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《私の終戦日》昭和二十年八月十五日
物資のない飛行機整備教務助手で迎えた終戦

向山 安治 大正十二年八月二日生(七十二歳)

私は昭和十九年五月十五日に現役兵として、郡山海軍航空隊に整備兵として入隊致しました。春の耕起作業の最中で、親戚等への挨拶もそこそこに上富良野駅から出征致しました。既に兄は召集されていて中支へ派遣されておりました。
入隊してみますと郡山航空隊は、少年航空兵(七つボタンの予科練)の養成と、私達整備兵の養成の場所でした。入隊当時は兵舎その他の施設を建設中であり、私達は出来上がった兵舎への最初の入隊兵でした。毎月兵舎が出来上がるごとに入隊兵があり、全国各地からの若い志願兵ばかりでした。初年兵教育は一ヶ月余りで終わりましたが、その後想像も出来なかった教育が始まりました。
それは普通科飛行機整備術練習生教育と云うもので航空機に関する二冊の教本を各自に渡され教官(士官)による講義は飛行機の機体構造、空気圧と浮力、エンジン出力とプロペラ、ピッチ(翼の角度)推進力と空気抵抗、四及び二サイクルエンジンとジーゼルエンジンの原理などで学校の教室同様に、教官と黒板を前にして教本に基づいての講義でした。学科と併せて教員(下士官)と助手による実習は大きな実習棟で行われ、大別して機体関係、エンジン関係、補助計機器関係で、実物教材の分解と説明そして組立の繰返しでした。その間に習い終えた部分の、筆記試験及び実技試験が行われ、毎日夕食後は二時間位の練習の為の勉強が続けられ、入隊前の青年学校当時の軍事教練とは程遠いものでした。
この様な教育も十月末で卒業となり、整備兵としての特技章が授けられ、十一月に入って私達同期生、三百数十名は各航空隊へ配属となりましたが、その大部分は南方海軍基地であった事を後になって知りました。
卒業と同時に私ほか五名の者は当航空隊付きで、後輩練習生の教務助手を命ぜられ、それぞれに後輩練習生分隊に編入となり、内務班付きの助手としての勤務となりました。
その教務とは教員と助手が一組となり、教務の一部を受持ち担当するものです。その内容は、シリンダーとピストンの役割、シリンダー燃焼室の吸入弁と排気弁、点火爆発及びピストン上下運動に伴う、高温に対する材質と熱伝導、発生するカーボンと弁面、弁座の気密の保持などで実物教材や拡大図解・部分展開図などを併用して、練習生に教えるのが私達の任務でした。
毎月の入隊兵も多く、何百人もの練習生が入れ替わりながら、実習科目ごとに教わるのです。私達はその都度教務を繰り返すわけですが、この様な教務の流れも昭和二十年の三月の半ばを過ぎてからは、急に練習生の数が少なくなってゆき、四月に入って間もなく私達の教務も中止となりました。
その後私達教務担当者の四十名位は任務も一転して、山形県羽黒神社の麓の国有林内で、松の根に貯溜される油の採取作業に配置され、神社参道の町並みの家に、二名から四名宛に分宿しての作業でした。
この油は航空機燃料に使用されるものとの事でしたが、整備兵の教育は中止されるし、航空機燃料を松の根から確保せねばならない事態などから、航空機の不足や戦争物資の極端な不足を感じざるを得ませんでした。その松根油採取作業も五月の末で中止されるに至りました。
山形県から帰隊してみると、驚いた事に半年前位に出来上がった航空隊の兵舎や実習棟等がかなり解体されておりました。私たちも若い志願兵を纏めて解体作業をつづけておりましたが、ある日、私は指令部の士官室に呼ばれ入室して見ると、机の上に沢山の履歴表が積まれており、私に当航空隊での履歴を書き込む様にとの指示でした。相当数の書き込みをおこないましたが、その中に私自身のものもあり、自分で書き入れました。当時履歴表は兵隊の移動時に本人に渡されるものであり、近い内に当航空隊から、相当数の転属がある事を察知する事が出来ました。
七月に入って、松島航空隊への転属の命を受け、着任して見ると、兵舎は海岸の松林の中に分散された仮設の兵舎でした。松島航空隊は実戦部隊で、一式陸上攻撃機の配備基地でしたが、既に実戦に使用出来る機体は一機もなく、搭載されているはずの機銃機器等が、取り外された機体が十機ほどが置かれてあり、私達はその機体の中の整備可能なエンジンのみの整備作業で、部品等は新しい物ではなく、別のエンジンから取り外して利用し、しかも野外での作業でした。
七月半ば頃からたびたび航空隊の偵察に、米軍艦載機グラマンが飛来する様になり、私達はその都度、松林の中に掘られた。蛸壷の中に身を隠して、空を見上げていましたが、航空隊から迎え撃つ砲火の音は、一度も聞く事が出来ませんでした。
八月に入って間もなく、午前の作業始めの後、空襲警報発令と同時に、例のグラマン機の爆撃が始まり、延べ数十機が航空隊の建物と滑走路を目標に一機五発の炸裂弾を私達の頭上から雨の様に投下していきました。その時間は十五分か二十分位で私達は蛸壷の中に身を潜めてその様子を見ておりましたが、この空襲によって、松島航空隊は完全に破壊され、身近な同僚も六、七名が犠牲となりました。
こうして八月十五日の終戦を迎えたわけですが、私達は幸い南方に行かなかったため早速復員の準備をしたあと、八月二十三日、親兄弟の待つ我家への帰省となり、家族と無事を確かめ合いました。
あれから早いもので五十年も過ぎ去りましたが毎年の八月十五日を迎えるたびに若くして亡くなった多くの同僚戦友の冥福を祈りつゝ、平和な日々の生活をありがたくかみしめております。

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉