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石碑が語る上富の歴史(その九)

中村 有秀 昭和十二年十一月二十八日生(五十四才)

- 戦友菊池彦治氏に贈られた -『操上秀峰の歌碑』
操上秀峰の歌碑
『火の山乃
   ふもと耕し六十年
  君生くかぎり
     汗を燃やさん』
建立年月 昭和五二年十月
建立場所 上富良野町東四線北二六号
― 菊池彦治家への道々 ―
上富良野町市街の中心地点、○一十字街より十勝岳方面に歩を進めると二六号道路に入り、小玉医院を過ぎると左側に夏のラベンダー・冬のスキーと町民の憩いの場である「日の出公園」が近く見える。
しばらく進むと右側に、歌人町長であった和田松ヱ門氏(歌人名耕人)が詠み、昭和五十二年十月に建立した歌碑があり、次の歌が刻まれている。
『蒼穹に 孤の夢描き 七十年
   滾るものあり 十勝火の岳』     耕人
和田松ヱ門宅前から、そのまま二六号道路を少し上ると、十勝岳連峰の素晴らしい風景が広がって見える所の右側に、大きな溶岩石に「農魂」と刻み昭和五十二年十一月に建立された碑が藤崎勝二氏宅の前庭にある。この碑は藤崎勝二氏の両親である藤崎政吉氏・よしえさんが独立して農業一筋に五十年の苦難の道程を振り返ると共に、農業人としての誇りを息子から孫へと土に生きる逞しい心意気を示している。
「農魂の碑」の彫刻は菊池彦拾氏が行った。
― 菊池家の庭には ―
十勝岳を仰ぎ見ながら更に歩を進めると、右手に二基の石碑が目に入り、そこが菊池彦治氏の庭である。一基目の碑は上富良野開基八十年周年の記念テーマ(本町一丁目吉田弘子さん作)である
『父祖が拓いた 八十年
        和して築こう 豊かな未来』
と共にシンボルマーク(現収入役成田政一氏作)が菊池彦治氏の手によって刻まれている。
この碑の書は、彦治氏の義兄であり当時の町長であった和田松ヱ門氏による。碑文の周囲には菊池家で農耕用として使用した最後の愛馬の馬具(馬鈴・ドーナツ鈴・ベルト鈴・鐙・ナツカン・馬蹄・馬銜)を埋め込み、機械力のない時代は農耕馬が働きの中心であったので、その功労に感謝の気持を捧げている。
「父祖が開いた八十年……」の碑の裏面には二つの碑文が刻まれている。上部には横書きで「苦節五十年」とあり昭和五十八年に刻まれている。
中央部には、亡き父にと和田松ヱ門氏が詠んだ
「焼石の 荒地拓きて 五十年
         いま農場の 実り豊けし」
            為 菊池長右ェ門翁   和田耕人書
とあり、昭和六十二年十月の刻みで、上部及び中央部とも書は和田松ヱ門氏、彫刻は菊池彦治氏の手による。
この碑は、菊池彦治氏が今は亡き父母「菊池長右ェ門・まつ」が、十勝岳の麓に広がる溶岩石の多い荒地を人力と馬で耕やし、今日の礎を作ってくれた労苦を末永く子孫に伝承し、謝恩の気持を込めて建立し、開墾に使用した各種の鍬・鎌や炉鉤が埋め込まれている。
二基目の碑は、菊池彦治氏の戦友で「ノモンハン事件」では同じ中隊で死闘の限りを尽した仲の「操上秀雄氏」(富良野市在住・歌人名秀峰)が、戦友菊地彦治君の開拓の労苦を讃えると共に、還暦を祝う歌を贈られた。
「火の山乃
  ふもと耕やし六十年
    君生くかぎり
          汗を燃やさん」
戦友・操上秀峰氏が菊池彦治氏の心を詠ったこの歌に感激した菊池彦治氏は、自分の畠から出た重さ約一トンの溶岩石に、自ら金槌・鏨・砥石を使って額を作り、一点一画、一文字一文字を精魂を込め自分の半生を綴った短歌を掘り刻んだのです。
碑の表面には『火の山乃、ふもと耕やし……』と共に
為戦友    昭和五十二年十月
          彦治君   詠 操上秀峰
                刻 菊池彦治
と刻んである。
菊池彦治宅からの直ぐに、日本画家の重鎮である東京芸大教授「後藤純男画伯」の別荘兼アトリエが見える。
― 火の山乃ふもと耕やし六十年 菊池彦治氏の歩み ―
菊池彦治氏の祖父 彦右ェ門・祖母 夕子は岩手県江刺郡玉里村字下上野三十五番(現在の岩手県江刺市玉里)で農業を営んでいた。
父の長右ェ門は二男として明治十七年一月七日生れ、明治三十七、八年の戦役では第八師団第十九補助輪卆隊として奮戦し『勲八等瑞宝章』の叙勲を受け、明治三十九年凱旋す。
父長右ェ門は北海道開拓の希望に燃えて、明治四十年に故郷の玉里村を二十三才にて単身出発す。
同郷の玉里村字稲荷十一番地出身の及川萬治郎氏(明治八年四月十九日生れ、父菊池萬蔵・母力子の二男で、後に及川幸治家の養子となる。上富良野村日新新井牧場の第一の小作人として入地、その後自作農となり昭和十年十一月八日逝去す。子息及川三治氏→孫及川力氏と後継し、日新ダム建設により現在は上富良野町草分旭に移転し営農)を頼って上富良野村新井牧場(日新)に入り開拓に励む。
父、長右ェ門は大正四年二月、美瑛村上宇莫別の打越三助氏(後に沼崎農場→大町一丁目に移転した打越正氏の祖父)の四女まつさんと結婚。十勝岳爆発で流された日新小学校の前に住み、長女フミ(大正五年二月)、長男彦治(人止六年十月)が生れる。
大正八年、美瑛村藤野農場に移住し、この地で二男誠一(大正八八年八月)、三女フヨ(大正十一年一月)、三男儀(大正十三年一月)が生れるが、大正十年七月五日に二男誠一が死去す。
大正十五年三月富良野村東四線北二十六号の現在地に四人の幼な子を連れて移住す。美瑛村から移住しての二ケ月後、大正十五年五月二十四日、十勝岳大爆発の大惨事があった。もし、新井牧場に住んでいたら一家は全滅であったかもしれない。
父長右ェ門と同じ様に、故郷の親戚及川萬治郎氏を頼って新井牧場に明治四十三年の小学校三年生で入植した菊池政美氏(父六右ェ門と母、妹と共に来る)は独学の努力により、大正十三年に日新尋常小学校の先生になったが、十勝岳大爆発で母・妹・妻・長女の四人を失う。
(菊池政美先生の入植時の状況については、「郷土をさぐる第二号」に「日新小学校教師の手記」がありますので参照下さい)
美瑛村藤野農場より移住して来た上富良野村東四線北二十六号の土地は、地下水が高く溶岩石の多い土地で、耕地が三町五反・荒地が一町歩であったので耕地の拡大に、父長右ェ門・母まつは必死になって汗を流し今日の菊池家の基礎をつくる。
昭和六年、彦治氏は上富良野尋常小学校を卒業し父母と共に農業に従事しながら青年学校に入学し、また日の出青年団に入団す。その年に満州事変が勃発し軍国主義が盛り上る時となり、青年団や青年学校にて軍事教練を受ける。
昭和十二年、彦治氏は徴兵検査で甲種合格、支那事変が起き、昭和十三年一月現役兵として第七師団旭川歩兵第二十八聯隊第九中隊に入営す。(同中隊に富良野町の操上秀雄氏が同年兵となる)
昭和十二年三月、満州チチハルで警備と初年兵の教育が始まり、連日寒い中で教練に励んだ。暖くなってから夜間演習に入る前のひと時、丘の上で教官月田益良中尉を中心に座り、太陽が西の大陸地平線に沈むのを眺めながら軍歌『ここはお国の何百里』と歌ったのが心に残っているという。
昭和十三年七月十一日に張鼓峰での国境紛争(張鼓峰事件)が起き、八月に応急派兵下令があって東部国境で待機警備す。
昭和十四年「ノモンハン事件」が勃発し、生死の激戦で『菊池彦治氏』と『操上秀雄氏』の同年兵戦友として強い絆で結ばれた。操上氏はこの戦闘で負傷す。
昭和十五年十月に帰郷した菊池彦治氏は、約三年間の戦役で父母に大きな負担をかけたので農作業に懸命に働き食料増産に励んだ。
昭和十六年二月、和田柳松氏・はるさんの四女「アキノ」さん(和田松ヱ門氏の妹)と結婚。
昭和十八年五月、アッツ島部隊応援のため再度の召集となり、熊第二部隊九中隊に入り戦時武装し待機していたら、五月二十九日アッツ島は玉砕したので演習作業等で道内を廻った。
昭和十八年十月十九日に長女美津子さんの誕生で大いに喜び「元気で帰るぞ!」の気持で演習作業に力が入った。
昭和十九年十月十九日、広尾沿岸で作業に行っている時に、妻アキノさんが逝去された。寄しくも長女美津子さんの満一歳の誕生日であった。
同じ昭和十九年十一月三日、母まつさんが逝去された。妻アキノさんが亡くなって僅か十五日後に母親と永遠の別れとなり、父長右ェ門と彦治氏は悲しみのどん底にあった。
戦時下のため、村の医者は応召され無医村であったため、母と妻を亡くしたのだった。
昭和二十年、稚内摩部隊に転属し終戦を迎え、八月十八日、二年三ケ月ぶりに故郷の土を踏み、長女美津子さんを抱き上げた。
戦後は食料難で、集団で買い出しに農家に来たり闇食糧が流れ、物々交換があったりで大変な混乱の時代であった。
営農資材の配給、反別の割当、出荷割当等の厳しい状況の中で営農は苦しかった。
昭和二十一年一月、江島良次郎氏・キクさんの二女シズ子さんと結婚し、戦後の厳しく混乱した中で営農への第一歩を歩みはじめた。
戦場体験の「不眠・不休・不食」の精神が大変役に立ち、夢中になって働き続けた。
長女美津子さんの下に昭和二十二年一月一日に長男禎一さんが生れ、その後美代子さん(昭和二十四年七月十八日)、和子さん(昭和二十六年七月一日)が誕生し、賑やかな家庭となりました。昭和二十七年には貸付牛導入、二十九年にサイロ建立、三十二年に牛舎新築と、畑作と酪農の二本立経営を行って来て三十年、農業経営も変り、機械化と土地の拡大を図りながら夢中で働き続けている間の昭和五十二年、菊池彦治氏は還暦を迎えた。
彦治氏は還暦を機に、営農を長男禎一さんに委譲した。委譲した後は、長男夫婦と共に農作業に汗を流し、暇を見つけては登山、海や川への魚釣り、農民石工としての彫刻、夫婦での旅行等を楽しんでおられます。菊池彦治氏の農民石工作品として、自宅の庭以外に次の石碑を刻っています。
〇自営三十五年 和田牧場(和田正治氏地先 昭和52年建立)
○牛舎落成記念 二瓶牧場(二瓶 諭氏地先 昭和53年建立)
○安藤苗圃 旭野苗畑(旭野安藤苗圃 昭和54年建立)
○入地五十年 農 魂(日の出藤崎勝二氏地先 昭和55年建立)
― 戦友菊池彦治氏に歌を贈った繰上秀雄氏(歌人名秀峰) ―
菊池彦治氏の還暦に歌を贈られた繰上秀雄氏と彦治氏は同じ大正六年生れ、ノモンハン事件での厳しい戦闘を生き抜いて来た戦友です。
操上秀雄氏は富良野市へそ踊りの創始者として、歌人として、郷土史研究者・商工会議所等の各方面で活躍されておりましたが平成三年十月八日御逝去され、多くの富良野市民、各関係の皆様に非常に惜しまれております。
操上秀雄氏の葬儀出棺には、氏への永遠の別れをかざるにふさわしい「へそ音頭の囃子」を流し会葬者は涙を流し合掌されました。
数々の大きな足跡を残した「操上秀雄氏」の歌碑が当町にあることに大きな誇りと感慨を抱き「操上秀雄氏」の略歴について記します。
大正六年四月十日、下富良野村東九線南十七番地において、農業を営む父操上松太郎氏・母ノブさんの三男として生れ、成長されてご両親を助け家業の農業に励まれた。
昭和十三年一月、補充兵として旭川第七師団歩兵第二十八連隊に入隊(菊地彦治氏と同中隊となり後の強い絆の始まり)、その後、当時の満州に移駐し「ノモンハン事変」に従軍されたが、激しい戦闘で敵陣地に突入し肉弾戦となった際、敵の手榴弾により負傷され戦線を離れ、昭和十五年二月召集解除により帰郷し療養に専念された。
昭和十六年、高橋秋三氏の二女すみさんと結婚。
昭和十七年、再度召集されオホーツク海沿岸の網走地区警備部隊にて国土防衛の任務を遂行していたが、終戦により帰郷する。
妻すみ子さんとの間に二男一女の子宝に恵まれましたが、昭和二十七年に長男徹也さんが逝去され、昭和三十三年には妻すみ子さんを病気にて亡くされ更に昭和四十四年には二男秀範さんが逝去されるなど、精神的に大変な時代が続き、それに耐えて苦難を乗り越えられた。
昭和三十三年十一月、渡辺十一氏の五女とし子さんと結婚、幾多の困難に耐えながら昭和三十八年に和洋生菓子製造業の「くりや菓子舗」を創設し、家業としての基盤づくりに昼夜をわかたず努力され、今日の「株式会社くりや」の繁栄を見るに至った。
操上秀雄氏が精魂を打ち込んで開発された銘菓「北海へそおどり」は昭和四十八年二月の全国菓子博覧会で名誉金賞を授賞される。
文化芸術の才能も豊かで、家業のかたわら「北海へそ音頭」の作詞をされ、同志の方々と共に「北海へそ踊り」を創作して「北海へそまつり」と発展させ、昭和五十四年に「北海へそ踊り保存会」設立には初代会長に就任、以来「北海へそ踊り」の宣伝普及に努力され、北海道いや日本を代表する夏まつりの一大イベントに成長発展させた功績は誠に大きなものがあります。
また郷土研究会長として郷土史の研究、短歌結社樹氷社の幹部同人として短歌を読み、また「上川青年の歌」「富良野小学開校五十周年祝歌」「旭川観音音頭」「金山湖水音頭」など多くの作詞や、記念誌「すずらん街の生い立ち」「富良野ライオンズクラブ十周年記念誌」「富良野商工名鑑」「富良野ライオンズクラブ二十周年記念誌」や戦友会の「戦友」「われら斯く生きたり・回想の譜」の執筆・編集などの文化活動にも積極的に取り組まれ、その事績により昭和五十四年度文化祭に富良野市文化団体協議会より「文化奨励賞」を受賞、昭和五十九年度文化の日には富良野市条例による「文化賞」第二号の栄誉に浴された。
昭和五十八年十月八日の富良野市開基八十周年記念式典に、富良野市の産業振興及び芸術文化に尽された功績により「産業経済功労者」として表彰の栄誉に輝やかれました。
昭和六十三年十一月には「北海道社会貢献賞」を受賞するなど広い分野にわたっての氏の生前の活躍とご功績には驚くばかりです。
北海へそ音頭  作詞:操上秀峰作曲:佐藤昌広
一、ハアー まんなか まなかの
   どまんなかヨ
  おらがふらので 見せたいものは
  蝦夷のまんなかの 出ベソ石
  イイジャナイカ  イイジャナイカ
     イイジャナイカ
二、ハアー まんなか まなかの
   どまんなかヨ
  ヘソのでかい娘を 嫁御にしたら
  ヘソクリ上手で 蔵がたつ
  イイジャナイカ  イイジャナイカ
     イイジャナイカ
三、ハアー まんなか まなかの
   どまんなかヨ
  十勝(やま)のおへソが けむりを吐けば
  可愛いあの娘が 樽たたく
  イイジャナイカ  イイジャナイカ
     イイジャナイカ
四、ハアー まんなか まなかの
   どまんなかヨ
  ヘソの曲った 世界の人も
  ここで踊れば まるくなる
  イイジャナイカ  イイジャナイカ
     イイジャナイカ
五、ハアー まんなか まなかの
   どまんなかヨ
  西に徳平(とくへい) 東に千幹(ちから)
  ヘソで拓いた おらがまち
  イイジャナイカ  イイジャナイカ
        イイジャナイカ


―― ノモンハン事件とは ――
モンゴル人民共和国と満州との国境ノモンハン地区での日ソ両軍の衝突事件。一九三九年(昭和十四)四月、関東軍は「満ソ国境紛争処理方針」を発表、国境線不明個所の国境線は防衛司令官が自主的に認定するという対ソ強硬方針を採用した。ノモンハン付近の国境不明確な地点(日本はハルハ川の線、ソ連はそれより一三キロ東方のノモンハンの線を主張)で、五月十二日ハルハ川東岸にはいったモンゴル軍と日本軍との衝突がおきたが、モンゴルとの相互援助条約によるソ連の機械化部隊のため、同月末日日本軍は全滅した。六月二十日、関東軍は第二三師団に第一戦車団・第二飛行集団などを加えた大部隊をノモンハンに集結、陸軍中央部の事件不拡大の説得の前に、二十七日モンゴルの拠点ダムスクに対し、一三〇機による爆撃を強行、関東軍独走の局地戦争となった。これに対しソ連側はジューコフ将軍指揮の第一軍団が戦車・銃砲・飛行機の援護で八月二十日から全面反撃に転じた。そのため日本軍の火炎びん作戦も第七師団による増強も失敗、第二三師団の死傷者は一万一〇〇〇余人、死傷率七〇%を超える被害をうけた。たまたま独ソ不可侵条約の締結、欧州大戦の勃発に直面した、陸軍中央部は関東軍の反対をおさえて、九月四日攻撃を中止し、兵力撤退を決定、関東軍司令官以下首脳部を更迭、以後モスクワでの東郷重徳・モロトフ間の外交交渉で九月十六日停戦協定が成立した。―― ノモンハン事件での菊池彦治氏の手記 ――昭和十四年、私も二年兵で初年兵教育助手として励んでいた。応急派兵下令竹林隊第一小隊第三分隊の兵員として、ノモンハン戦線に向った。日中は爆撃を避けるため夜間行軍で、重い完全武装で一夜に四十キロメートル、水の不足と蚊に悩まされた。水は後方よりドラム缶や空缶に入れて運んできた。しかし、それも水とガソリンの混合の様な水であった。その水も不足で、車の輪立に溜った水を口にハンカチをあて口で「スス」ったり、木の根元を掘って惨み出て来る白い水をと、本当に生きん為には色々な水を飲んだ。蚊は大きく、夏衣の上から刺してきた。用便の時は枯草を「いぶし」その場で用便をした。何日かこの様な状況で歩き、だんだん戦線に近くなり砲音が聞こえ空中戦が見られる様になった時、各人に遺言を書けと言われて通信紙に色鉛筆で父母に宛てて書いた。どんな事を書いたか今は記憶にないが、多分死の覚悟であったと思う。最前線に着いたのは八月二十三日、敵戦車に遭遇し戦車を撃退、二十四日は総攻撃白昼白兵戦までの戦闘であった。野砲隊も爆撃のため馬が暴走したので前進は出来なかった。昼夜を問わず飛び来る弾丸の中で濠を掘り、乾パンをかじり用便も濠の中、この様な生活が三十日まで続き迫撃砲が来る様になる。三十日の夜、戦死者の遺品を取り集めて暗闇を利用して三キロメートル程後退した。遺品を取り集める時、私は初年兵の時の教官であった月田益良中尉(当時は第三機関銃中隊長)と戦友の半田次郎君のもを手にしたのだが、月田さんの内ポケットに母親の写真、半田君は笑顔の我が子の写真であった。朝明るくなって敵方を見て驚いた。先程までいた地点に敵は陣地構築中で間一発の後退であった。後退前一度夜襲があり、軽装で銃剣を構えた事があった。この夜も一寸遅かったら夜襲を受けただろう。私達は、この地で補充兵を待ち総攻撃をする事になっていた。その時は決死隊を出し、総攻撃前に敵陣内に潜入して敵の戦車、火砲、重火器等を爆破する爆破教育を砲弾の飛び交う中で受けていた。九月十五日、停戦協定が結ばれ戦闘行為はなくなり、十月『ハンダガヤ』と言う国境地帯に移動した。『チチハル』出発以来、腹一杯川の水を飲み又体を洗った。ドラム缶の入浴も、戦友と『おい!血をわけた兄弟』などと笑いながら虱取りをしたのもこの地であった。近くの川に大きな魚が取れて『興安マグロ』と名付けて良く食べた。早速この他で警備と陣地構築の多忙で、氷点下四〇度の中での作業は苦労であった。翌十五年一月に『チチハル』に帰り、七月に再び『ハンダガヤ』に行き警備をした。九月原駐屯地帰還となり、十月旭川第四部隊に帰り召集解除となって、懐しの故郷に帰った。

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一