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「短歌・俳句」

「噴煙短歌会」 青地  繁
大正十一年八月十五日生(七十一歳)

敗れるなどということは夢想だにもしなかった大東亜戦争は、敗戦という惨めな結果によって昭和二十年八月十五日終結した。人々は驚き慌て呆然となった。戦争という大目標に向って一致団結していた頃の人々の心は、ばらばらに離散していった。
自分勝手、我儘、利己主義の考え方が台頭した。
全く滅茶苦茶というのが終戦直後の有様であった。
こうした状態を憂慮され、このまゝでは本当に国は滅びてしまうかも知れないと思われ、当時農業会の常務であった、和田松ヱ門(耕人)氏が人々の心にうるおいと情緒をあたえることが必要との観点から、若い頃から趣味で手がけておられた短歌の普及を思いつかれ、農業会の職員達に呼びかけて短歌の指導をはじめ、農業会の一室を会場として一ヶ月に一度短歌の会を開いたのである。
和田さんのこの試みは見事に成功して、短歌というやわらかい文学は、人々の心の中に早天の慈雨の如く浸透し、農業会の職員のみならず、一般からの参加者も多くあらわれて短歌の全盛時代が到来したのである。そこでこの会に名称をつけようということになり皆で考えた末、この会は十勝岳の噴煙のように永久に絶やさないということで「噴煙」歌会と命名し、会長に、和田耕人(松ヱ門)さんを推したのである。
噴煙歌会は和田会長を中心にして月に一度の月例歌会を催すことを申し合わせ実行することにした。
最初は農業会の一室を会場として会合をもっていたが、その後聞信寺をお借りして歌会を開き、更にその後上富良野神社の社務所をお借りし、宮司の生出宗明さんを事務局にお願いしたのだが、その頃歌会より機関誌を出してはどうかと言う案が出て、全会員より月に一度短歌作品を宮司さんに送り、宮司さんがガリ版を使って歌集を印刷し会員宛に送っていただいたのである。こうした宮司さんの努力はしばらくつゞけられたのであるが、今思えば宮司さんにはずいぶん過酷な労働をおしつけたものである。
こうして出来上がった機関誌は毎月の歌会にも有効に活用され、大いに役立つことになったのである。
その後会場を公民館に移したため宮司さんとも縁が切れ、後任の事務局を高橋静道さんにお願いしたのである。
高橋静道さんが事務局時代に丁度創立三十周年を迎えたので、高橋静道さんと青地 繋が中心となり会員の合同歌集「噴煙」を出版した。そして昭和四十年代に、大場夏枝さんが処女歌集「箪笥の底」を出版されたが、これが噴煙歌会に於いて個人歌集を出版された最初である。その後高橋静道さんが「花燐」を、和田耕人さんが歌集「噴煙絶えず」を、青地 繋が歌集「青蛙」を出版した。昭和五十一年にはこの三人の歌集の出版祝いとして、ニュー富山を会場に三歌集出版記念祝賀会を開催した。この祝賀会には教育委員会と文化連盟が後援して下さり盛大に催すことが出来た。
昭和六十年には伊部ひろのさんが歌集「風紋」を出版されたが間もなく亡くなられたことは残念なことであり哀悼にたえないところである。そして本年、平成四年七月には和田会長さんも亡くなられたが会員一同は当初の申し合わせ通り歌会の永久存続を目指し、勉強にはげんでいる、最後に、物故された会員の作品を紹介する。
○郭公の 初音ききたり せせらぎの
       飛沫の中に 妻と芹摘む
○数知れぬ 動き我が意に 従ひて
       筆持つ腕は ひと世の命
                     高橋 静道
○白足袋を 埋むる砂丘の 風紋は
       きらめく波と なりて続けり
○双の掌に 零れし私語を 秋風が
       地平の果てへ 運びゆきたり
                     伊部ひろの
○蒼窄に 孤の夢描き 七十年
       滾るものあり 十勝火の山
○勤め終へ 日昏れて 帰る野の路に
       こほろぎすだき 星座ひろがる
                     和田 耕人

「郷土文芸」俳句

 末枯や 廃校の釘 抜けば泣く       本田不久朗
標題の俳句は昭和五十二年十月二日旭川市民文化会館で開催された、第一回道民芸術祭の文芸まつりで、俳句の部三一八句の中より互選され第一位となった作品である。江花小学校が廃校となり、解体された情景俳句で、今から十五年前の俳句で此の年の前年昭和五十一年上富良野町文化賞を受賞された。公募俳句の中で此の俳句が遺作となり、昭和五十七年二月没せられた。昭和五十三年異色の句風の集成である「鰯雲」が出版され遺句集となる。
白峰亀鈴(亀義)記
 月あれば 月の色なる 氷柱かな      高橋 冬芦
研ぎ澄まされた鋭い感覚で表現され、何の説明をも要せず、結局、無言を強いる作品である。
提出句は、昭和三十一年一月二十八日、このみち俳句会発足、第一回俳句会での互選高点句である。
冬芦氏は、昭和二十五年より俳句を始め、一時中断の時期もあったが、伝統俳句を以って数多くの佳句を遺し、昭和六十二年十二月三十一日忽然と没せられた。
田浦夢泉(博)記
 蝿叩き 持ちて道順 おしへけり      立松静江
昭和六十二年七月、富良野市で開催された、俳句結社「アカシヤ」全国俳句大会での入賞作である。
うるさい蝿を追って居たら、道を尋ねる人が訪れた。急いで外に出て道を差し示しながら、ふと、蝿叩きを持ったままの自分に気付き、苦笑が湧いた。
そんな自画像とも思える明るい一句である。
静江さんは、昭和五十四年、作句を始め、平成二年九月十五日、惜しまれながらこの世を去られた。
赤間玲子記

機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉