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少青年時代を過した故郷の変遷

井内 大吉 大正十一年五月二十日生(七十一歳)

はじめに

現在上富良野町の自衛隊弾薬庫の施設されている処は元の藤井農場で、ここに私達が昭和六年に入植した頃は、満洲事変前後の世界的経済恐慌のさ中でした。その不況の大波を受けながら農村は狭い耕地に過剰な人口を抱え、しかも昭和十年まで数年続いた冷害凶作で、農村の苦しみが深刻な時代に青少年時代を過しました。
上富良野町の町史によると、藤井農場、多田牧場があったという記事はありますが詳しい事は書いてないので非常に心淋しく感じ、二十余年に亘る冷害と不況時代を体験した事等を書き残したいと思いついた訳です。ある機会に同郷の加藤 清氏にこの意を伝えたところ、まとめてみたらと言われ、昭和六年から自衛隊演習場に買収される迄の時期に入植した方々の動静と記憶を辿りながら記録を始めました。
旭野地区の変貌を考える時、私共の時代に記録して保存すべきとの感を強くしております。
当初この地は俗に藤井の沢といわれていましたが、正しい名称は農事組合制度が出来てから、翁農事実行組合として登記をされました。その後行政区が旭野と呼称される様になり、この地区は旭野五となり、昭和十七年の春には、青年学校も本校から別れ旭野青年学校となりました。
道路も昭和八年の夏、翁開作道路が計画され、旧道を廃止して日の出部落の山本氏宅前から山加農場の境迄開通いたしました。部落の入口の菅原繁志氏宅から、市街地迄六q有り、部落の奥の森谷栄造氏宅から市街地迄は十二q離れていました。
翁の地区は、ヌッカクシフラヌイ川の南岸に沿って六q余りは酸性水が浸透するため土地は痩せて、酸性の砂壌土または泥炭、台地は火山岩地で幅東西一四六m、長さ南北七三〇m余りで、一戸当りの所有面積は十二町五反、農耕可能地は三分の一くらいで大体四町から五町くらい、入植時に拓けている面積は僅かなもので、その上冷害の年が続き、収入が少ない上不景気で農業外の収入を求めても働き口もありませんでした。駅等にはルンペンが屯している世相の中で、家族の多くは子育ての最中の年代で日常の食糧も他から借りて生活をしている家庭が多い状態でした。借金の取り立てに苦しみ、ある者は高利貸しの爺さんが大切な馬を差押さえて、馬車で悠々と引上げて行く姿を眺め、お隣の不幸を蔭ながら見送り同情したものです。
熊騒動
ある晩我が家の馬が急に騒ぐので、熊が出たと思い威嚇して追い払おうと石油の空缶を叩いていたら、暗闇に動物が一足跳びに駆けて来るのです。怖くなって家へ逃げ込み、闇の中をすかして見ると実は馬だったという事がありました。その原因は昼差押さえて連れて行かれた馬が、仮馬小屋から放馬し、元の家に帰り、畑の中を遊んで走り廻って居たものと後で判かりました。馬は始めて通った道でもよく記憶しておるもので、馬の感というか、本能というか不思議な動物です。
入植者の動静
昭和五年入植当時区画割りした二十二戸に対し、入植した者は初年度、岡 清蔵、岡田秀三郎、松岡寅吉、吉田竹次郎、成瀬永三、藤井平吉、原田 清の七名で、翌年度は井内安一、宮島与作の二名、その後数年の内に山本宗太郎、武内太蔵、日戸治郎、加藤徳男、松本利宗、三浦卯八、佐藤みよの、中村くす、音道岩治、山本一郎、阿部好弘、森谷栄造の十二名の外に、一次定住者を含めて二十戸が煙をあげ生活することになりました。通作の人は遠くは旭川周辺の東鷹栖村より吉田久守、野林喜造、佐々木直治、東旭川村より浦本徳造、浜田作一、山村太四郎氏等常に出入りがあり、又隣地の中の沢部落から田中常太郎、榎本一恵、岡田伊平、佐藤 勝、佐川東一郎、江幌から木原庄ヱ門、東中から丸田善衛門、島津から谷 与吉、北野 豊、日の出から佐藤梅治、山本武雄、江花から高橋米造の諸氏合計四十戸を数えるに至りました。
旭川からの通作の人は、旭川で昼食して出発、夜を通して馬車に付いて歩き、翌日上富良野に着き、上富良野の市街で馬に飼い葉を行い、夕方早く藤井農場の作小屋に到着、すぐ作業に掛かり燕麦を作付けしている姿が子供の頃の私の記憶に残っております。不景気な時代でしたが、皆辛棒強い人達であったと思い出します。
初年度の入植者は、昭和五年から三十年の年賦償還のため、民有未墾地の償還組合を作り支払いを行っていました。その支払いが滞りがちで、毎年支庁の役人が納入日を決めて小学校迄出張徴収に来るのですが、この日都合がつかないため、その断りを小学生の私にいって来いと、朝登校前に父から頼まれて行った事もありました。(終戦後繰上償還を行い組合が解散された。)
又貧しい中に温かい出来事もありました。それは救援物資の配給という事で、欧州の赤十字社から古着やお米等の配付を受けました。お米は燻蒸した古米が配付された事もありました。
藤井農場は場所によって土質が異り、砂壌土地質等は三鍬起といって三方から鍬を入れて大きく土を返した後、笹の根等を取り除く必要がある為開墾にはすごく手間取ったものでした。しかし当時は開墾のため朝鮮人の労務者が多勢作業に従事していて、反当り賃金制の請負方式をとったため能率よく作業も進行しました。旭野で一番最後に開拓が始められた本地区が、早くから拓けている地区と遜色なく立派な畑地に仕上った事は、此の地区に入植された方の努力は勿論ですが、朝鮮の人達の労働力が大きく貢献している事を忘れてはならないと思います。
日高農場の開拓
日高農場は、藤井農場に隣接してヌッカタシフラヌイ川の北岸に沿って、東西に延びていた土地にあったといわれています。富良野地方史を調べても書いてないので、登記の時点では荒地のまゝ開拓されなかった為、農場として認められなかったのだろうと思われます。この土地は原野の姿で、昭和六年三月民有の未墾地として解放になり永原義軌、多田吉平、山本伊作、角波伊三郎、久保留吉、新田権作の諸氏が、同年三月五日、三十年の償還期限の契約で買受け入地したわけです。岩石の多い笹原で良質の石材が相当生産したようですが、皆さん大変苦労され立派な畑に仕上げられた御苦労は特筆に値いします。
   旭野部落地割分布図     別紙其の一の通り
   藤井農場入植年次表     別紙其の二の通り
   藤井、日高農場入植者一覧表 別紙其の三の通り
小学校の建設
入植者も増えたことから学校建設の気運が高まり、有志の方が発起人となって、旭野の中心地である十人牧場に学校を建設する事になりました。建設費は全額地元の寄付金で賄い、大正六年五月九日上富良野尋常高等小学校不息特別教授所としてめでたく開校しました。その後この学校は独立して、大正十二年七月二十日不息尋常小学校となり、初代校長に西 隆先生が就任されました。私が入学したのは昭和四年で、二代校長は渡口恵舜先生、又脇山弥作という老先生は、入学後間もなく逝去され、後任に田中輝男先生が就任されました。裁縫の若林千代子先生は市街より通っておられました。
我が家は昭和六年の春、藤井農場に入植しましたが、その頃は田中先生と石崎先生が交代され、石崎先生は音楽の得意な先生で、五線譜を教えてくれましたが私達低学年の頭には入らずじまいでした。又昭憲皇太后のお歌「金剛石も磨かずば」を朝礼の時歌ったものです。過日同窓の者と逢った時、石崎先生の思い出が話題となり、小学校時代に習った前記の歌は校歌かと思っていた等と懐しい思い出話に花を咲かせました。藤井農場の我が家から学校迄は、直線で五q程あり人通りも少ないため道らしい道もなく、雨が降るとドブの様になり風倒木を渡して通学したものでした。当時は何処の家も兄弟が四〜五人居たので、友達も多く登下校の悪路も苦にならず楽しいものでした。秋にはブドウ、コクワ等をあさりながら通学したものです。冬はスキー通学で最短距離を通って快適でしたが、雪解けになると人通りがないので坪足でぬかって歩けない状態で苦労をしました。その頃不息小学校が村内の教育研究会の当番校に指定され、その発表等に唱歌の特訓を受けた事を思い出します。
石崎先生が江幌校に転勤され、後任として榎本先生が着任となりました。榎本先生のお兄さんが中の沢の奥で澱粉工場を経営され、先生は其処から通っていたので一緒にスキーで通ったものです。
大正時代の末期多田安太郎氏が自分の農場の小作人の子弟教育の為に建設された私設の学校も近くにありましたが、公立の特別教授所が開校になると廃校になりました。この跡地は現在自衛隊の多田弾薬庫から一〇〇m程上流の道路の北側の落葉松の大木が四、五本生えている処だと聞いております。
自衛隊演習場として買収される
昭和二十六年頃より警察予備隊の演習場が上富良野町に設置されるとの噂が流れ、国に買収されるなら条件の良い処に転居したい旨の希望者が出始めました。町も買収を住民に有利に運ぶ様、町長初め町議会議員もこの買収問題で議会を召集し、協議を重ね代表を送り交渉に当り、苦労して開墾した土地所有者の協力を得て、昭和二十八年買収が本決りとなりました。居住者は移転先を調査して夫々の地に転居しました。
今の多田分屯地の警衛所の北側の小川付近が私設学校跡地で、音道子之吉氏の居住していた処です。
警衛所より奥は当初土手を築いた中に弾薬庫がありましたが、その後第一安井の松岡さんの居住地跡に下から山腹を掘削して大規模な弾薬庫が構築されたようです。私の住んでいた処は、今は地図に三軒屋と名示され、吉田、成瀬、井内と部落の中央に続いて位置した場所が懐かしく思い出されます。
演習場になった当初は、組立ての鉄板を敷き並べ飛行場の滑走路になっており、平坦な私の畑地から東北方向に松岡さんの畑地まで敷かれていました。
三年程前自衛隊の好意に依り、山加農場より藤井農場、第一安井牧場、多田弾薬支処、松岡さんの居住跡地などを見学する機会を得る事が出来ました。
演習場として利用されもう二十余年が経過しましたが、年月もさる事ながら自衛隊の演習で、昔の道路は何とか判るものの、何かの目標が無ければもう住居跡は判らない程の変り様でした。私の家は小川の辺りに弟が植えた桜の木が毎年美しい花を咲かせておりましたが、今はすっかり老木となってそれでも生きながらえておりました。
十年程前迄では藤井農場出身者の集いが回り番で催されておりましたが、古い方も老齢の為他界され今はこの集いも絶えてしまいました。
あとがき
最初に書きましたが、私は昭和六年春九才で十人牧場と山加農場との境の処より、藤井農場へ父母に連れられて入植、その後昭和二十五年春、現在の中富良野町へ移住し藤井農場へは二年程通作で耕作しました。昭和二十八年春この藤井農場の父安一名義の土地は、弟の昭一に分家しましたので、自衛隊演習場買収の売渡しは弟が行いました。
私は少年時代の戦前、戦中、そして復員後迄、世の中の激動の中に苦労して耕作した土地でした。日高農場の方々にも同じ年代に入植され、共に苦労された人達です。当時の記録が残っていないので、残念に思いこの記録を執筆させていただきました。
藤井農場入植者年次表 其の二   ○印部落外より通作者を示す
昭和5年払下当時 昭和6〜10年前後 10年〜20年頃 29年売渡者名 転出先
 成瀬 永三    音道 岩治  阿部 好弘 美瑛美馬牛
 岡  清造 ○松岡熊太郎 ○上村  勇 ○松岡熊太郎 美瑛町水上
 藤井 平吉 ○高橋 米造  菅原 繁志  菅原 繁志 美馬牛を経て山部
○松岡熊太郎   ○佐藤 梅治 ○佐藤梅治 日之出より通作者
 宮島 与作    佐藤みよの ○山本武雄 日之出より通作者
○佐藤 宅平  加藤 徳男  三浦 卯八  阿部 好弘 前記
○浦本 徳造    榎本 一恵  谷  与作
○北野  豊
(谷・北野共有)島津より
○浜田 作一   ○田中常太郎 ○佐川東一郎 中之沢より通り富原に転出
 吉田竹次郎      吉田竹次郎 西神楽へ転出
○山村太四郎    成瀬 永三  成瀬 永三 美瑛町美馬牛新星
 善波善ヱ門  成瀬 永三  井内 安一  井内 昭一 美瑛二股を経て、美瑛市街
○坂東 梅吉  井内 安一    井内 昭一
○有島 与吉 〇吉田 久守 〇丸田善右ヱ門 〇佐川東一郎 前記
 松岡 寅吉    松本 利宗 ○佐川東一郎
〇三木  孝  山本宗太郎  松岡 寅吉 ○佐川東一郎
   武内 大蔵 ○木原庄ヱ門 ○木原庄ヱ門 江幌より通作
 岡田秀三郎   ○岡田 伊平 ○岡田伊知郎 中之沢より通作、中富良野町合力へ転出
○野林 喜造    中村 くす  中村くすえ 島津を経て宮前町
○野林 喜作    山本 一郎  成瀬 一栄 美馬牛新星
 原田  清 ○佐々木直治  日戸 治郎  日戸長次郎 富良野市扇山
   日戸 治郎    日戸長次郎
   森谷 栄造    森谷 栄治 旭野二を経て山形県転出
旭野部落地別分布団     其の一    省略
藤井・日高農場入植者一覧表 其の三
   省略

機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉