郷土をさぐる会トップページ     第11号目次

私のあゆみ

中島 ヨシ子 昭和十年三月二十日生(五十七歳)

私の故郷は北海道上富良野町。この町の方々で作っておられる「郷土をさぐる会」から依頼を受け、何をどのように書いたら良いのか大変迷いましたが、私が五十七年間歩み学んだ事を書くことにしました。いわば私の履歴書のまとめのようなものです。
私は兄妹が多く、九人中の八番目として此の世に生れたものですから、すぐ上の兄から上の兄姉には、いらない存在であったと思います。親も大変だったと思いますが、兄姉の苦労も相当なものだったようです。兄や姉達が家計の助けに、農家へ奉公に出る春が、私の一番嫌な思い出です。六歳になった頃でしょうか、母に、泣きながら「ヨッ子は絶対に奉公には行かないよ、一生懸命勉強して偉くなるの、そしたら母ちゃんが喜ぶよね」と言った事が、今でも忘れはしない辛い思い出です。
早生まれの私は、小学校当時は背が低く、前から一、二番目、机は一番前でした。勉強は出来る方でもなく又悪いと言う程でもなく、目立たない子供だったと思います。中学校に入ってもそれは同じでしたが、とにかく元気な中学生でしたので、私が掃除当番になると、男子と女子が、せいぜい一組か二組しかない掃除道具の取り合いになり、よく喧嘩をするので「なぜお前達の日にかぎってそんなに喧嘩をするのか」と二年の時の担任だった新井先生が嘆かれていたのを覚えています。
中学三年になって高校受験と言う時期を迎え、両親に相談も出来ず、かと言って諦める事も出来ずで悩んだあげく、間際になって、進学しない旨を中尾先生に話しました。なぜ悩んだかと言うと、妹が小学校二年生の頃、敗血症という、(その頃かなりの子供達がこの病気で亡くなった)重い病気に罹ってしまい、三年間の長い病院代が谷口家(私の実家の名)の経済を圧迫していたからです。敗血症は、ころんで怪我をした時の後遺症で、高熱が続き、細菌が体の血管中を巡り化膿するので、外科手術だけでも十数ケ所の傷が残ると言う最悪な病気ですが、その治療の為に、当時一本が二千円という、普通の家庭ではとても使う事が出来ないペニシリンを、一日に四本も注射するのですから、それはそれは大変なものでした。
妹が転んだ時、私と妹はどちらが上かわからないぐらいの体格をしていたのですが、小さい私がオンブしなければ歩けない程の状態だったのですから、想像していただけると思います。今では医学が発達して、この様な病気も完治出来ますが、戦後間もない日本は、栄養不足も手伝って、治る病気も治せず次々と命を落した時代でしたから、今の印度やその他の国々でも、日本の終戦当時の姿そのままに、苦しんでいる人々の様子をテレビで見たり、話に聞いたりして、心が痛む今日此の頃です。
話を元に戻しますが、私の高校進学はこの様な事情で坐折せざるを得なかった訳ですが、それでも、二、三人の友達と、旭川なら一年ぐらいの学校があるのではないかと相談をしているところに、二番目の兄の所にいたお手伝いの娘が、子守りが大変なのでやめたいと、たった十日間で暇をとってしまったと言うので、私に来て欲しいとの事。父は、すぐに行けと追いたてるのです。友達に事情を話し兄のところに行く事にしたのですが、これで私の願っていた事は全部断念する破目になってしまいました。
一年間次兄のところで、子守りと店の手伝い、台所の手伝いと、肉体的な仕事などあまりした事がなかった私には重労働で、汚い話ですが、尿が真赤になった事もありました。無給料の上、兄の家といっても他人と同じで、それ以上に神経を使う事になって、十五歳の私には、辛くて、最も苦労した一年でした。
兄嫁の母は、それはきびしい人で、時々来ては私の仕事の事で小言を言ったりするのですが、兄嫁にしてみれば小姑の私には言えない事もあったでしょうし、私も実の姉とは違い甘える事も出来ず、たまに上富良野に帰る事がうれしくて、兄が、上富良野に何か用事を作ってくれないかと待っていたものでした。それでも、次兄の所にいた事は、私にとって悪い事ばかりではなく、勉強になった事も多くあります。先ず人に対する言葉使いや態度など、数え上げれば限りがない程で、それだけ私は物事を知らな過ぎた娘でしたから、兄にも苦労をかけたと思います。
一年間次兄のところで過した私は、上富良野に帰り家の仕事を手伝う事になりました。けれども私は「農業の仕事はしない」と言って、両親に言い付けられても外へ出ないので、家族も諦め、誰も何も言わなくなり、家事だけに専念し、夜は、メリー洋裁学院に通う事にしました。大体私は不器用で、洋服を作る事など出来ないと思っていた両親は、一着を仕上げる度にとても喜んでくれたものでした。
なぜ私が農家の仕事をしなかったかと言うと、二人の姉が農業の人と結婚していたので、私も農家へ嫁に行かされると思ったのと、それに、何事も一方的に決めて、子供達に自分の選択をさせない父への、無言の反発だったのだと思います。
その様な生活をしているうち、十月になって、当時農協の専務をしていた村上さんより話があって、農協の採用試験を受ける事になりました。初めて書く履歴書がまた大変で、筆字など習った事がないので、五枚くらいも練習してやっと書き上げました。
試験を受けたのは五人ぐらいだったと思いますが、店舗の仕事と言う事で、たいした頭もない私が採用されたのでしょう。農協の勤めは不足もなく、旭川で次兄の仕事を手伝っていた頃よりはずっと楽で、後から入って来た若い人達が、足が痛いとか、疲れるなどとこぼすのをきいて不思議な気がしました。
でも嫌な事が一つだけありました。それは、買物に来る農家のおじさん達が、私が商品について一生懸命説明するのに対して「馬喰の娘だけあって口がうまいなぁ……」と冷やかすので、私はよく怒り「もう知らない!」と、話をする気にもならないと言うような場面が何度かあった事です。
私の実家は家畜商、いわば馬喰(バクロウ)と言われる商売で、春になると、長兄が十勝方面から若馬を仕入れて来るので、その時期は朝から農家の人達、又近くの馬喰のおじさん達が、一日に十人以上も私の家に出入りして、一頭売却する度に、お酒を出し肴を出すので、女の人達は大変で、私が勤めに出てからは、母が孫の守りをしながら其の役をしていましたし、義姉も農作業に出て行くので、家族全員が働いておりました。
私が十八歳のお正月、神社で厄祓いをして貰いましたが、其の頃、厄祓いをする人は少なく、私の他には一人ぐらいしかいませんでした。その年に父が病に倒れ、十一月二十四に息を引きとりました。肺癌でした。当時、がんの恐しさを知らなかった私は、父が大病とは思わず、病床の父ともよく言い争いをしたものです。その頃の病院は、入院患者の食事などすべて家族が世話をする事になっていましたので、私も農協からの帰りに病院に行き、父の看病にあたりました。父はとりわけ元気な人でしたので、病気になってからも、食べ物の好き嫌いがはげしく、現在のように、何んでも取り寄せる事の出来ない時代でしたから、父に「我慢しなさい」と叱ってしまった訳で、今にして、父の最後の我がままを聞いてやれなかった事を後悔しています。
父が亡くなってから、私自身の気持が変りました。
今までの甘えていた暮しから、母と妹を守らなくてはならない立場になり、長兄の相談相手にもなりました。二十歳ぐらいの頃から、結構大人の話の中に入り、長兄からは、ヨシ子が男であって欲しかったと頼られる程になって、日曜日には農作業も手伝う様になりました。
こうして娘時代を過した私は、二十五歳の時、友達から紹介された夫と結婚する事になりましたが、私の心は決まっているのに、兄姉からは、かなりの反対を受けたのです。当時、東京に出て行く事は、外国にでも行く様な気持でいたのですから無理もありませんが、最後に母が「ヨシ子の幸せは誰にも分らない。自分で決めた事に文句は言えない。好きな様にしてやって欲しい」と説得してくれ、もめていた結婚話も解決して、昭和三十五年春、東京に出ることになりました。
上富良野で結婚式をと言う母と長兄の希望で、農協事務所の会場で式を挙げ、その後、母と長兄、妹、仲人、夫と私は、二十五時間も汽車にゆられて上野に着き、それから、夫の実家で三日間も披露宴が続き、くたびれてしまいました。
私が東京に出て先ず考えた事は、必ず成功して故郷に帰るという事でした。私達二人の生活は、四畳半の一部屋から始まり、結婚一ヶ月から共稼ぎで、私は、実家と商売上の付き合いがあった大島畜産に入社しました。事務所の人達は全員大学を出ており、中学卒業は私だけでした。が、負けん気の強い私はその人達と一緒になって、夢中で働きました。事務の仕事は農協勤務のお蔭で、誰にも文句を言われる事はありませんでしたが、英語で話されるのには困りました。毎晩、夫に少しずつ教えて貰い、やっと皆について行けるようになった頃、東京の暑さと無理をしたのが重なって、胆のう炎を患ってしまい、六ヶ月間の入院生活を余儀なくされる事になったのです。その為、夫にはつらい思いをさせる事になり、夫の兄達は「別れてしまえ」と言い、義兄は入院している私にまで「本当は病気ではないのだろう。子供も生めないのだから別れろ」と難題を言って来ました。私が働く事が夫の母や兄達には不満だったらしいのですが、私も意地っ張りで、そのくらいでは仕事をやめる気もしませんし、夫も私の事はあまり言いませんでした。それは、お金をためて独立しようと言う二人の希望があったからだと思います。
夫の会社は、中央アスベストという冷暖房の保温工事の会社でしたが、社長の金遣いがあらいのか、給料も遅れがちで、私の給料がなければ生活が大変だった事もあって、私が働かざるを得なかった訳です。そんな中で、とうとう夫の会社が倒産し、昭和三十七年十一月に夫は独立しました。私はそのまま前の会社に勤め、夫は二人の従業員を連れて仕事を始めたものの、仕事は少く、私の給料が二人の生活費でした。それでも、翌三十八年には長男を出産したのですが、その間も、私は満員電車に揺られての通勤で、お腹を潰されないようカバンで覆いながら、妊娠五ヶ月まで働きました。
その頃、品川で所帯をもっていた私達も、夫の独立と共に田園調布に引越して、四畳半から六畳間になり、たった一畳半広くなっただけで随分広く感じ、とてもうれしかったものです。夫の仕事もだんだんと順調に運び、二人目の子供が出来た頃が、私の人生の中で一番幸せな時でした。次も男の子をと望んでいた夫は、女の子でがっかりしたようでしたが……。二人目のお産は実家でと言う事になり、私は長男を連れ、旭川の小倉病院で長女を生みました。
三日目に、夫は私達を見舞に飛んで来てくれ、娘の名を章江(ふみえ)と命名し、忘れもしない昭和四十一年二月四日、千歳発全日空の機上の人となったのですが、思いも掛けない事故に遭ってしまいました。
その時私は、旭川にいた次兄夫婦と二番目の姉夫婦が見舞に来ると言うのに、八時になっても見えないので、病院のロビーに出て何気なくテレビに目をやりました。丁度サザエさんの番組で、その途中、横に流れる臨時ニュースに「全日空機が行方不明」の字幕が出ました。「まさか」と思いましたが、搭乗者名に夫の名前があり、それでも「夫が死ぬ事はない」と信じていた私は、泣くまいとこらえていました。しかし翌朝五時頃には、もう助かってはいないと覚悟をしました。
生まれて間もない娘を抱きながら、こんな小さな子供を、私はこれからどうやって育てて行けばいいのかと、不安で不安でたまりませんでした。まして夫の仕事を続けて行くなど考えもしなかった事です。
生後六日目の章江は飛行機に乗せる事が出来ないとの事で、長男の規夫(のりお)だけを連れて東京に向かいましたが、人間の落し穴はどこにあるか分らないものです。羽田に着いた途端、大勢の報道者が待ち受けていてマイクを突きつけられましたが、話をする気力もなく、気の抜けた人形のようなものでした。(苦しく悲しい中で、このようなマイク攻勢は良くない事だと思います)
夫の遺体は早く見つかって無事に葬儀を済ませ、上富良野に帰る事ばかりを考えていた私に、意外な事が持ち上がりました。夫の得意先であった何人かの社長さんから「奥さん、会社を継ぎなさい」と勧められたのです。私は迷いました。当時社員は八人だったと思いますが、専務の藤原さん始めみんなが「奥さんだったらやって行けるから、会社を続けてほしい」との事。一方、東京にいる父の弟達(渋谷・新宿でホテルを経営している)が心配して「男の仕事を継ぐのは大変だ。銀行に話をつけてやるから、小さなホテルでもやってみてはどうか。親子三人は楽に食べて行けるから」と勧めてくれ、ラブホテルから始めたら良いとの事で、いろいろと調べてみたのですが、会社との両立は難しく、迷いに迷ったあげく、ホテル業を諦め、夫が始めた会社を、やれるところまでやって見ようと決心したのです。
夫が独立して三年少々、まだ私達は借家住いで、台所を入れ、六畳・四畳半・三畳の三部屋で、姉の息子も住み込んでおり、夫がやっと自分連の家を買う事に決めていた話もお流れで、夫が亡くなってから十ヶ月、そのま、借家で頑張る事になりました。
その間にも、娘が重い風邪にかかって「もう駄目になるのでは」という迄になり、妹の夫が東京都の職員だった事から、目黒の乳児院に預ける事が出来、助かったと言う事もありました。
当時、専務と私の家は、一軒家を二分して借りており、廊下続きになっておりましたので、一日中一緒にいる様な生活の中、夫が亡くなると人の心は変るもので、毎日嫌がらせを受ける事になりました。
専務にしてみれば、仕事について何も分らない私が急に社長になったのですから、面白くないのは当り前で、今にして思えば、その気持も分りますが、当時は図面が来ても私にはチンプンカンプンで、専務に頼るのみでしたから、只我慢するしかなく、泣き泣きの」毎日でした。
そんな或る日、夫の友人が来て、図面についていろいろと教えてくれました。それからは、簡単な図面位は自分で計れる様になり、得意先回りや集金・仕事の打ち合せなどもだんだんと自分のものにして、その年の十一月、遂に自分の力で、小さな事務所と倉庫付き社員寮、自宅を含めた一軒家を建て引越しする事が出来ました。それからの私は全力で仕事に打ち込み、夜遅くまで、社員と一緒になって現場に出ました。現場は、図面上での事よりも勉強になり、むしろ私は現場向きに出来ているのではと思う程、男の人達に混って仕事をする事が苦痛ではなく、結構高い足場の上に乗って、一人前に仕事をしたものです。
私が社長になり三年経ってから専務に退職してもらい、それからは、自分の思う様な会社経営を行いました。足を引張る人もなくなり、仕事は順調に運び、やれやれと思ったところへ、今度は不渡手形をつかませられ、それも二度や三度ではありませんでした。得意先を増やすには冒険もつきもので、其の度に、私は債権者委員長となってサラ金業者相手に頑張ったものです。新入社員の募集に当っては、私の兄姉達が良い人材を世話してくれて、苦労しながらも、助け舟がいつも私を励ましてくれました。その恩に報いるために、社員を裏切らず、お得意様には喜ばれる仕事をする様に心掛け、私に出来る事は進んで力になり、嘘の無い生活を続ける様に努力しました。それが実って、新社屋も社員寮も建てる事が出来たのです。
今度私は、三十年前に果たし得なかった夢をもう一度……と。更に見続けて十年。長野県・千葉県と見て回りましたが、仲々思う様な物件もなく蹄めようとしておりました。上富良野に帰省する度に、十勝岳を眺め又深山峠を見たりして、外国には行った事はないけれど、外国に負けない風景がここにあるのではないかと気が付き、何んと素晴らしい所で生れたものだと、両親に感謝しました。だったら自分の生れ故郷にホテルを建設しては……と、四年前より計画を始めました。反対者も多く、一体目玉は何なんだと言われ、こんな所にホテルを建ててやって行けるのかと注意も受けましたが、反対されればされる程、私の天邪鬼は首をもたげてしまうのが悪い癖です。それでも、だんだんと私の気持ちをわかってくれる人が増えて来て、やっと今年(平成四年)八月にオープンする事が出来ました。
建設中、又オープンしてからも、毎日が大変で、たった一ヶ月くらいで音を上げている状態です。でも私は、夫のあとを継いだ時の事を思い出し、また一からの出発をと、五十七歳にして頑張ろうと思っております。娘時代、十勝岳を望み、遠い空の星を眺めて、なぜか涙した思い出深い上富良野。私はこの上富良野が一番好きなのです。四季に恵まれ、こんな素晴らしい景観のある上富良野を大勢の人達に知ってもらいたいのです。
『凍る朝、味噌汁の香匂いたち』私が二十歳の時に詠んだ俳句です。寒い冬、背を丸め、白い息を吐き、貧しく悲しい時代。又友達と山に登り、若い悩みを打ち明け合ったりした青春の一頁が、今また思い出となり、生活の活力となっています。
≪中島ヨシ子さんのご紹介≫
中島ヨシ子さんは現在東京に在住で、東京都大田区北嶺町34番14号に本社を置き、各種保温、防音工事業の他多角的な事業にも取り組まれる資本金一千万円、従業員70名、年商十二億円余の業績をもつ株式会社「トーアス」を経常する代表取締役社長としてご活躍されておられます。
中島さんのご両親は他界されましたが、お父さんは市街二町内(現本町二丁目)で牛馬商を営まれていた谷口重由氏の三女(五男、四女の八番目)として生れ、実家は長兄正男氏(昭和48年没)の後を継ぐ昇氏(甥)が町内富原に移られ畜産業を営んでおられます。
中島さんはこの故郷である上富良野の美しい自然と田園風景の素晴しさを都会の人に味わって貰えればと思い、平成四年七月リゾートホテルを建設オープンされたのです。
その「富良野ホップストーアスホテル」を業界誌(H・C・B発行カードエイジ)では次のような記事(写真掲載)で紹介されている。
なだらかな丘陵が幾重にも連なり、その傾斜にモザイク模様を描きながら美しい田園がひろがる上富良野町。今年7月にオープンした「富良野ホップストーアスホテル」は、こうしたヨーロッパ田園風景を思わせる小高い丘の上に、カラフルな花々に包まれながら静かに佇む新しいホテルです。上富良野町はご存知のようにラベンダーで有名ですが、ビールの苦味とコクを生み出すホップの栽培でも知られているところ。ホテルの名前もこのホップにちなんで付けられました。
外観は、正面のテラスなどに設けられたアーチが美しいヨーロッパ風建築。遠くから眺めると、まるでお城のような雰囲気を漂わせ、ロマンチックな上富良野の風景と素敵に調和しています。
(中略)そして、何といっても素晴しいのが、窓から眺められる雄大な風景。正面には美しい稜線を措く十勝岳がどっしりと構え、その山麓には上富良野の町並みと丘陵地帯がひろがり、開放感がいっぱい。(以下略)
(編集委員記)

機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉