郷土をさぐる会トップページ     第11号目次

十勝岳観光開発調査に参加して

元上富良野町議会議長
故 床鍋 正則 没昭和六十三年十二月十日(七十九歳)

雲の上にある温泉として凌雲閣が昭和三十八年七月開業、昭和四十年十月には町営国民宿舎カミホロ荘の開設、次いで昭和四十二年十一月防衛庁共済組合保養施設、十勝青年隊員の家「上富山荘」(現凌雲閣別館)ができ、北海道でいちばん高所にある秘境の温泉郷として全国に知られ、観光客も順調に訪れ賑いが見られるようになった。
だが、町内では、宿泊施設はできたが観光施設整備の遅れが町民の多くの声として町議会の議論となり、議会としてもこの対応に自から取り組むことになった。
議会の常任委員会である総務委員会と産業経済委員会が合同で、町の総合計画の中の位置付と観光開発の進め方をどうするかの現地調査を昭和四十四年六月二十三、二十四日の日程で実施することに決定したのは昭和四十四年第三回定例会であった。
調査には、議会から総務所管の谷与吉、林財二、鎌倉周吉、床鍋正則、(欠席大柳正二)、産経所管からは浦島捨三、伊藤忠司、清水一郎、新屋政一、南藤夫の九名と久保議会事務局長、町から藤原助役、平塚商工観光課長、松浦榮一係長、松浦清カミホロ荘支配人、山の案内役を引き受けて呉れた議員でもある会田久左ヱ門氏の一行十五名である。
六月二十三日は朝から快晴、皆んなは山登りをする服装に身を整え、午前九時役場前を車両班田村氏の運転するマイクロバスで出発した。途中浦島氏は麦藁帽、バーバリに短靴の姿で乗車すると、車中の者一同は「その出立ちで大丈夫か?」と小声でつぶやくが、本人は一向平気のようである。
車は次の旭野、林宅前で止まると林氏はニコニコしながら元気で乗り込む。中茶屋を過ぎ砂利道と急カーブの連続に揺れる車窓に映る萌えるような新緑に、清々しい風かおる樹木をぬって走る快よい感触を味いながらカミホロ荘に着く。
支配人はいたって軽装でロープを肩に担いで乗車する。終着の凌雲閣前で一同が降りると、今日の案内役の会田氏は山の看板画きに余念がない。
やっと吾々に気付き筆をおくと、挨拶もそこそこにペンキのついたシャツのまゝで早や先頭に立ち、歩きながら大きな声で「ゆっくり行くから勝手な行動をしないように」と笹薮の中へ入って行く。皆は、はぐれてはならぬと声を掛け合いながらも案内されるがままに、峻しい断崖を松や熊笹につかまりながら岩の突端に足をかけて進む。「こんな松の中にツツジが綺麗だな!」と眺め、一足、一足を大事に運んでいると、滝つぼに落ちる水の音が近くに聞える「これが勝蔓の滝だ、こんな近くにあったのか」、これを誰でも見られるような道をつけなくてはと皆んなが同じことを考えながら暫く見とれていた。
次の調査点である川下のカミホロ荘の水源地を見ることにしたが、そこは熊笹の密生地帯をぬけ断崖絶壁を降りることになる。時々笹の上で足を滑らせ坐ること幾度か、ようやく崖の上に辿りつく。
支配人は、何本かの這松にロープを手際よく結んで降下する準備をした。会田氏は真っ先にそのロープに身をまかせて下の見えない樹の中へ降りて行く。
三十米余の岩壁だったが無事全員降した、最後に残った支配人はロープを下に投げて遠く廻って維摩の滝の前に来る。
この滝から少し下流にカミホロ荘の水源地があり近くに30度のお揚も岩の間から出ていた、その下に法華の滝があるが、滝の姿が上からでは見えない。
再び熊笹の中を這い廻って砂防ダムとの中間まで来ると、約二百米上流に法華の滝の全景が開けた、晴れた空と緑の木々に、ツツジの花が点々とあしらわれた自然の美しさに、腰を下ろしてしばし見とれる。会田氏の「サアー行きましょう」の声に我にかえり一同立ち上がって熊笹をかきわけ這松の枝を渡って赤川(三峰沢川)に出る。
この赤川は、カミホロカメトックと富良野岳を源とする川である。少し河原を飛び石づたいに上流に登って昼食をとることにした。川の水は真水で冷たく、昼食後の喉を潤すのに皆んなが「うまい水だ」を連発して呑んだ。飲料水としての検査結果はまだだがPH反応は六度を示し大いに自信を得ることができた。この昼休みに松浦係長は足を滑らせて川の中に坐り、腰までずっぽり濡れてしまった。ズボンを絞って干してはみたが、そう簡単に乾くものではなく冷めたく濡れたまゝ出発する。若いから元気だが吾々だったら大変だった。戻るに戻られず行き先は遠いしと……そんなことを思いながら九重の滝につく。
この滝は、東川の羽衣の滝に似た滝で豊富な水量でしかも真水である、将来の水利対策の大切な資源として確認しておくべきものと思った。
この滝から少し上流に行くと富良野岳の中腹に凌雲閣の飲料水の水源地が見える。その水源地から約二千米を難儀して管で引水している現場と、補修用の資材を積んであるのを見て、一同「よくやったね」と驚きの目を見はったものであった。
それから赤川沿いに石から石へ飛び、背丈程もある笹を越えて雄鹿の滝につく。ここで少し足を休めてから雪渓を登り這い松を乗り越え断崖に出て、会田氏が熊の宿と名付けた洞窟についた。
この洞窟は五、六人は入ることのできる位の大きいものであった。熊の宿を過ぎて雪渓を渡り雌鹿の滝に出る。この滝から先は雪渓の急斜面となり極めて難所である。一行は皆な手をついて四つん這いになって登る格好たるやお猿さんの群れにそっくりである。伊藤氏はこの雪渓で足を滑らせ約百米落下する。危険千万、もう少しで滝に落ちるところであったが、幸いにも雪の上であったので怪我がなく全員安堵の胸をなで下したのであった。
助役、浦島、清水、新屋の諸氏はこの雪渓渡りを恐れて這松の中に近道を求めて入り本隊と別行動をとり行方不明になること約二十分、漸く這松の中から出て来る。丁度その待つ間の二十分前後、急な視界五十米位の濃霧で皆んなが呼べど叫べど返答がなく、只々不安と心配で狼狽するばかりだった。再会した一行の顔を見て、迷った者より声をからして叫んだ者が安堵のあまり座り込む一幕もあった。
一行が揃ったので、富良野岳登山コースに出て安政火口に向うも、この道は泥んこの細い道である。
疲れた足どりで火口の降り口まで来ると霧もすっかり晴れ西陽の差す晴れ間が出る。ここで火口を眼下にしてひと息入れると一行急に元気づき火口に降りる。
火口では、会田氏の湯元を見て廻ったが、どの湯元も湯を引く努力と苦労の跡が見られた。附近に吹き飛ばされたのか押し流されたのか、太く厚いビニール管が熱で黒く焼けただれて破片となって散乱している。長い管が裂け捻じ曲がる様は、さながら蛇の残骸を見る思いであった。助役はこの間、野天風呂の実体験こそ必要と決め込み、悠然と露天の湯を浴び汗を流していたが、どう見ても温泉を楽しむ風情としか映らなかった。これを話題の種に一同腰を下ろし、あらためて安政火口を見回し、年々大きく変化している姿には一同驚嘆した。「ひどいことになるもんだ、もう二、三年で火口が移動して夫婦岩も破壊するのではないだろうか?」と語り合うほど変化が大きい。ここからお湯を引く会田氏の維持管理の容易でないことを充分に知ることができた。
凌雲閣、山の家の命脈であるお湯のビニール管が飴のように曲って継ぎ目からはお湯が吹き出している。
会田氏は「これが悩みの種なんです」と嘆いていた。
助役が野天風呂から上るのを待って帰路につく。
峻しい岩壁に糸を引いたような歩道らしきものが見える。その道を会田氏は選んだが、これは道ではなく、物好きの喜ぶコースだと言う。それを聞いて途中で恐怖を感じて引き返すものもいた。最初から冒険を避け荒れてはいるが河原の安全な道を選んだ別隊に、暫らしくて断崖絶壁の地獄道から引き返した諸氏は、ほうほうの体で我々に追いつき、ほっとした表情で「ヤァひどいところだった」と疲れた色を隠し切れない溜息をついていた。
凌雲閣近くの展望台に立ち寄った時も、この諸氏は道に腰を下して動こうとはしなかった。お互に疲れを見せまいと強気ではあるが、話しをすることも次第に少なく正直いってやっとのことで凌雲閣についた方が殆んどであったように思う。
今日の行程は七粁と会田氏は云ったが、平地の四十粁に値する感じである。それもその筈で、熊笹、這松、河原の石渡り、断崖、雪渓と平地では味わえない冒険の連続であったからだ。
凌雲閣ならではの岩風呂に疲れと汗を流し夕食に舌鼓を打ちながら、雪渓渡りと安政火口からの地獄道の話に花が咲いた。特に地獄道では会田氏を始め支配人、浦島、清水の諸氏は自信があったようだ。
議会ではベテランの闘士の谷、鎌倉の両氏は、「支配人と浦島氏に励まされて渡っては来たものの生きた心地はしなかった。後に来ていて戻るに戻れないので仕方なく目を瞑って渡った。二度と渡るところではない」と若しかった心境を語っていた。
浦島氏は、「あんな所で皆さんは、崖に体を寄せるから足元が滑るんで、実直に立って歩けば絶対に滑ることはない、それをどれ程敢えても、何程岩に抱きつきたいのか離れないんだから」と繰り返し語る。一同は「それが出来るなら苦労はしない」とこの話で持ち切りであった。新屋氏はもっと深刻だったようで「もう半里を歩くのだったら俺は駄目だった」と白状していた。
当日の調査の結論としては、一般に知られていない滝や景勝地の開発、飲料水の確保、安政火口の登山道の整備をしなければ真の山の価値はないと言うのが大方の意見であった。
会田氏の配慮で今春新築した特別の部屋にゆっくり休むことが出来たことは感謝に耐えないところであった。道すらなかったこの高地に温泉開発の夢を抱いてこれまでに整備し、この山を隅なく調査して無名の滝に、岩に、川に、それ相応の名をつけられた会田氏の労苦、困難を克服された姿に只々頭の下がる思いである。
十勝岳が今日、日本全国に知られたのも会田氏のたゆまざる努力の結晶であり、十勝岳開発の先駆者であることは勿論、大恩人であることを今更ながら深く感じたのである。夕食の時にも、この山はいつ頃こうして変化し、この地層から見てここに四十度強のお湯があるのだから、この地点に百米位ボーリングすると四十五度以上のお湯が自噴すると思われると理路を立てて力説する。地下資源調査の専門家もハダシと言える解説に一同も感心して聞きいったものである。
翌二十四日午前八時三十分宿を出る。濃い霧も安政火口へ向けゆっくりと流れ、清々しい涼気に朝の太陽が差す。今日も快晴に恵まれ昨日の疲れも忘れて勝鬘の滝の落ち口の岩の突端を頼りに崖を下りる。昨日下から眺めた滝とは思えぬ程小さな落ち口である。これから上流に河原を歩いてお揚の出ている所を見ながら、昨夜力説した地層の変化について会田氏から詳しい説明を聴いて吾々は只うなずくだけであった。この河原から会田氏自慢の展望台を目指して密生した笹と這松の中をくぐり、かきわけて、やっとのことで展望台に登ることができた。
この展望台は自衛隊のヘリコブターの着陸地の場所(予定とか)だと云う。ここで、会田氏の多年に亘る踏査と研究の結果から、四十五度のお湯が百米位掘ると自噴する地点だと、予想としても自信に満ちた説明を繰り返した。場所としても登山道路に沿い展望台の前でもあり好条件の位置であると思った。
今まではカミホロ荘の湯元の開発だけを町として考えていた消極的な計画に強く反省を加え、少なくとも将来を見定め、温泉宿が数軒建っても湯源に心配しないように町が基本的な開発を進むべきであるとする意見の強かったのも至極妥当な考えだと思った。そこで飲料水の確保と滝めぐりの歩道も当然町で責任をもって開発すべきだと感じたのである。
次に本年度(昭和四十四年度)計画されている十勝岳温泉地区の公衆便所と駐車場の位置、実施概要の説明を課長から聴いて凌雲閣を後にし、途中カミホロ荘に寄りお茶の接待をうけ、吹上に通ずる道路の予定計画路線を踏査することになる。延長二千五百米の内八百米は急傾斜の上、熊笹で足の踏むところもないほど密生した地点である。予想以上の困難な進みようで、午後十一時半頃白銀荘につく予定が一時間遅れの十二時三十分になって到着した。杉山管理人ご夫妻のご厚意で炊き立てのご飯で昼食をいただき、疲れも忘れ元気百倍で斉藤運転手が迎えに来たマイクロバスに乗り予定の午後二時に役場に着いた。
この調査は予想以上に危険が伴ったことは先に述べたが、一人の事故もなく全員が無事であったことが何より嬉しく、皆んながご苦労さまの挨拶を交して解散した。
この調査に参加した元議員から
この現地調査で十勝岳開発が促進し、翌年度、北海道立地下資源調査所の指導を経て、その地点にボーリング掘削試験を行った。しかし残念ながら高温度の湯沢はあったが、湯量が足りず温泉源として活用することができなかった。この実施記録は十勝岳温泉地区の地下資源開発を進める貴重な基礎資料となった。
又、この地区の開発では致命的な欠陥とされていた飲料水の確保では、九重の滝水系によりなによりの福音を得たことで、その後の「バーデンかみふらの」の水道として活用することができたのである。
吹上温泉地区を結ぶ道路の開発もこの踏査をきっかけに政治的運動が一挙に高まり、自衛隊部外工事として施工され開通をみることができたと思う。
一行を悩まし、若しかったと話題の絶えなかった旧噴安政火口から温泉広場を結ぶ、地獄道と称した登山道は、この年から毎年改修を進め、今では短靴で気軽に行来できるように整備されたのである。
議会活動には精神的、肉体的苦難はつきものと自覚していたが、その中でもこの調査は最も厳しいものであったと記憶している。それも今では苦しい思いと云うより爽快な想い出となっている。 (元議員南藤夫、清水一郎談)
(編集委員記)

機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉