郷土をさぐる会トップページ     第11号目次

続・戦犯容疑者の囹圉記(その11)

故 岡崎 武男 大正七年七月五日生(昭和四十三年没)


囹圉記(15)
自 昭和二十一年七月二十九日
至 昭和二十一年八月二十日

昭和二十一年七月二十九日
毎日枕を並べて寝ている同班の島田曹長に戦犯容疑事件が発覚し取調べを数回受けたが、それ以来すっかり意気消沈して見る影もない。今は吾々が慰める事さえも、現在の島田曹長には益々深刻な気持に追いやってしまう事になるのだ。本当に気の毒だが、何とも術がない。

昭和二十一年七月三十日
遺作「戦記」上野憲兵大尉(昭二一・六・一九 絞首刑 ラングーン埠頭憲兵隊)
戦記の名の下に死んで行く我々の死は、具体的に分解して見ると如何なるものであろうか。自分にも判然として解らないものがある。勿論、連合国側では判然としている。戦争中、国際法規や一般法に違反した者を処刑する。(中略)
戦争そのものが、既に世の法規や条理を超越した罪悪性を存して居る限り、しかしこれを個人の犯罪なりと簡単に片付ける理由はない。国家の命令に反し、上司の命令意図に反して行われた犯罪行為は明らかに個人の犯罪であろう。然し乍ら、此の場合に於ても個人は自国の規律に対して責任を負うべきである。事実上に於ても、各人の斯の行為は既に刑懲罰を科せられて今日に至っている。
されば今日、尚残っている居るものは国家の命令や、上司の命令意図に合致して居たと言いきるを得ない。従って戦争犯罪の責任は、国家にあると解すべきであろう。(中略)
第一、戦死者ならば戦争目的遂行の為の犠牲であって、その犠牲は已むなく自国の国家が要求しているもので、又国民は自国防衛のために自ら進んで之れに赴かんとするものである。其処に国家対国民の関係に於て大きな差がある。、又、連合国側でも我等を戦死者と見ないであろう。然らば、終戦処理に対する犠牲であると考えるべきか。(中略)
敗戦国が、賠償金を支払い領土を割壌せらるる如き、その負担国民全般に亘るものであれば妥当であり已むを得ぬと思われるが、それと同等に、個人の犠牲を考える事は人道上から言っても又理論上から言っても不穏当の事の様に思える。
然らば、第二に考えられる事は、戦争犯罪なるものは、自国に対しても将来社会全般的に見ても明確に個人の犯罪であるのか、若し左様であるとすれば個人の責任に帰することは明らかであって、何等の疑問もない。(中略)
然らば、同一行為が各国の解釈に於いて相違を生じているのか。
A国は之を犯罪と看做さず、B国は之を看做すと言う事の様に、解釈の相違から来ているのか。其れにしては余りにも其の差が大き過ぎる様である。
AB何れかの国が無理な解釈をしていることになる。左様だとすればその責任は、個人に在るとすることは疑いがある。
結局、如何に考えて見ても判然たるものを見出し得ない。強いて理由を付けんとするならば、戦争に付随した「ボンヤリ」した犠牲で、ある一種の犬死の様な立場に追い込まれねばならない。其処に戦犯者の悲惨な処がある。更に一歩進めて戦犯者の犠牲が、将来日本の為に何等かの効果が現れるか、之には大きな疑問がある。(中略)
「戦犯者はその行為が悪かったから処刑されたのだ」と簡単に考えられては余りにも悲惨である。之には幾多の原因がある事で、見做す理由にはならない。之を一々例示することは困難であるが、個々の事件をつぶさに検討すれば、其処には幾多の資料が有する筈である。此の幾多の資料を採り入れて将来の日本の再建の資に充つることに依って、初めて幾はかの意義が生じて来るものと思われる為政者の行き方にも国民の心構えにも何らかの資料となることが望ましい。
                                         (上野大尉)

昭和二十一年七月三十一日
何時かは釈放せらるべき事を待ちわび乍ら七月も今日で終わった。
郷里は明日からお祭り、今日は宵宮である。敗戦後とは言え昨年の敗戦直後の混乱よりは賑やかに祝う事が出来るであろう。

昭和二十一年八月三日
此の頃所長、副官、その他の英人の巡視が頻繁となり、頻りに清潔整頓をやかましく言う様になった。
何か移動でもあるのではあるまいか。ビルマ国軍の反乱兵が入獄して来るとか、吾々がシンガポールに送られると言うデマも飛んで来た。何れにしても敗戦一周年を目前に迎えて、近き将来何かの変化があるのではなかろうか。
幸が来ても不幸が来ても天命である。早くなる様になってくれればよい。

昭和二十一年八月四日
◎ 故上野大尉に棒ぐ
  逝く春の 茂りてみのる 秋思う
          君が郷霊や 照覧せあれ    司令官 久米大佐 作
  ふたたびと 帰りきませぬ 吾が友の
           よみ路に照せ 今夜の月影       猿田大尉 作
  鐘の音の 響は闇に 消え行けど
           淋しく残る 夕暮の夜
  かかけても 甲斐こそなけれ 夜もすがら
            涙は曇る 夜半の月影         松岡大尉 作

昭和二十一年八月八日
二、三日前から准士官以下に於いて、増食運動を決し、将校の態度改善を要望し、反復して増食請願を実施し、是れに効果がない時は、非常法的手段に移るべく申し合わせをした。その監房の連中の反村があって結局立消えとなった。

昭和二十一年八月十一日
夜半に支那人二百名程入獄す。何んな性質のものか知らぬが、良い影響があってくれればよいが……。

昭和二十一年八月十三日
シンガポールのチャンギー刑務所より、桜井中佐、平田大尉二名空輸引致さる。事件はいまだおさまらず、前途遼遠である。

昭和二十一年八月十四日(終戦記念日)
終戦一周年を刑務所に於いて迎える。詔書奉読後、黙祷を捧げる。
内地の今日は如何であろうか。誰しも再起の念を新たにしているのではないか。我々も、又、心に決すべきものがなくてはならない。

昭和二十一年八月十七日
命令に依り、監房の移動をする。八監房を五監房に詰められてしまった。聞けばシビリアンとバンコックから来る日本軍二百名を収容するためであると云う。

昭和二十一年八月二十日
モールメン監房で、増食運動を新たに起こすと聞く。こちらが発議した時は、一蹴しておきながら独自の立場でやろうとしている。上司の制作的な態度が余りにも極端である故に、統率上反効果をもたらすようだ。こんな悲惨な生活の中にも相寄り、相助ける気持がないとは日本人の気持もおかしなものだ。
次号に続く

機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉