、時間から時間まで就労されるから、怠ける事ばかり考えて一つも能率が上がらない。
一月二十一日
今日は、シュエダゴンパゴダの下で建築作業である。この付近はラングーンの中心街で、午後ビルマ人のビルマ独立のデモ行進が延々として街頭を進んで行った。誠に意気盛んである。何千人居るであろうか、しかも、このデモは約半数が女性である。キャンプに帰って見ると、刑務所より将校以下、約六十名出獄しており皆で喜び合った。
一月二十二日
毎日、汗みどろになって疲れた足を引きずりながらキャンプに帰って来る。水浴する元気もなく、ほこりだらけの身を一枚の毛布に包んでゴロリと横になる。刑務所生活中は寝つかれぬ毎夜が辛かったものだが、今は夜の眠りも一瀉干里である。
一月二十三日
今日は有難い事に、たばこや飲料水や日用品の陸上げである。我々もこの余禄に預り、皆、幾つかのものを入手して喜んでいたが、作業を終えての帰途、キャンプの衛門で身体検査をしていると前方の部隊から情報が入り、あわてて皆はポケットから、腹巻から、飯盒の中から取り出し道端に投げ始めた。この為、思わぬ儲けをしたのは現地人で、居合わせた現地人は意外な拾得物に大喜びである。
一月二十四日
毎週金、土の二日は夜間キャンプ内劇場で演芸会がある。作業のかたわらその道にかけた者で組織された演芸ブロックが五、六組あって音楽・芝居・舞踊が演出される。楽器も衣裳もすべて手製であるが、内地での大根連中の及ぶところではない。我々の抑留生活に唯一の慰安として皆が期待している。
一月二十六日
今日は、日曜日にも拘らず労役に引出された。而も終日追廻された。キャンプを第二地区に移動する。
天幕からバラック建に移り、辛うじてヤシの葉の家と名のつく屋根の下で暮せるようになった。
ビルマ民衆は、明日より相当広範囲にストライキを実施するとの情報あり。A軍からはビルマ人の誘致策動に乗ずる事なく、軍紀を保持して就労すべしとの伝達がある。
一月二十七日
我々の作業先に働くビルマ人は一斉にビルマ独立のためストライキを実施した。このため我々の就労も処によっては休みとなり、他面多くの人員を要求される処もある。ビルマ人の対日感情も余り良くない以上、我々には有難いストライキではない。
一月三十日
労役に出る我々の誰もが今日は如何にして楽をしようか。如何にして仕事をせずに一日を送ろうかと苦心する。これに失敗すれば英軍の処罰が待っている。我々を指揮する将校の苦労も又、並大抵ではない。
二月一日
今日は、ビルマ人のストライキが激化し一名の苦力も来ていない。此処のピックマスターのA人大尉は元日本軍俘虜であったとか。作業中も昼の一時間を除いては腰を下す事も許さない。こちらも感じが悪いといやでも働きたくない。帰途、とぼとぼ列をなして歩いていると、通りすぎる印度人のトラック運転手が自動車の中から煙草をばらまいてくれた。
二月四日
東南アジア軍管下、JSPの復員輸送は三月より実施するとの情報を聞く。連合軍からの通告だから確報だ。
二月九日
折角の楽しみの日曜日も風邪ひきのため、一日中就寝の日を送る。一年有余に亘る獄生活が骨髄までこたえたと思えて、少しの無理も出来ない身体になってしまった。憂うつな一日である。
二月十二日
長い間の獄生活と慌しい毎日の労役に追われ、唯、気の向くままの生活を続け修養も怠り勝ちになっているこの頃である。今日、ふと掲示板に張ってあった戦犯諸氏の辞世や遺書等を読んでいる間にこれでよいのだろうかと感に打たれた。
二月十四日
憲兵学校当時の同期生が顔を合わした。僅か六名ではあるがその熱意の程は何の会よりもすさまじく、論議は終始将来のことである。国家再建の道とは何んぞ、再建のためには積極的な道として如何なる道を選ぶべきか、我々の最高理念とは何か等思えば考える程わからなくなって来る。
二月十九日
毎日毎夜、夜半までも同期生会で終始する日を送るようになった。天下国家を論じ、時の過ぎるのも忘れているこの頃である。
二月二十四日
毎日の無聯の一策として今日は幻燈の夕べを催す。
日本の名城・漫画・夫の帰りを待つ故郷・二重橋・日本軍の激戦、哀れな現在に泣かされた。
二月二十五日
愈々待望の復員船も近々来る事になったが、三月九日と十九日の二日間で僅か二千九百名である。復員部隊は全部で三万五千名である。上級将校にも下級兵にも共に今、復雑微妙な問題を醸している。乗船部隊が判明した暁は如何なる事態が起らないとも限らない。帰還が唯一の望みであって見れば当然の事ではあるが。
三月一日
待望の三月が来た。三月から復員が始まる。しかし、我々は戦犯委員会からのストップ命令で不能になってしまった。こんな事も予期しないでもなかったが、今後再び刑務所に収容する必要のある時は、個人的に引致すると正式に公文書を出しておきながら、いざ復員となるといまだ容疑者若干名居るとの理由で全員がストップである。最終便を覚悟せねばならぬ。
三月三日
アロンキャンプの全部の北海道人会を開く。約三十名将校連中の多いのに何か頼もしい気がする。
三月六日
第一便、復員部隊続々として集結する。復員部隊が戦友の遺骨を抱いて祖国に捧持しようとしたが、A軍に持ち帰る事を禁じられ、仕方なく皆で分骨して隠密携行する事にしたと言う。
三月八日
第一便船出港す。
我々は作業に出発する。朝、乗船部隊と一緒に門を出る、双方感無量である。一本の道路を全く異った二列の部隊が唯、無言で歩いて行く。
三月九日
寺田事件について
去る三月五日、刑務所に収監中戦犯委員の通訳として使われていた、元司令部の寺田通訳官が乗船のため出獄し四地区に来たが、我々の在監中に於ける彼の態度があたかも敵国人以上に暴行、暴言の限りをつくした事に憤慨した一部の約五十名が、夜間彼を呼び出し袋だたきにしてしまった。この事件がいつの間にか戦犯委員の知るところとなり、関係者の氏名を報告するよう要求して来た。吾方のキャンプ司令はあわてた。いまだ結末は分からないが感謝の外はない。
三月十四日
作業先に於ける抜取り、その他の事件は後をたたない。この頃はむしろ露骨になったようだ。上司の注意も開かず人間性も地に落ちた者が数人目立つ、
全く手のつけようがない。
三月十九日
作業帰隊後に、舎宮本部勤務の内令を受けた。夕食後、早速申し受けである。仕事は一般庶務でA軍司令部からの命に従って、毎日の労務の配分、乗船部隊の配分、毎日日本軍の労務人員報告等A軍司令部相手の仕事で、全く未経験で英語も解せず適職とは思われない。兎角非難を受ける事を覚悟せねばならぬ。しかしこれも良い体験になると考えて命に従う事に決心し寝具を移した。
三月二十日
終日、多忙で仕事も分からぬままに気ばかり焦って来る。A軍司令部のドアをたたく手がふるえているようだ。
三月二十八日
舎宮本部勤務になってからもう十日になる。
本日、升村准尉以下二名刑務所に引致さる。又二名の出獄者があったが、その情報によれば少将以下八名が内地より空路引致された。内憲兵が三名含まれいると言う。事件もまだ前途遠きものを思う。
四月一日
復員船を待ちながら四月は来た。二、三日前の情報では相当入港の予定である。六月までには半数が帰れるだろう。
四月五日
雨季近し、毎夕ベンガル湾の空に雨雲を見る。このビルマで又、今年も幾度目かの雨季を迎えねばならぬかと思えば恋しい気持さえして来る。
四月八日
内地からの便り配付される。我になし、他人に来る便りの数多きをうらむ。
第三船千二百名乗船命令出る。明日は出帆である。早く還ってくれ、そして我々だけが残ればそれで良いのだ。
四月十日
今日、待望の復員の朗報あり。A軍よりの指達に依り、戦犯関係者も起訴された関係者を除き、五月末までに帰るとの事だ。日頃の憂うつも一度に晴れたようだ。
四月十二日
同期生会も相変ず毎夜のように二、三人と集り語っているが、議論百出で物足りないままに時を過す。
四月十五日
今度、上船する電一九部隊三P部隊を加えて北海道人会を開く。二百数十名の盛大なものであった。旭川の川島中尉に郷里への便りを頼んだ。
五月十日
舎宮本部勤務の慌しい内に一ヶ月以上も送ってしまった。日記も怠り修養も怠りがちである。乗船部隊も今日で一万名に達したが、これからは毎日続くようだ。
五月十四日
私の直接の上官である、猿田大尉以下六名刑務所に召喚された。事件の内容は分からぬが、何か自分の身に迫るもののような感じがする。無事を祈るのみである。
五月十五日
三日程前、北ビルマより乗船のために集結する名簿の中に飛沢と言う名を発見し、今日の日を待っていたが、お会いして見て予想していた巨大体躯の飛沢さんでなくて聊か落胆したが、それでも親類の方と聞いて懐かしさがこみ上げ、外地へ来て初めて同郷の方に会うことが出来た嬉しさに別れを惜しむ。
五月十九日
第七船山筑紫丸三千名乗船す。あきらめているものの祖国に向う部隊の喜々とした姿をながめると感に打たれる。
五月二十二日
待望の乗船命令来る。この日をどれ程待った事か。
いや諦めに近いこともあった。しかし、現実に七月一日集結命令が出たのだ。夢ではないのだ、早速、中隊へ走って知らせたが本気に受けとる者は一人もいない。無理もない事である。
五月二十四日
我々の憲兵部隊は、コカインへ移動を命ぜられる。
後一ヶ月間ではあるが、何か乗船の好機より遠ざかる感じがして憂うつである。
五月三十一日
先発隊コカインへ引越す。キャンプとしては悪い所ではないが、埠頭からは約三十粁ほど奥に引っ込でいる。道路をはさんでヴィクトリヤレーグの堤防が続き、北側はうっそうたるゴム林である。
六月五日
慌しい内にもう五日を送った。このコカインキャンプに我々を移動させたA軍の意図がこの頃になって分って来た。残された作業の最後の仕上げと、その他に乗船まで寝起していた各部隊のバラック建を取り壊す作業が我々に与えられている事だ。何人とも言い知れぬ悲哀が胸をつく。
六月二十七日
ここへ来てもう一ヶ月になる。乗船も復員船の遅延のため、一時我々の集結も中止になったが、昨日七月六日集結の命令を受け一同愁眉をひらいた。何かなさねばならないような気持がするが、この頃健康を害し何も手につかない。コカインキャンプのA軍司令部に一名ハゲタカと称する軍曹が居る。キャンプ司令が印度人大尉で温順な親日家であるのに対し、このハゲタカは全実権を握っている形だ。私腹を肥やすのに懸命で、それ以外の何ものでもない。こんなのが一人いると皆が泣かされる。
七月十日
七月一日、乗船キャンプに集結する予定の我々も船の遅延とか、幕舎閉鎖とかなんとか理屈をつけられ、二日延び五日延び遂に十日延びてしまった。しかし兎も角、明日から乗船キャンプに移動を開始することになった。
七月十一日
雨降りの中を部隊主力の移動開始す。取り壊したバラックの残骸は雨に濡れているので、一ケ所に集積して重油をかけて火を放った。奇麗に焼かれたキャンプを残し一路アロンに向う。黒煙だけが空の奥深く残っていた。アロンキャンプの幕舎に入った途端に函館出身で同班の戸沢准尉に対し、突然、戦班委員会より刑務所への収監を指令して来た。逃亡するか、入獄するか事件の内容が分からないので戦友として、どちらを勧める事も出来ない。本人は随分考えたようだが、夕刻になって脱走する事に決したようだ。再び祖国の土を踏む事を断念した彼の心中は察するに余りある。翌朝には既に姿がなかったが皆は無言を続けた。
七月十三日
復員船の大安丸に乗船と確定し、しかも十九日入港が予定より早くなったとの事で、舎営本部の業務も労務賃金計算事務で忙殺された。
七月十五日
再三、再四の接波で辛うじて乗船を許可した戦犯委員会も未だ断念し切れないようだ。昨夕一名、本日三名が刑務所に収監された。事件も新たに八件が起訴され、それがため証人として十数名の者が乗船を中止された。我々が祖国に足を入れる事が出来たら万難を排して戦犯残留者のために尽さねばならない。それが我々の義務である。
七月十六日
復員船大安丸入港乗船命令降る。愈々ビルマの土地も後三日である。嬉しいとも思わず悲しいとも思えぬ本当に帰れるのだと思いながら、それが又深刻に心にわいて来ない。我々の帰還。刑務所の残留者のこと、我々の心の中にはこれらの事が渦となって暗い影を印している。
七月十七日
明後日は乗船であると言うのにキャンプ内外の猛烈な作業が要求されている。今日が最後の作業になるのであろうかと思いながら半日鉄材運搬に追い廻された。午後検疫のため交替してホットする。夜、現地人から逃亡した戸沢准尉からの連絡があり、ビルマの有力者に囲まわれている由安心した。
七月十九日
愈々乗船である。午前二時半起床、朝昼食を持参して準備である。六時第一梯堤出発。若干の衣服と非常用の白米、砂糖の配給を受けて営門前に整列する。証人として残留する上司、同輩に見送られながらアロンキャンプを発つ。後髪をひかれる思いで三粁の行程を歩きボンヂー埠頭に到着した。長い刑務所生活の垢と労務生活のホコリを積め込んだリュックサックの重みが肩にめり込む。
貨物船二千余屯の疲れた大安丸は、ペンキもはげ落ちた姿をラングーン川の中央に浮べ我々を待っていてくれた。十二時半乗船完了。二千七百名を乗せて十三時三十分いかりを上げた。思えば昭和十九年六月ラングーンの憲兵司令部に配属されて以来、丸三年一ヶ月、苦戦と闘い獄中に伸頸し、そして怒従の労役と闘いながら今数十万の英霊の眠るビルマを。
そしてはるかに黒々と見えるラングーン刑務所の望楼の下に未だ残留している戦友を残しビルマを去らんとする。
英霊よ安らかに眠り給え。護国の再建を守護し給え。獄中の友よ許し給え。最後まで健斗されん事を祈る。出帆と同時に一同黙祈を捧げる。名残りを惜しみ甲板に出んとするも、湧き出づる涙を恐れてうす暗い船室に坐って祈りを続けた。ラングーン河を出た大安丸は折柄の雨季の嵐を受けた。ベンガル湾の波浪にもまれ木の葉のようにゆれながら一路母国に向った。
(後 記)
二月二十三日より、上富週報の貴重な紙面をお借りして、当時の日記を掲載させて頂き本日を以って終る事に致しました。長い間の上富週報の御厚意に感謝申上げると共に、時代錯誤も甚だしい当時の日記を読んで下さった方々に厚くお礼を申上げます。
私はこのような日記を無理に掲載させて頂いたその目的は全軍を通じて僅かではあるが、戦後になって戦争犯罪者と言う今だかつてない国際犯の罪名の下に尊い生命を絶たれた先輩諸兄が死を予期しながら、何を考え、どんな気持で死んで行ったかを一人でも多くの人に知って頂きたい一念でありまして、私自身の戦後の苦労などは数多い外地部隊の苦闘の比ではない事を充分承知の上投稿した次第であります。
戦後早や十五年、この日記がひとり「仏壇」の奥に放置しておく事に耐えきれず、御紹介申上げたのであります。この私の目的が一人でも多くの方々に理解して頂けますなら生きて帰った者として、これ以上の満足はございません。
長い間失礼をいたしました。
― 筆 者 ―
≪故 岡崎 武男氏の略歴≫
大正七年七月五日 | 上富良野村にて父虎吉氏、母ヨシさんの五男として生れる。 |
大正十年十一月二十七日 | 父虎吉氏逝去す(武男氏三歳) |
大正十四年四月 | 上富良野尋常高等小学校入学 |
昭和五年 | 母ヨシ、兄豊氏らと共に樺太に渡る。その後、北海道に引揚げ中川村の叔母の元で暮らす。 |
昭和十二年三月 | 道立産業組合講習所卒業 |
昭和十二年四月 | 上富良野村産業組合に就職 |
昭和十四年五月一日 | 旭川歩兵第二八連隊に入隊 |
昭和十五年五月一日 | 陸軍憲兵学校教習隊に入隊 |
昭和十五年十月三十一日 | 陸軍憲兵学校教習兵課程卒業し、樺太上敷香憲兵分駐所に配属 |
昭和十六年十一月一日 | 憲兵伍長 |
昭和十七年十二月一日 | 憲兵軍曹 |
昭和十八年六月八日 | 陸軍憲兵学校に丁種学生として入校 |
昭和十八年十二月一日 | 陸軍憲兵学校丁種学生を卒業し原隊復帰 |
昭和十九年四月二十四日 | 南方軍憲兵隊に配属命令 |
昭和十九年五月十二日 | 泰派遣憲兵隊に勤務のため門司港出帆し、五月二十五日シンガポールに上陸 |
昭和十九年七月八日 | 緬旬方面軍憲兵隊指令部勤務 |
昭和二十年三月一日 | 憲兵曹長 |
昭和二十年八月十四日 | 終戦により泰憲兵隊に転属 |
昭和二十年十月二十九日 | パンロン刑務所に収容される |
昭和二十一年十二月二十一日 | アロン刑務所に収容される |
昭和二十二年六月一日 | コカインキャンプへ移動 |
昭和二十二年七月十三日 | 乗船キャンプのアロンへ移動 |
昭和二十二年七月十九日 | 大安丸に乗船し祖国へと向う |
昭和二十二年八月十日 | 長崎県佐世保港に上陸、三年三ヶ月振りに祖国の地を踏む |
昭和二十二年八月十四日 | 夢にまで見た故郷、上富良野に到着 |
昭和二十二年十月一日 | 上富良野村役場に奉職 |
昭和二十三年五月三十一日 | 上富良野村役場退職 |
昭和二十三年六月一日 | 上富良野村農業協同組合に就職 |
昭和二十三年十二月二十五日 | 伊東清吉氏三女、トシ子さんと結婚 |
昭和二十五年七月十七日 | 長男、光良君生れる |
昭和三十三年四月一日 | 上富良野町農業協同組合参事を命ぜられる |
昭和四十一年三月三十一日 | 病気のため同農業協同組合を退職し、自宅にて司法行政書士として代書業を営む |
昭和四十三年九月二十九日 | 病気にて逝去される(享年五十歳) |
平成六年九月に夫、武男さんの二十七回忌を終えたトシ子夫人は、長男の光良氏(役場勤務)、恵美子さん(町立病院勤務)夫婦と同居し、家事手伝の傍ら暖かい部屋で趣味の洋裁、油絵、俳句等を楽しみながら、お孫さんに囲まれての悠悠自適の生活を送っておられます。
― 編集委員 ―
機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷 1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉