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故石川清一さんを偲ぶ

菅野 學 大正十三年一月十五日生(六十八歳)

はじめに
石川清一さんは、昭和五十一年八月三十一日、享年七十歳と六日でこの世を去られました。
男子の平均年齢が八十歳に近付きつつある長寿社会の現在では、十年早い人生の終焉が惜しまれるところであります。
「郷土をさぐる会」から石川清一さんに関する記事を依頼されましたが、偶然のことに、今年は石川清一さんの十七回忌になる年で、今更ながら十七年という歳月の流れの早さを感じさせられます。

石川清一さんと私
石川清一さんが上富良野町農業協同組合長(昭和二十三〜四十五年)をされていた時、私の父善作も農協理事(昭和二十五年〜昭和三十六年)を勤めており、私自身も農協青年部長(昭和二十七年〜昭和二十八年)、農協理事(昭和四十一年〜平成四年)の期間、石川清一さんの在職期間と重なるなど、親子で親交を深めさせていただくとともに、氏の人間性に深く薫陶し多大な影響を受けました。
石川清一さんについては、各分野で多大の業績と共に多方面で語られ記録されているところですが、生前に御交誼と御指導を戴いた緑もあり氏の人となりを記します。
石川清一さんとは
明治三十九年七月、東中地区東七線北十八号で生れ、東中小学校尋常科と高等科を優秀首席の成績で卒業した秀才で、読書を友とする多感な少年でありました。
その彼が東洋哲学の第一人者と称された「安岡正篤先生」の王陽明研究という本にめぐり会って以来その陽明学思想に深く心酔し、それを精神的な支えとして、安岡先生とは生涯を通して師友関係にありました。
石川清一さんは
「人間がその一生のうちで如何なる師にめぐまれるか、また如何なる友にめぐり会うかということは極めて大切であるが、それよりももっと重大なのは如何なる本にめぐり会うかということである。私が、もし安岡正篤先生の王陽明研究という一巻の本にめぐり会わなかったら、和田松ヱ門や岸本翠月のように、田沢義舗(昭和初期の青年団運動指導の中心人物)の思想と運動によって終始したことだろう。そうしたら私の人生は変っていたかもしれない」と述懐している。
石川さんとは僚友として親交を重ねてきた岸本翠月さんの言葉を借りると
=少年時代における感激が何であったかということによって、その人間の生き方が決定するという。ことに、その読書が人生を左右するが、石川清一の場合は、ややおくれて、すでに青年期の末項、王陽明をはじめとする東洋の思想家にめぐりあった。王陽明に次いで影響をあたえたのは「中庸」である。漢詩を愛読するようになったのは晩年に入ってからである。「俺は石川哲学というものを持っている」と常に言っていたが、晩年になって「気の哲学」という文章を残されている。しかしながら、気の哲学の源流をなす基礎知識は、中庸や陽明学から習得されてきたものと思う=
と述べている。
石川さんが亡くなったあと、その遺稿集をまとめて世に出そうとの話しが持ちあがった。当時の高木農協組合長を中心に、石川さんと特別な交友関係にあった人々と、ご遺族の方々との相談の上その編集を、中富良野町在住の岸本翠月さんにお願いしたものである。石川さんと岸本さんとの出会いは、昭和二十一年春、聞信寺で開かれた短歌会の席であったという。以来三十年間、歌は勿論のこと、時事問題を始め思想哲学に至るまで、何時も気軽に話しあえる刎頚の友と信じて付き合ってきた仲間であった。
その岸本さんが執筆編集の仕事を心よく引受けて下さって、昭和五十一年一月から、本格的に石川清一誌の取りまとめに入ったが、大学ノート百二十七冊に書き綴った随想集を始め、数多く残された文章集を前にして「これは大変な事を引受けてしまった」と思ったそうであります。それでも石川さんが書き残した膨大な文章を、一年有余の才月をかけて見事に一冊の本に仕上げた努力と情熱は、三十年来の厚き友情の表われであり、そのご苦労に私どもは心から敬服したところであります。
岸本さんが、後日私に話してくれました。
=私は今まで何人かの人の伝記を書いてきました。どうしても伝記となると、作者の主観が多く入るものですが、この本には全く私の考えが入る余地がなかった。
唯、石川さんの書いたものを取捨選択してまとめあげたに過ぎない。従って本の題名を石川清一伝としないで石川清一とし、作者の方も岸本翠月著としないで編集岸本翠月としました。本の頁数が決っているので随分無理をした部分もありますが、石川さんの人生軌道を大まかながらまとめあげられたものと自負しています。内容は文章集、随想語録、気の哲学と三つに構成しました。短歌も数多くありましたが、これはと言うものは少なかった=
歌人として名の通っている岸本さんの目から見ると、そのように見えたかも知れません。「石川清一誌を読んで更に深くその内容を確かめたいと思ったら、原書であるノートを一回読んでみたらいいですヨ」と云われ、いつの日か石川の家に立寄って原書を拝見させて戴こうと思いながら今日に至っております。
石川家の宝として大切に保存されていると思いますが、このノートから当時の世相、政治、経済、文化の流れ、隠された人間関係等更には、唯気論という石川哲学の片鱗にふれることが出来るものと存じます。
全国区選出の参議員であった石川さんが、随想集を残そうと思い立ち、大学ノートを買い求めて、議員宿舎の近くにある、弁慶橋の名をノートのタイトルにして書き始めたのが第一号で、それは、昭和二十九年十月二十四日のことでありました。その巻頭言には、
=その日その日の偽りのない記録を書き残したいと思いながらもその機を逸しつゞけてきた。いとし子に残す何物もないわれの生涯で、一目でもその真剣な生き方の記録があれば、子等はどんなにか父の面影をしのんで喜ぶであろう。
敗戦以来十年、その間の惰眠から醒めてほんとうに生きたわれにかえり、そのわれが、そのわれをつくらんとする良心と努力をつづけて、悔なき人生の華を咲かしたい。
再び生まれて来れない人生である。われのみの人生である…。それは子供達に残す自分自身の生きざま、人生の記録をと思って書き始めたものである。=
それが死に至るまで休むことなく、大学ノート百二十七冊に書き綴った執念と精神力は見事なもので、石川清一誌に収録された内容を見るとき、文筆に長じ、詩歌を愛し、冷静に時代の流れを見つめながら、国政を始め農業団体に残した活動の記録には、すぐれた先見性と豊かな情操を持つ人間石川の面目躍如たるものがあります。始まりは、子供達に残す親の人生記録をと思い立った大学ノートの随想集も、号を重ねるごとにいつの間にか、多くの人達に読まれることを意識していたようであります。
随想集の中に何故か、人間年令七十歳を強く意識した言葉が何ヶ所かに出ております。満七十才と六日の生産が本能的に文章につながっていたとすると、「それがインスピレーションだよ」と云う石川さんの言葉が、霊界から聞えて来るような気がします。
明治三十九年、東中の農家に生まれ農業を生涯の職業として、戦前・戦中・戦後の農民運動に、そして国政の場で、数多くの活動実績を残し、晩年はこの越し方を記録に綴りながら、深く仏門に帰依されました。自ら主張する哲学の原点を、宇宙接点として深山峠展望の地に求め、その開発に心血を注ぎ、八十八体の石仏を祀る霊場を開創し、将来はこの地に仏教大学をとの思いを残してこの世を去られました。
石川清一誌を編集した岸本さんが、その本の末尾に、
=いつの日か、私とあなたが、あの世で再会した日、あなたは微笑をもって迎えてくれるのでしょうか。あるいはまた力をもってせまるのでしょうか=
と書いて結んでおります。石川清一さんが亡くなって十七年、先年岸本さんも鬼籍に入られました。
今年は高木さん、和田さんと、幽明境を異にされました。これも石川さんのいう「生は偶然にして死は必然なり」の言葉どおり自然の摂理なのでありましょうか。今頃は十万億土の霊界にあって、顔をあわせながら話に花を咲かしていることでありましょう。
いまは唯、諸霊の冥福を祈るのみであります。

機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉