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《私の終戦日》昭和二十年八月十五日
終戦当日の私の思い出

久保 栄司 昭和四年三月三十一日生(六十六歳)


昭和二十年八月十五日≠アの日のことについては、昭和ひと桁以前に生まれた人なら、誰もが忘れることのできない深い思いを抱いていることと思う。
私は、昭和十八年三月上富良野国民学校高等科(現上富良野小学校)を終え、四月村役場の臨時雇として勤めていた。職員は村長を含め三十人に満たない数で、その中でも働き盛りの人は、次々に軍隊に行き、若い男といえば一緒に勤めた安田 斉君と私であった。このため、この年の八月上旬に急遽編成された国民義勇隊に、役場から私と安田君が出動を命ぜられ、隊員として軍用道路工事作業に動員されていた。

私が動員された山部隊
国民義勇隊とは、この年の六月、政府が戦局の熾烈に度を加えた緊急非常体制として、今まで各市町村にあった翼賛壮年団、国防婦人会など、その他一切の銃後組織が解散され、総てが国民義勇隊に統一されたものである。
我が上富良野村にも、村長である金子浩氏が幕僚長となり、村議会の議員、翼賛団長、警防団長、婦人会長など有志数人の幕僚が置かれ、十五歳以上の成人すべての村民が、何らかの形で義勇隊員に組み込まれていたように思う。この部隊名は、上富良野村国民義勇隊山部隊といった。これは、上富良野村以南六町村(中富良野村、富良野町、東山村、山部村、南富良野村、占冠村)が、乃木将軍の詩の一句「山川草木転荒涼」の一字をとって命名されたのである。
山部隊長は佐藤敬大郎氏(戦後議会副議長などされた)で、いくつかの小隊、班があり、私達が動員参加した隊は、村内の市街商店、工場など経営者や会社、事務所の男子従業員で組織されていた。実際にこの部隊を指揮したのは軍隊から派遣された、士官学校を出たばかりの若く背が高い体格の整った明朗闊達というか感じの良い見習い士官で、現場を馳け廻り指示していた。その任務は道々旭中線の上富良野から富良野町布部を経て、十勝国に行く計画の軍用道路工事に従事することであった。
軍用道路で従事した道々旭中線
八月十日頃形式的な編成式が小学校校庭であり、その日からデボツナイ川の紅葉橋を渡った処に水車を使って精米場をされていた、三好さん前から工事が始められた。工事といっても総て手作業で、凹凸のひどい砂利道の路面を手直しし、道脇から伸び放題になっている草や潅木を刈り払い、路幅を広げ、側地帯を掘る作業である。この仕事をする用具は、各自家庭から持ち寄ったスコップ、鎌、鍬、鋸位で、工事用の専用道具は全く無いので、道具が弱く、特に刃の付いた鎌や鋸は直ぐ刃を欠くので、手入れの得意な人が専門に受け持ち、砥いで貰っていたような気がする。
この作業をする服装は、隊員といっても被服の支給は軍手一つなく、各自が作業し易い支度でまちまち、ただ帽子とゲートルは指示されたのか全員着用していた。
私などは戦闘帽にゲートルを巻いたまではよいが、地下足袋や編上靴などが大きく足に合わないため、ズックの短靴を履いていたがどう見ても不釣合いな格好である。ある人は、ズックの長靴にゲートルだから、これ又可笑(おか)しいが、物資欠乏の時だから、人目に気兼ねは無用と思っていたし、上官からも文句は無かった。私と同様に短靴で作業をした人も何人かいて、土や砂が靴に入り大変だったことを覚えている。
もっと大変だったのは食糧事情である。この重労働に対して一日二合三勺の配給の米では空腹を満たすことはできない毎日で、休憩で腰を下ろしても食べるおやつ(間食)などない。あったとしても煎っただけの大豆位のものだった。
「一服するか」と付ける煙草は配給の目方で計る刻み煙草で、紙で丸め唾でつけて吸うのだ。それを大事そうに、美味しそうにのんでいたのが、今でも目に浮かぶ。私達は、腹が空いて待ち遠しい昼食の弁当も、労働の割には程遠い量である。しかも、麦と大豆の混じったご飯に、梅干が真中にのった日の丸弁当と沢庵(たくあん)それに、精々干物の焼魚があれば上等、これが殆どの人の弁当だ。だから食事は直ぐ終わり、先輩や巡視に廻る見習士官などから、最もらしい戦況や、これらの戦略、敗けたら冷酷非道な虐待をされ、果ては大和民族が滅亡させられる、などの話を聞かされるのが日課だった。既に、敵の連合軍は、広島、長崎に人間のすることではない無謀な爆弾を投下していた。
「だから彼等は犬、畜生にも劣る鬼畜米英≠ニいうのだ」など、何が何でも勝たねばならないと、奮起を鼓舞しようとする熱誠あふれる話に酔わされていた。
昼の休憩は、一時間は無かったと思う。昼寝の時間がない位だから話の区切りで誰かが「サァー」と腰を上げると、皆は黙々と仕事につき始める。
慣れない労働作業の上、誰も軍手をはいていないため手の豆が潰れ、足は靴ずれという有様である。
体の疲れもひときわであったが、「戦地の兵隊を思え」の檄にこたえ、一人の落伍者もなく、仕事に従事していた。
八月十五日小学校で玉音放送を聞く
こんな日が続いて今日の集合地は、斜線の一本松である。当時東中から市街に往来する人が、必ずといってよい程腰を下ろして休む大きな松をこう呼んでいた。そこに集まり八時からいつものように作業を始める。この日は、今までにない快晴で、澄みきった青い空には雲一つなかった。十時近くには殆どが上半身裸になって作業をしていた。汗をぬぐいひと休みしているところに見習士官が来て、班長に「早めに昼食を済せ、正午に重大放送があるので小学校に集合するように」との伝達である。それを聞いて一同「何が起こったんだ」と一瞬動揺があったが、間もなく「仕事に区切りを付けてそこで終わらせ、昼食をとり、各班毎に定刻五分前に学校に集合すること」の隊長からの伝令が発された。
早々に仕事を終わらせて、道路脇で昼食をとりながら思い思いの話が交わされた。「やっぱり敗けたんだ」「いや最後の国土決戦を決めたんだ」「一億玉砕、火の玉となって戦いを鼓舞するんだ」と誰もが真実を知らない勝手な話の中で、誰かが「重大放送は天皇陛下が、国民に直接放送されるようだ」と疑心暗鬼ながらの話が出た。天皇は神聖にして侵すべからずとの教育をたたき込まれた私達は、天皇が直接話されることなど誰しも信じ難い雰囲気だったし、敗けることも考えられなかった。
皇紀二千六百年余を有する、世界に類のない萬世一系の皇祖をもつ国体であり、かつて、他国から侵され敗れたことのない国柄だと教えられた私達なので、歴史にあるように、必ずや神風が起こり国が救われると信じていた。敗けようものなら日本民族は、全て虐殺されるか、生きていたとしても男は去勢され、奴隷化するのが、敵国毛党のやることだという大方の思いだった。
いつもなら現場に置いてくる道具を持ち、学校に向かった。夏休みでひっそりとした校門をくぐる。
天皇陛下の御真影が安置されている奉安殿を包むように、深い緑に繁った木々から、夏せみの声がひときわ大きく響いていた。一同は、一人ずつ、その前に立ち拝礼をして屋内運動場に入った。運動場の窓は総て開けられ、微かに感ずる凰は汗を流しながら着いた隊員にとっては何よりの安らぎだった。先に来ていた隊員や、村の人達は、それぞれ窓側に寄りながら、不安そうに小声で話し合っている。南端に設けられていた放送室では、学校の先生がラジオの調整をしている。調子が悪いのか二、三人の先生が相談をしながら取り組んでいた。
正午少し前の会場には大凡(おおよそ)一〇〇人位は居ただろうか、正面の演壇に向い整列すると、佐藤山部隊長から簡単な挨拶があり、「皇居遥拝」の号令で、遥か宮城に向かって最敬礼をし、座ることを許されたので板張の床に胡座(あぐら)をかく。今までなら「畏(おそ)れおおくも天皇陛下」と言う言葉が、村長や校長先生などからお話があったときは、一同が一斉に「気を付け」の姿勢をとり、その言葉が終わるともとの「休め」の姿勢に戻るのが常であった。しかし、天皇の玉音を賜ると挨拶があったのに、これでよいのかと思いながらも、「諸君は疲れているので座って拝聴する」と言われたことに納得していた。
村役場の屋上にあったサイレンが、いつもより早く鳴り終わると、ラジオを通じ日本国民に告げる詔書が流れた。皆は頭を下げ、咳一つなく静寂の中に、ゆっくり噛みしめるようなお言葉であるが、十六歳の私には難しい文言と電波の雑音のせいか、何を告げているのか理解できない。ただ、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、大政を開かんとす」とのお言葉が耳に入った。
この放送は数分であった。その後アナウンサーからの解説か説明があったかどうかは知らないが、ラジオが終わった後、会場は一瞬沈黙が続いた。誰かが吐き捨てるように「敗けたんだ!!」と言う声、それを打ち消すように「いよいよ国土決戦だ!!」と言う思いあまった叫びのような言葉が飛びかった。その中をじっと堪えるように座り込んでいた佐藤隊長が、重い腰を上げて話し始めた。「皆さん今日はご苦労様でした。本日はこれで解散とします。今後お上から命令のあるまで自宅待機するように」との挨拶を聞くや、重大放送が何であったかの説明もないまま、各自は蜘蛛の子を散らすように引き揚げて行った。
私と安田さんはそのまま役場に戻る。村長室に幹部の主任が入ったままで、職員は数人で静まり返っていた。隊長から今日の任務を終えた事を報告すると「ご苦労だった。今日は帰って休みなさい」と言われたが、それにしても、放送が何だったか気になり、帰るどころではない。村長室から来られた主任さんが「戦争は終わったことは確かだ。敗けて降伏したのかどうか、終わってどうなるのか、これからの指示を待つことになる。慎重な行動をとるように」ということであり不安も抱きながら家に帰った。
敗けたのなら、敵国の軍隊が来てこれからどんな目に遭わされるか身の縮む恐怖感の反面、戦争に敗けた無念さというか悔しさと、戦争が終わりほっとした安堵感が交錯する複雑な気持ちがあったのも事実だ。
一般国民はその翌日の朝刊各紙によって、また私は役場に出て日本の敗戦を紛れもない現実として知ったのです。
その日の毎日新聞社の特報記事には、一般国民の共通の心情が掲載されていた。
片よった教育をたたき込まれ、歪められた情報、報道に目を奪われ、間違った方向にも、唯々お国のための一念に盲従せざるを得なかった時代に育った私達は、今振り返っていかに空しいというのか、無意味な事であったと思いを深くするのです。だが、これによって今日の繁栄と平和の有難さを享受することができた。この事実を忘れることなく、これからも伝え続け、改めて戦争のない平和を守っていくことの大切さを強く思うのです。

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉