郷土をさぐる会トップページ     第11号目次

里仁地区の近代開発四事業

数山 勇 大正十年一月八日生(七十一歳)

豊里部落の開拓

明治四十年、上富良野町西十一線より西十二線、北三十五号より北三十六号に至る区間に、団体長守屋熊治率いる団体約二十戸が入植、開墾の鍬をおろし、部落開拓の先駆者となったのである。(豊里団体とは宮城県豊里村より移住したのでこの名あり)
同じく四十年、西十二線北三十三号より北三十五号の間に阿波団体約二十戸が入植したが、思うにまかせず岡久利吉只一人踏みとどまり、開墾に従事した。
明治四十一年以後は単独移住者がおいおい増加した。次いで津郷三郎経営の農場に約二十戸、更に沼崎重平が美瑛の田中亀夫から第二マルハチ牧場(第一マルハチ牧場は美瑛の美田にある)を購入し、約二十戸の沼崎農場を経営するようになり、現在の部落を形成するようになったのである。
教育所の創立とスポーツ広場
明治四十年入植後、児童の数もおいおい増加して来たが、教育の揚がなく、これが親としての最大の悩みであった。そして明治四十三年には児童二十名近くになって教育の必要益々強く、部落民一同協議の結果、神山翁に特にお願いし、翁の家を開放して戴き寺小屋形式の教育を始めたのであった。しかし、このままでは何んとしても不自由な為に、関係方面に学校建設をお願いしていたところ、明治四十四年四月認可を受ける事が出来た。部落民一同は経費全額金四百八拾弐円六拾五銭也を地元負担で校舎建築にあてた。同年十月二十五日を以って創立開校の運びとなったのである。
大正十五年五月二十四日十勝岳大爆発、その年九月五日に美馬牛駅が出来たので、駅員官舎等で一気に人口が増し、一q余り離れた我が里仁校に山坂越えて通学して来たのである。二室しかない教室は満杯であった。道路とは名ばかりの両側一面に落葉松草木が生い茂る泥んこ道であった。学校用地は、開拓者の方より五町歩が贈られたもので、部落の者の手で大部分が学校林として植林されたのである。残る条件良き場所、十一線付に学校の先生方の住宅等が建てられ、残る三反歩程度の地は除虫菊を作付け、四年生以上が手入れ収穫、その益金は六年生の修学旅行費用に充てられていた。戦争に入ってからは青年団が国の戦時作物として亜麻の作付をして居たが、戦後は食糧難時代となり、先生方の菜園と変って居た。時は変り食糧も充分に余る時勢となり、特に瘠せ地の為に落葉松を植林したのであるが、十年も過ぎる頃から毎年風倒木となる始末であった。
その落葉松も当時は稲のはさ木に大変重要な役割を果しており、部落の方々の入札で配られていたのである。残る小経木も伸びるにしたがい倒れ全部整理し、昭和五十三年、部落総会において、このままではと言う事になり対策が諮られた。学校閉校の昭和四十八年以来部落民の集まる機会が少なくなりつつ有ったことから一案、スポーツの広場を考え出したのである。
四十八年以来六年間の年月、灯の消えた部落に落ち込みと淋しさがが加わりつつあり、あの松林跡をスポーツの広場にと計画し、住民全部が農休日と定め、子供老人全員が一日を楽しく運動会でもと利用もまとまったのである。
当時の和田町長に要望したのであるが予算が無い。
畑にして小麦でも蒔いてはと。然し町側も測量だけはしたが、結果的に三百万円余もかかるという、二案で自衛隊工事ではとの話も出たが、これも何時の事やらで三案が出された。菅原重機の社長が工事を受けても良いとの朗報が持ち込まれたからである。
里仁地区の方々には大変お世話になっているので、この様な時に一仕事してお礼返しでもするか、油代で良いからと申し出られて、僅か「五十五万円」で工事一切を引受けてくれたのである。その折りに教育委員会より呼びだされ、本当にその価格で仕事が出来るなら、町から助成をするので、区長と菅原重機との契約にしてくれるかと申されたので、私は内心嬉しく開き帰り、間もなく契約も出来上がった。
社長は早速仕事の準備に取りかかり、七月二十日を目途に完成を急いだのであるが、思いの外の重粘土のために大変な苦労をしたようである。私も毎日作業の奉仕をしながら仕上がりを楽しみに完成の日を待ったのである。
七月二十日予定通り完成。午後一時より神職による修祓式が行われた。町長、教育長、来賓多数の出席を戴き、部落民全員も出席して立派なスポーツ広場が出来上がったのである。町の助成も実現、部落からも「十五万円」の協力を戴き施設一切整い、各機械メーカーより多くの寄贈を頂いたのである。
広場の北の土手にはつつじが植えられ(菅野忠夫氏より一二九本寄贈)東の土盛した処は桜が植えられており、十一線道路の端には句標が立ち並び、旅行く人々の心の慰めの場にもなっている。又南西には開校記念樹(明治四十四年)として贈られた樹林が八十余年の年月を物語っており、あづま屋も建ち夏の憩いの場となっている。汗の大奉仕で約七千uの広場が見事に出来上がり、以来毎年運動会等を行う楽しい住民の大広場を作り上げたのである。
西十一線道路工事
昭和五十六年秋、農政課長であった片井氏より西十一線を道営農免道路として工事を行ないたい旨の申し入れが当時区長の私にあり、江幌、静修、里仁地区に跨がる三地区の土地所有者の承諾書を戴ければとの話であった。
開拓以来苦労した道であり、此の際にと地区内外の万々の御協力をお願いに歩いた。
江幌行政区長中瀬伝次郎氏、静修行政区長益山繁一氏の各区長にも協力をお願いにあがった処、本道路工事について心よい御理解と御協力を頂けた。早速三地区合同の期成会を発足、役員の選出を早急に行ない、土地所有者の同意を得ることになった。土地所有者宅を訪問したのは年の瀬も迫った大吹雪の日であった。急を要するので徒歩でお願いにあがった処、此の話を本当にする方が少なく、まあ良くなる事ならと、思いの外早くまとまり書類も滞りなく揃えられた。年明けて実測に入り、三億余円の予算も付き以来工事も順調に着手されたのであるが山又山の岩石の難工事であった。此の道路は、昭和五十九年に着工され、昭和六十三年度までの五ヶ年をかけ、全長二千四百三十二mの改良舗装が行われた。
その間工事の障害となる神社、馬頭観世音菩薩、二宮尊徳像、植木の移動は全部、部落住民自からの手により行ない、全部新築、基礎、大工事の仕事も一切住民の手により真新らしく仕上げられた。これも西十一線道路拡張工事のおかげであり、又部落民全員の協力と、工事費も頂いた補償金の中で賄う事が出来たからである。
昭和六十三年度に全線が完成したことによって実に立派になり、小高い丘の景勝地は写真家前田真三先生のおかげもあり、今は旅人の憩いの場となっている。地区住民も農作物作付けに丘の景観づくりを心がけるなど、観光客を楽しませる地帯となりつつあり、四季を通じて当地の来訪者は増し続けている。
此の小高き丘に完成記念の句標を住民会で建てている。

     「先人の 拓きし荒野 熊笹の
             杣路に車 とび交ふ郷」
待望の飲料水
昭和六十年里仁地区にかねてからの水不足の悩みが深刻化、急浮上し、そのため此の地区に上水道設置期成会を設けて、酒匂町長に飲料水供給施設の整備を要望したのである。又道議会の平井先生に期成会要望挨拶と並びに道衛生部に陳情に上り、我が地区の水不足の実情を部長に説明したところ意外にも驚き、今どき川や湧水など利用している事に寝耳に水の様子である。其の折私は部長に今の農村の現況は機械化により、農地の区画整理と、其の周辺の林地開発などの影響から水量の激減となり、深刻な水不足となった訳をつぶさに説明したのである。今までも大変心配していた事は、井戸水に流れ込む泥水と防除用の農薬等に加えて、最近はキツネの繁殖が著しく目立って来た事である。自家用水源にキツネが頻繁に近づき、一日一度は必らず水源で水を飲んではそこに用便をしているのが見受けられることから、エキノコックス病感染の恐れも出てきたなどと実情を説明したところ、思いの外陳情が速く実り、国庫補助もつき、同年十一月には早くも雪の中での着工がなされたのである。
翌春二月には待望の施設が完成し、供用が始められた。施設は菅野 稔氏の地先が水源地であり、村上重幸氏地先の配水池までポンプアップにより千百mを送水しここから自然流下で各戸に配水されている。
配水管延長は七千五百九十八mに及ぶ。事業費は五千五百四拾七万壱千円で四〇%が国庫補助、残りは起債と受益者負担となり、戸数十八戸(現在四十戸余)と地区会館に給水されている。
この後、昭和六十三年度には、里仁地区簡易水道事業(国庫補助事業)として、給水計画人口を二百六十人に拡張し、配水管も五千六百八十五mを増設、里仁地区ほぼ全域の水事情が改善されている。現在配水管の末端は、深山峠を越えて吉田ドライブインまで達している。
墓地整備
里仁地区の墓地は開拓以来、自然そのものであった。自然に育った大木は伸び放だい、熊笹は繁って昼間も暗い山の中のようで無気味な感じさえしたのである。
樹令八十年を経た年輪の木も数本あり、私は子供の頃から此の墓地へ行くのが大変に淋しく一人では行く人もいなかったのである。何時の日か此の墓を明るく美しい霊園にすべきと考えていたのである。
私の区長時代には静修地区美瑛ルベシベ並びに美馬牛市街地区の方々も利用していたのであった。
種々打合せするにも利用者区域が幅広く、思う様に連絡が出来ず困ったものである。其の地区の有志の方々とお話合いをして居た折、運良く五年振りに地区の皆さんの協力の折合いが付き、永年の夢であった墓地周辺の伐採から整地をしたいという五年間温め続けた具体的大望が叶ったのである。
五十七年秋お寺住職を迎えて整備のための儀式の後、立木を伐採し、五十八年雪融けと共にユンボ、ブルにより伐根除去、整地を行なった。これら作業に使用した機械代金の支払いには、伐採立木の売払い収入を充てることが出来た。
この淋しい場所を去って他の墓所に移した方々も大分居られるが、今では立派な墓地に生まれ変わり、町から贈られた五百本のラベンダー苗が成育し、「里仁ラベンダー園」として明るく美しく咲き誇る地としても知られる様になってきている。最近では新たに石碑が建てられるなど、これも関係者の御尽力の賜と、佛もさぞ喜んで居られる事かと思っている。
合 掌

機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉