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祖父を偲び旭野部落の移り変り

岡沢 孝春 昭和七年三月二十四日生(六十一歳)

岡沢家の系譜

岡沢家は士族の家に生れ、九代岡沢彦三郎の弟政吉(私の祖父)が北海道開拓の大望を抱いて渡道しました。
先祖は四国徳島県石塚村で、代々蜂須賀の城代家老賀島長門様御譜代御家来として明治の時代迄続いていたのであります。明治三年に士族が廃止され、同四年には廃幡置県となり、九代目の彦三郎が村付卒となって治安にあたる傍ら、同村四三番屋敷には大きな道場があり、そこで剣術を教えていたと伝えられています。
祖父は明治二十七年三月八日石塚村八番屋敷に分家し、明治三十四年一月二十九日同志と共に北海道石狩郡新篠津村江別屯田公有地に移住、その後北海道空知郡上富良野村字上富良野コルコニウシュベツに転居し、現在の旭野二下藤崎政則氏の道路向いに住んでいました。
祖父の生家と文通する様になった動機
私は昨年上富良野ラベンダーツアーで募集した旅行に参加して、奈良県の天理教本部に参拝した際、同行していた上富良野の天理教教会の佐藤道信師から、私の祖父が祀ってあると聞かされ驚いた次第です。そこで岡沢家を継いでいる十二代の健次さんの消息を知り、六十余年振りで文通を始めたところ、大変喜んでくれ健次さんの方で北海道の分家している岡沢家を調査し、その結果詳細を知らせてくれました。之も祖父の導きと喜んでおります。
旭野部落の位置
旭野部落は十勝岳の西麓に拡がり、東は国有林に接し、西は日の出部落、北は清富、日新部落に接続していて沢単位に七つの農事実行組合が組織され、統轄して旭野部落が形成されておりました。
その後自衛隊演習地への用地買収や、人口の流出に依り実行組合も弱体化し、単位組織の活動も出来ない状態となって、区域内の人口は減少したままで現在五組合で一行政区となって営農を続けております。
道路は旭野地区の中央部をヌツカクシ富良野川支流に沿って、道々吹上上富良野線が東西に縦貫して走っています。この道路は、大正時代から硫黄山で生産されていた硫黄の唯一の運搬道路として大いに利用されており、旭野部落もこの道路を中心に発達した訳です。
次に農事実行組合毎の拓けた経緯について記述します。
旭野第一
道道吹上上富良野線を通り、日の出地区を過ぎて沢に掛る付近から旭野地区となるが、その手前から左の沢に入り坂道を登ると第二安井牧場で、開拓時代は此処から十人牧場に往復した期間があった様である。旧道の様子は故和田松ヱ門氏が良く知っておられ、案内して貰える事になり、昭和五十八年春氏の案内で、加藤清氏と私が随行し踏査して来ました。
樺の樹木は大きくなりましたが、昔の道路の跡は歴然として確認出来ました。
第二安井牧場は、明治四十二年安井新右ヱ門氏(安井敏雄氏尊父)が牧場として許可を受け、明治四十四年新しく住宅を建て牧場開設に取りかかった。この牧場は全部の成功検査に合格し、大正四年牧場を全部小作にして旭中に引き上げた。小作者は全部で十一戸となり部落を組織した。
旭野第二上・下(十人牧場)
新撰北海道史によると、石狩国区画外空知郡上富良野村コルコニウシュベツ牧場として九〇八・九一六坪が、明治三十七年〜同四十六年迄を成功期間として貸付をうけている。
この土地は、山田新吉という人から四〇〇円で十人の者が買ったもので、十人牧場という地名は、此の土地を世話され、十人の中の一人となっている市街地の伊藤勇太郎氏の命名である。十人牧場という名の基礎となった十人の氏名は次の通りである。
木田軍平、清水テイ、武田高蔵、岡沢政吉、高松彦太郎、正瑞喜太郎、前川清作、佐藤久五郎、伊藤勇太郎、広 卯吉以上十名の方は、明治三十九年五月十日共同の入地で小屋架けは前年の秋に施してあった。彼等は石狩川沿岸の幌向に一旦入地したが、水害にあって苦労したので山に入地したという。
十人の人々の筆頭で代表者が木田軍平と言う人である。この年の入植者は軍平の子の木田桐江、林 熊七、森 喜四郎の三名があり、高松彦太郎の分に沖野常吉、佐藤正信の分に松下要助、佐藤菊蔵、清水正雄の所有したところに小作人として柳 浅吉が入植した。
十人牧場でなくて熊の牧場だと言われる位熊が多く棲息していたが、人の生命に危害を及ぼす事はなく、熊をびっくりさせない様に夜は歌等を唄いながら歩いたと言われている。開拓以来人畜に被害のなかった事は、部落民が自然愛護の精神に徹していたからだと思われる。
開拓時代には川沿いに歩く事が出来ないため、一旦第二安井牧場に登り、この高台から川に向かって下りたのである。初め十人の共同経営で牧場施設を行い、馬は借りて付与検査を受けた。
大正二年加藤半十郎氏が長沼村から入地した時には、もう既に旭川に出た者もあり、同年野崎孝資氏が入地している。十人牧場に入地した者で組合が組織され、旭野全区域の中心となり、大正六年五月九日上富良野小学校不息特別教授所として小学校も開校された。
この牧場の入口にあったオンコの木は名木で、一本松として部落民は元より十勝岳に登山する人の休憩場所として親しまれていたが、昭和四十四、五年頃の水害のため枯れたことは全く残念である。
旭野第三
明治四十四年加藤岩吉氏に払下げられた山加農場には、夕張郡長沼村から西口三太郎氏(現教育長西口 登氏の祖父)が同牧場の管理人となり一部落を形成する。
旭野第四
ヌッカクシフラヌイ川本流と十人牧場の中間の区域を中の沢と呼称し、旭野地区で最も地味の肥沃な処で、多田牧場を経営していた多田安太郎が順序よく開放しこの沢が部落を組織した。
旭野第五
藤井の沢は旭野の南部に位置し入植者も増え営農していたが、昭和三十九年自衛隊演習地となり全戸が他に転出して組合が消滅し、現在は弾薬庫が施設されている。
旭野第六
日新地区から通学上の都合によって、北東部の沢を編入し部落を形成していたが、不便な地帯のため全戸が他に転出して組合は消滅している。
このように七つの地帯で夫々農事実行組合を組織して、之を統轄して旭野行政区が運営されていましたが、現在は五部落だけとなってしまいました。
古老の声に残る旭野
旭野の開拓当時の古老の声を記述します。
一、石材について
日の出、旭野は良質の石材が生産されていたので約十戸の人が石工を職業として働いておられ、石材も旭川、小樽方面に積出されていました。その頃石工佐藤辰之助氏が旭川から鳥居の材料の注文を受けた際に、この切出しについて探査を進めるうちに、自分の買った土地に良い石材のある事を知ったという事です。これを機に上富良野神社に大鳥居を奉納したいと考え、同志と協議して長さを七・三米の継目の無い大鳥居を、社標に氏名の刻んである四十九名の方で奉納されたと聞いています。
外に建築石材も相当量生産され、近年保存の話題が出てる小樽方面の石蔵や護岸に使用した材料も、当時上富良野から積出されたもののようです。
二、硫黄の生産について
平山鉱業所の従業員として旭野地区から相当数の人が働いており、各部門で活動していました。
硫黄採取は径六十p、長さ五十m位の土管製の煙道に噴気を導き、この出口で凝固したものを取る方法で純度の高いものが生産されていました。当時の硫黄輸出国イタリア、フランスと並び良質の物で、この大部分は製紙用に使用されました。輸送のための開削道路は第一工事として実施されたと記録されている。
三、小学校の建築
入植者の増加に伴い児童数も増え、低学年を上富良野小学校迄の六qの山道を通わせる事は可愛そうだということで、小学校の建築が具体化した。場所は部落の中心となる十人牧場に決定し、林 熊七氏を代表に末永友槌、村上忠吉、沖野常吉、野崎米三郎、福田慈三郎、前田林太郎、岡沢政吉以上八名の方が建設委員となり、部落の奉仕作業で、大正六年二月二十日起工、五月九日念願の開校を迎えたのでした。
この建設委員の一人に祖父も加わっていた事を知り、孫として社会に貢献すべきとの尊さを考えさせられました。
校名の上富良野小学校不息特別教授所の由来は、塙村長が論語の中の「天行健なり君子以て白蓮して息まず」の文の中から引用されたと言われています。
十人牧場に入植した方々は、当初硫黄山(又は丸山と呼ばれていた。現在は前十勝と呼ぶ火口丘で、大正火口や昭和三十七年噴火や、昭和六十三年噴火を起こした六十二火口群が所在する)迄欝蒼たる森林が続いていたので、硫黄山から噴煙が出ている事を知らなかったと言われています。また上空を覆い尽すように樹木が繁茂していることから天に穴を開けると言って森林を伐採したと言ったそうです。
旭野地区名の由来
戦事中地区名を改めることになった時、現在も五万分の一の地図に旭野地区の中心として残っている十人牧場は、村内で一番標高の高い東方に位置して、朝日の出るのが一番早い山麓地帯なので、部落民の総意に依って旭野と改められたといわれています。
私の幼少の頃
祖父は最初の移住地の新篠津村で、水害にあったことから水害の心配のない高地を選んで十人牧場に入地しました。その後千米程離れた現在の豊沢宅の処に家屋を新築転居しました。加藤宅が川一本挟んで向いにあり昵懇にしていたゞいていました。私は小さな頃から加藤宅へよく遊びに行っていましたが、腕白でしたのでいつも障子等を破ったりしましたので、母や祖母にしょっちゅう叱られたものです。
頭書にも記しましたが、私は昨年旅行の際天理教本部で祖父が祭ってある事を知り、以来祖父の生家(十二代)との文通を始め、岡沢家の系譜について知る事が出来ました。
祖父政吉は八代目貞蔵の三男として分家し、その後渡道、本町の十人牧場に落ちつき農業を営み、祖父から私で四代目になります。一時町を離れましたが、上富良野が忘れられず舞い戻ってきた次第で、祖父の拓いたこの地を思い出し終戦頃の居住者名をまとめました。消息不明の人も多く日の経つにつれ記憶も薄れるので、今のうちに記録しておきたいと旭野の移り変りを書き留めた次第です。
終戦の頃居住した人の名簿は図の通りです。


機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉