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故 西野目 喜太郎氏を偲ぶ

加藤 清 大正八年一月二十六日生(七十五歳)

西野目家の由来と渡道

西野目家は代々士族で、祖先は鎌倉時代末期の武将新田義貞の家来、その二十四人衆の一人であったと記録されています。江戸時代の総本家は、西野目宗ヱ門という方で、庄屋を勤めておりました。明治二年に士族が廃止され、同月四月には廃藩置県となり、喜太郎氏の父弥市一氏は群馬県佐渡郡東村大学田部井千三百八番地に分家し、土木事業を生業としていました。
明治三十九年頃、弥市氏は単身渡道、士別町にて伐採の仕事に従事していましたが、妻子を呼び寄せることになり、弥市氏の妻つやは長男喜市、次男晴之進、三男喜太郎を連れて、はるばる夫の元に来て、飯場の炊事等に従事し苦労されたようです。
その後沼田村に転居、牧畜農業等に従事していましたが、帝国製麻沼田工場が創設されるや、弥市は同工場の設備工事及び土功組合の工事等の下請作業に従事、妻つやは沼田駅前で○一旅館を経営する等、夫婦力を合せてそれぞれ仕事に専念努力されました。
喜太郎氏の略歴
喜太郎氏は、明治四十四年四月、沼田尋常高等小学校入学、大正八年三月同校卒業、大正九年四月北海道庁立空知農業学校畜産科に入学、大正十二年三月同校を卒業。大正十三年四月獣医免許を下附され、同十四年七月三十日、極東練乳株式会社札幌工場に技手として奉職されました。
しかし現役兵として入営のため同年十一月に同社を退職、十二月に輜重兵第七大隊に入営されました。大正十五年十一月に現役満期、同年十二月一日に予備役見習獣医官を命ぜられ、更に昭和二年四月に陸軍一等蹄鉄工長を命じられ、これのいずれも満期除隊されました。
除隊後は雨竜村家畜医院にインターンとして勤務されております。この間各地を調査した中で、上富良野村に落ち着くことを決意し、同年七月に同村に転居、三枝光三郎氏のお世話で三枝装蹄所の向かいにあった空家を借り受けて医院に改修し開業しました。そして同年十二月に松原照吉氏のご媒酌により、広濱伊蔵、クスヘさんの次女で当時東中小学校で教員をしていたユキさんと結婚しました。
上富良野は農耕馬の飼育の盛んな村で、飼育頭数も多く良質の馬が多かったので、大正七年に軍馬の購買地として指定されました。毎年十一月には南は占冠村から北は美瑛村まで、富良野沿線七ヶ村の出場馬が全部本村に牽付けられ、定期軍馬の購買が実施されました。ここでは連日に亘る厳しい検査が行われて、合格した馬だけが戦時中初期まで高価格で購買されたものでした。
その頃上富良野村の畜産行政は、諮問機関として五名による評議員制度が設けられており、西野目氏はその中の一人として獣医師の立場で委嘱されておりました。
当時開業の獣医師は二名で、千五百余頭の馬を始め、病畜の治療、その他中小家畜の衛生管理指導は勿論、村の軍馬購買・畜産関係の各種行事に進んで協力されていました。病馬の治療代の事で心配している方には、「心配せずに早く病気を治す事が大事だ」と親身になって相談を受けたので、畜主は感謝し喜んでおり、一般村民からの人望も厚く信頼されていました。
戦時中は軍馬の購買頭数も年々増加して、一年に数回臨時購買が実施されるようになり、その都度評議委員会が開かれ、軍の要望に応じるためこの期間中は、馬検場に行詰めの協力をされておりました。
昭和十二年八月中旬、本村に軍馬の大徴発が実施され、二百余頭を旭川師団まで牽付ける事になり、西野目氏がその時の輸送指揮官となり、全馬匹を事故なく師団に引渡しをしたのですが、その任に当たっては、適時適切な指示や注意を与える等、旺盛な責任感と行動に対し、金子村長は大変喜んでおられました。
獣医官として応召
昭和十二年九月十二日に充員招集により、旭川騎兵第七連隊に応召、支那(中国)大陸方面に出征されました。出発の前夜、長女和子さんを呼び、懇々と父親としての戦争の意義を語り、九歳を頭に五人の幼児を残し、勇躍征途につく心境は推察するに余りあるものがあります。
ここで長女「谷原和子」(現東京在住・谷原正信氏夫人)さんの手記を記述させていただきます。
=手  記=
      「父の足跡を辿って」

私の父は少年の頃から牧場経営の大望を抱き、乳製品・肉加工等の勉強のため学校卒業後極東練乳に入社勤務中、家畜医院を開業することを決意、先輩の開業医の下で実習をすませ、上川支庁の各地を調査の結果、上富良野の立地条件が一番整っていることを聞き同村に転居することに決めました。開拓以来馬がいなければ農業経営は不可能と言われた時代で、農家は馬を可愛いがり大切にすることは家族同様でした。
私は子供の時から、馬が病気になると畜主の方が必死で看病する姿を眺めながら育ちました。疝痛(せんつう)の馬が来ると畜主は勿論、部落の人達が引き廻して運動させたり、腹部をマッサージしたり助け合っていました。夜中に馬が苦しみ前足でガーンガンと床を蹴ると家が揺れて、妹達まで目を覚まし皆そっと息をひそめていたものです。農家の人がお手伝いに来ているので食事時には、母が大きなお鍋でお味噌汁を作り、大きな井に漬物を出したり忙しかったものです。冬の零下二十度もある時に、袖の無いセーター姿で直腸検査をした後には、父の手は痺れ、唇は紫色になった様子を見て、子供心ながら感動したことを記憶しています。重患の馬がきた時などは夜も眠らず治療していました。命を救うと言うことは気を抜く時がなく、少し快方に向う様になってから横になって仮眠をとっていました。馬の容態が良くなってくると私にも、目の色、息づかい等で何となくわかり、それはとても嬉しい事でした。快復して部落の人が帰られた後は、父は食事も取らずにごろっと寝て眠ってしまいました。起こしてはいけないと静かにしていて、母と顔を見合わせ、にっこりしたものです。
ある年の元旦の夕方、今日は病馬もなく、シバレも弱く、よい正月だねと話している所へ、西野目さん馬がおかしいと言う声で、やっぱり、のんびり出来なかったかと立って出て行く父の姿を見送ったものでした。盆も正月もないと言うことはよく言われますが、それは現在も変わらず二十四時間勤務のような父の仕事のお蔭で、私達が安心して暮してゆける事を感謝しなければいけないと常に思っていました。

      「出征の父を送る」

日支事変が始まると父は予備役でありましたが、そのうち必ず召集令状が来ると言い、旭川の階行社、其の他で靴、軍服等軍装を整え始めて、整った軍装品の前で父は準備万端揃ったと話していました。
昭和十二年九月十日夜中の零時半頃、何時もと違う気配に目を覚まして起きて行くと、一色 武さんと父が何か話をしていました。その時の一色さんと、両親のピーンと緊張した感じは今も忘れられません。
子供でしたから余計な事を言ったり、聞くことも出来ませんでしたが、出征するのだとの気配に納得したものです。日程がなく翌朝は近所の人達や、親戚の人が集まり子供の居る場所もない程でした。
九月十二日は見送りに集まった人達と、記念撮影、神社で戦勝祈願を終え、駅まで行進し駅前で壮行会が行なわれ、旭川へと出発していきました。駅から家に帰った時、家の屋根には日章旗が立てられ、潮の引いた様な静けさと共に急に淋しくなり、お父さんはもう帰って来ないかも知れぬとの思いで一人二階へ上がり泣きました。
当時は戦争が何故起きたのか、どんなものかも知らず、出征兵士の子供は名誉な事で、人前で涙をみせてはいけないと頑張ったものです。出征の前夜十一日の夜、父に呼ばれて行くと日頃と違う父が『お前に言っておく事がある』と、言い始めました。
『明日出発するが、お父さんは戦争が好きで行くのではなく日本のために行くのだ、戦地にはたくさんの馬や軍用犬がいるので、その治療をするためと言うことをよくわかってほしい。職業軍人だけでなく日頃農業や商業をしている一般の人も、これから多く出征することも覚えておくように。お前は小学三年生になったのだからお母さんの言う事を聞き、体の弱い弟や未だ小さい妹達と仲良く、そして体を大切に学校の勉強もしっかりして立派な大人になってほしい。どこにいても皆の事は忘れない。』と優しい声で話してくれました。その時の父の心を思うとき、今になってもその記憶が鮮明によみがえり胸が熱く涙が流れるのです。
こうして西野目喜太郎氏は、昭和十二年九月応召以来三年有半の長期に亘り中支の戦野で軍務に従事され、昭和十六年七月三十一日元気で帰還され西野日医院の長い空白期間を挽回すべく努力されておられました。
大東亜戦争開戦
その年の十二月八日大東亜戦争に突入、国をあげて臨戦体制が執られ兵、馬匹の動員、食糧の増産等等、銃後の守りの厳しい日が続きました。軍馬購買の回数も増加し馬の資源も減って行く中で、職務を通じ軍用保護馬の育成に献身的な協力をしておられました。
西野目氏は在郷軍人分会長にも就かれておりましたので、この組織のあらましを記します。
明治四十三年十一月三日上富良野在郷軍人団を廃し帝国在郷軍人会上富良野分会が設立されました。
初代会長に成瀬孝三氏、二代会長吉田貞次郎氏が明治四十五年四月一日就任、三代会長に山本逸太郎氏が昭和十四年四月二十一日就任、四代会長に西野目喜太郎氏が昭和十八年四月八日就任されました。発会以来歴代会長の継承された伝統を守りその会務を司っていましたが、終戦に依り在郷軍人会は解散になり、在郷軍人会が行っていた忠魂碑の祭典は、遺族会が組織され継承されることになりました。
話は前後しますが、終戦後復員した島津農場の久保政義さんの話によりますと、
「私達の部隊は第七師団第八陸上輸送隊と言って、中支派遣第十一軍の各部隊に配属されました。その部隊の指揮下に入り業務を遂行するわけで、昭和十六年中国に着いてすぐ第十一軍病馬廠勤務を命ぜられました。同隊に到着申告のため隊長室に入りましたら、西野目さんが病馬廠長として着任されておられ、『久保さんでないか、よくきたね上富の方は皆さん元気か』と尋ねられ、吃驚するやら安堵するやら複雑な気持ちでした。其の後同隊に勤務中は大変可愛いがって下さいました。同年夏、廠長の交代で西野日大尉殿は内地に帰還されることになりお別れしましたが、淋しい思いをしました。同じ隊で勤務したのは兵州地区でしたが、その後各地を行動する途上で、この地名を会話の中で聞く度に、西野目廠長の駐屯されていた所だと思い出し懐かしく感じました」と話しておりました。
終戦を契機にした転身
豪放磊落覇気にとんだ西野目喜太郎氏を事業家に転機させたのは終戦であったと考えられます。
各種事業を緻密に計画され、最初に着手されたのが農産加工である澱粉工場の建設でした。昭和二十二・三年頃操業を始めると、生産する澱粉の副産物(馬鈴薯のすりかす)を活用して養豚を始めました。
その頃に、一〜二頭の豚を副業に飼育している人からの相談にも親切に指導され、肉資源の増産に努力されていました。
また甘味品の不足しているのに着眼し飴、飴玉、羊羹等の甘味品の製造も始めました。各地で盛んであった造材事業の事務所や、飯場に売りに行きました処、その先ざきで大変喜ばれたと聞いております。
また当時は、戦時中の人手不足により田畑は荒廃し、林地の伐採跡は造林もされず放置されていました。これを憂いた西野目氏は森林造成を決意して自ら末立木地を求め植林し、特にその後の管理に力を注がれ立派な林地を多く育てられました。
「ホテル大雪」の創業
層雲峡で造材事業を営んでいた実弟武雄のところへ国策パルプ関係の社長さん、旭川工場長さん方から、層雲峡には宿泊施設が少ないので将来ホテル等の経営は有望であると勧められたので、兄貴が手伝ってくれるならとホテル経営に踏み切ったのです。前年から準備を始め昭和二十九年八月、北欧式の山小屋風のユニークな温泉旅館として創業され、やがて総支配人として経営に参画されました。数度に亘り増改築を行いましたがこの構想は自ら練り工事も殆んど直営で実施されたと聞いています。
この間病気がちの奥さんと一人息子さんを上富良野において、一年のうちの殆んどを層雲峡で過ごされ、ホテル大雪の今日に至る隆々発展のためご尽力なされました。この傍ら上川観光協会の会計理事、常任理事を歴任、層雲峡の観光開発にも真剣に取り組まれたと聞いています。その頃西野目氏はご子息の健康がすぐれず大変心配し将来の為息子の保養に専念したいと考えられ、加えてご本人も喘息気味のため温暖な地方に転居の意を固め、昭和四十年十月に転居することに決心した様です。
深山峠に桜園寄附
西野目氏は、上富良野開基七十周年に合わせて、また役場総合庁舎が着工され工事が進められている昭和四十一年頃、庁舎の落成記念に何か長く残るものを寄贈したいと考えておられました。五人の子供を育ててくれた上富良野町へのお礼という趣意によるものでした。西野目氏の計画は深山峠に土地を寄附し、桜を中心に樹木を植え、春は花見、秋は紅葉狩など町民の憩いの場としたいというものでした。
これを当時の和田町長へ申し出たところ賛同が得られたので、さっそく昭和四十一年に隣接している地主さんのお二人から土地を譲って貰い、ここに桜を植えて整備し町に寄贈されました。離町後も町の発展を考える氏の愛郷の精神を高く評価したいと思います。
植樹作業に従事した緑町の菅野良治さんは、自分の植えた桜の開花時季には、毎年観にいっていると話していました。
深山峠は、旭川在住の故小泉 渉氏が中心になって昭和三十九年に展望台が整備されていました。商用で通る度に、その景観の良さに魅せられて展望台の設置を考え、同志四人であづまや、水飲場、ビニール製の椅子等の寄贈を行ったものです。西野目氏が寄贈されたのはこの地続きであり、十勝岳連山や大雪山、芦別岳、富良野平原展望と合わせて、その雄大な景観を更に引き立てています。
京都で逝く
ホテル大雪の支配人として勤務しておられホテルも隆々発展中の昭和四十七年三月一日から、社用で本州に出張中の時でした。神戸、大阪、京都と廻り、四日午後四時京都駅発新幹線に乗車のため、京都駅ホームで不意の病魔に襲われたのです。駅員の手配によって救急車で三十三間堂前の大和病院に搬送され手当を受けましたが、その甲斐もなく、心筋硬塞で急逝されました。享年六十七歳。今後の御活躍を思うとき家族の皆様のご悲嘆はどれほどのものかと返すがかえすも残念でなりません。観光開発や第二の郷土上富良野のために尽くされた功績は、まことに顕著なものがあります。厳粛ななかにも盛大な葬儀が営まれましたが、御会葬の皆様を見ましても、如何に生前の御交際が広かったかが窺われました。
謹んで御冥福をお祈り致します。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉