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《私の終戦日》昭和二十年八月十五日
終戦時の小学校生活

田中 喜代子 大正十二年二月八日生(七十歳)

終戦の八月十五日は、朝からむし暑く戸外に出るのもおっくうな、けだるい程の酷暑の夏休み中でした。お昼にラジオで重大ニュースがあるとの事、時間があるので、近所のお友達の家に行き、よもやまの話をしながら待って居りました。天皇陛下の玉音ではじめは何の事かはっきりしませんでしたが、日本が降伏したようで、でもまさか神国日本が負けるとは考えもしないので、聞き違いではと家に帰ると、正に敗戦!! いままで勝ち戦ばかりと信じていただけに、張った糸がプツンと切れ、気が抜けた人間になってしまいそうでした。
私は、昭和十八年に上富良野小学校に奉職しました。戦争も激戦中で、昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃の、日本全勝との報道以来、「勝って兜の緒を締めよ」「銃後の守りは大人も子供も一丸」のかけ声で、戦地の兵隊さんに安心して戦いをと、学校も勉強半分、援農半分と変わって行った時機でした。その内には雨の降らぬ限りは、小学校四年生以上は、今日も援農、明日も援農に明け暮れるようになりました。
水田の草取り、それも水田靴を履いてではなく、ハダシでの草取りです。誰言うともなしにルーズベルトの頭髪を掻きむしり、米国を負かしてやるとの意気込みで、一生懸命の泥まみれの毎日でした。高学年生は、その外に亜麻引き(蟻山があって蟻に刺されながら痛くても我慢)や稲刈りをしましたが、馴れない鎌使いに手のあちらこちらを切る事も多く、挙国一致の時勢の中で子供ながらの愛国心を発揮して本当によく頑張りました。
若木のうちに身をもって根性を体験したその時の生徒さん、今は良い生活ぶりのように思われます。
援農に行った家で塩ゆでの大豆とか、大豆を妙って醤油をかけた豆を、一掴みおやつに貰って大喜びの生徒の姿は今になっても思い出されます。
現在のように有余るほどの食品菓子類など想像も出来ません。「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」の標語のもとで、ご飯も米は少量で、芋、カボチャ、豆が沢山はいったものでした。
とにかく物資が不足していて、学校では一クラス七十名程に、長靴三足〜四足の配給しかなく、配分にも普段履いている中で破れてへった人からと、生徒みんなの話し合いの上で分け合いました。運動会でも運動足袋は我慢し、全校生徒も先生もハダシで走ったり遊戯をしました。
洗濯物は石鹸の替りに木灰を使い、その上水で洗濯したものです。
今は欲しいものは何でも求められる世に中になり、戦時中、終戦当時のあらゆる物資不足をのり越え、現在の豊かな生活が出来るのも、あの当時の国を思う出征兵士と、銃後を守る人々の堅い絆によってと、深く感謝しながら暮らして居るこの頃でございます。
共に過して参りました皆様にお礼を言いたいと思います。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉