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シベリヤ抑留秘話 『ふるさと慕情』

高橋 七郎 大正九年三月十五日生(七十三歳)

<シベリヤラーゲル〔収容所〕>
悪夢の様なシベリヤ抑留の憶いは、苛酷なまでの悲惨な運命に翻弄された、当初の冬を迎える昭和二十年十一月から翌年三月頃迄ブラビリヤンカ収容所で厳冬の寒さと飢えと、南京虫、シラミに苛まれながらの、伐採作業時の忌わしい五ケ月間の出来ごとである。肉体は骨体になり、苦悩と失意のどん底を経たが、春の兆しと共に食糧事情も変って、二度目の収容所ピースクへ移送されてからはどうにか人間性を取り戻し、肉体的、精神的にも元の姿に返ることが出来た。
旧満州の軍人どころか、朝鮮、樺太、千島諸島の各地に在留していた軍関係者の殆どがシベリヤへ抑留され、早い者の引揚げで一年、遅い者は四、五年重労働を課せられたのである。(特種な方は十三年近く残された)
我々鉄道二〇聯隊の連中は旧満州の敦化から満州里を経てチタ、バイカル湖〜ノーシビルスクとシベリヤ鉄道を経て支線に移り、暫くの間南に下がり、アルタイ山脈の麓(外蒙古の西カザフ共和国内)へ貨車積めの輸送で一ヶ月、地の果てに流された感に呆然自失した訳である。ブラビリヤンカの山奥で冬の伐採作業に従事した五百名編成の組の内、犠牲になった者は栄養失調、作業事故等で七十名程にも上った。奈落の底から這い上がって一息する間もなく生残った四百名は、二組に別けられてコルホーズ行きとアルタイスカヤ行きとなった。
移動する度にソ連兵達からは、「東京ダモイ!!」「郷里に帰るのだ!!」と騙され続けられているので、入ソ以来三度目の収容所入りは特に関心も持たず、体力の保持に努めるだけであった。
アルタイスカヤ収容所は近くに鉄道工場が在り、火力発電所、小麦貯蔵庫等があって、作業も多種多様で日替り作業の内容も変っていった。
この収容所には最初千十二名の混成部隊の抑留者が入ったが、矢張り栄養失調に加えて冬の最中に発疹チフスが蔓延して、我々が入所する以前に二百二十八名の方が死亡されている。私達伐採組が味わった餓鬼の世と苦悩の外に別の場所で残酷なまでの惨状が繰り広げられたことを後日知ったところである。
先住の者と伐採組お互いが、地の果てを彷徨って死地を脱して人間性を取り戻した時機でもあって、失意のどん底にあえぐ兵隊達に、ささやかでも生きる希望を与えようと大隊本部の呼びかけで演芸慰問団が組織され、伐採組から私の外七、八名が加わり沢井 明兵長を団長に全線座が誕生した。
作業の要領も覚え、快復した体力で余暇が出来れば演芸の脚本づくりに精を出す様になり、伐採組から希望した三人組でアキレタボーイズの演出、度を重ねる毎に人気が湧き、名前も収容所内の隊員に知られる様になって益々意欲を燃やして演出ストーリー作りに没頭した。
<朝倉一家との出合い>
入ソ以来八ヶ月程経過した今、あの山奥の一冬の伐採作業生活での絶望と飢餓地獄から這い上がって、人間性を取り戻し、労働作業の合間に演劇の脚本造りに精を出すようになって、やっと辺りを見渡す気持が出て来た。
我々の部隊はソ連軍の支配下に入るなり、将校と兵、下士官は分離され、山奥のブラビリヤンカからピースク、そしてアルタイスカヤ収容所と三度目の移動であった。この地アルタイスカヤは十三程の寄り集りの混成部隊が収容されており、将校、下士、兵それに驚いたことに二組の御夫婦と子供連れが含まれていた。
心にゆとりも出来た筈なのに、何時になったら還えられるのか、死ぬまでこき使われるのか何一つとして情況もわからず、苛立ちの日々に稍(やや)捨て鉢ち気味になっていたことも事実であった。
幸いにソ連側にも演芸グループの評判がよく、日本人捕虜が日を追って元気になり、ハラッショラボーター(優秀な労働者)が増えた事の要因の内に、この演劇グループの働きがある点を認識し、団員の勤務も同一の時間帯にして呉れた。お陰で三交代勤務の鍛冶作業に廻ることが出来た。暖か過ぎる炉の側で働く屋内作業であった。
ある晴れた朝のこと、丁度夜間作業の明け番で、昼間のラーゲル内はガラーンとして静まりかえって居て、久方振りの解放感に浸ることが出来た。
何時も伐採組で話顆になって居る二組の御夫婦と小さな幼な児が、この殺伐なラーゲルの中に収容されていて、伝染病にも患わず、飢餓にも耐えて健在されて居られるのを見ると、仄(ほの)かな心温まる力づけと安らぎの気持ちが湧いて、望郷の念を一段とかき立てられたところである。
特にマーリンキ(小さい)幼児がロシア語をよく覚えていて、ソ連人にも人気がある風評であった。
一度はお目にかかりたいものと念願していた矢先であり、晴れた朝間の散歩がてら、人影もないことを幸いに、フラリと隣り宿舎である穴ぐら棟舎を訪れた。
物音一つしない静かな薄暗がりの室内に入り、暫くして目が慣れてあたりがよく見え始めて来ると、室の隅に独り幼な児が佇んで居るのが判った。
栄養不足であろう青白い顔に、頼の丸みもつかず、瞳だけがあどけなく手持ち無沙汰の儘に突然の闖入者を怪訝な眼差しで見つめてている。
「ドラスチェー!!」(今日は!!)と声を掛けたが無表情だ。小柄すぎるので身をかがめて話かけるがロンヤ語の方が通じるかな?……と言ってロンヤ語で昔話も出来る程でもなし。郷里を出てから六年振りの日本、いや郷里での幼児との想出への対面である。
郷里でお祝いごとや、法事の時、親せき、身内の子供達を一室に集め、よく遊ぎやお伽噺をして、子守役を一手に引受けて得意としたことを憶出して、一方的に話し始めた。室内には外に誰もいない。
「むかし、むかーしおぢいちゃんとおばーちゃんがあったとサー。おぢいちゃんは山へ、おばーちゃんは川に洗たくに……川上から大きな、大きな桃がへドンプラコッコギーコッコ、ドンプラコッコギーコッコ」
手振り、身ぶりの調子にのって独り良い気分で話をしていた。
ふと人の気配を感じて横を見ると、小柄でひ弱なお母さんが生まれて間もない乳呑児を背負い、痩せた顔を僅かに綻ばせて立っていた。
初めてであろう、また幼い子が他人から昔噺を聞いたところで解る等もないのに、遂遠く遥かな郷里に思いを馳せて昔を偲んだ一刻でもあった。
「ヤーニズナーユウ?……」(ボク、サッパリワカリマシェン……)そんな眼差しで小一時間余りの、朝倉通彦さん(当時五歳)と千代子婦人、啓介赤ちゃん一家との初めての記念すべき出合いであった。丁度演芸アキレターボーイズの人気も挙り、御主人の朝倉四男児獣医中尉殿もファンの旗頭に成られて、数少ない私物の中からチョッキ一着を私に呉れた。
これは、大切に肌身離さず持ち帰り、今手元に残る私物二点の内そのチョッキが一点となった次第で、我生涯の忘れ得ぬ一家となったところである。
尚アルタイスカヤ収容所に抑留された御夫婦の方は、現在東京在住の中野中尉御夫妻と、朝倉獣医中尉の一家四人の二組で、終戦当時は満州東安に駐留されて住んで居られた。
<家族抑留経過>
ソ連兵進入の混乱時には、家族だけの撤退も叶わず、まして身重のか弱い婦人が幼な児を連れての逃避行は到底覚束ないことであった。夫人達は断髪して、軍服に身を纏い、部隊の兵士等に紛れ込み、時には客車内の網棚に毛布をかぶり隠れ、又幼児も毛布にくるんで荷物扱いにして、息を凝らし、身を締めての輸送車内だったとか。途中で一度ソ連の将校大佐に発見されて「男は一時労働するための輸送で、女・子供の行く処ではなく直ちに下車すべきである」と厳重に申し渡されはしたものの、処置するソ連兵も来ない儘発車してしまい、遂に一蓮托生の夫君と共に抑留の身となった訳で、何かと混乱する時だっただけに致し方のない様な気もする。
アルタイスカヤ収容所では、家族を含めた将校達は自分達より一足先に移動することになり、別れの演芸をボーイズだけで催して送別の宴としたが、引揚げの早かったのは我々の方で五ケ月先に上陸していた。
尚、約半年おくれて、朝倉夫人の背に負われて引揚げられた次男の啓介君は、栄養失調で発育が悪くて、脚がクル病の様になって居て、永い間の闘病生活を送ったという由である。
<引揚後の再会>
昭和三十年二月、町役場民生課勤務のとき、遺族会靖国神社参拝団を引卒して上京の折、夜宿舎松屋ホテルから、目黒の朝倉家へ初めて訪問した。通彦君は高校生になっており、夜遅く帰宅のため顔を見ただけで、二時間余りでつのる話も打切り、夜の街を御夫婦で市ヶ谷松屋ホテルまで送って貰ったのを想い出す。焼鳥の御みやげまで頂いたが、その後昭和三十三年夫君四男児氏は逝去されて、残された夫人、高校の通彦君、中学の啓介君、小学生の三児を抱えた千代子未亡人のその後の苦難の途は、底計り知ることが出来ないところである。
昭和三十五年八月に自衛隊業務隊(私は役場から自衛隊に職を移していた)の厚生科幹部教育に入校を命ぜられ、三ケ月の小平市教育隊で教育の際、ある日曜日に五年振りに朝倉家を訪れた。シベリヤで五歳の通彦君も日本大学獣医学料の一年生に成長されていて、鎌倉、江の島までのドライブの接待をうけ、通彦君の従姉妹の望月陽子さんも同行して賑やかな旅であった。
昭和三十八年七月、日本大学獣医学科卒業記念の北海道観光修学旅行に参加した通彦君が、札幌で解散した後、友人達と五名でわざわざ私宅を訪ねて立寄って呉れた。
まだバラック建ての我が家に、立派に成長された大男一行の訪問に大慌て、寝ぐらも一室に雑魚寝して貰い、布団から足が出る、手が出るの大騒ぎ!!でも各人の洗濯、入浴等で一日のんびり休養して頂いて、翌日青天だったので十勝岳噴火口に案内した。
当時はまだ凌雲閣だけが建った許りで、道路も翁跡(今のバーデンかみふらの横)から直線で南斜面の細い山道だけであり、バスの終点も翁跡までだった。その地点から登り始め、日帰りのため凌雲閣前を通り、化物岩、八ツ手岩から上ホロカメットク岳へと登った。丁度昭和三十七年十勝岳爆発後一年経っていたが、頂上附近は登山禁止になっており残念ながら上ホロ岳で打切り(一行の内上林君は若さに燃え、三十分駆け足で頂上征服、飛ぶ様に戻って来た)、雲も山裏から張り出して来たので慌てて旧道直線コースを小走りなから旧噴へと降りる。旧噴火口近くまで降りた時急に煙が我々をつつんで仕舞い、西も東も全々わからず、噴出音だけが響々と耳をつんざく中で一行は岩場にしがみついた。五里霧中、生きた心地のない数十分間が経って、どうやら煙の方向が変って夫婦岩から化物岩も見え始めた。遥かな下界までが全貌を現わして来てやっと一息つき、地獄から天国に舞い降りたとはこのことかと暫く呆然として周囲の景色に見とれていた。
噴火口の真中を通り抜け、誰かの造った露天風呂(当時は登山道沿いに温泉が流れており、岩石でせき止めたり堀り込んだりして露天風呂として楽しんだ)に歓声を挙げて飛び込み、岩から岩へと素っ裸で飛び廻って、附近の観光客など目に入らない有様である。
北海道観光で各地を観て廻ったが、初めて北海道らしい自然の中に飛び込んだ気がして、この儘何十年もこの自然の姿であって欲しい!!と賞賛の声を残して上富を離れて行った。友人の名前は上林、川俣、生子、古屋、朝倉の五名の諸士で、現在朝倉通彦君は動物病院長、外の各氏も健在で各動物病院、会社、県庁等で活躍されている。
その外昭和四十一年八月に、次男の啓介君(シベリヤ抑留中に生まれて、最初の出合いの時千代子夫人の背中に負われていた赤ちゃん)が日高牧場にアルバイト稼働中、余暇に来町されたので、娘二人と共に三段山頂迄案内して露天風呂も味わって貰い、富良野迄送って別れた。
<おわりに>
昭和二十二年五月引揚げの為アルタイスカヤ出発、シベリヤ鉄道を約一ヶ月、走りに走ってナホトカ迄貨車で輸送された。今の航空機なら数時間のところを臨時列車で合間を縫っての走行とは申せ、地の果てから戻った様な気がして、今想い出しても郷里の空は遥かに遠かった。
物心がついてから七十年、三年に満たない暗いシベリヤでの暮しは人生の半分をも過ごした思いであり、尚更その感が深い。
朝倉御一家も昭和二十二年十一月に引揚げされて、以来折りにふれて訪れ、遠慮のない心安いおつき合いを願っているところである。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉