郷土をさぐる会トップページ     第13号目次

続・ガキの頃の思い出と昭和十一年頃の街並み(最終回)

佐藤 輝雄 大正十五年五月十五日生(六十九歳)

酸性川が魚の生棲界を封じた?

私たちの住む上富良野町は、十勝岳連峰、夕張山地、美瑛町との堺でありまた上川と空知の水源界をなす丘陵地に囲まれた、盆地の頭部に位置する。この盆地も、先人の方々が入植以来開墾と併合させて造った排水路と川の一部が整備されるまでは、アイヌも足を入れぬ大湿原地帯であったようだ。まがりなりにも農耕地としてその姿が見えるようになるまでには、やや暫くの時間が必要であった。
昔からこの湿地帯の区域からは縄文時代の遺物、遺構などの痕跡はなく、未だに発見された記録はないようだ。
昔のむかし、所々に潅木帯があり、川縁や少しの高地には山ブドウやコクワ(サルナシ)の蔓を巻き着けた大きな森林地帯が在ったと聞く。低地は一面の葦が密生し、大地も多くは水に浸かるような盆地だったのであろう。
この盆地内の湿原を、幹線河川とも言える富良野川、ヌッカクシ富良野川、ベベルイ川が紆余曲折を繰り返し支派川を伴って湿原の中に多くの水溜りや小さな沼を作り、淀みながらユッタリと流れていた。
昔の川の姿は、大日本帝国陸地測部が明治二十九年に発刊、『フラヌイ川』の図名の当地域を画いた仮製五万分之一の地形図から視ることができる。
図面には前述の三木の幹線河川が、夫々の支川派川を持ちながら極めて明瞭に次々と合流地点を示し、空知水系の母なる川である空知川に達している。
実測は明治二十三、四年頃から行われたものであろうが、河川の骨格は現在の河川と差程遠わない。
原始時代の峻しい地形条件の基で実施された当時の測量技術の卓越さには唯々敬服させられる。
河川流路の形態、埋蔵文化財の発見箇所の位置などから、富良野盆地の北端高地に位置するわが町の河川には、魚は縄文期以前より母なる川の空知川から上流奥地に向かって遡上し、奥地の沢の小川にまでそれこそゴチャゴチャと棲息していたであろう。
私がガキの頃承知している川で全く魚のいない川は、硫黄川と言われていた富良野川と、ガンビ川と呼ばれていたヌッカタシ富良野川だけであった。
念のため、これらの川の水系で往時における魚の棲息実態を先輩諸氏を訪ねて聞いてみた。
中町に住まわれる飛沢尚武氏(七十三歳)が言うには、「ヌッカタシフラヌイ川(ヌッカクシ富良野川)に今は確かに魚はいないが、大正十五年の十勝岳の爆発以前は街外れを流れるフラヌイ川(富良野川)では、大きなウグイなどの魚が釣れ、当時ガキであった私達はよく釣ったものだ」と言われる。
泉町二丁目の杉山芳太郎氏(九十歳)も、「爆発前は富良野川には確かに魚はいた。…春の水田耕作の折であったが、プラオを掛け終わり砕土耕の代掻き前の水入れをしたところ、富良野川から取水している用水路を伝って魚が水田に入り込んだ。…魚種は分らぬがニシン程の魚を捕まえたことがある。?……イトウがいたかと…。?…大きなイトウがいたと言うことは聞いたことがない」。
また、日新地区に居られる佐川亀蔵氏(八十六歳)は、「大正末の爆発以前でも日新地区の富良野川本流では、ザルガニ(ザリガニ)だけが棲み、魚はいなかった」と語っている。
宮町に居られる岩井清一氏(九十一歳)が語るには「わが家が東五線北二十一号に在った時代で私が小学校の一年生の頃だが、付近の五線川(デボツナイ川)ではドジョウ、カジカが非常に多くいた。ヤツメなどは三十p位のものが川底の岩に無数にへばり着いていたのが特に今のこの歳になっても忘れられない。…真に印象深く記憶している。大きな魚を狙うのだが、なにしろ子供だから釣れるのはカジカばかり。或る日、思いもよらぬ大きな魚を釣り上げた。魚の口に幾本かの笹の茎を通して担いだら尾が地面に着く、これを引きずって家に持ち帰ると釣った魚はイトウだと言われた。カラス貝も五線川には随分いたものだ。ベベルイ川にも行ったが、子供のこと故、魚はあまり釣れなかった」と、明治四十三年頃の少年時代を目を締めて語ってくれた。
本町の尾崎利夫氏(七十三歳)も、「昭和六年、私が小学校の四年生頃は東七線北十六号に住んでいた。よく覚えているのは九線十五号の山側に二反歩(約二千u)程の沼が在り、小魚がいて白鳥などが来ていたことだ。自宅付近の用水でも水質が良い放か数多くの魚類がおり、大きなアメマス、イトウなどもいた。ベベルイ川でも上流の方は知らぬが、東中市街付近では結構魚は釣れた」との話であった。
倍本十二地区の高橋富雄氏(六十八歳)は、「ベベルイ本流に魚はいた。アメマスも釣れ、ドジョウ、カジカも多少はおり、上流でも多くはいないが魚はいた。枝川の神谷川や、その付近の小川に行くと魚はそれこそゴチャゴチャいた。ザルガニも多くいて、アメマスなどは面白い程釣れたものだ」高橋氏も往事を懐かしむが如くに、語る話にはずみがあった。
私のガキの頃の記憶では、三本の幹線河川の枝川や沼に魚はゴチャゴチャとは言えないが、結構その棲息場所の環境に合わせたように住み着いていた。
全く魚のいない川はヌッカクシ富良野川と、大正十五年の十勝岳爆発後の富良野川だけとなる。
これらの川でヌッカクシ富良野川だけは、今日に至るも「魚がいた」と言う話は聞いたこともなく、また魚影すら見たことがない。しかし支川に入ると別で、現在でも旭野川には護岸工事を実施していない区域にはザルガニがいるようだ。派川の山加川にもザルガニがおり、旭野四の小川では、これも護岸工事の未実施の区域にはドジョウの姿が今日でも見られると聞いた。
富良野川本流については、私のガキの頃には「あの川にはいない」と言うことから、主観的判断で確認の行動を一度もしたことがなかった。
だが昭和四十七年頃には、涙橋(上富良野橋)下流の頭首工付近で「ザルガニやドジョウを捕った」と、私の次男は言う。大正十五年の爆発災害後、魚類が富良野川に戻ってきていたのであろうか。
今回の本誌記述に当って改めて調べてみた。旭川土木現業所富良野出張所の砂防第二係から情報を提供してもらった。
情報によると、富良野川の工事に伴う確認では、昭和五十四年頃にコルコニウシュベツ川合流点付近)で、ウグイ、フナ、コイが棲息していた。また平成四年に島津公園地先の河川工事を実施した折、ドジョウがいるのを確認していると言う。平成四年以降は、魚類の棲息実態は確認されていないと聞く。
町が実施したという五丁目橋の架換工事からも、ザルガこがいたという情報を得ることはできなかった。
あることに気がつき、疑問を抱くと共に興味を持った。
それはベベルイ川について、培本地区の高橋富雄氏が「上流でも魚は多くはないが、いた」と語ったことに対してである。
安政五年(西暦年一八五八年)早春の四月二十二日(太陽暦)、箱館奉行所御雇の松浦武四郎が現在の旭川市忠和五条六丁目付近に在ったチクベツブト大番屋を発ち美瑛川筋を上り、空知水源を経て十勝水源に至る蝦夷地内陸部を見分の折、五月二十三日当町の日の出公園付近のレリケウシナイと言う小川に到達して川縁で野宿をしている。
その折のことを『報文日誌』に
「最早是より先へ行くとも水なし(筆者註1 飲料水のこと)またイワヲベツ(筆者註 ヌッカクシ富良野川のこと)といへる(川)有れども硫黄の気甚しき故飲難きとまゝ、此処にて止宿す」
更にベベルイ川のことを「浅瀬。転太石(ごろたいし)にして急流。是には魚類なきよし」と記述している。
今から百三十八年前のことである。
高橋氏はまたこうも言った。「昭和五十年八月の大雨で倍本地区が大災害を受けたのも,ヌッカクシ富良野川の水がベベルイ川に流れ込んだのが大きな原因の一つでもあったようだ」と。
地形図を広げて両川の上流部を見てみた。!!驚いた!!現地の実態は把握していないが、安政火口地点を源流とするヌッカクシ富良野川の支川が本川の上流部で合流し、合流点の下流部で二箇所程、ベベルイ川に極めて接近する流路が画かれていた。
豪雨が続くなどの異常気象時には、ときと場合によっては酸性度の強い鉱泉水を含んだヌッカクシ富良野川の流水が、ベベルイ川になだれ込むことも考えられた。二つの川が上流部で極めて近く接近していることから、或いは永年に渡り、いや大昔から、鉱泉水が土壌を浸透してベベルイ川に入っていることも考えられた。
平成六年五月、機会が得られてベベルイ川の上流部を調査することができた。
松浦武四郎が渡川したと思われるベベルイ川の地点に立ったとき、武四郎が『報文日誌』に「浅瀬。転太石にして急流。是には魚類なきよし」と書き著した意味が理解できた。
松浦武四郎は、アイヌから聞いたベベルイ川の地名の意味、川の様子を正しく書き残していた。アイヌ語地名解釈については後日、機会が得られたときに述べるが、調査地点は高橋氏が話した上流部より更に奥深い上流で、一見するに、水は清いが川底は金気を帯びた真っ赤な川底であり、相当酸性度の強い水質の川と見た。これでは魚の棲める川ではないと信ぜざるを得ない。「是には魚類なきよし」と記された当該付近のベベルイ川の水質と流れの実態は、百三十八年間何ら変ることなく今日に至っていたものとおもわれる。
上富良野町の三幹線河川は、そのいずれもが十勝岳の火山活動の影響を大きく受けながら、太古より水の流れは永遠に止まることなく、これからも変わることなく流れ続けよう。
いつの日か大正時代よりも更に清き流れになって魚が戻り、泳ぐ姿をゴチャゴチャと表現できる魚影が見られるようになるかも知れない。静かで怒らぬ清らかな川になってほしい。必ず、いつかそうなることを、みんなで願いたい。
魚捕りに歓声が響いた!
金魚や、ガラス鉢、水草などを底の広い竹篭や木樽に入れ、それを天秤棒で肩に荷負い「エーェキンギョーオェ、エーェキンギョオーオー」と、売り声高らかに振れ歩く金魚売りが来る。小さな金笛をピーピーと蒸気で甲高(かんだか)く鳴らしながら煙管の羅宇(ろう)直しなどが街に姿を見せる。道路に落ちている馬糞が季節風で飛散する五月中旬過ぎからであったろうか。
鍋釜の水漏れなどを修理する鋳掛屋(いかけや)が戸口廻りで訪れてきたのも、この季節のように思われる。
田植えが終わる頃は小川の水も温(ぬる)まって魚が捕れる時期に入る。袂網(たもあみ)を雑貨屋で買い、網を括り付ける曲がり竹を桶屋で求める。父の手助けで出来上った袂網を担ぎ弟や友を誘い、ブリキのバケツと追棒の草取鍬を持って通い知った小川に出掛ける。
水の深さが腰位までのところは鍬で魚を追い出して網で掬い、腰以上の場所とカジカが多くいる川では釣り上げて、ガキはガキなりに魚捕りの醍醐味を満喫しながら遊び惚けた。
近いところでは基線二十八号地先のコルコニウシュベツ川。西一線に向って下りながら追い込むと、ドジョウ、ウグイ、フナなどが捕れ、岡和田、西山宅の沢の奥ではカジカが面白い程よく釣れた。
深山峠下の鉄道沿いに流れる江幌完別川。この川には多くの魚類がいたが、カジカだけは少なかったようだ。峠に差し掛かる橋から川に下り、上流に向かって二百m程網に追い込む。当時の川は、川底が粘土層のため部分的だが幅狭く深く掘れた箇所が幾つもあり、鍬で追い込み中ダボーッと首まで落ち込むことは再々であった。このように川底が変化に富み棲息条件が必然的に整っていた川の放か、大物のウグイ、フナ、珍しいトゲウオなどがいた。
江花二南(旧村木農場)から流れてきて墓地下の北側を通り江幌完別川に入るエバナマエホロカンベツ川。墓地下付近から川に入り上流に向かうと、川床が江幌完別川に似ており、大きな魚が捕れた。特にヤツメ、ドジョウが多く、私の知る限りトゲウオが多くいた川もこの川と記憶している。
場所の記憶が定かでないが、確か…、東七線北二十号当りのデボツナイ川沿いに沼が在った。沼ではなく、デホツナイ川の一部が広くなり沼状に見えたのかも知れぬ。
また西四線北三十一号の鉄道官舎上手の山裾にも沼が在った。いずれの沼も極めて小さな沼だが、水深が深かった。大人が首まで水に浸かって刺し網を使い大きなウグイやフナなどを捕るのを、驚愕の目で見ていたことを思い出す。
私自身がガキの頃、魚がゴチャゴチャいる実態には程遠い魚捕りの遊びではあったが、「結構魚はいて面白かった」と言えた。
一掬いごとに歓声を上げ、釣り上げる度に心躍った体験は、いつまでも忘れることができない懐かしい思い出である。あと幾年心の中に残して置けるかはわからぬが、大切に残して持って行きたい。
魚を掬いながら、垂れ下った桑の枝に豊熟して付いている実を食べた。川筋の林や森にはコクワや山ブドウの実が枝も撓(たわわ)に実っており、網や追い棒を投げ出して実を採ったことは、今では遠い日の出来事となった。
当時の小川や沼の場所に行ってみるが、沼は消え、川は上流奥地の近くまでコンクリート製の川に姿を変えて、昔を偲ぶ面影はひとかけらもない。半世紀以上に亘る時の流れの有為転変は、十分心の中では承知しながらも諦めきれない寂しさが残る。
ガキ共を集めて、袂網と追い棒を持たせ、小川に行って岸辺の雑草と柳の枝が覆いかぶさる淵のある深みで、昔のガキがしたように、思う存分に心が満たされるまで魚捕りをさせてみたいが……。
上富良野に川エビはいた!
ガキの頃、村の各所の川や沼で魚を捕って遊んだが、当時、東旭川や東川などでは田圃縁の小さな用水にいくらでもいた川エビが、私の村では一匹もその姿を見たことがなかった。
また、富良野では空知川の古川に川エビがいたのだから、川エビは空知川を遡上して上富良野の何所かにはいた筈だという考えを捨て切ることはできなかった。
一昨年のことだが、小学校時代の同級生で当時は東三線北二十二号に住み、現在は美瑛町美馬牛新星平和地区で営農している朝倉行夫氏宅に園芸関係のことで訪れた折、話の要件も終わった後ガキの時代の思い出の話となった。私は彼に、心に残っていた疑問である川エビのことを話してみた。
「ガキの頃魚捕りは随分としたが、上富良野に川エビはいなかったな。一匹も見たことがなかった」
と、言ったところ、
「川エビはいたぞ。俺の家の近くに在った向山の沼、君も俺と一緒に行って遊んで知ってるだろう、あの沼よ。あの沼にエビはいた。絶対に間違いなくいた」
「酒のつまみに出る、あの…ほらっ…ゆでたら赤い…四、五pはある髭のあるエビのことだぞ」
と、再度私は彼に確かめた。
「そうよ、そのエビだ。あの沼にいたのを俺は捕っている。……考えてみると……あの沼の下流はヌッカタシ富良野川だし、あの川をエビが上ってくることは考えられない。沼の上手箇所に三線川(ホロベツナイ川)が流れているが、あの川にはエビはいなかった。そうなると、考えられることは、あの沼に閉じ込められていたエビだと思う」
と彼は自分の意見も添えて述べた。
後日改めて訪問して淡水魚に関する図鑑を見せたところ、
「!!このエビだわ!!」
彼が指で示したのは『スジエビ』という北海道に棲む川エビであった。ガキの頃の上富良野村にも間違いなく川エビはいたのである。
岩井清一氏が語ってくれた話の中で、東六線と七線の中間地点の北二十号付近から東二線北二十号辺りまで、昔は約三百間(約五百五十m)の幅で千古不伐の原始林が風防林として残されており、直径が一m以上の樹も生えた見事な広葉樹林帯があったと言う。
エビがいた沼は、略(ほぼ)この原始林帯に含まれることになる。
大昔のこと、エビは母川の空知川からヌッカクシ富良野川に上り、更にホロベツナイ川沿いの最も環境に恵まれたところの樹林帯の沼に棲み着き、最終的には水も滞った沼に閉じ込められた状態で生息して残っていたのであろう。
「いろいろな種類の魚が、幹川以外の支川や派川に随分といたのだから、エビがいない筈は絶対にない」と信じ、探し求めていたエビはやはりいたのである。生棲していた場所が、なんとガキの頃ヤチウグイも釣った沼であったことを知り、探し求めていた結果を得たときは心から!!快哉!!と大声で叫びたい喜びを感じた。
蝉はこうして捕るのだ!
向暑六月も中旬を過ぎると、小学校や神社の木々、林などから蝉の鳴く声が聞かれ、七月は蝉の最盛期で街の家々の木にまできて鳴き出す。
蝉は敏感でキリギリスやバッタを捕えるようにはいかなかった。小学四年生の頃だが、東二線北二十八号の沢地から通学していた同級生の出口末吉君から声が掛かった。
「蝉が欲しいなら、空の菓子箱を持って朝四時頃来い。いくらでも捕ってやるから」
早速明朝行くことを約束した。翌朝母に起こしてもらい空箱を持って彼に指示された現在の日の出公園キャンプ場横の、米谷さんの雑木林に自転車で行った。彼は既に来て待っていた。
彼の後に従って朝露が降りてピッショリと濡れた草を踏み分けて雑木林に入る。
彼は足で蹴れば木の幹が揺れる程度の木を思い切り蹴った。ジッ、ジ、ジィージと鳴きながらバラバラバラッと、幹や枝に留っていた蝉が落ちてきた。
「おいっ、すぐ掴(つか)め。逃げられるぞ」
と私に声を掛けながら彼は次から次へと、木の幹を蹴る。落ちてきて断続的に鳴き声を発て翔ぼうとする蝉を、私は大急ぎで拾い集めて菓子箱に入れる。五分もしないうちに菓子箱は蝉で一杯になった。
彼は得意気に言った。
「嘘でないだろう。蝉はこうして捕まえるのよ」
羽に朝露が付いて蝉は翔べなかった。往時は街外れの林でも、蝉はこれ程いたのである。
水辺はガキの縄張りだ!
七月も初旬を過ぎると暑さはより一層増し、街のガキ共は遊び慣れた水場へ精よく通い始める。街以外に住むガキは、自宅付近で街のガキ共が得られぬ清らかな小川や、用水溝などで水遊びを楽しんでいたという。
今の栄町二、三丁目のガキは、コルコニウシュベツ川に渡された鉄道橋を中心とした上下流の深みの個所が穴場であった。また中町のガキを含めて、硫黄川と言われた富良野川に架けられた五丁目橋の上流の深みが泳げるガキ、下流の浅い所は泳げないガキと、それなりに上手に場所を選んで遊んだようだ。
また中町の一部と錦町のガキどもは、涙橋(上富良野橋)付近から家畜市場裏手あたりまでの富良野川が泳ぎの遊び場であった。
ガンビ川(ヌッカクシ富良野川)もあったが、遠いので街のガキが泳ぎに行くことは少なかったようだ。
街のガキ共にとって他にも水遊びなどのできる良い穴場が在った。
その場所の一つは、小学校裏の通学路横(現在地で宮町二丁目北三条通り北側)に在った池である。
この池は年に一度、全生徒が自分の使う机、椅子、先生が立つ教壇を洗う池でもあった。池の中程は非常に深く水草が繁茂しており、一度泳いだが水草が足に絡まり、池底に吸い込まれるような恐怖感を覚えてから二度とこの池で泳ぐことはなかった。学校でも危険な場所として泳ぎを禁止していた。
池の水も清く澄み、池縁での水遊びには最高の場所であった。現在使用されている五百円銀貨を楕円にした程の大きさがあるゲンゴロウやミズスマシが浮きつ沈みつ泳いでおり、トンボも俗称で呼んでいるシオカラトンボ、ギンヤンマ、オニヤンマなどの大物が捕れ、街の中に池があることからしてガキにとっては最良最適の遊び場と言えた。
池に続いた小学校のグラウンド端の地面には、カゲロウの幼虫が棲むアリ地獄の穴が無数にあり、草の茎で幼虫を掘り出したり、また穴にアリを入れて、砂の中に引きずり込まれていくのを楽しみ、これらの遊びに厭きたら地続きの神社の境内に行き、楢の木にいるカブト虫(クワガタ虫)を捕るなど、遊びには事欠かなかった。
本当の水遊び場としては、小学校のグラウンド端より東側に入った所に在る池で、学校裏の池と同様に街が出来上っていく時点で、砂利を採取した跡地に水が溜まってできたものである。その位置は現在地で示すと略(ほぼ)宮町二丁目のエイトハイツ付近でないかと思われる。
ガキが二、三十人は泳げたので百二十u程の広さはあったろう。この池でガキ共は一夏を泳いだ。
松浦武四郎が、イワヲベツ(硫黄川)―現在のヌッカクシ富良野川を渡る五、六丁手前で、「川幅七、八間フシコベツ水乾きて少しもなし」と日誌に書き留めている。このフシコベツとはアイヌ語で古川のことであるが、砂利取り場跡に出来た池などは、昔のフシコベツであろう。
昭和五十六年の大雨の折、ヌッカクシ富良野川の堤防が決壊して東町、新町、旭町の一部区域に濁流が流入、災害がもたらされた低地部地域が、この昔のフシコベツの跡と考えられる。
小学校裏から神社裏へ、更に競馬場横へと砂利原は幅狭く、砂利採取跡の凸凹を数多く残しながら現在の高校付近までフシコベツは続いていた。
何んの利用もされることがなかったこの砂利原には、盛夏になると黄色い花が咲くオミナエシ、ツキヨイマチグサ、茎の先に青紫色の先細りで尾のような花を咲かせるクガイソウなどの野草が茅と共に多くあり、母に頼まれてよく採りに行った所でもある。
モンシロチョウ、カラスチョウチョ、ヨメサントンボにミソトンボ。昆虫も無数にいた。
村祭りは大道芸が主役だ!
上富良野神社は『町史』によると、「富良野村の総鎮守として明治三十五年富良野神社と称し創建された。同年七月二十五、六日の両日を祭典の日と定め、初めて祭礼が行われた。明治三十六年六月、下富良野村が富良野村から分村した。富良野村も上富良野村と改称し、伴って富良野神社も上富良野神社と名を改め、大正三年から祭典日は八月一、二日となった。大正六年四月に中富良野村が分村したが、上富良野村の祭典日は変わらずに今日に至っている。
競馬、相撲、芝居などが行われ、すこぶる盛大を極めたり」とある。
日本が第二次世界大戦の端緒となる『支那事変』に突入し、戦勝の報道に気分が浮かれ酔う昭和十二、三年頃から、ガキの私も村祭りの賑わいというものを自覚していった。
開拓期は、富良野地方の母村であった上富良野村の祭の賑わいは富良野沿線随一のものであった。競馬場では多くの馬が走り、神社の境内では、これも明治時代から引き継がれている相撲が行われ、芝居小屋も掛けられており、これらの催しを見物するために集まった人々で神社の境内、界隈はそれはもう賑やかなものであった。
「!!おれ達の村の祭りは、旭川からコッチでは一番よ!!」とガキながら胸を張れたものである。
村祭りは年毎に替わったと思われるが、木暮(きぐれ)、関根、木下、矢野などと言う大きな曲馬団やサーカスが、多くの馬や、犬、猿は勿論のこと猛獣などを連れて来て興行を行い、魔術や軽業(かるわざ)、動物達の演技などを観せてくれた。
他にもいろいろな興行物が来た。『お化け屋敷』、両腕を縫い包みの人形に入れて、人形を動かし芝居と成して見せる『人形芝居』。猿に竹馬、一輪車乗りをさせるのは序の口、歌舞伎の演題に見合った衣装やカツラを着けさせ、器用に人間顔負けの仕草をさせる『猿芝居』。猿の演技は拍手喝采を浴びて〔お捻り(祝儀)〕が舞台に投げ入れられる程の芸を見せていた。また、体の関節が自由に曲げられる『蛸男』。体の下半身が蛇の胴体であるという、いかがわしい『蛇娘』などの興行が小屋掛けされて多くの客を呼び込んでいた。
大道では、将棋や碁を用いて勝負が行われる『詰将棋』『詰碁』を賭博師が罠(わな)を、仕掛けて言葉上手に大人の鴨(お人好し)を手招いて呼んでいた。
柴又の寅次郎……ふうてんの寅さん宜しき大道商人がサクラ(大道商人の仲間)を使って顔のホクロ取りの膏薬を売っており、また蝦蟇(がま)の油売りも、自刃を振りかざして、これまた蝦蟇の油の膏薬を売り捌いていた。銃刀所持が厳しくない、遠い過ぎ去った或る年の村祭りに、蝦蟇の油売りまでが来ていたという、ガキが見た本当の情景である。
往時、田舎のガキがバナナを食べられるのは、運動会の日と祭りの日くらいであった。
大道で行われているバナナ売りと茶碗(瀬戸物)売りは実に見ていて面白い。厚い平板を叩き台に打ちつけて売手と買手の阿吽(あうん)の呼吸が合ったとき、商談成立となるのだが両者の駆け引きが実に愉快だ。
叩く厚板をシャクリと言うが、シャクリの叩き方が凄まじい。茶碗売りは、売る商品の半数以上は生産地の撥ね品なのをおくびにも出さずに、生産地、焼き方、出来栄えなどを巧みな口で客の目を引き寄せておいて、茶碗日掛けてシャクリを打ち下す。
バシーツ、「ほれっ、こんなに、こんなに、これでも、こんなに叩いても割れない、丈夫だろう、ほらっ、どうだ」。バシーン、バシーンとシャクリを瀬戸物に矢継ぎ早に打ち下すが当る瞬時に持つ器の位置を変え、シャクリで割るようなことは決してなかった。この練達された叩きの手練を飽きることなく見続けた。大道縁日で行われたこの『叩き売り』は祭りの気分を更に盛り上げていたようだ。
縁日はガス燈が招く!
祭りが行われる八月朔日(ついたち)の盛夏は、夕暮れ近くになると軒先に大きな蚊柱が立ち、それが次第に大きくなって舞い狂う季節でもある。
夜になると縁日の出店は一斉にアセチレン灯に灯を付ける。少し赤味を持った青色の灯が輝き、陳列品を映えさせる。カーバイドのガスが燃える特有の臭いが一面に漂う。縁日の混雑は、あたかも昆虫が明かりを求めて寄るが如くの様であった。
縁日の出店に並べ置かれる陳列品は、大人を対象とした物が多かったように記憶している。自分の好みにあった玩具を買い、家族揃って家路に向かう途中、街灯の裸電球にケラの一群が明かりを求めて飛んで来て電球の周りで乱舞し、下の路上には無数のケラが這い回っているのに出会った。買った玩具のことなど忘れて、普段は土中にいて捕れないケラを、夢中になって捕り続けたことがある。
神社の隣で馬が走った!
上富良野は道内でも屈指の馬産地であった。主要農生産物に燕麦(えんばく)が挙げられていたことからして伺い知ることができる。
市街地で家畜商を営む人が殊(こと)の外多く、小さな街だが、指折り敢えても十指は優に超えた。目立たぬ人を加えたら相当の人の数だったであろう。このような、背景と富良野地方の母村地としての歴史的な踏襲からか、私がガキの頃には既に競馬場で馬が走っていた。『町史』には、「明治四十五年頃には相当の熱があって、祭典の余興として明治末期には年中行事になる」とある。末公認の草競馬が行われており、競馬場は神社境内の東側の隣接地に在った。
錦町に在られる金子全一氏(八十六歳)は、「大正四年には既に競馬はあり、私の宅にも奉賀帳が回ってきていた」と述べられている。このことは町史の記載を裏打ちする。
本町の尾崎利夫氏(七十三歳)は、「私が知っている昭和十二年頃の競馬は、当時の牛馬商の人達が幾ばくかの経費を持ち寄り、あとは奉賀帳を回して協力金を得、更に当日は馬券?(競馬は末公認のもの)を売り、その売り上げ金の二割を更に充当したもので運営をしていたようだが、私が十六歳頃のこと、朧(おぼろ)げながらの記憶である。馬券が当時一枚いくらで売られていたかは覚えがないが、馬は三十教頭は集まって来ていたようだ」と話された。
多面的に聞いて回ったが、確定的な実施内容を詳細に聞かれなかった。聞く時期を早くに失っていたことを痛切に悔まれたが、断片的な余話は聞くことができた。
「桟敷席も作られていて見物人に帽子を回して寄付金を集めた」、また「馬券がもぐり馬券であったため、別の社会の渡世人と競馬場でいざこざがあり駐在所の旦那も音(ね)を上げた」などであるが真偽の程は定かでない。町史も当時の賑わいをこう述べている。
「旭川から十勝までに至る間で、上富良野位人の集まる祭はなかったというのも、全道から競馬ファンが集まり、近傍の町村からも人出があったためである」と。
当時のガキであった私は〔馬より団子?〕で、競馬場に行ってはいるが、覚えていることは出走時が近付く度に随分と半鐘が打ち鳴らされたこと。騎手が夫々色鮮やかな配色を凝らした柄の競走服を着ていたこと。それに時折、大きなリヤカー(トロッター)に騎手が乗り、これを馬に挽かせてトコトコと走らせて(馬車型の競馬で繋駕(けいが)と言うそうだ)いたこと。
こんなことだけが、芝居や相撲を行っている神社境内から、気が向いたときに覗き見した競馬の印象として記憶している。
昔の空中写真を基にして競馬場を図化したところ、コースを二周すると約千六百mとなり、これはイギリスの一哩(マイル)レースの距離に合うように造られていることを知り、実に驚いた。末公認の競馬場とは言え、往時の家畜商連の祭りに掛けた一途(いちず)な熱意が、ひしひしとペンに伝ってくるようで、作図中は自分が知り得ている家畜商の方達の顔が浮かんでくる。この競馬場の姿だけは必ず後世の人達にも伝えなければならないものとして、図面を仕上げた。
昭和十五年に、当時の上富良野牛馬商組合員三十九名の人達が建立した馬魂碑があるが、当時の場所の旧家畜市場から移設されて、現在は東三線北二十三号に再建されている。碑に刻まれた馬産王国を築かれた三十九名の人々の名を見詰めていると、高らかに話し合う声と、馬が地を蹴る蹄の音が聞こえてくるような感を得る。
競馬も、日本が真珠湾を攻撃した昭和十六年から終戦後の昭和二十一年まで途切れ、その後二年程復活したが再び中断し、永久にその姿を消してしまっている。
多くの馬が土を蹴り走った競馬場は今日は中学校に姿が変わり、昔の面影を探せど何所にも残っていない。
昭和十一年に千七百六十五頭飼育され馬産王国を誇った上富良野に、現在飼育されている農耕馬は僅か二頭である。
符丁が掛引きをつくる!
家畜商が家畜を売買するとき、価格を第三者に分からぬように伝え合うときに用いるのが符丁である。
一つの手法に服の袖の陰などで、手の指を互いに握り合わせながら理解しあうものがある。この符丁については、本町三丁目の尾崎利夫氏が解説してくれた。
いま一つは、家畜商同士が値踏み価格を第三者の前で話し合う符丁である。これは、西村運輸会社の社長である西村三郎氏が説明してくれた。
昔の家畜商の方々が遠いところからこれを眺めて、「何を今頃そんなもの…ポケット用の計算器があるじゃないか」と、さぞ大きな声で笑うであろう。
祭りを盛り上げた男がいた!
私の家の道路を隔てた西側に、家畜商をしていた山田由郎氏宅が在った。昭和十年頃のことである。
太った偉丈夫な体格の人で、八十sは優に超えていたと思う。タカさんという奥さんがいた。この奥さんが美人で、ガキの目でも(美しい人だ)と感じていた。夫婦仲も良く、山田氏が「おタカが、……うちの、おタカが」と語る言葉をよく聞いた。隣同士の関係もあったろうが、父が競走馬を持ち、その馬を調教して貰っていたこともあり、父とは非常に懇意な間柄で交際していた。「おい、デブさんよ」、と父もそう呼べる親しい付き合いを気軽にしていたようだ。
フラヌイの母村であった上富良野村の祭りは、昔からその賑やかさは語り伝えられる程のものであったが、それは競馬、相撲などを伴ったものがあったからであろう。支部事変、大東亜戦争と国情が厳しくなるに従い、競馬も相撲も様変わりしていった。
わが村の祭りを盛り上げた男が居たと知ったのは青年になってからである。衰えてきた村祭りに各種の興行を呼び込み、大いに祭りを盛り上げた男が『山田由郎』氏であり、あの『デブさん』だったのである。
山田氏は家畜商として牛馬の売買の外、競走馬を連れて公認競馬への行脚(あんぎょう)なども行っていた。祭りの興行物の呼び寄せは、初めは本業者の手助けをする程度であったが、氏自身が本格的に興行物を呼ぶようになったのは、昭和十五年からだと聞く。この年以降は興行の面における規模と種類の多彩さをもって、益々富良野沿線随一の賑わう祭りとなっていった。
山田家は鴛鴦(おしどり)にも似た御夫婦による努力で家業も栄え、昭和十二年頃本町から駅前に居を替え、昭和十五年に現在の富町二丁目に移られた。大きな厩舎も建てられて家業は益々発展隆昌されたという。
終戦の混乱期も乗り越えた昭和二十八年十二月初旬、妻女タカさんが突然の病で床に就かれ、日をそう長くを置かずに亡くなった。更には同月末に夫の山田氏も突然の脳溢血で倒れ、師走を一日残す三十日、行年五十六歳をもってタカさんの後を追うように逝ってしまった。
ガキの頃、私が聞いた「うちのおタカが……」と語っていたことを思うとき、仏教で言うところの『因縁』の二文字で諦めるには、割り切れぬ寂しさを感じさせられる。おタカさんが亡くなって、山田氏は、亡くした人の尊さ…価値、失ったことへの無情…悲しみなど、万感悩み悲しんだことであったろう。真に仲睦まじい夫婦に吹いた風はあまりにも無情なものであったと思うが、おタカさんが寂しさのあまり由郎氏を招き寄せたものと考えて、御二方の御冥福を祈りたい。
今二人は、墓地中央の高台の地で仲良く眠っている。立派な墓の囲いの石柱に、往時の友人達であった興行師連の名が刻まれていた。いかにも皆が麓の街から奈のときに流れてくるジンタを、聞こうと待つが如くに在った。
ジンタの音は今も聞こえる!
祭典日の曲馬団サーカスの興行は、クラリネット、トランペット、トロンボン、打楽器などによる客を呼び込む吹奏楽、即ちジンタで始まる。
ジンタは、小さな街の空に向かって哀愁漂い心を揺さぶるが如く、切々と日長一日吹奏し、人々を誘い込んでいた。
ジンタの曲で今も忘れ待ぬ曲は『天然の美』と言う名曲だった。ガキでも聞き惚れる曲である。
空にーィ囀ーるゥー鳥の声ー…と唄われる歌が歌詞抜きの吹奏楽で聞かされると、サーカス小屋と隣合わせのような近間に住むガキの私は、心掻き乱されて落ち着きを失ったものである。
田園の田舎街に似合った情緒を醸(かも)し、ガキの心にも温かさを与えてフラヌイから消えてしまったあのジンタは、初老の今も心の中に温かく流れ聞こえてくる。
七夕祭りにガキ共は酔った!
八月七日は七日祭りの日である。村祭りが終わって日を置かずに行われる祭りなので、ガキ共も忙しいが村祭りに次ぐ、血が騒ぐ楽しい祭りであった。
「高くて広い天空で、普段は互いに離れている織女星(おりひめ)と彦星(ひこぼし)が年に一度会う日だ」と先生は言う。(どうして離れていて、何んで会うのか)そこまでは教わっていなかったように思うが。当時のガキは単純で、簡単な話の方が分かり易くてありがたかった。
大きなガキは自ら、小さなガキやジャリは親が祭りの前に、川岸などから柳の枝を切ってきて家前に立て、これに願い事や星などの名を短冊に書き、枝に結び付けて飾り木に仕上げて翌日の祭りを待つ。
祭りの日、真赤な夕日に彩られた茜(あかね)色の西空も暗くなり、夜の訪れを知るとガキ共は提灯に灯を付け三三、五五と集まり、商店に向かってロウソクを貰う行動を始める。
商店側も例年のことなので萬事心得ており、ガキ共の顔を見れば狭い街のこと、何所の町内のガキであるかは分かるようだ。ガキの数が多いから一本のロウソクを与えるのも大変であったろう。
「ローソクだぁーせぇーだぁーせぇーよ。だぁーさぁーぬーとカッチャクぞー。おーまけーえにークイツクぞー」。ガキもジャリも皆が幼き声を張り上げて店から店へと渡り歩く。
このデモストレーションは一時間余りの、程良き時間で終わり、ガキ共の姿は街の通りから姿を消す。
ガキ共は家に帰ると、幾本貰えたか。去年より多いか少ないか。…どの店で呉れ、どの店は呉れなかったか。集めたローソクを数えながら来年に備えて、小さな頭に記憶していく。
祭りの翌朝は、ガキ共は飾り木を担いで涙橋(上富良野橋)に行き、川に投げ込んで次なる夢を来年に託して家路へと戻る。
懐かしい七日祭りはいつの間にか魚が川から消えたように、その姿を消した。……いつ頃消えたのか。
追想に時の移ろいを知る!
ガキの頃から早や六十年近く経たことを振り返れば、「光陰矢の如く過ぎ去る」とは真に的を射た言葉と思われる。「米軍の機銃の弾に当たらずによかった」と喜んで帰村してきた年が、平成七年には戦後五十年目に当たる。これを一つの節目とすれば、更に五十年後の新たな節目を迎える頃には、社会の情勢も異なる時代を迎えるていることだろう。現在少なくなったキリギリスや、コオロギが街中の公園の縁で多く鳴いており、トンボや蝶が街外れに在る公園の水辺で群をなして飛び廻り、池に日を凝らすと大きなイトウが悠然と泳ぎ、夜にはいなくなっていた蛍の灯が見られるようになっているのかも知れぬ。
ゲーム器の遊びにも飽きたガキどもは、捕虫網で虫を捕る者、メンコで遊ぶ者など、三三五五と集い歩く家族連れの姿も多く見られるようになっていることも考えられる。夢かも知れぬが持ちたい夢だ。
昔のガキの遊びを多く述べてきたが、社会そのものが非常に貧しい時代にあった。小さなガキ達も懸命に親の手伝いをし、遊びは親が躾のため与えた手伝いの仕事が終わってからのものである。手伝いをもって、善悪の可否、要領の会得などを覚えさせる親の教育が行われたのであろうと思う。昔日を振り返りながらふと我に返ると、啄木ではないが、ジット吾が手の甲を見て張りの衰えを自覚する。
昔は家の前横の砂利道を時折カタカタと馬車が音を立てて通っていた。その路も、今は舗装道路になっている。己自身が、「世はモータリゼーションの時代となり、それに沿って……」などともっともらしく話をしたこともあったが、その言葉の間も置かぬような早さで社会情勢は移り変わっている。正に現在は社会生活の基盤の一つに自動車を置かなければならぬ時代である。日中は間断なく家の前横を通る車を眺めながら、「よくもまあ一変わったものだわ!!」と予見すらできなかった時代の思い出に耽る。
重い自動車や除雪車が通る都度、家がゴトゴトと鈍い音を出して揺れ動く。
幼き頃の思い出が遠くに隔れていき消えようとすることもあるが、還暦、古稀などの、これまた人生の節目を迎えると、人生の残りの尊さを悟らされると共に、消えようとする思い出が心に強く蘇ってきて懐かしい。
結  び
三年間にわたり拙い文章でガキの頃の思い出を歳時記風に綴り、当時の街並みの図面を添えまして発表し今日に至りましたが、この間多くの方々の御協力を頂きましたが故に、曲がりなりにも街並みの図面が完成することができました。御協力を下さった方々に、この紙面を借りまして心から厚く御礼を申し上げます。
『街並みの図面』も発表後多くの訂正をしておりますが、いつの日にか改めてお目を通していただける日があるものと思っております。
図面に名があります方々は、何らかの御立場で当時の村に尽くされております。このことを御理解下さいまして、戸数、居住者名の記入漏れ、誤りなどは五十年以上前の調査をしたものですから相当な疎漏があると思っておりますが、御許しを下さいますよう御願いを申し上げ、筆を置きます。

街並みの図化に御協力を下さった諸氏の紹介

氏名 生年月日 年齢 住所 氏名 生年月日 年齢 住所
平成4年10月末現在(敬称略) 平成5年10月末現在(敬称噂)
台丸屋雄治 明治44年8月25日 81 本町3丁目5番19号 徳武  薫 大正13年1月10日 69 大町2丁目1番15号
木内キミヱ 大正8年2月21日 73 本町3丁目2番43号 生出 邦子 大正13年2月20日 69 宮町1丁目4番26号
浦島 秀雄 大正5年10月7日 76 本町6丁目 故森本春雄 大正13年3月5日 69 宮町2丁目2番6号
矢野 勝巳 大正12年1月31日 69 本町4丁目1番15号 伊藤 弘美 大正13年4月1日 69 本町2丁目3番5号
佐々木貞子 大正12年11月15日 69 本町3丁目3番17号 福屋 和夫 大正13年4月17日 69 中町2丁目3番24号
森本 春雄 大正13年3月5日 68 宮町2丁目2番6号 大道 俊造 大正13年8月19日 69 中町2丁目1番6号
伊藤 弘夫 大正13年4月1日 68 旧町2丁目2番31号 田中 敏夫 大正14年1月13日 68 本町3丁目2番33号
高橋美代子 大正14年1月13日 68 東6線北18号 成田 房義 大正14年3月17日 68 栄町2丁目1番33号
倉本 良輝 大正14年11月27日 67 大町1丁目6番3号 故村岡光路 大正14年6月4日 68 栄町2丁目1番26号
谷口 正信 昭和2年12月12日 65 錦町1丁目1番12号 松野 成夫 大正14年9月11日 68 宮町1丁目2番19号
伊藤  忠 昭和6年3月10日 61 本町2丁目2番14号 斉藤  実 大正15年1月11日 67 中町3丁目2番19号
平成5年10月末現在(敬称噂) 山口うめよ 大正15年1月15日 67 光町1丁目
岩井 清一 明治36年11月1日 90 宮町2丁目2番1号 大福 幸夫 大正15年1月28日 67 中町2丁目2番29号
田中  末 明治37年1月2日 89 栄町2丁目2番42号 岡   実 大正15年3月21日 67 北町2丁目
小山 国治 明治38年8月12日 88 中町3丁目5番23号 西村ヤス子 大正15年4月9日 67 札幌市手稲区稲穂
栗城トミヱ 明治39年9月10日 87 富良野市若松町 東海林吉一 大正15年4月26日 67 西町2丁目2番58号
須藤午之助 明治39年9月29日 87 中町3丁目2番29号 西村 三郎 大正15年7月4日 67 西1線北24号
鈴木忠工門 明治40年11月20日 86 栄町3丁目1番5号 陶  ナツ 大正15年8月25日 67 宮町2丁目2番44号
赤川 太作 明治41年2月14日 85 錦町1丁目3番20号 及川 栄子 大正15年10月1日 67 栃木県小山市間々田
金子 全一 明治41年5月11日 85 錦町2丁目3番25号 南  一男 大正15年10月20日 67 錦町1丁目2番6号
佐々木源司 明治44年10月2日 82 富町1丁目2番43号 温泉 光恵 大正15年11月2日 67 栄町2丁目1番37号
沖野 繁人 明治41年9月25日 85 錦町2丁目2番31号 坂内 恒郎 大正15年11月29日 67 札幌市中央区宮の森
笠原 重郎 明治42年1月14日 84 西町4丁目 吉沢 和子 昭和2年1月1日 66 札幌市手稲区星置
末廣キヨ子 明治44年5月15日 82 錦町3丁目2番40号 森川 益充 昭和2年1月12日 66 中町1丁目3番27号
赤川八重子 明治45年4月8日 81 錦町1丁目3番20号 秋野 貞子 昭和2年5月2日 66 大町2丁目1番12号
上村 武雄 明治45年5月15日 81 中町2丁目1番2号 斉藤 光久 昭和2年7月21日 66 南町2丁目
田中 正顕 大正2年1月15日 80 本町4丁目2番31号 多田  功 昭和2年10月16日 66 中町2丁目1番8号
及川 忠夫 大正2年3月20日 80 錦町2丁目5番4号 松原 長吉 昭和2年11月4日 66 錦町3丁目1番30号
金沢 勇吉 大正2年5月18日 80 錦町1丁目2番3号 藤田  敢 昭和2年11月11日 66 宮町2丁目2番40号
須藤キクミ 大正2年6月6日 80 中町3丁目2番29号 谷口 正信 昭和2年12月12日 66 錦町1丁目1番12号
木内 フミ 大正3年2月12日 79 本町3丁目5番1号 竹谷 岩俊 昭和3年4月9日 65 錦町1丁目1番5号
酒井 亀寿 大正3年2月18日 79 新町3丁目3番13号 高橋ヨシノ 昭和3年6月22日 65 栄町1丁目5番33号
高橋 寅吉 大正3年5月16日 79 東中 東6線北18号 武山 勝義 昭和3年7月11日 65 東町5丁目2番2号
橋本 公也 大正3年8月27日 79 日の出3上 小林 浩二 昭和3年9月9日 65 中町2丁目4番20号
四釜 卯一 大正3年9月5日 79 栄町2丁目2番40号 谷原 和子 昭和3年11月17日 65 東京都世田区弦巻
藤田 秀雄 大正3年10月2日 79 中町3丁目5番18号 後藤 昭三 昭和3年11月30日 65 栄町2丁日257番地
高橋 哲雄 大正3年12月10日 78 栄町1丁目4番6号 久保 栄司 昭和4年3月31日 64 本町1丁目3番25号
花輪 豊蔵 大正4年10月29日 78 錦町2丁目4番7号 竹山 善一 昭和4年10月4日 64 本町1丁目4番15号
高松 光輝 大正4年11月20日 77 栄町2丁目1番31号 柳谷 良一 昭和4年12月7日 64 本町1丁目6番9号
河井キヌ子 大正5年1月15日 77 中町1丁目5番19号 有我  脩 昭和5年1月22日 63 中町3丁目1番17号
斉藤 キワ 大正5年3月10日 77 中町3丁目2番27号 松浦タカ子 昭和5年7月23日 63 大町1丁目3番10号
中川  清 大正5年3月10日 77 草分 報徳 長瀬 隆子 昭和5年9月5日 63 錦町2丁目3番1号
菅原  敏 大正5年4月11日 77 大町1丁目5番23号 伊藤  忠 昭和6年3月10日 62 本町2丁目2番14号
佐藤 道信 大正5年4月20日 77 東町1丁目6番32号 三野 宣縷 昭和6年3月10日 62 錦町2丁目2番33号
花輪あさ子 大正5年5月2日 77 錦町2丁目4番7号 成田 政一 昭和6年4月23日 62 新町3丁目3番26号
勝井 規視 大正6年9月24日 76 錦町2丁目4番3号 古茂田重男 昭和7年7月30日 61 栄町2丁目2番32号
米谷 売蔵 大正8年1月1日 74 日の出2上 斉藤 秀明 昭和9年3月15日 59 中町2丁目2番23号
吉田 清二 大正8年1月15日 74 草分三重1 鈴木  努 昭和9年10月9日 59 栄町3丁目4番9号
加藤  清 大正8年1月26日 74 宮町3丁目9番8号 山崎 良啓 昭和10年5月5日 59 中町3丁目2番6号
浦島タミ子 大正8年11月20日 74 本町6丁目 長谷 重勝 昭和14年3月5日 54 栄町2丁目1番8号
一色  武 大正8年10月1日 74 大町1丁目8番30号 平成6年9月末現在(敬称略)
高橋 七郎 大正9年3月15日 73 栄町1丁目5番33号 岩田 賀平 明治43年12月10日 84 緑町1丁目2番4号
西村 春治 大正9年3月19日 73 栄町2丁目4番5号 佐々木源司 明治44年10月2日 83 富町1丁目2番43号
久保田誠順 大正9年6月28日 73 巣町2丁目4番26号 菅原  敏 大正5年4月11日 78 大町1丁目5番23号
飛沢 尚武 大正10年3月19日 72 中町2丁目3番13号 及川みゆき 大正6年9月4日 77 本町3丁目2番43号
尾崎 利夫 大正10年12月20日 72 本町3丁目6番38号 山田 金吾 大正8年2月8日 75 富町2丁目3番3号
三野  優 大正11年3月11日 71 中町2丁目1番3号 阿部 ヤヱ 大正8年10月21日 75 錦町2丁目3番32号
高松 迪子 大正11年8月19日 71 栄町2丁目1番31号 山田ヨシヱ 大正12年8月10日 71 富町2丁目3番3号
多湖 安信 大正11年11月25日 71 大町2丁目5番29号 神谷ふさの 大正12年9月23日 71 本町1丁目6番6号
田中喜代子 大正12年2月8日 70 栄町2丁目2番42号 米村 清逸 大正15年7月10日 68 旭川豊岡2条8丁目
中尾 之弘 大正12年8月20日 70 宮町1丁目2番14号 分部 三敬 昭和10年12月16日 85 栄町2丁目3番2号
石川  実 大正12年6月20日 70 新町3丁目1番40号 平成7年2月末現在(敬称略)
神谷ふさの 大正12年9月23日 70 本町1丁目6番6号 三島 保蔵 明治45年2月10日 84 中町1丁目1番19号
佐々木貞子 大正12年11月15日 70 本町3丁目3番17号 守田 秀男 昭和10年3月1日 60 中町2丁目4番2


機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉