郷土をさぐる会トップページ     第12号目次

続・ガキの頃の思い出と昭和十一年頃の街並み

佐藤 輝雄 大正十五年五月十五日生(六十七歳)

はじめに

今から約五十数年ほども前に遡上る私のガキの頃の思い出は、何を措いても先づ第一に兄弟、友と、近くにある大きな自然を相手として遊んだことである。
歳月を経るごとに、心に残っているこれらの思い出は昨日の出来事のように思われて懐かしい。
だんだんと足腰が弱り、体のあちこちも痛んでくると、なお一層強く思い出され、ときには涙を伴うこともある。心も徐々に子供に還っていくからであろうか。ガキの頃の忘れ難き思い出を、古老、先輩、友人から聞いた話と私の記憶を継ぎ合わせて前号に引続いて綴ってみた。
街並みの図化については、前号でも述べた如く多くの方々の御尽力を得ながら作製したが、家屋の位置、居住者の氏名間違いなどはあると思われる。
何分にも年月の流れ過ぎた遠い昔のこととなった現時点の調査では、間違いは致し方のないものと御理解されてお許しをいただきたい。
「楽児園」での幼児教育
本誌『郷土をさぐる』第六号で[上富良野幼児教育の始まり]と題して、門信寺の住職・門上美義氏が述べておられるように『上富良野村』の託児所として[楽児園]なる名称で今日で言うところの幼稚園が昭和四年に開設され、春と秋の農繁期を前期と後期の二期に分けて一定の期間幼児を預り、それなりの教育が行われていた。昔を顧みると、農家は子供の送り迎えが大変なためか殆どの子供が街の子であった。私も鼻垂れジャリの一人として昭和七年に二期の教育を受けている。教育内容は小学校教育の前段として必要と考えた簡単な数の数え方、童謡・遊戯・それに善悪の分別指導などであった。
「人の物を取ったり、嘘をついてはイケマセン」・「兄弟や友達とは、みな仲良くしなければイケマセン」・「みなさんを育ててくれているお父さんお母さんに感謝して、みなさんが大きくなったら大切にしなければイケマセン」
即ち、今日教育界で未だに議論されていると聞く『道徳教育』は、幼いジャリの時代から親の意見と共に楽児園でも教わっていたことになる。
楽児園、その施設は本堂と境内の広場であった。雨の日の自由時間は、ジャリどもは御堂前の畳敷きの大広間を、「ここは狭し」とばかりに走り回り、飛びはね、転げ回って遊んだ。……気がつくと、住職が御堂の端で眼鏡の縁越しに大きな目でジーツと見据えて無言の注意を与えていた。
境内には、滑り台・ブランコ・砂場などがあり、保育時間が終わっても家に帰らず、境内に寄り集まってきた寺の近くに住むジャリやガキと一緒に再び遊ぶことが多かった。
悪さをして住職に叱られなければ、寺の近所のガキどもにとって『持って来いの良き遊び場所』は、遊び用具が揃っている門信寺の境内であった。だが、元気が出過ぎると眼鏡を掛けた住職が出てくる。
住職は近所のガキどもに、当時の満州で馬賊の頭目であった『馬占山(ばせんざん)』の名を、ニックネームとしてつけられて悪ガキどもに親まれ、また、ときには怖い存在の和尚でもあった。
住職は[日曜学校]なるものを設けていたようだ。年長の子供達を対象として仏教を通じた教育を行っていたと記憶している。日曜日にあたる日、境内に遊びに行って戸口に近付き、内部で行われている教育を覗き見して、お経である『正信念佛偈』の教文の三、四行をいつとはなしに覚えてしまった。
家の茶の間で手遊びをしながら、無意識のうちに「きみょうむりょうじゅにょうらい なむふかしぎこう ほうぞうぼうさついんにじ…」(帰命壓无量壽如来 南无不可思議光 法蔵菩薩因位時…)と唱え、これが狭い部屋にいた母の耳に入り、「何をハンカクサイ(ばかみたいな)ことをブツブツ言ってるのサッサト、(早く)表に行って遊んできな!」と一喝され、部屋から追い出されたことがあった。
昭和七年、この年にジャリの私は『酋長の娘』という歌を覚えた。
父が唄い、わが家に稼ぎにきていた若い衆も唄っていたので、いつしか総てを聞き覚えてシャーシャーと軽く唄いこなすことができた。空に向って高く幼き声を張りあげて唄う『夕焼け小焼け』・『七ツの子』などの歌よりも、ジャリながら感じるに何んとなく体にハズミがつくようなリズミカルな歌で、節回しも良く、楽児園で教わる歌より好きだった。
♪ 私のォーラバサアンー、酋長の娘ェー
   色はァー黒いがァー南洋じや美人ンー
♪ 赤道ォー直下ァー、マーシャルゥ群島ォー
   椰子のォー木蔭でェー、テクテク踊るゥー
ラバさんや赤道直下の意味も知らずに、昭和初期における世界経済の大恐慌の余波が未だ残っている世情も、わが家の経済状態も全くわからず、当然意味も解せぬジャリの私が生まれて初めて覚えて唄った流行歌(歌謡曲)が、『酋長の娘』であった。
振り返って見ると経済不況の中から生まれたようなやるせない世情の憂さを吹き払うように、
♪ 踊れェー踊れェー、踊らぬ者にィー
   誰がァーお嫁にィー、行くゥものかァー
まさに、「歌は世に従れ、世は歌に従れ」と世俗の例え言葉にあるごとく、この歌は当時の世情を反映して作られたものであったろう。
このように、楽児園の託児教育とは別に、親の躾(しつけ)の基で伸び伸びと、昭和という時代の初期をジャリとして育ってきた。
歌手の東海林太郎、松平 晃などが世に出てきて『国境の街』・『サーカスの唄』が唄われ始め、これらの歌を覚えて唄ったのは私がジャリからガキになって間もない昭和十年から十一年頃だった。
師走と正月
正月を迎えるにあたって何かと気ぜわしい師走は、二十五、六日頃からガキも巻き込まれて正月の準備に急(せ)き立てられるようになる。
家・納屋・畜舎の清掃にまず駆り出され、次は餅搗(つ)きである。「九餅は忌まわしいもの」として、現在もそうであろうと思うが二十九日は避けて搗いてきた。
朝、暗いうちから起こされる。搗き手は父、相取は母と決まっており、七臼も八臼も搗き、餡餅(あんもち)を作るときがガキどもの出番である。母が餅に餡を入れ、ちぎって伸ばし台に手際よくコロン、コロンと投げ落とす。これを私と弟、妹達は奪うようにして手繰(たぐ)り寄せ、丸く形良く仕上げるのだが、ガキどもが仕上げた餡餅はイビツで幾度となく父母から注意をされながら仕上げていった。電気炊飯式の餅搗き器が無い時代である。蒸籠(せいろ)と釜を用いて餅米を蒸気で蒸して行うのであるから結構な時間が掛かる。両親の家系がどちらも四国なので、その影響を受け継いだ故か、餡餅を非常に多く作らされた。
この餅搗きほど嫌な手伝いはなかった。現在に至っても餡餅が好きでないのは、ガキの頃の餅搗きの故だと確信している。
ガキの私ども兄弟が懸命に手伝うのは、それぞれが目の前にきた正月に、遊び用具を買って貰いたいがために外ならなかった。
師走もあとわずかなこの頃になると、街の本通りは正月用の物資を買い揃える農家の馬橇で界隈は賑わった。各商店は、自店の誇示と購買力を煽(あお)るため、大売出しの幟(のぼ)り旗などを立てた。
当時の冬道を利用するのは人と馬。自動車は走らず、当然冬道を除雪する車などもない。道の側に積み上げられた雪堤も見当たらず、降った雪や屋根から掻き降ろされた雪は道路に放り投げられ、その後適宜に踏み均らされて道路はいつも幅広く効率良く使われていた。
商店の中には、馬の繋留杭を店前に設けて利便を与えたところも相当あり、街にきた馬橇や箱馬橇(馬橇に人や荷物を乗せる箱を付けた馬橇)は、電柱にも繋留され、馬は飼い葉を与えられて主人の帰りをいつまでも待つという光景が、小さな田舎街の随所で見られた。
師走の急(せ)く賑やかさの裏側においては、指を三本も立てれば年を越すとあって、売掛金の回収に東奔西走する商店主がおれば、相手の方も金策の工面にこれまた走り回り、ときには肝を据えて諦め、返済猶予の答弁内容に苦慮しながらも機略を考えて年を越したと聞いた。私の家でも両親が額(ひたい)を寄せ合ってヒソヒソと語り合っていた暮れが幾度もあった。
三十一日の午後二時頃から、年越し用のソバ打ちを始める。これも力のある父が捏(こ)ね、母が打ち、ガキの子供達で茹で揚げる。経済的な面を考えてのことと思うが、三度が三度家族一同七人で食べても四日分は裕に余るほどの量を、一度に作り上げるのだから大変であった。
年越しの夕餉(ゆうげ)のソバを食べ、明憲寺が打つ除夜の鐘がなり始まると、父の合図で家族一同は身繕いをして神社に向かう。
小学校グラウンドの雪を踏み締め、最短距離で斜めに突き切って進む。雪の多い年などは、父母の歩いた足跡にガキの私どもは自分の靴を踏み入れるようにして進んだ。上富良野神社に参詣し親と共に鈴を振り鳴らして、新しき一年の幸せを祈ったものだ。
新たな年を迎えた拝殿前の混雑は、ガキの頃から五十数年を経た今日に至っても知る限りにおいて、多くの参拝者が幾列にも並んで蟹の這うよりも遅い歩みで、社殿の鈴にすがりつくまでのその有り様は、未だに昔と何ら変わっていない。参詣を終え家に帰り、それぞれ各自が求めた『お神籤(おみくじ)』を母は総てに目を通し、一枚ごとに一喜一憂しながら語り聞かされ、短い団欒(だんらん)の時を過して眠りにつく。

上富良野村市街地附近の空中写真(昭和22年)  省略
上官良野町市街地附近の室中写真(平成2年)
   省略

新年の朝は遅く起き、ガキどもは父母に新年の挨拶を済ますと『お年玉』が貰えた。年上の私が二十銭(当時、醤油一升が二十銭ぐらいだったと思う)、弟、妹達は十銭だった。その後は食卓を囲み新年を祝うのだが、今日のような贅沢な、お節料理など思いもよらぬものであった。甘煮・黒豆の煮物・数の子・蛸の酢物・煮魚・茶碗蒸・それに雑煮が加わる程度のものであり、甘煮に使う肉、だし汁に使う肉類は、家計の助けにと日頃家族一同で飼育していた鶏が二羽、豚一頭の半身分の一部が使われていた。
私達ガキどもは、暮れに買った遊び用具である凧とカルタ・双六、羽子板で遊び、近所の遊び仲間の家にも押しかけて互いの遊び用具で遊び呆けたものである。
正月元旦の思い出で、今も頭の中に鮮明に残っていて忘れられないのは、花街のお姐さん方の艶(あで)やかな姿での年始挨拶回りである。
昼近くであったろうか、料亭『のんきや』お抱えの芸者であるお姐さん方が六人程、美しい着物姿で襤褸(ぼろ)家に住む私の父に年始挨拶に来たのである。この来訪は、父が職業上で日頃『のんきや』を利用していたからであろう。
「本年も昨年同様の御贔屓(ひいき)御引き立てを下さいますよう…」云々の趣旨挨拶に、父が謝辞を述べ祝儀を渡し、更に小さな杯で各自に酒を振る舞うと、着物の褄(つま)をより一層摘み挙げて、一段と高い戸口の敷居を跨いで長屋のわが家を去って行く。
予め用意して置かれていた名刺受台のお盆には、小さな可愛らしい名刺が残されていた。難しい漢字が読めぬガキながら、父が日頃名を挙げる芸者名から、置かれた名刺には『雛子・菊代・〇〇……〇〇○』などの源氏名が刷られていたと思うが、襤褸家に似合わぬ情景は目に焼きついている。
艶やかな姿の芸者衆が褄を取りながら神社に参詣した後、市街地の得意様を対象として挨拶回りをすることは、当時四軒ほどあった料亭が、当時の静かな元旦を迎える田舎街の正月に商売繁盛を願って行ったことは勿論としても、旅回りの一人獅子舞いや三河万歳(みかわまんざい)的な二人連れの訪れなどと共に、街の通りに彩りを添えて美しさを与えてくれたことも確かであり、当時ガキであった私の思い出として、今でも非常に懐かしく心に残っている。
十勝岳爆発後の復興も順調に進捗し、昭和初期の経済不況も乗り越えられた時代に、初売りの景品に箪笥一竿を与えた店があり、引当てた当人は仰天して、「大きな福は災いを招くのでこれを分け与えねば」と、紅白の饅頭を注文して近隣縁者に配ったという。
時の移りと共に、商店側は前夜からの忙しさ煩わしさなどを避けるため、福引手法から宝探しの手段に変え、購買力をより一層煽ったらしい。
『宝』とは、お金の一銭・五銭・十銭・五十銭玉、また紙に賞品名を書いて固く巻き、これを餅やミカンの中に入れたものだったと聞く。
この『宝』を軒先の箱の下とか、旗竿の先端、雪の中などに隠して、合図によって一斉に来店の客に探し出させたそうだ。
この射幸的な行事は、新しき年の初売とあわせ、『宝探し』として人気があり非常に賑ったようだ。
一銭で小さな飴玉が六、七箇。豚肉一斤(きん・六百グラム)二十銭。白米一俵が六円くらいの貨幣価値の時代である。
二日の午前一時、二時頃から農家の箱馬橇が本通りの己が目的とする商店前に集まる。マルイチ十字街の一角に炭火が焚かれ、集合した人々に暖を与えたとか。販売実績を揚げようと、四斗の酒樽を用意して桝酒を振る舞って競い合った店も出たそうだ。

ガキの遊び場、マルイチ薬局前。
(写真は現在のもの、印字は昔の交差点の角地家屋などを示す)
   省略

午前四時から五時頃までには買物を済ませ、貰うべき景品を貰ったら、驚くほど多く居た箱馬橇は潮が引くかのように、その姿は本通りから消え去っていったという。
鉄道踏切りを一歩越した寂しい本町に住むガキは、宝探しなどのあること事態、親からも知らされず、心地良い眠りからゆったりと目覚めて二日の朝を迎える。今日は店の開く日だ。改めて新しい双六、カルタなどを買い求めるため、貰ったお年玉を握って家を飛び出しマルイチ薬局に向かう。
街では幟旗を立てた初荷の馬橇が掛声も高く、威勢良く高らかに鈴の音を鳴らして回り始めていた。
時折、ミカンを投げ与えてくれるので競って拾ったものである。
暮れと年明け早々に買い求めた遊び用具で正月期間は退屈せずによく遊んだ。女のガキ達は、羽子板での羽根打ち・お手玉・綾取りで遊び、男のガキと共に遊べたのは、カルタ・双六・切り絵で作られた眉・目・鼻・口・耳などの部分片をオタフクの顔の輪郭が描かれた絵図に、手拭などで目隠しをして、手渡された部分片を感を頼りに据えていく、オタフクの顔作りなどであり、ときには親達も加わり、本当に皆、仲良く遊んで正月を楽しんだ。
唯一つだけ残念に思うことがある。それは凧揚げの遊びであった。街は盆地の中央に位置し、周囲には距離を置くが山岳も在り、近くには多くの丘陵地帯を持ちながら、ひと冬で横殴りに雪が舞う吹雪の日はめったに無かったと記憶している。春から秋まで南から常に吹きつけてくる芦別岳の吹き下ろしとも言うべき季節風は、市街地附近では冬に入るとピタリと止まる。雪はほぼ垂直に降り、斜に降ることは極めて少ない。凧揚げで楽しんだという思い出の印象は特に持っていない。
スキー滑り
四、五歳のジャリの頃、父が家前に雪を積み上げ小さな坂を作ってくれ、スキーも与えられたので自然とスキー滑りに馴んで、滑り遊びの面白さを覚えていった。
小学校の一・二年生の頃からは、近くの東一線北二十七号(現在の日の出二下)にある佐々木春吉さん宅裏の、通称成田山と言われていた丘の斜面までよく滑りに行った。当時はこの成田山のほかに、五丁目橋を渡った右先のマルイチ山、墓地横の垂水(たるみ)山などが大人を含めた滑り場であった。
ジャリどもには停車場の入口前の坂、小学校の池縁の傾斜地などが遊び場であったが、ジャリもガキも、自分に見合った自宅に近く滑り易い最適の場所を見つけて、それなりに楽しんで滑っていたようだ。
スキーで滑りに行くと行っても、現在のような立派なスキーや、スキー服は勿論のことアノラックも無い時代である。オーバを着て滑ることは敏捷さを欠くことになるので普段着の下に更に厚手の衣類を重ね着して、転んでも袖口から雪が入らぬように肘まで届くような手袋を履き、スキーはゴム長靴を履いたまま滑れるような突っ掛け式で、皮紐に折畳みの金具が付いた留具をゴム長靴の踵部の上で固定する簡単なものであった。
滑りに行き夢中で遊び、時刻に気が付き帰る頃は、(何れる)
疲れてガオリ(精根つきる)、バッタ(倒れる)寸前の状態がたびたびであった。今日のようにリフトなどない時代である。
服やズボンの裾から幾条もの細いツララが垂れ下がり、母の手作りの手袋もシバラセ(凍らせ)、鼻水を垂らしたオゾイ(お粗末な)姿で暮れ始めた帰り路を、スキーを担いで歩く気力も失い、スキーを履いたままどうにか足を引きずりながら家に帰る。
「また遅くまで遊んできて……。手袋まで……、こんなにシバラシ(凍らせて)て寒くないの……。手まで……、こんなに……。ヒヤッコク(冷たく)して……。風邪でも引いたらどうするの、いつも言ってるでしょう、ハンカクサイ(ばかみたいな)ことばかりして」
遊びの都度母に叱られたが、不思議にも風邪は引かなかった。ガキの当時は、私も頑丈にできていたのだが……。

ここまで滑りにきた
(墓地手前南側より望む現在の垂水山)   省略
スキーで滑った成田山
(写真中央の家裏の丘の南向き斜面)
     省略
鰊の開き干し
三月に入ると浜では鰊が取れる季節となり、気温の温かさが感じられる下旬ともなれば鰊漁は最盛期となり、田舎の村にも大量の鰊が入荷してくる。
肥料用として魚粕にされるほど穫れた魚なので、価格も相当安かったと思われる。丁度価格の安い時期を狙い、わが家でも大きな魚箱を、四箱も五箱も買い込んで鰊の開き干しを作る。
「明日は鰊の始末をするから、おまえ達も遊びに行かないでチャント(しっかりと)手伝わんと駄目なんだよ。遊びになんか行ったら承知しないよ」
土曜日の夜、母から手伝うことを申し渡され、念を入れた釘を打たれる。
翌日鰊が運び込まれると早速作業が始まる。母が包丁を手際よく使い、鱗(うろこ)を剥ぎ頭を切離し背割をしてから私らに寄こす。
私らは、それを開いて白子と数の子を取り出して、区分けされた容器に収め、魚は水洗いした後、母が予め用意しておいた容器に入った薄い塩水の中を潜らせ、尾の根元に切り口をつけ、その切り口に細い縄を通して二匹一組で竹竿に吊るせるように縄を結び、仕上げていく。
この手伝いは非常に面白味があり、ハッチャキコイテ(夢中になって)、妹、弟達と働いたが、辛い仕事とは感じなかった。
さて、鰊を開き干しにしてからが大変なことになってくる。
毎日食事の都度、錬の開き干しが飯台(食卓)に出てくる。学校に持って行った弁当も蓋を開けると焼いた開き干しが入っている。普段は毎日魚を食べていないから脂の乗った大きな身の厚い鰊は実にうまかった。だが、日が経つにつれて味にも馴れ、開きの身が乾燥して固くなってくるのでうまいとは思わなくなる。それでも開き干しは毎日決まったように食事のときには姿を見せる。いくらガキでも、こう出てくれば開きの臭いが鼻に衝いてくる。コッタラモノ(こんなもの)≠ニ思うようになる。そのうち、身に箸を刺しても中々容易に身が解れなくなる。次の日も、更に次の日も、食事の際の飯台には、大きな皿に焼かれた開き干しが出てくる。両手を使わないと身が解れない。もう食べるのもユルクナイ(容易ではない)。
こうなれば、吊るしてある納屋に行くのも嫌になる。納屋に行き、ぶら下っている鰊を見ると一日も早く『身欠き鰊』になってくれればと願った。
贅沢のできるような家庭でもなく、安いときに大量に買って栄養を摂ることを考えたのであろう。
鰊の開き干し。現在では一枚が結構な価格で売られているのを見るときに、昔の自家製品の開き干しが思い出される。
サルカニ捕り
ガキにとって、鰊が食べられる季節が来ると、それは長い寒い冬が終りに近づき、ネコ柳が芽吹く春が目の前に訪れたことを知る。
鰊が村全域に行き渡る頃、街の一部のガキどもは一斉に戸外活動を始める。行動をするのはサルカニ(学名ザリガニ)捕りである。ガキどもは、居住区(遊びのなわばり)ごとにそれぞれ永年にわたり先輩から教えられ引き継いできた穴場の小川に、鰊の頭を十箇ほど持って出掛ける。
私の捕り場は、東二線北二十七号地先(現・日出二上)、米谷さん宅前の小川であった。
三月中旬を過ぎてもまだ積雪が多く、田畑は深い雪の下にある。
ガキどもが動き出すと、現在の小玉外科医院の附近から日の出公園キャンプ場辺りまで、ほぼ一直線にガキどもの往来で踏みしめられた巾狭い雪路が短日のうちに出来上がる。
私も、見様見真似で覚えた手法によって、鰊の頭を五箇ほど針金の輪に通した餌を木の棒の先に結え、他に予備の頭を小さなブリキのバケツに入れて川に出掛けた。
どこの社会でもそうだが、物事には規則・慣行などがあり、これらを遵守し、決して乱してはならないのが一般的常識である。ガキの社会も全く同じで『長幼の序』の慣行は生きており、乱すことは大変なことであった。乱せば体に痛さが伴うことを承知し、覚悟したうえで行うので度胸が要る。
居そうな場所を探して選び、棒の先を川底に刺し餌を沈めた。―離れた所から声が掛った。
「何んだ、おまえ。おれの場所に来て……、そこにおれの餌が入ってるべ……。見えるべ……。おれの場所なんだからチョウスナ(いじるな)よ。……あっちへ行けや、……こっちへクンナ(来るな)よ」
念を押されてその場を追われた。良い場所に餌を入れたと思ったら年上の子が既に確保していた場所であった。彼は他の場所でも捕っており、二股掛けて場所を確保していたのだ。……川底をカッチャキ(引っ掻き)回してから他に移りたかったが、年上の子なので怖く、思うだけで止め素直に移動した。
このサルカニ捕りで私の融雪期からの遊びは開始され、餌である鰊の頭がボロボロに崩れ、匂も味も無くなり、カニが寄り付かなくなるまで遊び呆けて西空が茜色に染まる頃家路に就き、心いくまでガキなりにストレスを十分解消したものである。
この思い出の川縁を歩いてみたが、今は川岸が盛り上げられて川幅も狭く、昔の情緒ある箇所は見当らず、多くのガキが寄り集まってサルカニを捕ったのが夢のように思えた。嬉しかったことは、僅かな長さの区間であったが川縁がコンクリートなどの護岸もなされず、自然のままの姿で残っていたことである。ピョンと飛び越え向う岸に移り、昔を確かめてみた。然し、この残された微々たる自然の姿は、いずれ近いうちにその姿を消すことであろう。

サルカニを捕った小川。
(昔は川幅も広く、川岸も非常に低かった)
  省略
小銃射撃場の弾拾い
朔北の地の中央に位置するフラヌイ、この盆地も三月中旬頃から雪解けが始まり、四月も十日を過ぎる頃には白一色の田畑は黒々とした地肌を表す。ふきのとうが田舎路の肩に芽を出し始め、春の息吹きが感じられる時季の四月十日は、上富良野村在郷軍人会が主催する小銃による年に一度の実弾射撃の大会日である。
参加者は毎年約二百五十人ほどであったという。
宮町三丁目に住まわれる加藤 清氏の語るところによると、大正四年五月十一日に現在の日の出公園地先に小銃射撃場が新設され、当日記念すべき第一回小銃射撃大会が実施されたと言う。
大正十四年、コンクリート構造の掩蔽場(えんぺいじょう)が築造され、射撃大会の実施日も、農閑期の四月十日と定められ、以来この日を変えることなく実施されてきたようだ。

小鼓実弾射撃場と標的場。
(手前高台畑地から前方山据の掩蔽攻上の標的を撃った)
  省略

撃つ場所は、現在の新町五丁目六番三十三号から三十五号に居住される長岡長一、西島 豊両氏宅の裏に当たる畑の高台である。
この地点から、距離にして約二百五十メートルほど先にある、日の出公園の山裾際に設けられた掩蔽壕上の標的を狙い、支給された一人当り五発の実弾を撃って技を競ったのである。
コンクリートで造られた掩蔽壕の中には、標的と得点の出し入れ、並びに射撃時点の可否を合図する要員が配置されていた。標的類は三箇所より出し入れされ、三人の射手が手前高台の畑で、横一列に並び、地上に敷かれたテントの上に伏し、標的に向かって弾を撃つ。
ダンー≠ニいう瞬発的な高く鋭い音に続き、シェアーン……=B弾が空気を切り割いていく音が山裾一円に反響し、長い余韻を残して響き渡る。
この実弾射撃の競技を、離れた位置から一般観衆は固唾(かたず)を飲んで見物している。その中にガキの私も交じっており、撃つ度ごとに「スゴイナー!!、モノスゴイ!!」と驚き、心の中で(大人になったら撃てるんだ)と、期待感を抱いて見ていた。
やがて射撃競技の大会が全て終り、一定の時間が経過すると、いよいよガキどもの出番となる。
それは的場の背後の山肌に刺さり込んだ弾を、掘り出して拾うことが出来るからである。街で売っている玩具類の中には絶対に無い物が目の前の土中にあるのだから、目の色を変え、懸命に木の棒で土を掻くのだが、殆んどの弾は土中の石塊に当って無残な形で潰れており、先端部だけ潰れているのは良い」方であった。
高学年の子に「これは去年の弾よ!」と、ほぼ完全な形をした弾の底に鉛を熔かして流し込み、小さな鎖を接合して首飾りに作りあげた弾を見せつけられているので、同じような弾が出てこないものかと、懸命に土を掻き起こし弾を探し求めた。
昭和二十年七月。私は第二次世界大戦が間もなく終ろうとすることも知らず、その直前に、駆け込むような体(てい)で軍隊に入った。
ガキの頃、「大人になったら撃てるんだ」と、期待していた望みは、入隊後、銃が余っていたのか兵員が不足していたのかはわからぬが、九九式短小銃という銃身の短い小銃が、班員一人当り二丁も与えられて、毎晩これの手入れに苦労させられた。挙句の果てに手入れが悪いとビンタを食らい、居た場所が埼玉県の所沢航空隊であったがため、八月に入ると連日休みなく米軍の艦載機による波状攻撃を受け、ロケット弾や機銃の連射を浴びせられた。
航空兵でありながら二丁も小銃が与えられ、撃つことができる弾は一発も与えられずに逃げ回り、ガキの頃に抱いた期待感は淡い夢と消え果てたが、結果的には逆に命が助かり、故郷を遠く離れて毎日のように思い画いていた父母と十勝岳に、再び会える美しきわが村に帰って来れた。
今年の六月下旬、幼年期から青年期まで的場である掩蔽壕の傍らで暮らし、現在本町三丁目に居住している田中敏夫氏が、「的場は現在も残っているが……」と、話されたので請うて願ったら案内してくれた。
「確か、この辺だと思うが……もっと先かな?」
田中氏が懸命に草を掻き分けて探してくれる。
「あった!、やはり、ここだった」
田中氏が指で示す箇所にコンクリート造りの的場である掩蔽壕が、昔のままの姿で草薮の中に損傷もせずヒッソリとあった。……(兵者共が夢の跡か)……そう感じさせられると、寸時、語り合う言葉も失い、五十数年の歳月の移り変わり様に、夢を追い続ける寂しさを覚えた。
ダンー=Aシェアーン……
ダンー=Aシェアーーーン……
今も遠いその昔、目を輝かして聞いた日の出の山裾で反響した音が、何故か忘れられない。
春一番の遊び
在郷軍人会による実弾射撃大会が過ぎると、大地も乾いてくる。ガキどもは必然的に乾いた遊び場を選び、春一番の遊びに入る。
街のガキどもが遊び場として選んだ場所は、停車場(駅)前の広場とそれに続く構内の吹抜き倉庫・大雄寺境内・門信寺境内・小学校のグラウンド・小学校横の池の縁・マルイチ山・マルイチ薬局前の道路などほかであったようだ。外にもあるが、それぞれが自分に適した利便な場所を選び、遊び場と決めていた。
私の遊び場所は、マルイチ薬局(現在位置では中町二丁目松竹会館パチンコ店跡)前の道路で、家の手伝いを済ますと、鉄道線路を越えて遊びに行った。
集(つど)い屯(たむろ)するガキどもの顔触れは殆んどの者が、いずれもサルカニ捕りをした顔馴染みの連中である。
この場所に多くのガキどもが好んで集まるのは、本通り(旧国道)と異なり馬車の往来が少なく危険が無いこと、路幅も広くて、天気が良ければ嬉しいことに、日永一日燦々と日光に浴することができる最良の場所であることを、ガキどもは十分に承知していたからである。市街の名だたる腕白小僧の総てが集っていたと記憶している。この場所でガキどもは大いに遊び、喧嘩をし、コミュニケーションを持った。
親の仕付けや学校教育以外に、己れ自身で遊びの体験を経た中から、更に事の道理の善し悪し、要領も覚え、心も強くなって育ってきたと思う。
冬の間仕舞い込んでいた打ち独楽(こま)、投げ独楽・ビー玉撃ち・釘撃ち・金輪回し・竹馬・三角馬・パッチなどを持ち出してきて、路上に散乱している馬糞(ばふん)も意に介さず、自分で作った独楽を紐付棒で打ち回し、紐を回き付けた独楽を地面に強く投げつけては楽しみ、相手が地面に撃ち込んだ五寸釘に自分の釘を撃ち付け、当って倒せば自分のものになるので夢中で撃ち続ける。薪ストーブの上蓋の金枠から作った金輪を、太い針金で細工した押し棒で器用に押してシャリシャリと音を立てながら廻して走った。またビー玉撃ちやパッチに興じ、取ったり取られたりした。特にパッチ遊びは春一番の遊びの代表的な遊びであった。一銭で二枚しか買えぬ大きなパッチをデカ判(別名五厘判)と言ったが、このデカ判が相手の小さなパッチで哀れにもひっくり返されて、一日の小遣いが吹っ飛び、泣きべそをかくガキなど、大勢のガキどもが春うららかな日よりの中で、各組に分かれて大声で叫び、喚き、または泣き、あるいは笑い合い、春一番の街のガキどもの遊びはこのような、賑やかな中で始まった。
「なんだ、おまえ。…ヘナマズルイ(承知の上でのずるさ)ことして……。服のボタンを外して遣ったらすぐひっくり返るのはあたりまえだべや。……知ってるべよ、そんなバフラ(強く煽る)風起こしてパッチやるなら、ガメル(盗む)ようなもんだべや……。
……ヘナマズルイやつだなぁーおまえとやらん、止めた。……もうカテテ(仲間に加える)やらん。おまえならバンキリ(いつも)だもな」
「なんでおまえチャランケ(文句)つけるのよ。……ボタンを外したぐらいでバフラ風が起きるか」
「起きるべよ…。パッチ撃ったとき、服の裾でバフラ風起きるべよ」
「ボタン外したぐらいでなんだってよ。おまえだって前にやったべよ。……。なに言ってんのよ。このガンベ(頭にできものができた者)かき」
「おれのどこがガンベよ=@おまえこそなんだ、……このタクランケ(ばか者)」
「うるさい、このガッチャキ(痔病持ち)。……おまえとはしない、おれも止めた。……おまえのあちゃんデーベーソ」
このようなガキの言葉の遣り取りは、遊びのうえでは日常茶飯時であった。そして次の日は前日のことなどケロリと忘れ、また同じ仲間が集まって遊んだものである。
野草採り
四月二十九日の天長節(昭和天皇誕生日)が過ぎる頃になると、近郊の雑木林や沢地などの凍結していた大地も緩み、早くから咲いていた福寿草の根の掘り起こしが容易にできる時期になる。
私は専ら日の出の基線の奥に住む岡和田さん宅の雑木林に、二・三年生頃から自転車で行き、福寿草掘りやカタクリの葉を摘ましてもらった。この地が私の穴場でもあった。
福寿草は黄金色の花を満開に咲かせており、カタクリの可憐な紅紫の花は雑木林の林内一面を覆うかのように咲いていた。当時はガキどもより外に採る者はいなかったように思う。
開墾前の五月に入った農家の畑に、越冬した菜種の若菜が融雪後の陽光を浴びて伸び、摘み採りに適した頃を見計らってこれを摘んだものである。基線二十八号に居られる橋本さん宅前の丘の畑は、若菜が無数に生えるので、この地も私の穴場で、庖丁と手籠をタナ(持って)いて弟達とよく出掛けた。
大正七年。北海道庁発行による、『北海道開基七十周年記念事業・鉄道沿線視察便覧図』に記載された、当時のわが上富良野村の主要産物は、小豆・大豆・燕麦・菜種・硫黄と紹介されている。
往時、菜種は相当の量が栽培されていたのであろう。栽培を止めてからもその根絶は容易でなかったらしく、雑草のタンポポが生えるが如く生え、これを農家の方達は「一人生え」と言っていたそうだ。
福寿草採りや菜種の若菜摘みも、ガキが大地に手を触れて春の息吹きを直に感じ取り、背伸びをして春一番の遊びをした後に続く、採る楽しみを兼ねた遊びでもあった。―近郊の丘、沢、川などが昔の姿を失いつつある今日、幼いガキの頃の思い出は、多くの丘、沢、川にと、尽きることなく残っている。
「坊ー。うんと採れたか」小さなガキに暖かい言葉を掛けてくれた基線道路奥の岡和田義巳さん・橋本字三郎さん。「休んで、遊んでいかんか。」とお菓子をくれてメム(湧水)の池で遊ばせてくれた高田多三郎さんなど。在りし日の野良着で身繕いして、腰に鉈(なた)などを着けた壮健な姿が今も目の前にありありと浮かんでくる。

菜摘みの場所(現在の基線28号)
(基線道路より右側上方の丘一面が摘みとる場所であった)
福寿草・カタクリを採り、摘んだ林や沢。(写真正面が現在の同和田さん宅の家屋・牛舎で、牛舎の奥の沢が遊んだ場所)

昭和二十二年の本町四丁目から、大町三丁目・南町三丁目・宮町四丁目・旭町四丁目までの広域の空中写真。画面左側上部から、宮町三丁目中央附近。宮町二丁目、錦町一丁目附近まで、昔の古川(水無き川・フシコぺツ)の流れ跡が見られる。

休ませてもらい、セリを頼んで遊んだ高田多三郎さん宅の池。
(昔は池の面積も今より広く、右端にある栗の木はガキの頃からあった。)
       写真省略
春風に乗って
五月中旬から六月に入る頃は、南から吹く季節風も強くなり、強い風の吹く日は、路上に散らかっている馬糞もいつもより激しく吹きすさぶ。現在のひ弱い子供なら、『アレルギー性馬糞症鼻炎』なる病持ちの子供も出たであろうが、『アレルギー性』なる言葉さえ親子が知らず、馬が汽車とともに、貨客の輸送に欠くべからざるものとして用いられた時代のガキは、元気溌剌、旺盛に育っていた。
ガキどもは、家事の手伝いを済ますと、己れが選んだ良い遊び場で十二分に遊び惚けた。
田圃の排水地帯、湿地の水溜りで、カエルやオタマジャクシ、ヤゴ・ゲンゴロウ・ミズスマンなどを捕えたり、縄飛び・石蹴り・お手玉・鬼ごっこ、隠れん坊・三角ベースなどに興じた。
ねぐらに帰る大きな群れのカラスの鳴き声に、遊びが終りであることを「歌のとおり」に教えられたものである。近年気がついているのだが、昔のように街の附近ではカラスが多く見られない。ハトも減った。スズメは「……群(むら)スズメが……」と、言われるほどいたのだが、このスズメの姿もめっきり減ってしまった。
本稿の首題からはいささか異なる青年時代に、このようなことがあった。
短期間であったが兵役に就くまでとあって、村役場に臨時雇いとして勤め、馬籍係に席を置いたことがあった。
毎日、馬の血統、見掛けの状態を馬籍簿に書き写していく仕事を与えられた。父馬母馬の名前、該当馬の毛色は栗毛(くりげ)・栃栗毛(とちくりげ)・鹿毛(かげ)・青毛(あお)・芦毛(あしげ)。額や鼻筋、足に表われる斑を、流星・鼻白・鼻筋白・右足白小などと記入していく。
自分が修得してきた測量などの仕事なら、楽しみもあったろうが、馬の籍の扱いなど、面白味の一かけらもなかった。そのうえ、仕事中に庁舎の天井裏に巣くうハトの「クゥー・クォウー、クゥー・クォウー」と鳴く声がうるさく、仕事にも身が入らない。
年下のY君に話を持ち掛けたら乗ってくれた。早速計画を持ち、或る夜実行に移り、二人で天井裏に入り、寝ているハトの相当数を捕まえた。私が捕まえた分を祖父に与えたら、祖父は大喜びで早速ひねって、羽毛をむしり、焼鳥に仕上げた。
翌日出勤したら、村長が呼んでいると言う。村長室に行くとY君は既に来ており、直立不動の姿勢で立っていた。村長は金子 浩村長である。
村長日く。
「聞くところによると諸君らは、昨日庁舎にいたハトを捕ったそうだが、……時局柄承知しているとおり、……ハトは伝書鳩として軍事用に役立つ貴重な鳥である。……役場の職員として、……時局を認識せず、……軽率な行為をしたことは誠に遺憾である。……依って、諸君らに厳しく口頭で注意を与える。……よく反省しなさい。……ハトは逃がしなさい」
昭和二十年五月のことであった。……Y君とは、現在新町二丁目に住わまれる安田 斉氏である。
一つの例え話しを述べたが、当時鳥なども非常に多くいたものであるが、人間社会の生活、それに伴う環境などの変化により、動植物の生態系に大きな影響を与え減少に繋がっているようだ。
昔を懐かしみ偲んでばかりはいられない。「かなり減った」などと単純には言っていられない時代に入っているのではなかろうか。
自然に対する驚異的な人的行為があるならば、やがて「目には目、歯には歯」の例えのとおり、因果応報の末路として、行為者自身が返り討ちになるのではと、つらつら考えるこの頃であるが、……まあ一人の初老の域に達した者の「たわ語」と解して笑っていただきたい。
過ぎさりし 昔を偲ぶ 老い人に
       しじまの過去が 夢で呼ぶなり
          (平成五年九月九日宗谷本線車中にて)
昭和11年頃の本町1、2、3丁目・宮町2、3丁目一部の街並み
昭和11年頃の本町1丁日・宮町1丁目・大町1丁目一部の街並み
昭和11年頃の本町1丁目・宮町1丁目・大町1丁目一部の街並み
昭和11年頃の大町1丁目・宮町1丁目・錦町1、2、3丁目一部の街並み
昭和11年頃の錦町2、3丁目・中町2、3丁目一部の街並み
昭和11年頃の錦町3丁目・中町3丁目・光町1、2丁目・西町1丁目一部の街並み
昭和11年頃の錦町2、3丁目・中町2、3丁目一部の街並み
昭和11年頃の中町3丁目・栄町3丁目一部の街並み
             省略
(註) 本項に掲載した空中写真は、国土地理院発行のものと、町の撮影写真を使用しました。
筆者お詫び
『本誌第十二号』に掲載された拙著「ガキの頃の思い出と昭和十一年の街並み。其の一」で、昭和二十三年撮影されたものとして紹介しました、上富良野村の空中写真は、昭和二十二年に撮影されたもので、私が発表紹介する時点で誤りをしました。本号をもってお詫びをいたし、前号の紹介年度を訂正させていただきます。
尚『昭和十一年の街並み』として取材し掲載しましたが、五十余年前の事で記憶の不確定な事もあり『昭和十一年頃の街並み』として本号より題名を一部変更いたしましたので承知下さい。
つづく
街並みの図化などに御協力を下さった諸氏の紹介
                 平成5年10月末現在(敬称略)
氏 名 生年月日 年齢 住  所 氏 名 生年月日 年齢 住  所
岩井 清一 明治36年11月1日 90 宮町2丁目2番1号 佐々木貞子 大正12年11月15日 70 本町3丁目3番17号
田中  末 明治37年1月2日 89 栄町2丁目2番42号 徳武  薫 大正13年1月10日 69 大町2丁目1番15号
小山 国治 明治38年8月12日 88 中町3丁目5番23号 生出 邦子 大正13年2月20日 69 宮町1丁目4番26号
栗城トミヱ 明治39年9月10日 87 富良野市若松町 故 森本春雄 大正13年3月5日 69 宮町2丁目2番6号
須藤午之助 明治39年9月29日 87 中町3丁目2番29号 伊藤 弘夫 大正13年4月1日 69 本町2丁目3番5号
鈴木忠エ門 明治40年11月20日 86 栄町3丁目1番5号 福屋 和夫 大正13年4月17日 69 中町2丁目3番24号
赤川 太作 明治41年2月14日 85 錦町1丁目3番20号 大道 俊造 大正13年8月19日 69 中町2丁目1番6号
金子 全一 明治41年5月11日 85 錦町2丁目3番25号 田中 敏夫 大正14年1月13日 68 本町3丁目2番33号
沖野 繁人 明治41年9月25日 85 錦町2丁目2番31号 成田 房義 大正14年3月17日 68 栄町2丁目1番33号
笠原 重郎 明治42年1月14日 84 西町4丁目 故 村岡光路 大正14年6月4日 68 栄町2丁目1番26号
佐々木源司 明治44年10月2日 82 富町1丁目2番43号 松野 成夫 大正14年9月11日 68 宮町1丁目2番19号
末廣キヨ子 明治44年5月15日 82 錦町3丁目2番40号 斉藤  実 大正15年1月11日 67 中町3丁目2番19号
赤川八重子 明治45年4月8日 81 錦町1丁目3番20号 山口うめよ 大正15年1月15日 67 光町1丁目
上村 武雄 明治45年5月15日 81 中町2丁目1番2号 大福 幸夫 大正15年1月28日 67 中町2丁目2番29号
田中 正顕 大正2年1月15日 80 本町4丁目2番31号 岡   実 大正15年3月21日 67 北町2丁目
及川 忠夫 大正2年3月20日 80 錦町2丁目5番4号 西村ヤス子 大正15年4月9日 67 札幌市手稲区稲穂
金沢 勇吉 大正2年5月18日 80 錦町1丁目2番3号 東海林吉一 大正15年4月26日 67 西町2丁目2番58号
須藤キクミ 大正2年6月6日 80 中町3丁目2番29号 西村 三郎 大正15年7月4日 67 西1線北24号
木内 フミ 大正3年2月12日 79 本町3丁目5番1号 陶  ナツ 大正15年8月25日 67 宮町2丁目2番44号
酒井 亀寿 大正3年2月18日 79 新町3丁目3番13号 及川 栄子 大正15年10月1日 67 栃木県小山市間々田
高橋 寅吉 大正3年5月16日 79 東中 東6線北18号 南  一男 大正15年10月20日 67 錦町1丁目2番6号
橋本 公也 大正3年8月27日 79 日の出3上 温泉 光恵 大正15年11月2日 67 栄町2丁目1番37号
四釜 卯一 大正3年9月5日 79 栄町2丁目2番40号 坂内 恒郎 大正15年11月29日 67 札幌市中央区宮の森
藤田 秀雄 大正3年10月2日 79 中町3丁目5番18号 吉沢 和子 昭和2年1月1日 66 札幌市手稲区星置
高橋 哲雄 大正3年12月10日 78 栄町1丁目4番6号 森川 益充 昭和2年1月12日 66 中町1丁目3番27号
花輪 豊蔵 大正4年10月29日 78 錦町2丁目4番7号 秋野 貞子 昭和2年5月2日 66 大町2丁目1番12号
高松 光輝 大正4年11月20日 77 栄町2丁目1番31号 斉藤 光久 昭和2年7月21日 66 南町2丁目
河井キヌ子 大正5年1月15日 77 中町1丁目5番19号 多田  功 昭和2年10月16日 66 中町2丁目1番8号
斉藤 キワ 大正5年3月10日 77 中町3丁目2番27号 松原 長吉 昭和2年11月4日 66 錦町3丁目1番30号
中川  清 大正5年3月10日 77 草分・報徳 藤田  敢 昭和2年11月11日 66 宮町2丁目2番40号
菅原  敏 大正5年4月11日 77 大町1丁目5番23号 谷口 正信 昭和2年12月12日 66 錦町1丁目1番12号
佐藤 道信 大正5年4月20日 77 東町1丁目6番32号 竹谷 岩俊 昭和3年4月9日 65 錦町1丁目1番5号
花輪あさ子 大正5年5月2日 77 錦町2丁目4番7号 高橋ヨシノ 昭和3年6月22日 65 栄町1丁目5番33号
勝井 規視 大正6年9月24日 76 錦町2丁目4番3号 武山 勝義 昭和3年7月11日 65 東町5丁目2番2号
米谷 亮蔵 大正8年1月1日 74 日の出2上 小林 浩二 昭和3年9月9日 65 中町2丁目4番20号
吉田 清二 大正8年1月15日 74 草分三重1 谷原 和子 昭和3年11月17日 65 東京都世田谷区弦巻
加藤  清 大正8年1月26日 74 宮町3丁目9番8号 後藤 昭三 昭和3年11月30日 65 栄町2丁目257番地
浦島タミ子 大正8年11月20日 74 本町6丁目 久保 栄司 昭和4年3月31日 65 本町1丁目3番25号
一色  武 大正8年10月1日 74 大町1丁目8番30号 竹山 善一 昭和4年10月4日 65 本町1丁目4番15号
高橋 七郎 大正9年3月15日 73 栄町1丁目5番33号 柳谷 良一 昭和4年12月7日 64 本町1丁目6番9号
西村 春治 大正9年3月19日 73 栄町2丁目4番5号 有我  脩 昭和5年1月22日 63 中町3丁目1番17号
久保田誠順 大正9年6月28日 73 栄町2丁目4番26号 松浦タカ子 昭和5年7月23日 63 大町1丁目3番10号
飛沢 尚武 大正10年3月19日 72 中町2丁目3番13号 長瀬 隆子 昭和5年9月5日 63 錦町2丁目3番1号
尾崎 利夫 大正10年12月20日 72 本町3丁目6番38号 伊藤  忠 昭和6年3月10日 62 本町2丁目2番14号
三野  優 大正11年3月11日 71 中町2丁目1番3号 三野 宣緝 昭和6年3月10日 62 錦町2丁目2番33号
高松 迪子 大正11年8月19日 71 栄町2丁目1番31号 成田 政一 昭和6年4月23日 62 新町3丁目3番26号
多湖 安信 大正11年11月25日 71 大町2丁目5番29号 古茂田重男 昭和7年7月30日 61 栄町2丁目2番32号
田中喜代子 大正12年2月8日 70 栄町2丁目2番42号 斉藤 秀明 昭和9年3月15日 59 中町2丁目2番23号
中尾 之弘 大正12年8月20日 70 宮町1丁目2番14号 鈴木  努 昭和9年10月9日 59 栄町3丁目4番9号
石川  実 大正12年6月20日 70 新町3丁目1番40号 山崎 良啓 昭和10年5月5日 58 中町3丁目2番6号
神谷ふさの 大正12年9月23日 70 本町1丁目6番6号 長谷 重勝 昭和14年3月5日 54 栄町2丁目1番8号


機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉