郷土をさぐる会トップページ     第13号目次

各地で活躍している郷土の人達
私の来し方 ― 十勝岳と結ばれて

山本 健一 大正十三年七月三十一日生(七十歳)

生まれ育ち青春の初期を過ごした故郷はは、人の一生に大きなインパクトを与える。故郷上富良野の東に聳える名峰十勝岳につらなる山並は、私の人生にとって実に大きな存在であった。
大正十三年生まれの私は、昭和十八年に故郷を離れるまで、旭川中学(現旭川東高等学校)時代の旭川での下宿通学を除き、駅前の我が家から、日に数回の列車が停車している時以外は、晴れた日であれば、白煙たなびく十勝岳をいつも目にすることができた。
そして、この十勝岳は幼児の私にすら無縁の存在ではなかった。それは両親から後に、よく聞かされた話ではあるが、大正十五年のあの大災害をもたらした十勝岳大爆発の時、二才に満たない私は、父の従弟に背負われて、明憲寺の丘に避難したと言う。後に、この爆発の泥流に洗われた鉄道線路の両側や、市街地の裏に、数年たってもわずかながら残されていた黄褐色の肌をみせる広場と硫黄で褐色の流れと化したフラヌイ川の岸辺は、子供たちの絶好の遊び場となっていた。かくして、そこで遊ぶ私の心に、火山爆発のすさまじさ、山の恐ろしさが知らず知らずの間に影を落としていたのかも知れない。
小学校の四、五年生の頃であったろうか、父に連れられて吹上温泉に出掛けた。駅前の赤間タクシーに乗るのが、何といっても子供心に嬉しかった。中茶屋を過ぎると、見事なエゾ松、トド松の樹林帯に入る。幾曲がりもの砂利道の両側に展開する、木もれ日がかすかにさす欝蒼たる森の中は、メルヘンの世界を思わせた。
興奮のドライブが終わり、温泉の長い廊下を下りると、谷底に湯槽があり、中央の木管の先端から少量のぬるい湯が名の通り吹き上げていた。温泉から樹林帯の中を泥流跡に通ずる小径をたどると、樹間に白樺の外壁の瀟洒(しょうしゃ)な白銀荘が眺められ、程なく小さなお堂が見える。そこには爆発時の平山硫黄鉱業所の被災者の慰霊碑が淋しく立っていた。その先の崖から息をのむ広がりの泥流跡が見渡せた。立ち枯れた木立ちが泥流に押し流された大小の岩塊の間に、墓標のように立ち、鉱業所の残骸もなお痛ましく放置され、眼を上げれば、十勝岳は中腹の新噴火口から静かに白煙を噴き上げていた。
この荒涼たる風景を前に、少年の心はすさまじい自然のエネルギーの爪跡に、恐怖を覚えたのである。
その頃、私の十勝岳に対する恐れを、更に深くする出来事があった。それは、父の山での遭難騒ぎである。当時の村長吉田さん、聞信寺の門上さん、吹上温泉の飛沢さんなどによる、十勝岳から黒岳を経て層雲峡への夏山縦走に、父も同行した。登山に関心のなかった父が加わったのは多分、祖父の圧力もあったのではないかと思われる。
今でこそ、秀れた装備で単独でも、このコースを歩く人が少なくないが、それでも美瑛富士、オプタテシケ、トムラウシ山の間は、熟達者向きである。それを案内人を従えたにしろ、今とは比べようもない劣悪な装備で、父はよく出かけたものである。不運にも悪天候、岩穴で停滞。我が家のアルバムにあった停滞中の人々の沈んだ顔を、今も鮮明に思い浮かべることが出来る。
予定が遅れ、役場では大騒ぎ、捜索隊の出発となる。我が家の前では、隊員に分配される缶詰などの食料が並べられ、人々が右往左往していた。父達は幸い層雲峡へ下山途中に捜索隊と出会い遭難騒ぎは幕切れとなった。
昭和十三年暮れには、上ホロカメットク山八つ手岩南方斜面の雪崩により、北大山岳部員二名が亡くなるというアクシデントがあった。冬休みで帰省していた中学生の私に、十勝岳の恐ろしさをまたも一層深くすることになった。年末になると、北大山岳部の新人のスキー訓練の合宿が、吹上温泉をベースに毎年行われていた。当時父は祖父から受け継いだ株式会社吹上温泉の役員もしていたので、スキー合宿の部員は、大切なお客さんであった。一番列車でおりた沢山の山岳部員が駅舎から溢れ、駅前広場の何ヵ所かの穴におこされた山のような炭火で暖をとる。そして彼等の接待用の牛乳が、我が家の大鍋で沸かされ、母が忙しく立ちふる舞うのが常だった。
そんなことから、この痛ましい遭難事故の処理に、父も幾許(いくばく)かのお手伝いをしたのでしょうか。学生さんの御遺族が沈痛な様子で、我が家に挨拶に来られたのを、今も忘れられない。
中学の後半の二年半は、家からの汽車通学となった。晴れた日の往復の車窓から眺める旭岳からトムラウシ、美瑛岳、そして噴煙立ち上がる十勝岳の装いは、四季それぞれに美しく飽きることはなかった。
だが十勝岳は私にとってなお遥かな存在で、登頂しようという気は一向に起こらなかった。やはり、幼少年期の私に強烈な存在感を示した十勝岳に対する恐れが、意識下にあったのだろうか。
昭和十八年四月、北大予科医類に、幸い入学することになり、故郷を離れる日が来た。前年の春から、母は重症の肺結核で北大病院に入院中。その間に最も幼い妹は、母からの感染で典型的な結核性髄膜炎に罹り、何の効果的治療法もない当時のことで、数日の入院でこの世を去ってしまった。それは私にとって、余りにも衝撃的な出来事だった。
その頃の肺結核を中心とする結核症は、我が国の死因第一位の疾病であり、死亡者数は人口十万人に対し二百人以上、しかも、前途有為な青少年層に蔓延し、富国強兵を国是としつつ突進していた日本にとって、大きな痛手であった。だが、治療法は大気・安静・栄養と消極的なものだけ、結核菌に有効に働く治療薬は全くなかった。予防策としても、感染源をなくすことや感染経路の遮断も不可能。ワクチン接種も、我が国では、海軍海兵団の初年兵に対し実験的に行われていた。次いで、結核病の研究の指導者であった東北帝大医学部の熊谷教授、大阪帝大医学部の今村教授および北海道帝大医学部の有馬教授が、それぞれ地元の看護婦養成所の生徒、中学校生徒を対象に行っていたに過ぎなかった。私が旭中に入学した年の新入生がその対象になり、同級生のBCG接種者は、上膊の接種局所に難治性の潰瘍や、局所リンパ腺の腫張で、長く苦痛に耐えなければならなかった。当時のBCGワクチンは、現在とは異なり液体ワクチンであり、しかも皮内接種であったため、副作用は止むを得なかった。
中学卒業後の進路決定の時期にあった私は、妹の結核死を眼の前にし、母が結核で病床にあり、私自身も小学校六年生の一年間、結核性胸膜炎で休学したこともあって、結核と闘うことが、如何に困難なことであるかを全く知らないままに、若者らしく一途に結核と闘う医師になることを決意した。幸い父は、私に家業の木材業を継ぐことを強制せず、将来の進路は、自由にしてくれていたことも有難かった。
母不在の我が家を離れて、北大入学のため上富良野駅のホームに立った。この朝の十勝岳は白銀に輝き、ひと際雄々しく、私の前途を祝福してくれるかのように見えた。
私の大学予科在学の昭和十九年一月、母は遂に肺結核の末期を迎え、不帰の人となった。その頃日本は敗戦への道をたどりつつあり、四十代半ばの予備役の父さえも召集され、北千島占守島に駐屯していた。
それだけに、母の死は予期されていたとはいえ、私には一大痛恨事であった。五十年を経た今日もなお、当時のもろもろのことが鮮烈に想起される。
父はその年の半ば、病を得て旭川に帰り、結核性胸膜炎の診断で、召集解除となった。このことがなければ、翌年の敗戦でシベリアにでも抑留される運命にあったのである。そうなれば、戦後の私の医学への道も閉ざされたかも知れない。結核と言う病の運命の糸で、我が家は大きく操られていたともいえよう。
札幌に出て、初めての夏休みの前半は、樺太上敷香の北の気屯から、更に北方へ、陸軍の飛行場設営作業に二週間動員された。作業も終え、宗谷海峡の米国潜水艦の襲撃に怯えながらも、無事帰省すると、以前の十勝岳への思いは変わっていた。真夏でも、寒々とした樺太のツンドラを思わせる大地に、天幕生活をしたせいか、郷里の緑豊かな丘陵の向こうに多彩な陰影を見せる十勝岳に、私は親近感を覚え、是非、登って見ようという気になった。
八月下旬、友人の予科生の美瑛の藤見、水上の両君と、共に富良野線で通学した旭中生である上富良野の河村、梅野、松原の諸君と、美瑛の水上(隆)、矢島の両君を誘い白銀荘に泊り、案内して下さった郵便局の棟方さんの身障者とも思えない、驚くべきバイタリティに引っ張られて快晴の十勝岳山頂二〇七七米を初めて踏むことが出来、実に楽しかった。これが山行を人生の楽しみとして、今日まで数々の山頂を踏んで来た最初の記念すべき登頂になろうとはその時は夢想だにしなかった。
その後、私は敗戦後の混乱期に、老朽化した建物と貧しい施設で、大半の医学部の教育を受けて卒業。一年間の北大病院での実地修練を終えて、医師国家試験に合格、昭和二十五年に医師免許証を手にした。
初志の結核の臨床に進む前に、結核菌を知りたいと考え、丁度その年に国立大学附属研究所として発足した北海道大学結核研究所で基礎研究をさせてもらうことにした。戦後五年、科学研究に配分される国家予算は少なく、研究機器、機材の購入もままならない状態の研究所であったが、間もなく文部教官助手に任用され、恩師の有馬 純、高橋義夫両先生に結核菌の培養、結核感染動物実験など、実験結核病学の手ほどきを受けた。続いて、BCGの接種法の改良、質の高い凍結乾燥ワクチン開発の研究も手助けした。フィールドワークとして札幌市内、近郊の町村の幼稚園児、小中学校生徒を対象に、BCG接種にも参加したことも、なつかしく思い出される。
最初の十勝岳登頂から戦中、戦後の窮乏期に、精神的余裕を持たないままに学生生活を送った私は、その頃、全く山への関心を失っていた。そして研究所での仕事を当初、数年と考えていたのに、私は仕事の面白さに魅せられて腰を落着けてしまった。研究指導者の有馬先生は、学生時代は北大山岳部員として活躍され、後に山岳部長となり、定年退官の一九八二年には「北大山の会」の厳冬期ヒマラヤ・ダウラギリ(八一六七米)遠征隊の総隊長をされた方である。先生は十勝岳の吹上温泉をベースにした山岳部の合宿をはじめ大雪、日高の山行をなつかしみ、時に熱っぽく語って下さった。それでいつの間にか私の山、特に十勝岳への思いが徐々に昂じてきた。また、それまでスキーにも私は全く興味がなく、旭中、北大予科時代の軍事教練で、止むなくスキーを足にした程度であった。
そんな私は有馬先生に誘われて、昭和三十年三月、教室の人達と上富良野駅前から湯タンポで足を温めながら、十勝岳登山道路を中茶屋まで馬橇に乗った。
生まれて初めてのシールをつけたスキーで、吹上温泉まで其直に延びる林間の登りに、散々な目にあわされた。白銀荘をベースにして、数日間、泥流・前十勝・三段山で初心者の私は、転倒、顔面制動の連続。若い肉体をかなり痛めつけられながらも楽しかった。仰げば紺碧の空にそそり立つ白雪皚皚(はくせつがいがい)たる十勝岳に連なる山並に、忘れ待ぬ感激を覚えた。これを機に、私はスキー術の上達に身を入れ始めたのである。山スキーばかりでなく、スキー学校で新しいゲレンデスキー術を習い、スキーを安全に楽しむことが出来るようになった。
三月の十勝岳スキー行は、その後、何年も教室の恒例行事として、皆の楽しみの一つになった。ある年には、全員で前十勝からスキー靴で、凍りついたエビの尻尾を蹴込みながら頂上に達し、シーハイルを叫んだこともあった。しかし、三月の十勝岳とはいえ、アスピリンスノーといえる最高質の雪に恵まれたのは、たったの一回であった。その朝、食前、身を切る寒さの中、泥流に向かった。夜中に程よく降り積もった軽い雪の上をスキーで進むと、行く手の十勝岳の背後から、太陽が将に昇らんとしていた。
滑走に移ると、シュプールを描く度に、頭上に粉雪が舞う。スキー抵抗を殆ど感じない。「こんなに俺はスキーが上手になったのか」と錯覚するほどであった。有馬先生のクリスチニアで、吹き上がる雪煙に、陽光が反射して、恰もダイヤモンドダストの乱舞だ。
振り返ると、泥流スロープ上に我々のシュプールが、見事に描かれているではないか。こんな贅沢な滑降があろうか。
小学生の頃、私はオーストリアの名スキーヤーのシュナイダーが、泥流スロープでポールを手に、十勝岳を眺めている絵ハガキを見て、世界的名スキーヤーが訪れた泥流スロープを、我が村の誇りにしていた思い出がある。シュナイダー氏は、泥流スロープを東洋のサンモリッツだと称賛したとか。昨年、私はサンモリッツのスキー場を訪れたが、四千米級のベルニナ・アルプスを間近に望み、氷河あり、景観、規模とも素晴らしかった。十勝岳贔屓(ひいき)の私も、東洋のサンモリッツは、シュナイダー氏のお世辞でもあったのかなと思ったりもした。
かくして、泥流スロープが、私のスキーへの情熱に火をつけた。本州のスキー場にも、学会の帰りに立ち寄り、立山、白馬、志賀、栂池、赤倉、草津、月山、八甲田などで滑降を楽しんだ。しかし、何といっても、旭岳の春スキーは忘れられない。程よくしまった五月のザラメ雪の上を、頂上から裾合平目がけて、大雪面に思うままにシュプールを描き、姿見の池に至る。これが快晴無風であれば、将に、春スキーの醍醐味であろう。この時も頂上で、まわりの山々を見渡して先ず探すのは、やはり十勝岳であった。故郷の山を持つものは幸せである。
一九六八年から一年、一九七四年から一年半、米国モンタナ州にある、国立保健研究所(NIH)に結核の免疫の研究で、出張させて貰った。息子の関係で単身で計二年半、日本人のいない研究所で充実した研究生活を送った。四十才半ばの単身滞在であったが、週休二日の休日は、スキーや夏山に誘ってくれる友人ができて、北米の大自然にたっぷり触れる機会が与えられたのは有難かった。研究所のスタッフは親切で、家庭によく招かれた。単身滞在の故に却って気安く交際してもらえたように思う。当時、日本も経済発展によって、研究設備も整備されつつあったが、それと比較にならぬ豊かな器材、実験動物も自由に使えるなど、すべて驚きと刺激的で、しかも私を招いてくれたボスは、研究を自由にやらせてくれ、私にとって大収穫だった。
しかし、一九六八年十月からの最初の滞在は、初めての海外生活とあって、必ずしも心の平穏な日々ではなかったが、自炊生活は少しも苦痛ではなかった。まだ日本には見られなかったスーパーマーケットでの買い物に、一ドル三六〇円時代の、三百ドルのオンボロ車で、物珍しさもあってよく出かけたのも、心を和ませるひとときだった。
私の滞在地ハミルトンは、東と西の山なみの間にひらけた盆地に広大な牧場、農場が散在し、中央に魚の住む川が流れる自然の豊かなところで、南に望まれる三千米の峻嶺は既に雪化粧をしていた。朝日に輝くこの峰を眺めて、先ず思い出されたのは十勝岳であったことは言うまでもない。こうして、異国の山に故郷の山を求め、心の安らぎを得たのである。
冬の寒さは厳しかったが、中古スキー用具で、滑降を楽しんだ。二月のある日、若い友人が、滞在地の北方二百マイルの大きなスキー場へ誘ってくれた。
ゲレンデで初めて見た圧雪車の威力に驚いた。雪質も上々、遥かに白銀に輝くロッキーの連山を眺めての大滑降に、思わず歓声が上がる。コースを外れて新雪を下る友人を追うと、雪の感触は、たった一度のあの泥流スロープのアスピリンスノーを思わせ、心は一層はずんだのであった。
夏山も、やはり有馬先生に触発された。一九五四年六月、先生に連れられて、白銀荘に泊り残雪の富良野岳登頂を果たしてから、登高意欲が加速されたのである。よき山友に恵まれて立山、剣岳、槍ヶ岳、笠ヶ岳などの北アルプス、木曽駒、空木岳の中央アルプス、北岳、甲斐駒、仙丈岳などの南アルプス、東北の山などにも足を延ばした。道内の山では、有馬先生に連れていただいた私には、初めての沢登りであった札内川の九の沢から日高の名峰カムイエクウチカウシに登った数日の強烈な印象は、三十年以上たってもなお鮮やかである。地下足袋に草鞋(わらじ)で徒渉する感触は実によい。今夏、久しぶりに、日高のペンケヌシ川へ若い山友に同行させて貰ったが、沢歩きの心地よい感触がすぐに甦り、なつかしかった。
五十才を過ぎてからは専ら家内、同年代の山友と、ゆっくりペースで山を歩いている。近頃、深田久弥の名著「日本百名山」の全山登頂が、山好きの間でブームになっている。今夏も、奥日光の白根山で出会った中年の会社員も、百名山完登を目指す一人であった。私の山登りの最大のたのしみは、山の花との出会いなのだが、彼は花には目もくれず、ひたすら頂上へ急ぐ。ご本人は「百名山の呪縛から開放されたいと思いながらも、登り続けるのです。」という。山登りにも、日本型猛烈社員の風潮が及んでいるのかと寂しい気がした。
私が結核研究所に勤務して二十数年がたつと、結核をめぐる状況は大変貌をとげた。先ず結核菌の増殖阻止効果をもつ薬剤が出現した。既に一九四四年、米国のワックスマンによって発見された、ストレプトマイシンが最初のもので、戦後、日本にも入り、内科治療の主役となり、またストマイを使用することで肺に積極的にメスを入れる外科療法も可能になったのである。経済の発展に伴い、医療施設の充実、住環境の向上、食生活の質も上り、国の施策でも結核予防法による結核管理がよりきめ細かく行われ、またBCGによる予防接種が、乳幼児さらに小・中学校生徒まで全国的に行われ、発病阻止に大きく寄与した。それにストマイに続いて、より有効な抗結核薬が開発されて、さしもの猛威を振るっていた我が国の結核も、年々減少し、死因順位も、敗戦前後の第一位から一九七〇年には八位に転落するに至った。
従って結核研究所の存在が議論され、文部省から改廃が示唆されるようになった。そこで、北大の他に、東北大、金沢大、京都大にあった結核研究所は、検討を重ねた結果、すべて転換することになった。
私達の研究所は、結核の免疫の研究を行っていたし、結核菌そのものが、他の免疫現象と深く関与し得る性質をもつ興味ある細菌であることなどから、結核症以外にも、広く免疫現象を研究する研究所に組織を改め、国の要請に応えて、一九七四年、北海道大学免疫科学研究所となった。私は幸い、結核の免疫を中心に仕事をしてきたので、改組後も大きな影響を受けずに、仕事を続けることが出来たのである。
程なく私が直接御指導を受けた高橋・有馬両教授も定年退官され、私のよき研究指導・協力者であった他の部門の教授の方々も、次々と定年退官されたので、私は定年前の三年間、所長に任ぜられ、研究所の運営、将来計画に微力を尽くし、一九八八年三月に、三十七年の研究生活に終止符を打ち、エルムの学園を去った。その年の六月に、先輩、同僚の御力添えで私がお世話して第六十三回日本結核病学会総会を札幌で開催、研究者としての私を育ててくれた学会に、多少の恩返しが出来たことを今も嬉しく思っている。
思えば、妹の死、母の発病を契機として、結核と闘う医師になろうと志し、結核の臨床に直接かかわりはしなかったが、基礎研究を続けている間に、結核は人類にとって、死につながる疾病ではなくなってしまった。勿論、結核について解決すべき問題はなお残されており、更に新たな問題、たとえばエイズ患者の結核発症の重大問題などがある。しかし、私は結核研究所の看板がおろされるまでに、結核が激減したことを結核と闘う集団の一人として、微力ながら努力したが故に喜び、また誇りとし、我が人生に悔いなしと思っている。
毎年、お盆には十勝岳を望む丘に眠る、若くして無念にも結核でこの世を去った母と研究者としての私を長く支えてくれた父の墓前で、来し方を思い、感謝と感慨にしばし佇む。そして、気高く聳える十勝岳に、私の心に生きている十勝岳を重ね合わせつつ、故郷上富良野と私との結びつきを確かめるのである。
山本健一氏の略歴(編集委員注)
大正13年7月31日 上富良野村市街地にて父山本逸太郎、母しのぶの長男として出生
昭和18年3月 庁立旭川中学校卒業
昭和別年3月 北海道大学医学部卒業
昭和24年4月 北海道大学医学部附属病院で実地修練
昭和お年4月 北海道大学結核研究所で研究に従事
昭和25年8月 医師国家試験に合格
昭和25年9月 北海道大学助手。結核研究所に勤務
昭和29年1月 北海道大学講師
昭和31年10月 医学博士の学位を受ける
昭和36年4月 北海道大学助教授
昭和43年10月〜44年10月 米国NIHロッキーマウンテン研究所で研究後、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリー、フランス国へ出張
昭和49年6月 結核研究所は、免疫科学研究所となる
昭和49年6月〜50年11月 米国NIHロッキーマウンテン研究所で Visiting scientist として研究に従事
昭和52年11月〜12月 日米医学協力研究会結核専門部会派遣によりフィリピン、シンガポール、マレーシア、タイ、インド、香港の結核事情調査
昭和54年8月 北海道大学教授
昭和釦年4月〜63年3月 北海道大学免疫科学研究所長
昭和62年4月〜63年6月 日本結核病学会長。63年6月札幌にて第63回日本結核病学会総会を開催
昭和63年5月 北海道大学名誉教授の称号を受ける


山本先輩との思い出を語る

上富良野町錦町 松原長吉
(旭中三十八期〜昭和十九年四年終了―秋田鉱専へ)

山本先輩は旭川中学在学の途中から、私達と一緒に汽車通学になったと記憶しています。
昭和十七年頃は、下駄を履き、ゲートルを巻いての姿での通学で、行きは朝六時発の一番列車の中での予習、帰りは午後五時半頃着の列車の中で復習と、この一時間半が私達通学生の大切な勉強時間でした。
通学列車の中では、いつもながら山本先輩は後輩の私達に勉強を教えて戴き、代数の嫌いな私は特に迷惑をかけました。
昭和十八年の春、山本先輩が北大医学部に合格した後に自宅へ呼ばれ『松原君、僕の使っていた参考書だが、これを使って君も頑張れ!』と言って、約三十冊程の参考書をいただき、牛乳の運搬車で我が家へ運んだ事が思い出されます。
山本先輩からいただいた参考書が、我が家にあったはずと思い書棚を探したところ、奇跡的ともいうべきかあった≠ニ叫びました。五十二年振りのことです。(昭和二十三年に会社の宿舎火災、会社の転勤等があり。)その本は、三省堂の昭和十六年四月発行『基本力養成―和文英訳練習』で、その表紙裏に『17年7月2日開始北大突破セヨ 必ズヤ』と山本先輩の決意の筆跡が、いまだ鮮やかに残っていました。
昭和十八年夏、北大在学中の山本先輩と共に初めて十勝岳登頂を経験し、その折に山本先輩より樺太に勤労動員されての飛行場建設やフレップのお話し等を語ってくれました。
それ以来、お会いする機会がなく今日まで五十余年、十七歳の少年になって会いたい!山本大先輩

機関誌 郷土をさぐる(第13号)
1995年6月25日印刷  1995年6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉