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石碑が語る上富の歴史(その11)

中村 有秀 昭和十二年十一月二十八日生(五十六歳)

―十勝岳頂上の碑『光顔巍々』に関わった人々―

十勝岳頂上の碑 『光顔巍々』

・建立年月日  昭和十七年八月二十六日(紀元二六〇〇年)
・建立場所   十勝岳頂上
・碑の揮毫者 大谷光照貌下(浄土真宗西本願寺第二十三世法主)


一、はじめに
四季おりおりの素晴らしい美しさを見せ、多くの感動と勇気を与えてくれる十勝岳。
その反面、自然現象とはいえ十勝岳爆発にる被害や防災対策、登山での数々の遭難等、私達は十勝岳と共に喜怒哀楽の生活を開基と共に経験し見聞して来ています。
十勝岳二〇七七mの頂上に建つ『光顔巍々』の碑について『郷土をさぐる第十二号』に掲載しましたが、その後『光顔巍々』頂上碑に関わる建立当時の状況を記した資料がある事が判りました。
一つは、昭和十八年に上富良野村役場書記熊谷一郎氏が記した『上富良野村史原稿』が、上富良野町開基百年に向けての資料収集の成田政一氏(町史編纂室長)によって東中中学校にて当時の原稿を発見しました。
この『上富良野村史原稿』の第八節に『十勝岳山頂記念碑』の項目で詳しく記してあります。
二つは、『光顔巍々』碑の揮毫された経緯と意味について疑問を持たれた、美瑛町南町大林貴美枝さん(明治四十年八月十日生)が、揮毫された大谷光照前門様に直接手紙を書かれ、当時の状況・経緯・光顔巍々の意味について御直筆の返信(昭和六十三年六月二十九日付)をいただいております。
今号は第十二号に引続き『光顔巍々』碑ですが、碑の建立に直接関わった関係者十二名、奉仕青年二十名の皆様が頂上に建立されるまでの苦労を五十一年後の現在の三十二名の皆様の消息を追跡調査した結果と、美瑛町大林貴美枝さんが大切に保存されている大谷光照前門様の御返信の内容を掲載します。
昭和十二年二月二十八日〜三月二日までの、スキーでの十勝岳登頂の模様、『光顔巍々』揮毫の経緯とその意味について丁寧に書かれております。
二、十勝岳頂上『光顔巍々』建立当日の状況
昭和十八年上富良野村役場書記熊谷一郎氏が記した『上富良野村史原稿』の第八節をここに転載します。
<上富良野町村史原稿>

―第八節 十勝岳山頂記念碑―
大雪山の連峰として本道中央部を占め、世界的に其の名を轟かしたる雄峰十勝岳は逐年登山者の増加を見、健康の殿堂として幾多老若男女の心身錬磨をなし来りつつあり、中にも夏のハイキング・冬のスキーに於ては誠に好適の山岳なり、然れども此の山岳の頂上に山霊として表現すべき何物もなきを時の村長金子浩氏遺憾となし、是非之が建立施設を為さんと考慮中偶々昭和十二年二月末日、西本願寺法主大谷光照貌下スキーにて十勝岳登山せらる、此の機を得て金子村長は山頂の霊とすべき碑の揮毫を懇請せしに、貌下その意義に深く賛意を表せられ自ら再度スキーにて建立すべき場所を懇切に調査し、茲に『光顔巍巍』の四大文字を揮毫せらる依て右碑文の石碑を山頂に建立すべく、昭和十七年七月花崗岩丈三尺五寸 表面一尺五分 両背一尺の三角柱の石に勒して後昆に伝ふ、其の裏面に刻したる因記左の如し。
維時昭和十二年三月一日西本願寺法主大谷光照師當山頂上ヲスキーニ據リ踏破シタル記念トシテ表記ノ如ク揮毫セラレ之ヲシテ後昆ニ傳フ矣
                      紀元二千六百年七月建之
而して昭和十七年八月二十六日 村内各青年団代表者の奉仕出役に依り建立し茲に建碑式を挙行す、その実況を述べれば左の如し。
昭和十七年八月二十六日村内各青年団員代表者二十名指導者金子村長外八名来賓三名合計三十二名、午前四時役場前集合同四時四十分田中自動車部トラックに搭乗出発午前五時四十五分吹上温泉に到着す、山は紺碧に晴れ心身自ら快調となる、吹上温泉よりは青年奉仕隊に依り土橇に約五十貫余の石碑を乗せ長き網にて曳き噴火口目がけて午前六時二十分出発す。
途中大岩石ある難所は棒に依り全員にて担ぎ或は再び土橇に移して曳きわかものの掛声勇ましく運搬せしも、頂上近づくにつれ山益々急峻若者愈々疲労し困難辛苦の状態は筆舌に尽し難し。
先発隊の来賓一行は既に着し、一行の来るのを今や遅しと待ち焦れしも声だに聞えず頂上附近は時折霖霧に覆はる。暫しの後中腹地点より掛声微かに聞ゆこの時札幌別院霊山氏は『若者もいよいよ精魂尽きたるかな』と嘆ず、真にその涙汗淋漓苦心惨担たる様相を表示したる辞にして当事者のみ味ひ得べき言なり。
斯くて先着隊より遅れ着くこと一時間有余正に午前十一時二十分にして一同昼食を配る、先着の石工嶺氏建立準備既に成るを以て食後直ちに建立に着手し、午後○時三十分工事全く終了し、午後一時除幕式を挙行す。
西本願寺北海道教務所長 青山秀雄氏敬白文左の如し。
   敬 白
敬テ本師法王禰陀如来乃至一切三寶ニ曰テ言サク 夫レ我大日本帝國々土ハ天地精気ノ粹マル處峻岳幽渓神秘ヲ蔵メ長水廣沢悠久ヲ顕ハシ山水ノ秀麗萬邦ニ絶セリ 我北海道ハ山川曠野渓谷沼沢火山湧泉等景観壮美雄大ニシテ神仙躍如タリ、就中茲ニ十勝岳ハ所謂大雪十勝火山群系ニ属シ本道中央部ヲ占メ海抜二千七十七米代表的名山ニシテ国立公園圏内ニアリ 曩ニ山麓有志相謀リ山上ニ修養道場ヲ建設シ集マルモノヲシテ山霊瑞気ニ触レ身心錬磨ニ資セシメント企画ヲ進ム、偶々大正十五年神火爆発熔岩泥流富良野盆地ニ氾濫シ林野ノ美観一朝ニシテ荒寥ニ皈シ企図空シ 干時昭和十二年二月本派本願寺大谷光照法主雪艇ヲ駆リ本岳麓ニ鍛錬旬余下山ニ際シ上富良野村長金子浩山上碑ノ揮毫ヲ至請ス
貌下之ヲ容レ題スルニ光顔巍巍ノ四字ヲ以テス工成リ茲ニ建碑式ヲ挙行セラル
惟フニ光顔巍巍トハ之レ大経所説ノ華文ニシテ如来ノ威容尊重ノ窮リナキヲ示ス金口ナシ而シテ今ヤ巍峨タル山上ノ鎮メトナル蓋シ山色是清洋身渓声足長廣舌何レカ自然法爾ノ法性身ノ顕現ニ非サラレヤ然レハ即チ如来円満ノ妙用永ヘニ鎮護國家ノ礎トナリ國豊民安以テ皇輝八紘ニ普ク渡世ノ大願一切ニ光被センコトヲ伏乞三寳照鑑ヲ垂レタマヘ
敬テ曰ス
               北海道教務所長 青山秀雄
斯くして午後一時三十分式滞りなく終了す。
一行は馬の背より旧噴火口を廻りて下山す、途中金子村長霊山一宗の両氏旧噴火口より湧出せる湯河原の天然風呂に入湯 山の湯治気分に満悦す、下山に際し山は愈々晴れ山霊?々として登山者一行を見送るの感あり。
爾後登山頂上を極むる者は斉しく全智博識と仰がるる大谷光照貌下の無言の教化に浴し、山霊の瑞気に触れて心身の錬磨に資すべきを信じて疑はず。
海抜二千七十七米の峻岳頂上に斯る難工を無事遂行せるは、一行のなみなみならぬ協力と犠牲的奉仕と且つ山霊御加護の賜ものにして、山霊永へに神鎮まり給ふべく、茲に満腔の感謝と敬意を表し左に一行の氏名を掲ぐ。
指導者
 上富良野村長     金子  浩
   同 助役     本間 庄吉
 上富良野国民学校長  牧野  勝
   同    教頭  金子  淳
   同 青年学校教諭 須藤  進
写真撮影担当      海江田武信
       巡査部長 関根甚三郎
山案内主任       西村 又一
石  工        嶺 八兵衛
奉仕青年
  清富青年団長    竹内 正夫
  草分青年団長    伊藤 養市
    同 団員    田村 稲夫
  里仁青年団長    荒  猛夫
    同 団員    村上 隆則
  江幌青年団長    中山 喜好
    同 団員    岡本 太一(代理 江尻 菊正)
  江花青年団長    萩原 清秋
    同 団員    芳賀 邦雄
  旭野青年団長    山道松五郎
  東中青年団長    南  藤夫
    同 団員    床鍋 繁則
    同 団員    磯松 義範
    同 団員    幅崎 吉男
  上富良野中央分団員 岡田 吉松
    同       六平  力
    同       金松 一三
  島津分団員     久保 栄造
    同       仲川 正廣
  富原分団員     末岡  悟

来賓
 西本願寺札幌別院   霊山 一宗
 聞信寺住職      門上 浄照
   同 家族     門上 信子
尚、江幌青年団員に岡本太一氏となっていますが、何かの都合で行かれず、江尻菊正氏が奉仕に加わり頂上での記念写真にも撮っております。江尻菊正氏からも当時の状況を聞きましたが、特に前十勝からの急峻は土橇では無理なので、皆んなで担いで上げたのが一番の思い出と語ってくれました。
三、十勝岳山頂『光顔巍々』の疑問
頂上碑『光顔巍々』建立に数々の疑問を持った、美瑛町南町大林貴美枝さんが、碑文を揮毫された西本願寺第二十三世法主大谷光照貌下に直接手紙を書かれた御返信をいただいております。
それらの心境と御返信の内容が、美瑛新聞(昭和六十四年一月一日付)に発表されていますのをここに掲載いたします。
十勝岳山頂の『光顔巍々』について
(美瑛町)南町 大林真美枝
望岳台レストハウスの前でバスを降り、前庭と言うより広場の火山岩に足をとられながら上富良野寄りに進むと間もなく
  『たまゆらに 煙おさめて 静かなる
        山にかえれば 美るにしたしも』
の歌碑の所に行き着く。
これが、九條武子夫人のお手あとであることは、あまりにも有名です。
それにしても、十勝岳山頂の御影石(花崗岩)の三角柱に「光顔巍々」と揮毫したのが武子夫人の兄上の御長男で、昭和五十五年まで西本願寺のご門主であった、大谷光照師が若き日に善かれたのをご存知なのは少ないようです。
幾年か前、白金温泉からのバスを降りた登山者らしい青年に「頂上までいかれたのでは」と問うと「はい」という答えがあった。
「頂上に三角柱があって、何か書いてある筈ですが」「そう言えば、あったような気がするなあー」と言い、同行人たちは「字がむずかしくてー」「頂上という感激で全然気が付かなかった」と、私の期待はずれの返事しか聞けなかった。
ご門主様がお書きになったのに、何とかしなければと心から思いました。
地理的には、上富良野・美瑛・新得町の頂点が十勝岳なのです。逆に言えば、三町は十勝岳の頂上を
起点として、三方に拡がり今日の地形が形成されたのだと言えるのでしょう。
『武子夫人の歌碑』『光顔巍々の山頂碑』の建立には、もう亡くなられた上富良野町聞信寺第二世住職門上浄照師が非常にお骨折りになったと聞いております。
その頃のご苦労の一端でもと伺いましたが、寺務多忙とのことで、上富良野町史の一部をコピーさせていただきました。
ここから悩みが始まった。どうすればよいのか「登山だもの登ればよいのにさ」、これでは折角書いて下さった前門様の字は残っていても『光顔巍々』に含まれているお心が残らない。
それでは次の世に伝わっていかないのではないかと思う。私が病床に就かないうちに『光顔巍々』の訳(わけ)について、町内寺院の御住職のどなかたに聞くのもひとつの方法とも思いましたが、京都に御本人がいらっしゃると気付きました。
とはいえ、高貴な方が見ず知らずの私の手紙をお読み下さるでしょうかと、いくら考えても問題の解決には至りません。
そんなとき、孫にあたる豊田靖史が現われ「僕の友達で、銭函のお寺の河崎君のお父さんは、前門様と大変親しく、会議とか旅行は大抵ご一緒らしいからお願いしてみたら」と言うのです。
高貴な方に手紙など書いたことのない私は、便せんでは失礼と巻紙に筆で心をこめ緊張しながらも、どうやら書きました。
次にまた心配が増えました。手紙が着いたか、御返事がいただけるかしらー。
でも、御返事がありました(昭和六十三年六月三十日付)。それも御自筆です。胸がスゥーとしました。
前門様からのお便よりは次の通りです。
『六月初めには、おいしいグリーンアスパラガスを送って下さって有難うございました。家内一同で賞味しました。
また、小樽の河崎君を通じてお手紙をお届け下され、その中に十勝岳山頂の碑に関してお尋ねがありましたのでお答えします。
もう古いことですが、昭和十二年の二月から三月にかけて北海道のスキー旅行を試みました。
その際、二月二十八日に旭川を発って上富良野に行き、門上氏の聞信寺に立寄った上、そこから馬橇で十勝岳中腹の吹上温泉附近の道庁経営のヒュッテに泊りました。
そして翌日、スキーをはいて十勝岳の登頂を試み幸い好天に恵まれ登頂に成功し、同夜もまたヒュッテに泊りました。
もっとも、スキー登頂といっても頂上附近の雪は氷のようになっており、スキーのまま登ることはできないので、頂上の近くでスキーを脱ぎアイゼンといわれる鉄の釘のついた登山用具を靴の下に装着して頂上をきわめたわけです。
以上のような経過で十勝岳に登りましたので、当時の聞信寺住職門上浄照師が私の登頂を記念して頂上附近に碑を建てたいからと『光顔巍巍』の文字を所望され後日(多分同年の春以後)染筆して同師まで届けたのでした。
従って、文字の選定は門上氏であり十勝岳にあるのは私が実際に登ったからです。羊蹄山や芦別岳には登っていません。
文字の意味については、貴女様がお寺の出身なので承知しておられると思いますが、念のため簡単に解説します。
浄土真宗の根本経典一大無量寿経(大経)の巻上にある讃仏偈と呼ばれる偈文(韻文の讃歌)の冒頭の句がこの『光顔巍巍』の四文字で、み仏の立派なお顔をほめたたえた句です。
『巍巍』は漢和辞典によれば『富貴高顕の貌とあり、ふくよかで高尚なお顔』とでも解すべきでしょうか。
尚、巍の字は本来高いという意味なので、門上氏は山頂の碑にふさわしい文字と考えられたのではないでしょうか。
お尋ねの件、右のようにお答えします。
富良野へはその後行く機会がありませんが、最近はスキー場として世界的になっており、当時とはすっかり変っているでしょう。
右、甚だ延引ながら御返事まで。

  (昭和六十三年)六月二十九日
                            大 谷 光 照 』
※ 注 大林喜美枝さんは
当麻町の浄土真宗本願寺派、大雪山誓王寺初代住職、松倉誓雄氏の長女として明治四十年八月十日生れで、現在八十七歳の高齢ですがお元気です。
大林さんはお孫さんの、門別町富川 西光寺副住職・豊田靖史氏の助言により小樽市銭函 光超専任職・河崎義章師を通じ大谷光照貌下に積年の思いを書かれ、直筆の御返事をいただきました。
「光顔巍々」碑建立の数々の疑問が、大林さんが大切に保管されている御返書により史実的に明確に解明されました。
大林貴美枝さんのお力で「光顔巍々」頂上碑の内容について永えに伝承されていく事と思います。

                                                     著者注
四、碑建立への疑問と関わった人々の消息
十勝岳山頂『光顔巍々』の碑が建立(昭和十七年)されてから五十二年、山頂の碑は燦然と歴史を刻んでいます。
この度、昭和十八年脱稿された『上富良野村史原稿』が発見され、それにより建立に直接関わった三十二名の皆様の氏名と碑の運搬、建立時の状況が記載され、先人の苦労を偲ぶと共にその努力を讃えたいと思います。
『上富良野村史原稿』と『美瑛町大林貴美枝さん』が美瑛新聞に発表された『大谷光照猊下からの御返書』により、次の点について解明と推測をしたいと思います。
(一) 建立された年月の相違は?
上富良野町史(昭和四十二年発行)及び頂上に建立されている碑面には建立年として『紀元二千六百年七月建立』となっており、それは昭和十七年七月です。
建立の一年後に脱稿した『上富良野村史原稿』には『昭和十七年八月二十六日建立』と明確に記してあります。
建立月の相違は、当初四角柱に彫刻され、七月に建立のため頂上への運搬が行なわれましたが、石碑の重量が約百貫もあり、頂上への運搬は断念されたのでした。
石碑は下に降ろされて、四角柱を三角柱の半分にして八月二十六日再び奉仕青年の力で運び上げられ建立されたのです。
七月、八月の二回奉仕青年に加わった伊藤養市氏は当時の模様を「七月の時は頂上近くまで運び上げたが、それ以上は無理と判断され、下に降す時の急な下りが大変であった」と語っています。
(二) 揮毫を依頼した人は誰なのか?
上富良野町史の一部は、昭和十八年脱稿の『上富良野村史原稿』を数多く引用されていますが、十勝岳山頂記念碑の揮毫依頼について次の様に記述されています。
『頂上に山霊として表現すべき何物もなきを時の村長、金子浩氏遺憾となし、是非之が建立を為さんと考慮中偶々昭和十二年二月末日西本願寺法主大谷光照猊下スキーにて十勝岳登山せらる。此の機を得て金子村長は山頂の霊とすべき碑の揮毫を懇請せしに、猊下もその意義に深き賛意を表せられ自ら再度スキーにて建立すべき場所を懇切に調査し、茲に『光顔巍巍』の四大文字を揮毫せらる……』となっています。
しかし、美瑛町の大林喜美枝さん宛の揮毫者大谷光照猊下直筆の御返書には、『……十勝岳に登りましたので、当時の聞信専任職、門上浄照師が私の登頂を記念して頂上付近に碑を建てたいからと「光顔巍々」の文字を所望され、後日(多分同年の春以降)染筆して同師まで届けたのでした。従って文字の選定は門上氏であり、十勝岳にあるのは私が実際に登ったからです。……』
と書かれています。町史及び村史原稿には『金子浩村長』、揮毫者の大谷光照猊下からの御返書では『聞信寺住職門上浄照師』です。
ここに、揮毫依頼の経過について生前の門上浄照師に話しを聞かれた、上富良野町郷土をさぐる会編集委員長で聞信寺檀徒である加藤 清氏の証言を記します。
『門上浄照師は永年にわたって十勝岳を霊山として開発したいと考え、着々と実践していました。頂上碑もその一つで、昭和十二年に法主をお迎えした時に常々考えていた事をお願い申し上げたところ御快諾を得ましたが、建立に関わる諸問題には正式に村長さんから懇請していただく事が道と考え、金子村長さんにご相談を申し上げたところ、金子村長は「是非建立しよう、正式に私から懇請します」という事で、正式依頼は金子浩村長で、事前に大谷光照猊下に揮毫のお願いと文字選定は門上浄照師がされました』
門上浄照師は十勝岳に自ら建立した「九條武子歌碑」「石田雨圃子句碑」「長谷川零餘子句碑」「十勝岳爆発災害記念碑」等の大変な経験から、十勝岳頂上には村民の結集された力により建立しようと考え、金子村長にお願いしたのが事実でしょう。
(三) 建立に関わった三十二名、その後の消息
「上富良野村史原稿」によると建立当日に関わった指導者名、来賓三名、奉仕青年二十名の合計三十二名の名前が記載されている。
その三十二名の先人の皆様のその後の消息について調査をしました。

◇指導者九名の皆様は明治生れですが、消息不明の須藤氏を除き、現在の生存者は唯一人「金子 淳氏」(現八十七歳)で建立から五十二年の歴史の流れを感じます。

◇来賓三名は西本願寺札幌別院の霊山氏と聞信寺住職、門上浄照師親子で、建立の時の浄照師は最年長者の六十一歳でありながら、本間助役と共に指導者の先頭を歩き案内しました。

◇奉仕青年二十名の皆様は、十七歳から二十五歳までの各青年団の団長を含め幹部団員でありました。戦時中とはいえ、磯松義範氏は建立二年後の昭和十九年五月三日ガダルカナルにて戦死され、戦死者は磯松氏を含め三名いらっしゃいます。

中山喜好氏は建立一年後に逝去されており、奉仕青年二十名の中で物故者は半分の十名にも達し、今回の消息調査でしみじみと幾星霜の歴史の刻みを感じました。
昨年まで北海道農協中央会会長でありました床鍋繁則氏、元町議会議長の南 藤夫氏、元町議会議員の竹内正夫氏が二十名の奉仕青年中に見られ、建立時に二十代の青年であった皆様は、建立後五十余年の経た現在、各々第一線を退かれています。
今回の調査で建立に関わった皆様、そして御遺族の方々に御協力をいただき心より厚く御礼申し上げます。
●建立に関わった人々とその後の消息
当時の役職 氏名(生年月日) 当時の年齢 その後の消息 備 考 @出生地 A両親と関係
B現住所又は後継者
指導者 上富良野村長 金子  浩(明治19年3月7日生) 56歳 明治34年渡道、西中小、上富小で教員、退載し金子農場経営(明治43年)、村収入役(大6年)、村議(大7年)、村助役(大9年)、村長(昭10〜21年)、昭和24年11月21日逝去 @富山県中新川郡東谷村A清水彦十郎・ハツ 2男B札幌市中央区宮の森4条5丁目36番地 金子 淳(長男)011−611−0946
上富良野村助役 本間 庄吉(明治33年2月川日生) 42歳 富良野警察署東中駐在所(大正10年)、村役場(大正12年)、村助役(第五代)、町助役(第二代)、町立病院事務長(昭和30〜36年)平成元年7月20日逝去 @北海道虻田村A本間縫造・シモ 長男B上富良野町錦町1〜4〜4本間久子(妻)0167−45−2419
上富良野国民学校校長 牧野  勝(明治24年1月10日生) 51歳 中富良野小を振り出しに上川管内九校を歴任し上富良野小(昭17〜21年)当麻小校長で退職。昭和40年1月23日逝去 @宮城県登米郡佐沼町A牧野武三郎・きく 長男B旭川市東光11条8丁目牧野 平(長男)0166−32−7056
上富良野国民学校教頭 金子  淳(明治40年10月22日生) 35歳 昭和2年旭川師範第1回卒業生、上川管内30年、石狩管内11年の41年間教師生活を。石狩小校長で退職 @上富良野村A金子 浩・ハル 長男B札幌市中央区宮の森4条5丁目36番地011−611−0946
上富良野青年学校教諭 須藤  進(不明) 不明 上富良野青年学校−美瑛−国鉄旭川鉄道管理局研修所教官……不明
写真撮影担当 海江田武信(明治30年6月15日生) 45歳 岩見沢農学校獣医科卒、日高種馬牧場、獣医開業、島津農場管理人代理、村議(昭7年より5期)、町長(昭30年より3期)、名誉町民 昭和訂年9月9日逝去 @札幌市軽川(現手稲区)前田農場A海江田信哉・ミ子 2男B上富良野町西1線北24号海江田博信(4男)0167−45−2274
巡査部長 関根甚三郎(不明) 不明 上富良野駐在所−山部(終戦まで)−芽室(退職) 昭和24年逝去 @小樽市B関根正雄(長男)01634−54−6983
山案内人 西村 又一(明治28年3月18日生) 47歳 農業と農機具商を営み、畑は草分・水田は東中にて耕作。夏山、冬山の十勝岳を年に何回となく登り、皇族方の山案内には必ず同行された。昭和50年3月1日逝去 @香川県香川郡浅野村A西村千賀次・ムメ 長男B上富良野町中町3〜13〜55西村清己(2女 年さん夫)0167−45−4054
石工 嶺 八兵衛(明治27年3月10日生) 48歳 大正14年仙台市より移住。当町の石碑・墓碑を数多く彫刻建立される。昭和50年2月27日逝去 @仙台市八幡6丁目A嶺八三郎・ハツ 長男B上富良野町本町1〜1〜31嶺 誠(三男)0167−45−3667
西本願寺札幌別院 霊山 一宗(不明) 不明 不明
来賓 聞信寺住職 門上 浄照(明治41年1月6日生) 61歳 村社会教育委員(昭21年)、北海道教区会副議長(昭22年)、昭和4年開設の託児所「楽児園」を村へ移管(昭24年)、十勝岳開発に多大に貢献された 昭和32年1月31日逝去 @岐阜県郡上郡川合村A門上晴雲・むるゑ 2男B上富良野町本町2〜3〜32門上美義(2女信子さん夫)0167-45−2914
聞信寺家族 門上 信子(大正5年11月30日生) 26歳 農繁期託児所「楽児園」保母、父浄照師と十勝岳に毎年数回登る。第三世坊守(昭32年)、町立保育所(昭24年)、ふたば幼推園(昭40年)から現在まで、永年幼児教育に尽力中。 @上富良野村A門上浄照・ふじの 2女B上富良野町本町2〜3〜320167−45−2914
奉仕青年 清富青年団員 竹内 正夫(大正10年2月16日生) 21歳 清富小学校・上富小学校の教員(昭和16〜18年)、会社員、農業(昭23年〜現在)、町議会議員(昭別34〜41年)、行政区長、住民会長を歴任す。 @上富良野村A竹内宗吉・ハマ 長男B上富良野町清富20167-45−3805
草分青年団員 伊藤 養市(大正11年4月17日生) 20歳 昭和20年9月復員、教育大岩見沢卒、風連青年学校教頭を振り出しに上川管内11校の小中学校の教頭、校長を歴任、その間宗谷教育局指導主事・指導課長も歴任す。 @上富良野村A伊藤大助・まをよ 長男B千葉県木更津市畑沢南3丁目12〜160438-37-7258
田村 稲夫(大正11年11月10日生) 20歳 昭和18年海軍志願兵入隊、昭和20年7月9日戦死(フィリピン・パラオ諸島沖にて) @上富良野村A田村岩造・てる 8男(兄 田村石太郎)B東京都江戸川区春江町4−191田村英男(甥子)03-3652−3171
里仁青年団員 荒  猛夫(大正7年5月23日生) 24歳 弟妹11人の長男として家業の農業を継ぎ、父母を助け懸命に働き、弟妹を分家、嫁がせる。現在はお孫さんに囲まれて悠々自適の生活を送られ、老人会の集まりを楽しむ日々です。 @上富良野村A荒 猛・すみ 長男B上富良野町共進0167−45-9524
村上 隆則(大正6年11月1日生) 25歳 農業のかたわら競技スキーに挑戦し国体・全日本に数多く出場、スキー達盟理事長、副会長を歴任。公認指導員。町スポーツ賞受賞(昭53年)昭和59年11月29日逝去 @中富良野村A村上盛・イシノ 長男B上富良野町津郷村上隆司(三男)0167−45−9741
江幌青年団員 中山 喜好(大正8年9月15日生) 23歳 昭和18年9月20日逝去 @上富良野村A中山喜作、けく 3男B伊達市中稀府町83中山政治(甥子)O142−2・4―18一45
江尻 菊正(大正12年2月22日生) 19歳 昭和18年現役兵入隊、近衛歩兵第二連隊へ(終戦まで)、帰郷し江幌にて農業を営み以来農業委員・行政区長・住民会長を歴任し、現在は町立病院運営運営審議会委員 @上富良野村A江尻菊治・マツ 長男B上富良野町西6線北28号0167−45―9457
江花青年団員 萩原 清秋(大正9年1月25日生) 22歳 臨時召集(昭18年)、北千島幌筵(昭和19年)、ソ連コムソモクスク第八収容所(昭20〜24年)、帰郷(昭24年11月)、江花にて農業を営む昭和48年11月17日逝去 @上富良野村A萩原清太郎・ヤヲ 長男B上富良野町西町1〜1〜36萩原サク(妻)0167−45−3555
芳賀 邦雄(大正10年6月30日生) 21歳 臨時召集(昭18年6月)、北千島幌筵島(昭18年9月〜20年8月)、ソ連ウオシロア第二収容所(昭21年1月〜23年9月)、昭和23年10月帰郷。江花にて農業−現在西町に在住 @上富良野村A芳賀吉太郎・キクヨ 2男B上富良野西町4丁目0167−45−9044
旭野青年団員 山道松五郎(大正11年6月20日生) 20歳 昭和18年4月教育召集札使25連隊入隊、樺太気屯の要二二三二部隊へ(終戦迄)、終戦を知らずソ連軍進攻に斥候長として斥候最中に恵須取にて昭和20年8月17日戦死 @上富良野村A山道松太郎・なつよ 2男B苫小牧市有珠の沢町6丁目33番地7号山道正雄(甥子)0144−73−2360
東中青年団員 南  藤夫(大正9年9月15日生) 22歳 再応召し北千島境筵島(昭18〜20年)、ソ連ウラジオストック第10収容所(20年12月〜23年)昭和23年6月帰郷し農業、町議会(昭42年4期しその間副議長、議長を各一期す)。現在は十勝岳観光協会長、開発公社取締役社長、東中土地改良区理事長し活躍中。 @上富良野村A南石次郎・ヨシ 長男B上富良野町東6線北20号0167−45−5749
床鍋 繁則(大正11年9月20日生) 20歳 現役兵入隊(昭18年)―復員し農業、分家し網走町へ移住(昭21年)、網走市議(昭34年〜2期8年)、西網走農協組合長(昭46年〜平5年)、北海道農協中央会会長(昭56年〜平5年) @上富良野村A床鍋了作・ふよ 3男B網走市卯原内5番地5号0152−47−2432
磯松 義範(大正11年6月7日生) 20歳 昭和19年5月3日戦死(ガダルカナルにて) @上富良野村A磯松喜作・ちを 3男B上富良野町東8線北16号磯松隆男(甥)0167−45−5953
幅崎 吉男(大正11年3月11日生) 20歳 召集を受け函館二五六三部隊入隊(昭18年)高射砲訓練中終戦帰郷、三菱美唄炭鉱入社(昭22年)、同社退職(昭47年)、現在は季節労働者組合の美唄市及び南空知地区会長 @富山県下新川郡前澤村A幅崎菊次郎・つや 5男B美唄市東明4条1丁目4〜601266−3−4349
中央青年団員 岡田 吉松(大正10年8月10日生) 21歳 精米所経営、上富良野町消防団第一分団長(昭31〜35年、39年〜46年)昭和46年7月15日逝去 @上富良野村A岡田五作・キク 3男B上富良野町西町2−2−25岡田芳則(長男)0167−45−9668
六平  力(大正11年1月3日生) 20歳 昭和18年1月現役にて弘前師団入営、南方戦線(昭和19年)、復員後は農業と十勝岳乗合馬橇会社にて働く、その後農業と家具店経営、昭和51年2月29日逝去 @上富良野村富原A六平健三・ヲミネ 2男B上富良野町宮町1〜2〜33六平美子(妻)0167−45−2143
金松 一三(大正12年9月16日生) 19歳 昭和61年5月3日逝去 @沙流郡門別村A金松政治・ツヤ 5男B帯広市
島津青年団員 久保 栄造(大正8年8月10日生) 23歳 昭和18年召集、昭和20年9月復員帰郷、島津にて農業、農事実行組合長、部落会長等を歴任 @中富良野村A久保幾馬・キク 長男B上富良野町西1線北21号0167−45−9133
仲川 正広(大正14年4月7日生) 17歳 青年挺身隊入隊(昭18年)、柏航空隊入隊(昭19年)操縦訓練を経て北支の前線へ、復員し島津にて農業、頭脳明晰、スポーツ万能で青年団長歴任。昭和32年11月7日逝去 @上富良野村A仲川善次郎・すゑの 長男B愛知県春日井市上条町6丁目2469シャトー春日井408仲川 潔(長男)0568−82―4175
富原青年団員 末岡  悟(大正12年9月22日生) 19歳 生家の農業に従事し、冬期は郵便局に勤務、昭27年分家し現在地にて農業を営む。以来、部落会長、農協馬鈴薯部会長を歴任し、現在は地区老人会長 @上富良野村A末岡政一・ハナ 2男B美瑛町美馬牛福見沢0166-92−3412

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉