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静修開拓の足跡(そのT)

佐藤 耕一 昭和十四年五月十五日(五十四歳)

昭和二十年上富良野村最後の開拓地として、静修地区西部の山奥に、本州から戦災に遭って丸裸になった十四戸が入植した。
既存の農業でも困難な時代にあって、未開の土地に挑んだ農業未経験な人達にとって、どれ程厳しいものであったか計り知れないところである。
昭和五十九年度の上富良野高校生徒会発行の機関誌「飛翔」の中に、三年生の女子学生が書いた、我が家の戦争体験レポート「戦争が祖父母の人生を変えた」を読んで、戦争と上富良野村静修開拓との係わりに感動した。その後七年が過ぎて、以前の上富良野高校生A子さんの所在を知らなかった私は、父の友人である静修地区の住人、宮島 勇氏を訪ねてみた。宮島氏は地元からの開拓者として、又営農指導者として静修開拓に入植された方である。
宮島氏には先ず、上富良野高校生A子さんのレポート「戦争が祖父母の人生を変えた」を読んで貰い、これを話題の接ぎ穂として、当時の暮らしを中心に話を聞かせて頂いた。
A子さんの祖父母は、東京三河島に住んでいた時に、東京大空襲を体験した。一夜の戦災は祖父のパン工場を焼き、そして、町内すべての住民達を隅田川に追い詰め、折り重なる死体へと変らせてしまった。
地獄から逃げる思いで、その後新聞広告で知った北海道開拓を決意したのである。
昭和二十年九月祖父は未だ若かった祖母と一人娘のA子さんの母(静修開拓の足跡そのUの筆者)と三人で第二の人生を歩むため、本町の静修開拓に入植したところ、現地の様子は聞くと見るとで大きく違っていた。まず一鍬一鍬荒地を掘り起こすことから始まり、農産物をお金に換えて生活出来る様になったのは、暫らく年数を経た後の事であった。
その間祖父は冬の造林山へ行き、春はニシン漁で賑わう浜へ出嫁ぎをして一家の生活費を得た。
もし戦争が起こらなければ、祖父は東京で大きな製パン工場の職人頭としてその腕を奮い、又祖母は下町のお祭り好きなおかみさんになっていたに違いない。祖父は体を壊し、二十年余りに及ぶ入退院を繰り返し、五年前に亡くなった。
苦労を共にした祖母と、母の心痛は深く、我が家の戦後は今もまだ続いていると文章は結ばれている。
宮島氏はA子さんの文章に深く胸を打たれた様子であった。私は宮島氏に開拓当時の想い出を書いて下さる様にお願いしたが固辞された為、氏に代り話の内容を記する事になった訳である。
宮島勇氏は人が知る通り豪放磊落、ユーモラスな人柄で、お話の途中、度々夫人が補足助言されて、話は尽きる事なく続いたが、聞き手の私が未熟である為に、充分書き表わせないのが残念である。
「宮島氏の話」
お話の中では、開拓者達の苦労も今では、楽しく又懐かしい想い出話になっていた。本州から入植した人達の大部分が志半ばにして、入植以来二十年余りで離農したのとは対照的に、人知れぬ苦労の末に、成功を勝ち得た人の余裕であろうか。
戦前戦中の地元の農民の暮らしを知った人と、東京から未開地に来た人達とでは、比較にならない苦労があった事を、豊富な話題に引き込まれがちな私自身に戒しめながらお話を伺った。
「宮島、大串両氏の入植」
昭和二十年に樺太から引揚げて来た人と、東京からの人達で十四戸が静修開拓に入植したのである。
昭和二十六年には、地元から宮島 勇氏、大串 彰氏(平成五年一月没)の両氏が入植した。
上富良野村開拓農業協同組合が昭和二十二年に発足し、上富良野町史では全十七戸となっているが、旭野地区の佐藤氏が入植せずに終っているため、実際は十六戸であった。昭和三十年頃から上富農協にも加入した。宮島、大串の両氏は、地元から入植された為、指導員の立場として先に入植していた人達を指導した。昭和三十年頃には静修にも水田が造成されて稲作が始まり、開拓者には七町五反の土地が与えられた。
「開拓入植者の前職業」
本州から十二戸、樺太引揚者が二戸で、以前の職業は種々様々であった。お寺の住職、植木屋、大工、とび鳶職、魚屋、菓子屋、設計士、美容師などで、世が世なれば華やかな暮しもあったものと思われる人達の身の上に、未開地の道路も満足になかった山奥の、然も厳寒地に、満足に着る物もない終戦後の窮地に、生活の糧を求めた苦労は想像を絶するものと思われる。
「開拓地の日常生活」
開拓地の沢を流れる清流は開拓川と名称されて、とどまつ水源地は部落より一粁半程南の椴松林の中に湧水があり、流れを利用して飲料水は勿論、生活全般に亘り水源として利用されていた。
清流に伴い川にはアメマス、岩魚(いわな)、?(うぐい)等が棲んでいて、偶には食卓に載せられた。住宅は三間×四間の十二坪で、屋根は柾茸、入口扉は筵(むしろ)を下げただけ。
家財道具は二斗入水瓶二個、薬缶、柄杓(ひしゃく)、ランプ、薪ストーブ、箸は木の小枝を用いた。
開拓地区には子供達も三十人程居た、学校鞄の代りに風呂敷包、喧嘩が子供達の主な遊びでもあった様だ。都会から来た人達には建物を建てる時、方位等全く無視する為か、病人が続発し、一年の内に二人位は死亡し、葬儀一切は宮島氏が取り行う始末であったと言う。また宮島氏が中心となって昭和四十年頃に、山神社を設立し、開拓団に信仰を勧めた。
その結果と言えるかどうかは、わからないが、とにかくその後は災難も減少していったと言う。
生活物資は街まで徒歩で一日がかりの大仕事で買物をした。七町内(栄町二丁目)の小林商店が主に仕入れる店になって居た。小林商店は当時の開拓農民の店とまで言われる程で、今は亡き御主人の小林鉄男氏(昭和三十八年六月没)は気前の良い人で、自分を犠牲にしてでも開拓農民を助けていたと言われている。
「農産物の収穫そして離農」
開墾された畑は、十五年程経ってから、やっと本格的な収量が挙がる様になり、収穫は全町の中でも常に最高水準にあった。無肥料でも、燕麦は十俵、豆類は五俵の収量があり、特に豌豆(えんどう)は毎年大豊作が続いた。宮島氏は発動機を買い、近所の人達の脱穀を一手に引き受ける様になり、春耕も馬に替って巨大なブルトーザー(美瑛町の横浜氏所有)で行う様になって行く。幸先(さいさき)希望の持てる開拓地と思った頃、昭和四十年、敗戦国もバブル経済上昇機運に恵まれて、景気も良くなった頃なので、櫛の歯が抜ける様に本州から来た人達は離農して行き始めた。あくまでもその地に根を張ろうとする者と先行き不安の浮き足立つ者の差が、この頃から目立ち始めたのであった。しかしいずれの人々も以前は、それぞれの分野で活躍していた人達だけに、一様にプライドをもって、再び新しい生活を求めて、この農地を後に、それぞれが離れて行ったのである。
この稿は、宮島氏から伺い聞き取りの形で纏めたものであり、次の項で上山佳子氏の静修での生い立ち記も記述して頂き、更に詳しい地域事情も次の機会に説明されるものと期待しているところで、協力して頂いた宮島氏に、誌上ながらお礼を申し述べ筆を置きます。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉