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十勝岳と中谷宇吉郎博士

金子 元三 大正十二年四月三十日生(七十歳)

昭和三十二年の年の瀬も近い十二月中旬のことである。上富良野の教育研究会主催、上富良野町教育委員会の後援で『中谷、古市両博士による講演会』が町の公民館で開かれた。私は両先生のお供をして朝八時の特急で札幌を立ち、昼すぎに上富良野に着き、しばらく私の実家で(金子全一宅)で休んでいただいた後に公民館に案内した。
古市先生は『私が露払いをする』といわれて、中谷先生には別室で休んでいただき、先に話をされた。
当時古市先生は北大に原子力の講座を新設された直ぐ後であり、また高分子学科を創設しようと奔走されていた時でもあったので、日本の科学の将来について色々調べておられ高い見識をもっておられた。
講演の内容は第二次世界大戦を契機にして急速な発展を始めた科学の分野に関するもので、原子力、人工衛星、空気と水と石炭を原料として出来る高分子物質、ペニシリンなど抗生物質に代表される病原菌を直接殺す医薬、その頃構造が明らかになってきた酵素と遺伝子の五つを取り上げて、それぞれの材料や事業の果たす役割を科学的な立場から説明して、これからの科学はこの五つの分野を中心にして大きく発展して行くこと、また前の三つは資源のほとんどない日本にとっては少ない資源を補う技術であり、後の二つは神秘な生命現象と深く関わる問題で、人類の福祉向上のために重要な問題となるということを平易な言葉で話された。
ついで中谷先生の講演に入った。中谷先生は十勝岳の白銀荘で天然の雪の結晶の観測を行ない、多数の雪の写真を撮った後、北大に低温室を作って、世界で始めて人工の雪を作り、水蒸気の量とまわりの温度を制御することによって、天然の雪と全く同じ雪を作ることが出来ることを明らかにして、「雪の博士」として世界的に有名になった方である。
戦後早い昭和二十四年に雪の命名のための国際委員会に出席のため渡米されたが、その折にTVA(テネシー峡谷開発機関)のダムによるテネシー川流域の開発の実情とロッキー山脈に降る雪の融雪水を集めて西部砂漠地帯の開発に利用しているポルダーダムの様子を詳しく調べて帰られた。帰国後は大雪山系の積雪量の調査をしてこれを石狩川上流のダム建設の資料として役立てるなど、積雪の利用を積極的に計られた。またこの時の渡米が縁となって創設間もないアメリカ雪氷永久凍土研究所の顧問研究員として昭和二十七年より二年間渡米されたが、このときに雪の研究の総仕上げともいうべき氷の単結晶の塑性変形に関する見事な研究を仕上げて帰られた。その後は続けて同研究所のグリーンランドの氷冠の研究のために毎年夏の休みを利用して、米国経由でグリーンランドに行かれていた。
この時の講演の内容はグリーンランドの氷の中の生活の経験とそこに住む住民(イヌイット)の生活の様子についてのものであった。先生は油絵の素養を持っておられた。その頃は墨絵もよく画いておられた。また研究には写真を色々な形で利用されていたので、先生の写された写真は構図が見事で、絵としても美しく、一見してその場の雰囲気をよく伝えていた。この時にも三十数枚のスライドを使ってグリーンランドの人達の生活の様子を話されたが、同じ雪国の北海道に住む我々にも充分に参考になる話で、聴いていた人達はみな深い感銘を受けた筈である。
講演が終るのを待ち兼ねるようにして、十勝岳で雪の研究をされていた時に手伝いや荷物の運搬の世話などされた人達が数人、先生を囲んで口々に当時のことを話し始めた。先生もよく当時を記憶しておられて再会を楽しまれていた。私事になるが講演に先立って私は両先生の紹介を兼ねて、『中谷先生の十勝岳での雪の研究は私の小学生の時のことである。いま北大で両先生のお教えを受け、その幅広い御見識に接し、機会があったら是非上富良野まで来ていただいて、皆さん方に両先生のお話しを聞かせたいと思っていたが、今日それが実現できて大変うれしい』というような趣旨で、簡単な紹介を行なったが、後で古市先生より『常々話し下手な君にしては今日の話はうまい』とほめられた。また中谷先生のスライド係は私が引き受けたが、あとで『今日のスライド係にはミスがなく、必要な時に必要なスライドがすうっとあらわれて、気持ちよく話しをすることができた』と褒められた。いずれにしても両先生に気持ちよくお話しいただくことができ、大変うれしかったことを覚えている。
その夜は上富良野町教育委員会の方々との懇談会に出席していただくため私の実家に泊まっていただいた。翌朝は少しゆっくりして昼近くの汽車で兄が(金子全一)が案内して白金温泉に向った。十勝岳には宿もなく、また時間もないので、せめて白金温泉で十勝岳の雰囲気を味わっていただこうとの気持ちである。その頃は川のそばに一軒だけ宿のあった時で、結構山の雰囲気は味わっていただけた。
これも私事になるが、当時私の母は中風のため家で寝たり起きたりの生活をしていた。たまたま家に泊っていただいたお蔭で、両先生に直接お見にかかることができたことで、少しは親孝行のまね事になったと思っている。また中谷先生は常々中国の古い墨をカバンに入れて持って歩かれていて、興が乗ると黒絵を画かれた。硯は有り合わせの皿、筆も有り合わせでよかったが、墨だけはこの中国の古いものを用いていた。良い墨でなくては気に入った濃淡が出せないとのことである。この日の朝、兄の頼みで画いてもらったのが写真にのせた掛け軸の雪の絵と言葉である。
さてこの講演会が実現したのは次のような経過によってである。昭和三十二年の夏の頃、兄より電話で、上富良野の教育研究会の研修会の講師として来てもらうように、中学校の中尾先生を通してお前に頼んできたが引き受けるかとのことである。話題は科学に関することなら何でもよいとのことである。
当時上富良野の出身者で科学の研究に携さわっていたのは私くらいである。友人の一人として私が一番頼み易い立場にあったためと思われる。しかし研究生活に入って十年足らずの頃で、狭い専門の話なら出来るが、一般の人を対象とした科学の総説に関する話はとても出来る自信がなかった。上富良野の出身の一人として、少しでも町の役に立ちたいと色々考えた末に、私の師事している古市二郎先生なら直接お解いすることが出来るし、必らず引き受けて下さるだろう。それに科学の将来について広い見識をもっておられることも知っていたし、且つ、二・三の講演に頼まれて話に行かれる時には私もお供をして、先生の話はよく聞いていたので、必ず上富良野の方々にも喜んでもらえると考え、兄を通して中尾君の了解を得て古市先生にお願いした。先生は『君の故郷の町のことだから喜んで引き受けてあげるが、それよりも、上富良野は十勝岳のある町なのだから、十勝岳とは縁の深い中谷先生にお願いしてほどうか。僕が頼めば中谷先生は必ず引き受けてくれるよ』とのことである。その頃中谷先生は大雪山系の積雪量を調査して石狩川のダム建設に役立てるなど積極的に積雪を水資源として活用するよう努力される一方、文藝春秋などの雑誌に文を書いて一般の啓蒙にも勉められておられたので、日本の各地から講演を依頼されて、あちらこちらへ話しに出かけておられた。
先生と縁の深い十勝岳の山麓に生れ育った私としては、是非一度は上富良野まで足を運んでいただきたいものだと機会を待っていたので、早速兄を通して中尾君をはじめ上富良野の教育委員会の方々の了解を得て、中谷先生にお願いした。先生は『古市君も一緒に行ってくれるのなら喜んで行くよ』と心よく承諾して下さり、講演会が実現することになったのである。
講演会の翌日は前夜のみぞれがうそのように晴れ上り、初冬には珍しく、雪を帯びた十勝岳が青空にくっきりと映えて、久し振りに訪れた中谷先生をいかにも歓迎しているようであった。駅に向う道すがら、くっきりと青空にそびえる十勝岳の姿を目にされて、先生は早速カメラを取出して写真を一枚写された。『僕の腕前だから一枚で充分』といわれて、写真は一枚しか写されなかったが、その時のカメラは当時オリンパスが世界で初めて売り出した初期の簡単な小型EEカメラで、オリンパスに就職していた卒業生の世話で手に入れたそうで、『グリーンランドの写真もこれで写した』といっておられた。また講演の内容についても、『教員の研修会ならカナダやアメリカの小中学校の教育について話してあげようか』とのことだったが、教員ばかりでなく、町の人達も多く聞きに来る筈なので、一般向きの話しをとお願いして、北極に近い寒冷地帯の住民の生活について話していただいたのである。
今思うとあの時が両先生にとって一番時間を作っていただける時期だったように思う。翌年になると古市先生は高分子学科設立の準備で非常に多忙になられた。また私もアメリカに研究のために出かけることになり、約二年の滞米を終えて帰ってみると、中谷先生は御病気で、とても講演などお願いできる状態ではなかった。
さて近頃基礎科学の振興が叫ばれていることをご存じの方は多いと思う。現在の日本の繁栄は欧米から輸入した基礎科学の知識を基にして、日本で応用面を開発してここまでになったといわれているのだが、最近の科学技術の進歩は目覚ましく、基礎科学はどんどん応用に移されて行く上、本来は公開されていた基礎科学や基礎技術も、簡単には公開されなくなってきている。このような状態が続くと、いくら応用の力があると威張ってみても、基礎の蓄えがなくては、技術革新に遅れをとることになるというのである。たしかにこの危惧は一部分は当たっているのだが、基礎科学というものは本来地道な目立たない仕事で、新聞などにもほとんど出ることがなく、一般の人には全く知られていないといってよい。与えられた紙面がまだ若干あるので、この機会に中谷先生の雪の研究を例に、基礎科学の研究とはどのようなことかということについて一言触れておくことにする。
基礎科学を研究しようという動機は人間の抱く自然への強い好奇心である。幼い小児が見るもの聞くものに異常な好奇心を示して、目を輝かして質問するのをよく経験するが、年を取り教育が進んでも、なお自然に対する好奇心を失わないのが自然科学者なのである。形の出来上った学問は教科書を見れば容易に理由が判るが、未知の出来事となると、調べる手掛りさえもない。先ず、どのようにして調べるかという調べ方から見つけ出さねばならない。これには当人の努力も勿論必要だが、師事した先生の考え方や対処の仕方の影響が非常に大きい。丁度刀鍛冶が親方に弟子入りして、そのやり方を見て技を磨くのに似ている。つぎは研究のテーマをどのようにして選定するかという問題がある。日本では学問を欧米から輸入してきたいきさつから、外国の文献の中から選ぶことが多く、身のまわりに起きた現象からヒントを得るということは非常に少ない。中谷先生が雪を研究テーマに選んだことは日本人には珍しい発想だったのである。
北大に理学部が創設されて、昭和五年の春に、物理学科の教授として赴任される時、挨拶に伺った恩師の寺田寅彦先生から『北海道にふさわしい研究テーマを見つけなさい』といわれた由である。赴任して三回日の冬を迎え、北海道の冬の寒さにも馴れてきたので、懸案にしていた雪の結晶の観察を始めようと腰を上げ、理学部の本館と実験工場を繋ぐ暖房のない寒い渡り廊下の隅に顕微鏡を持出して、窓を開けると手軽に得られる理学の中庭に降る雪を、よく冷やしたプレパラートで受けて観察を始めた。雪の結晶の観察といっても、きれいな雪の結晶の写真を撮るにはコツが必要である。プレパラートに受けた雪は二十秒程の間に写真に写してしまわないと形がくずれる。プレパラートの温度も高くても低くてもよくない。何度も練習しているうちに綺麗な写真が撮れるようになった。丁度その頃、アメリカでベントレイという人が長年写し蓄めた雪の結晶の写真の中から三千枚を選んで、一冊の雪の結晶の写真集として出版した。それで、ベントレイの写真集の写真と較べてみたところ、ベントレイが五十年かかって集めた雪の色々の形の結晶が、わずか一冬の理学部の中庭に降った雪の中にほとんどすべて含まれていることが分かり、北海道が雪の結晶の種類にめぐまれていることがよくわかった。
そこで、翌年の冬は十勝岳の中腹にある白銀荘に出かけて観測しようと決めた。白銀荘の標高は一、一〇〇米位にすぎないが、周囲は蝦夷松の原始林で冬期間はほとんど毎日雪が降る。雪の結晶もそれまでに見たどの写真のものよりも繊細な美しい形を持っており、結晶の枝の先々迄が鮮明に見えるものであった。これは白銀荘のまわりがかなり広い範囲にわたって、風当たりが強くないような地形になっているためのようである。気温の具合も雪の結晶の観察には丁度よい零下十度から二十度である。白銀荘での観測は三冬にわたって行なわれ、天然に降る雪の結晶の型はほとんどすべて集めた。またこの三冬の間に札幌と十勝岳の両方で、雪の形と気象状態、降雪中時々刻々に結晶形が変化して行く様子、雪の形と落下速度との関係など、雪の結晶と関係のあるデーターはすべて集めた。十勝岳で得た天然の雪の結晶の写真は約三千枚程にもなり、世界でも珍しい形のものも含まれていたので、外国の例を参考にして十九種類に一般分類をした。この分類表によって気象と雪の結晶の関係がより明らかにできた。
一方札幌の冬は毎日雪が降るわけではないので、雪の降らない日には実験室や廊下の窓ガラスに出来る『霜の花』の写真を撮ることにした。『霜の花』にも雪の結晶と似ているところがあったからである。
そのうちに暖くなってきて窓に『霜の花』が出来なくなったので、低温の箱を作って実験室で『霜の花』を作って見たが、これも夏になったので中止していた。しかし十勝岳で雪の結晶の観察を始め、このような美しいものがそのまま消えてしまうのが惜しい気がして、実験室で人工的に作ることが出来たら楽しいだろうと思うようになった。また気象との関係が明らかになると益々その必要なことも感じてきて、人工の雪を作ってみようという気持ちを抱くようになった。雪を人工で作ってみようという気持ちを持ちながら、天然の雪を観察し、また雪と直接関係の深い白銀荘のまわりの樹氷や積雪中の洞穴の雪の壁などに出来る霜の結晶を観察していると、人工雪を作るにはどのような装置がよいかという考えが頭の中に出来上ってきた。
この考えを基にして北大理学部に零下五十度まで温度を下げることのできる低温室を作ることにして、昭和十一年二月にこれが出来上り、早速考えていた人工雪の装置を持込んで実験を始めた。
勿論始めから思い通りに順調に事が運ぶわけではなく、装置も色々工夫を加え手直しもしたが、一番肝心なところは結晶が成長する時の核となる部分であった。何がよいかということを探して色々試行錯誤をくりかえした末に、たまたま防寒用の手袋の兎の毛を利用して成功した。それまで人工の霜を作るという試みはあったが、人工の雪を作るなどと考えた人は世界中のどこにもいなかった。
雪が出来ることが明らかになれば、あとは水蒸気の量(厳密には飽和蒸気圧)と気温とを色々に変えて雪を作ってみることである。このようにしてこの二つを変えると天然に降る雪と全く同じ雪を実験室でも作ることが出来ることが明らかになった。飽和蒸気圧と気温を縦横の座標軸にとって、雪の結晶型をこのグラフに記入すると一つの規則性を示す。このグラフが有名な『中谷ダイヤグラム』といわれるものである。中谷先生が好んで用いられた『雪は天から送られた手紙である』という言葉は、このダイヤグラムを用いると降って来る雪の形から、天空の気象状態を知ることができるということを意味しているのである。
中谷先生は雪の結晶の研究の次は積雪の研究と考えておられたようである。裏日本の豪雪地帯の融雪期の洪水の被害は大きい。若しダムなどでこれを有効に利用する道が開けるなら有益な水資源になる。
敗戦後早く渡米された折に、TVAの事業やポルダーダムの様子をつぶさに調査されたのも、帰国後大雪山系の積雪量の調査を行なったのも、みな積雪の有効な利用のお考えからであろう。また昭和二十七年から二年間アメリカで雪氷永久凍土研究所の顧問研究員として過された。この時同研究所の所員との雑談から、アラスカのメンデンホール氷河の氷が近くの湖に崩れ落ちて大きな氷の単結晶の塊となって湖に多数浮いていると聞いて、氷の塑性流動変形の研究を考えられたのも、また積雪の研究と結びついてのことのように思われる。
氷の塑性流動変形の研究には、少なくとも二〇から三〇センチメートルの大きさの氷の単結晶が多数必要である。塑性変形の研究は材料を破壊する実験だからなのである。当時世界各国の学者が氷の単結晶を作ろうと研究していたが、中々大きなものを多数作れるまでにはなっていなかった。中谷先生は二年間の雪氷永久凍土研究所の滞在中に約三千枚に及ぶ見事な氷の塑性変形の偏光顕微鏡写真と二百五十枚に及ぶ物性に関する測定曲線を得て帰国された。
この研究は積雪の物性を知る上での基礎研究として役立つばかりではなく、雪とは少しも関係がない金属の加工技術の基礎研究としても重要な意味のある研究で、学界から高い評価を受けた。
先生が帰国されて間もない頃、アメリカでの研究生活のおみやげ話として、物理教室でこの氷の塑性変形の研究を話されたことがある。氷の物理的な性質には塑性変形の外にも電気的なもの、光学的なもの、結晶学的なものなどまだ色々にある。将来自分で研究テーマを選ぶ時の参考にしたいと思って、私は『どうして氷の単結晶が手に入ることがすぐに塑性変形の研究に結びついたのか』質問してみた。ところが中谷先生は逆に訝げんな顔をされて、『雪の研究をしている者なら当然のことだよ』といわれてしまい、それ以上お尋ねする言葉につまってしまってそのままになってしまったことがあった。いま考えてみると、積雪のもう一つの問題は雪崩である。
氷の塑性変形の研究は雪崩の対策にとって必要な基礎研究なのである。常々雪崩の対策を考えおられた先生にとっては、大量の氷の単結晶が手に入るなら、塑性変形の研究をすぐにも始めるということは、ごく自然の成り行きだったのであろう。その後続いて毎年夏の休暇を利用して行なっていたグリーンランドの氷冠の研究も、平坦な土地の圧雪の構造という積雪の構造を知る上での大切な基礎研究だったのである。
人工雪の研究に先立って行なった霜の結晶の研究は、北海道の鉄道の凍上防止に応用し、また飛行機の着氷防止に生かして、北海道の人達の日常の生活の向上に役立てるよう勉められた。中谷先生の研究を振り返って見ると、身近な出来事をヒントに研究テーマを着想されたという点で、日本の学者には珍しい存在の方であったばかりでなく、研究から得た結果を災害の防止や水資源として利用して、一般の社会の人達に還元しようと努力された点でも、欧米の学者に近い考え方を持っておられたように思われる。中谷先生は十勝岳の雪の結晶の研究に始まって、晩年の積雪の研究に至るまで全く雪の博士にふさわしく一生を雪の研究に捧げられた。またその研究は常に確りした基礎研究を先ず仕上げて、この基礎研究を足場にして応用に向うという、着実な科学者の道を取り続けておられた。振り返って見て教えられるところが非常に大きい。
=筆者金子元三氏の略歴解介=
大正十二年四月 上富良野村市街 幾久屋呉服店金子庫三氏の三男として生れる。(金子全一氏は兄に当る。)幼い頃より英才の誉れ高く、上富良野尋常高等小学校から旭川中学校(現旭川東高)旧制第一高等学校(現東大駒場教養)を経て北海道帝国大学理学部物理学科に入学し、戦時下の困難の中で学究に励む。
昭和二十二年九月 北海道帝国大学理学部物理学科を卒業(戦時半年短縮)。引き続き、同物理学科助手となり、学問研究の道を歩む。
昭和二十八年七月 同物理学科助教授。大学時代より古市二郎教授に師事し、高分子物理学の研究を行なう。
昭和三十四年一月より
昭和三十五年十月まで
米国ノースカロライナ州デューク大学化学教室の研究員として出張。クリングバウム博士(高分子科学の草分けであるコローリー博士の二番目の高弟)のもとで、高分子物理学の研究に従事する。
昭和三十五年二月 理学博士
昭和三十五年十一月 北海道大学理学部高分子学科教授
昭和六十二年三月 北海道大学停年退職
昭和六十二年四月 北海道大学名誉教授
現在、酪農学園大学非常勤講師として通1回は学生の指導に当る他、豊富ですぐれた専門知識を役立て、研究関連工場や研究室の招聘を受け出掛けるなど、お元気で、ご多忙の日々を過されている。
専  門 高分子物理学。特に高分子物質の粘弾性と高分子溶液の熱力学的性質の研究。
著  書 「高分子科学」他八編。
研究論文 二百余編。
受  賞 高分子科学功績賞(高分子学会)
(編集委員 中尾記)
*(註)古市二郎博士
 理学部教授、後に教養部長・理学部長を歴任され第八代北大学長になられた。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉