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富良野川改修工事の経緯

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(七十九歳)

私がまだ小学枚に通っていた頃、雪解け頃になると毎年の様に富良野川が増水・氾濫して道路が通れなくなり、隣の家の姉の嫁ぎ先に泊めて貰った事が何回となくあったものだ。
出生地の三重県から江花部落に移住し、現在の島津部落に住み着いたのが大正十年頃と思われる。
その当時の富良野川は、蛇の様に曲りくねった全くの原始河川そのものだった。中でも一番曲った処に私の家が建っていたのだからたまらない筈である。
然し氾濫の危険さえなければ至って環境の良い所で、夏になると遠近を問わず子供達は勿論、昼休みには青年達迄が集まって、適当な探さのよどみで水泳ぎをしたり、子供達は魚釣りをしたりザリ蟹取りなどをして今のチビッコ広場の様な場所になっていた。
ところが私が小学校を卒業した年の五月、あの忌まわしい十勝岳の大爆発があり、山紫水明の富良野川が一変して酸性の泥土となり、十勝岳の大原始林が爆発で生じた山津波に依って、一挙に押し流されて泥流地帯となってしまった関係で、雪解け水は勿論雨降りが二・三日も続くと、上流の溜っている泥水が流れてくるので、流速が緩慢になる私の家の付近が一番氾濫の危険状態となり、消防団や部落の人々が、土俵を積んだり柴止めなどを作って、一晩中警備に当って下さり、ひどい時は家財道具を二階に上げて避難準備をして呉れたりして随分難儀をお掛けしたものだった。
私は父が早く亡くなったので、母と年若い妹と三人で心細い思いをしながら数年を過ごしているうちに、大東亜戦争に巻き込まれ、私は妻と五人の子供を残して関東軍の騎兵の一員として警備の任につく事になった。
馬を兵隊より優位とする兵役に服すること二年、シベリアの抑留生活三年、辛じて生き残ることを得て終戦三年後の十一月に、漸く懐しの我が家に復員することが出来た。
家に戻って家族の話を聞いて驚いた。その年のお盆の頃に未曽有の集中豪雨に襲われ、水田が全部冠水したという。幸いにも妹婿が復員して同居していて呉れたお陰で、大難を小難で終らせて貰ったが、とに角稲が泥水に浸った為にその後の作業が大変で、私が帰った時は稲の脱穀をしていたが、作業場が泥だらけで皆なマスクをして働いていた。
こんな事になったのも、実は私の家から約三〇〇メートル程下流に、対岸に沿った取水堰堤があり五メートル程も川水を堰止めていた。その施設も私の所有地(川なり)に作られていたのである。
この無理な施設こそが増水の原因の最たるものと、応召になる前から考えて居たので、数年間も大君の為とは言えあらゆる苦労を味って来た私だけに、堅く心中に期するものがあり今度こそはと思っていた。たまたまその翌年にも危険状態となり、町長を始め消防団、部落の方々が警備に来て下さったので、此の時とばかり問題の堰堤に案内して状況をつぶさに見て貰いながら、私の今迄考えていた事を説明し、元々此処は私の所有地であるから、責任は私一人で取りますからと目をつぶって放水路をお願いしますと、百名集まった方々に持参していた鍬やスコップで、堰堤の上手にあった築堤を破って放水路を作って貰った。
築堤すれすれだった水も文字そのもの、堰を切った様に殆んどの川水を呑み込む様に下流に支障もなく流れを変えた。危険箇所の水位も下り、全員安堵の胸をなで下ろして引き上げて貰った。
時恰も裸供出とまで騒いで居た頃の食糧難の最中の出来事である。直ちに原形復旧して田圃に水を引き入れなければ受益者は勿論、大きく言えば国家の一大事として刑事事件にも繋りかねない責任がある。責任は私一人で持つと大見栄を切った以上、対岸の受益者にも充分お詫びをして、私も関係者と一諸になって復旧に汗を流し、耕作に支障のない様一件落着する迄には二日に余る大きな仕事だった。
思い切って断行したこの事件が動機となって、二度とこんな事の起らない様にと、直ちに署名運動を起して、それぞれの筋を通して嘆願の結果漸く実を結び、役場に出向いて計画書の図面を見せられて一同亜然としてしまった。
我々は堰堤の上手に単なる固定した放水施設を設けて欲しいとお願いした筈なのに、あにはからんや富良野川三町村にまたがる大改修工事の計画であり、我々の想像を遥かに越えた大規模なものだったのである。勿論この設計図に基づいて工事が出来上がった暁には、余程の事がない限り大丈夫に違いないとは思ったが、何しろ広大な土地が必要であり、中でも私の家が川沿いにある関係上一番犠牲にならなければならない。何とか設計を縮小して貰えるならばと陳情しょうと考えていた矢先に、その頃幅を利かせていた革新政党の知る所となり、増産運動の最中だけに問題が大さくなって、道の開発庁から旭川土木現業所に達しがあり、我々関係者が説明会に呼ばれた時は、猫の手も借りたい蒔付時にもかゝわらず、反対派は一戸一名必ず出旭せよとの指令によって、道並びに旭川土現と、町長始めとする我々賛成組が庁舎の正面に座り、その前には所狭しとばかり乳呑児を背負った主婦や、孫の手を引いた爺さん婆さん達が背後に居る党員に見守られる様な形で意気込んで座り込み、実の処ノーネクタイに乗馬ズボンの私など、どうなる事かとはらはらとしていたが、二、三のやりとりのあった末に、取り敢えず反村の地区は差し置いて危険地帯の賛成地区から工事に取り掛る事となった。
反対に集まった人達は、全く気勢をそらされた結末となりほっとした気持で帰って来た。
測量と用地の確保に一年程かかり、いよいよ今の島津公園地域から着工の運びとなったのは、昭和三十年頃からではなかろうかと思われる。
問題だった堰堤も、自然流下の形で私の家から百メートル程の上流に新設される事になり、トロッコ軌道など敷設される大工事で、大きな飯場小屋が建ち労務者なども百名近くいた様で、幹部の人が私の家で寝泊りしていた関係もあり、私を始め近所の人達も大方出役して、目まぐるしい状態が二年以上も続けられた。
始めは度肝を抜かれた様に思われた私の土地も、近くに代替地があり、大体の工事が終る頃には、河川敷や旧河川を埋め立てて耕作地もほどほどになり、堤防が道路替りになったので家の周辺もさっぱりして、町の人達は堤防をジョギングやハイキングに利用し、自衛隊員もマラソンや体力作りに、又バイクや車などの練習コースに重宝がられている。
始めの頃あれ程反村していた地区も、順次改修が行われ、十年程前に富良野川の末端迄に行ってみたが、田んぼの真中を掘削してまで曲折を無くして、橋も護岸も完壁となっていたので、今では皆喜んでいるのではないかと思っている。
尚、着工と同時に期成会を作り、当時の町長、田中勝次郎氏並びに役場の土木課長さん外、署名嘆願に協力して下された方々は勿論、期成会長仲川善次郎氏、副会長谷与吉氏、故金山作次郎氏等には終始多方面に亘り多大なるご尽力をいたゞさましたが、お陰様であれ以来数度の豪雨にも危険を感ずる事なく営農を続行、文字通り安住の地となり家業に励む事が出来ます事は、生涯忘れる事なく感謝しながら余生を過ごさせて貰っている次第です。
付 記
ちなみにこの稿は、現在施行されている二期工事の数年前に綴ったものであり、今回は中富良野側からと島津地区を除いた上流の方から、盛んに進行中との事実も時代の変遷とは言うものの、何となく当時の情況と思い合せて見て、感概深く思わせられる事の一つでもある。

機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉