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― 特別寄稿 ―
開拓道路建設『囚人現場の思い出・ニントク』

佐藤 輝雄 大正十五年五月十五日生(六十五才)

はじめに(編集委員注)
特別寄稿―開拓道路建設「囚人現場の思い出・ニントク」は、昭和五十五年四月に北海道開発局網走開発建設部・網走道路事務所長を定年退職された「佐藤輝雄氏」が、戦後の昭和二十三年、青春の二十二歳、初担当の現場監督が「囚人が労働者」の美瑛町「ルベシベ開拓道路建設」で、その現場での特異な経験を「上田信介」という人物で登場します。
さて「ニントク」とは…
尚、佐藤輝雄氏の厳父佐藤芳太郎氏は「郷土をさぐる第四号(一九八五年発行)に「江花の開拓と土木請負業」として一文を寄せられています。
開拓道路建設
(それっ、頑張れ……。もう少しだ……。もう少しだぞ……。頑張るんだ……)全体重が掛るように立ち上り、体を右、左に揺って自転車のベタルを力いっぱい踏み下す。
(もう少しだぞ、頑張るんだ……)額から汗が滴り落ちる。チェーンがきしみ、切れそうだ。
(もう少しで……、それっ、もう少しだ……。着いた……。今日もやったぞ……。……登ったぞ)峠の頂上で自転車から降りて吹き出る汗を拭う。
……胸が苦しい。心臓の鼓動がドッドッドッドッと、激しく鳴っている。耳の奥から心臓の大きな音が聞こえてくる。求めたことを成し終えた喜びで、心は満たされとても嬉しかった。
通い慣れた津郷農場の峠の登り坂は、距離にして約九百メートル程はあるだろう。来る都度、自転車から降りずに峠の頂上まで登り切ることに挑んできた。自転車で登ると実に勾配の強い坂である。
降りずに登ったからといって何の得になるものでもなし、(お前はバカじゃないのか)と、いつも心に問い掛けてみる。(性分さ……、性分だよ……。持って生れた性分さ……)寂しく空しい答えがその度に返ってくる。今迄に四度程、登り切れずに自転車を押し、歩いて登った。(……性分か。……性分だよな)呟いて自笑し改めて登って来た坂を見下して見た。本当に憎いぐらいきつい坂である。自転車を置き、見晴らしの良い路側の高台まで更に登った。
左手の東方に目をやると、幾重にもなだらかな起伏に富んだ広大な丘陵地が遠か彼方まで見渡せる。その一部で低地の地表を這うように重く降りた濃いモヤが残っており、植えてからまだ年浅いカラマツの小さな梢がモヤの所どころから突き出て見える風情が、また何んとも言えぬ眺めであった。淡い墨絵を見るように一幅の絵になっている。
丘陵地の先は、北海道の屋根と言われる大雪山連峰の一群である美瑛岳、十勝岳、富良野岳が朝日を浴び、逆光の中、嵯峨たる雄姿を見せている。
また、見渡しているこの広大な丘陵地は、終戦前までは陸軍第七師団の演習地であった。広い地域の中に僅かながら、点々と一本育ちの立ち木、狭小な範囲で繁茂している林も見られるが、山岳の裾野まで全域にカヤとハギが生えている。
戦後、開拓農地として開放されて開拓者も入植し終え、農地に開墾されつつある。作付地も小規模ながら所どころに見える。だが、この広大な地域を一目で見る限り、見渡しているこの地はカヤの野であり、丘である。
後年、今眺めているこの地一帯が写真家前田真三氏によって、『丘の四季』という風景写真の雑誌で全国に知らされ、自然的な田園風景の景勝地として一躍脚光を浴びる地になろうとは思いもつかなかった。
(さあ……、行くか……)一休みの後は拭った肌もスッキリした。(これからは下りだ……。あと十五分だ)軽くペダルを踏む。顔に当る風も気持ちが良くすがすがしい。
路面はあまり良くはないが、敷砂利が少いので自転車は下り坂を滑るように走る。農道なので路幅が狭い。目で選びハンドルを巧みに捌くが、路肩に寄り過ぎると、ベタルが路肩まで密生しているフキに当り、バシャシャシャシャと葉を打つ。昭和二十三年六月初夏の朝である。
わたしの名は、上田信介。歳は二十二歳。旭川土木現業所に雇として籍を置く技術員で、四月に命を受け美瑛市街に在る工事監督員詰所に派遣されて来ている。与えられている業務は、開拓道路の建設工事に必要な調査測量、設計積算、工事監督などであった。
終戦後、北海道も国の政策に基き多数の開拓者を受け入れたが、その入植地には道路と言える充分完備された道路が足りず、その建設は焦眉の急を要することとなり急ピッチで進められていたのである。
美瑛に来て、一カ月程度経ったある日のこと、
「上田君、きみは浜塚組の工事も受持ってくれないか」
と総責任者である坂田主任が信介に話し掛けてきた。
「この工事は面白いぞ。工事に使う人夫は囚人だから面白いと思うんだ。多少の苦労はあるが、どうだろう」
そう言って主任は細い目を更に細め、くわえ煙草の煙をくゆらしながら、にこやかな笑顔で信介が了解することを促している。
信介は、囚人を使って工事を行なうことについては知っていたが、自分に監督が回ってこようとは考えてもいなかった。
「わかりました」
信介は断わる理由も見つからないので率直に答えた。
「請負人の浜塚組からは、現場に帳場や世話役も付くことだし、他の工事と全く同じなので何も心配することはないよ。安心してやってくれないか」
主任はくわえ煙草を置き、再度促すかのようにまたニコニコと目を細める。
信介は、(やってみたい、やれる)と決断した。
「主任さん、是非やらせて下さい。一生懸命にやりますから」
主任に頭を下げて答えた。
浜塚組が受註していた工事は延長約六百メートル。
有効幅員三・六メートル、線幅員四・六メートルの開拓道路の新設工事である。
工事現場は上富良野村の津郷農場の峠を超えた山奥で、美瑛の街からは約十二キロの地点である。宮内省から昭和十八年に払い下げを受けた地で、御料とも呼ばれているが正しくはルベシベと呼ぶ。道路はこの地で建設されつつあった。
雨降りの日を除き、毎日のように信介は自転車で美瑛の街から工事現場のルベシベに通っていた。
やがて信介の自転車は、峠から続いていた緩やかくだな下り坂を下り切った。やや行くと、左側に既存農家が二軒あり、その前を通り過ぎた。間もなく開拓に入る、……前方の道の両側に建物が見えてきた。
……着いた。胸ポケットから時計を取り出して時間を見る……。思ったより早く着いた。(今日も峠の坂で頑張ったからな)……自分自身にうなづき信介は満足であった。
道路の右側にある、小さな建物の開け放されていた戸口から「お早よう」と声を掛けて中に入る。
「お早ようございます。監督さん、早いですね」
信介が(源さん)と呼ぶ、現場世話役の返事が炊事場から聞こえた。
「うん、源さんが今日出すトンボの確認が済んだら、直ぐ妙見道路の現場にも行きたいからね」
信介は美馬牛の駅前から美沢の二十一線を結ぶ幹線道路の一部の工事と、更にその幹線道路の中間地点の妙見から、上富良野村の日新鰍(かじか)の沢に住む白井藤蔵氏宅地先までを接続する、妙見道路の新設工事も受持っていたのである。
「今日もですか、ご苦労さんです。日新に寄り、美沢に出て帰れば相当遅くなりますね」
炊事場から話の言葉を切らさずに、源さんは茶を持って顔を出した。源さんは橋本源之烝と言い、年は四十五才と言う。若いときから土方渡世で来た故か、指し出す手の指は太く節繰(ふしく)れ立ち、甲は皺が多い。肩の筋肉は盛り上っており、これは土方モッコを担いだからだと自慢する。秋田から来ており、未だ一人身だが子供が一人居ると一緒に酒を飲んだときにふと漏らした。未だ一人身で子供が入るということに信介は疑問を抱いたが、一瞬寂し気に顔を曇らせた源さんに話せぬ事情があるのであろうと察し、過去には触れないことにした。
「ところで源さん、古田所長さんは居るかな」
一服の後、信介は真向いの建物に目をやって聞いた。
「行ってみないけど、まだ早いもの。所長さんは居るでしょう」
「じゃあ、ちょっと挨拶に行っていくるわ」
「わしは、直ぐ現場に行きますから」
源さんの声を背に受けて、信介は表に出て建物に向った。
建物は平屋建ての真新しい木造作りで、旭川刑務所が建てたものである。間口が非常に広く、十八間もあろうか。奥行も相当深い。入口には太いエゾ松の丸太が門柱として埋め込まれ、大きな厚板の門札が掛けられている。門札には墨痕鮮やかに威厳のある達筆な字で『旭川刑務所ルベシベ名誉作業所』と書かれてある。
この建物が、工事で働く囚人が寝起きする収容所であり、塀の無い一つの小さな刑務所である。信介が監督員として初めてルベシベのこの地に来たときには既に建てられていた。
そう広くはない事務室に所長は一人で居た。信介を見ると笑顔で迎えてくれた。三十四、五才くらいと思われるがなかなかの美男子で、大学卒と聞いていた。
「上田さん、早いですな、ご苦労さんです。大分早く街を出て来ましたね、六時頃の出発でしょう」
「はい、そうです。現場に行く前にちょっと御挨拶に伺いました」
「ここの朝は涼しいですな。本州で今の月に、このような爽快な朝の気分を味わうことは無理ですよ。まぁ、立っていないでそこに掛けなさい」
信介は所長に言われるまま、空いている椅子に腰を下ろした。
「わたしを含め、職員皆んなが、やっとこのルベシベの地に慣れてきました。懲役の者も同じでしょう、明るくなってきましたよ。以前にも話したことがありますが、来た当時は第一に先ず気候が違いました。……寒さが身にこたえましたね。それに、連れて来た懲役の者は各地からの寄せ集めでしたから気苦労がありました。しかし、どうやらこの頃は懲役の者も愉快に元気にやっています。あなたにもわかるでしょう」
所長は信介に、茶を入れながら、
「職員は皆熱心です。懲役の彼らを、ここまで持ってくるのは本当に大変でした。職員の努力の結果と喜んでいます」
「囚人の方達が、元気でやっているのがよくわかります。看守さん方の御苦労は大変だったでしょうね」
信介は、正直に自分の感じていたことを述べた。
古田所長が、以前にも話したと言う言葉どおり、その折に信介は所長からこのルベシベに来るまでの経緯について詳しく聞いていた。
戦争に敗れた終戦後は、社会事情の急激な変化の中で犯罪が多発し、囚人も増えた。特に本州の刑務所では囚人を収容出来なくなった所が出始め、急拠その対策を郊外作業に求めたそうだ。それにも拘らず満ち溢れる囚人の対策処置が本州のみでは無理となり、他に活路を探したところ、北海道の開拓地内の道路建設が最も条件を満たしてくれることがわかり、古田所長が勤める広島刑務所も近隣の刑務所と組合わされて、混成による[北海道開発名誉作業班]なるものを編成し、はるばると津軽海峡を渡り旭川刑務所を経てこの山奥のルベシベ作業所に来たのだと言う。
所長はまた、広島を発つときの模様をこう話してくれた。
「収容者は、広島刑務所三十人・岡山刑務所三十人・松江刑務所十人・山口刑務所二十人・鳥取刑務所十人。途中で横浜刑務所二十人が加って総勢百二十人。それにわたし達職員十四人の編成で来たのですよ、汽車の箱を買い切りましてね。刑務所の郊外作業所の延長の一つに行くということで来たのですが……、ここまではさすがに遠かったですよ……。北海道ですものね……。やはり大変でした。広島を出るときはブラスバンドで送ってくれましてね……。まあ、これには色々の意味があるのですが、それは盛大でした」
「ブラスバンドは刑務所を出るときですか」
「いや、広島駅を汽車が発つときです」
信介は内心驚いた……。刑務所が……、囚人を送るとき……、?……しかも、ブラスバンドで!
所長が、色々の意味があると言った言葉をよく考えてみた。
遥か遠い北の果て。海の向こうの蝦夷地と呼ばれる北海道に。熊も居ると聞く。職員でさえ、行くことを望まぬ地へ。囚人が皆元気で働き、無事刑期を勤めてくれるだろうか。諸々の大きな不安と多くの祈願があったのであろうと、所長から聞かされた後で信介は自分なりに解していた。
「今日はゆっくりしなさい、できるんでしょう」
「今日は駄目なんです。他の工事現場と掛け持ちで来ましたので、ここが終り次第帰ります」
「上田さん。たまにはゆっくりして帰りなさい。上田さんに今日は中を見せてあげようと思っているのですが……、今度にしますか」
「所長さん、本当ですか。それなら是非お願いします。わたしは今日、ここの現場の遣形(やりかた)のトンボを確認するだけでよいのですから、是非見せてください。お願いします」
機会があれば見たいと思っていたので、所長の言葉が嬉しかった。
次の現場に行く予定は、瞬時に信介は投げていた。
(今日は付いている。本当に朝早く起きて来てよかった)と思った。先刻の峠の頑張りが頭をよぎる。
「案内しましょうか」
所長の先導で、中央通路に出て奥に通ずる戸を開けて中に入った。左側は炊事場になっていた。囚人四人が看守一人の見張りで作業をしていた。大きな鉄鍋が目に入る。見たところ炊事場は軍隊の炊事場と全くよく似ている。一人の囚人が昼食用の弁当を作っていた。信介の目は、これに引き付けられた。
内径約十センチ、高さも同じく十センチ程で、中が刳(く)り抜かれた筒形の木製容器に、五割近く麦が混じっていると見られる飯を入れると、片手で「クルリ」と下向きに返して敷板に軽く打ち降す。「カボン」という音と同時に持ち上げられた容器の下には、一個の円筒形の飯ができあがっている。入れる「クルリ」「カボン」「クルリ」「カボン」手際が早いので面白さが加わり、信介はその早業にまじまじと見入っていた。一定の早さでリズミカルに飯は次々とできあがる。この早さでは……、盛り付け量の手加減などは到底できるものではないと思った。見ているうちに数が増えていく……。唯、大人一人当りの量としては大分少ないと見た。
「面白いようですね、関心を持ちましたか」
所長から聞かれた。
「はい、びっくりしました。早いですね。現場では今まで一度も食事をしているところを見ていなかったのですが、ちょっと量が少ないですね」信介は、失礼と思ったが遠慮なく聞いてみた。
「年令別、作業別などを考慮して、普通は二等から五等までの食事量のランクはあるのですが、ここほとんでは殆ど差はないようにしています。作業に出た日は、最高の二等です。まあー一回約二合で一日一人六合位ですね」
信介は、軍隊時代に与えられた高梁飯(こうりゃんめし)の量との比較をしてみた。やはりこれぐらいの量だったろうか。
いや、いつも空腹で時折の移動時には班長の目を盗み、常習的に路端の畑からナスビ、キュウリを椀(も)ぎ、また、サツマ芋・大根まで引き抜いて生のまま食べたのだから……、この量より少なかったのかも知れない。しかし彼らの麦飯なら、俺の軍隊時代のあの下痢を起す高梁飯、ウジが這い廻るタラコの餌などよりは、正直まだましだと思った。
「麦が半分のご飯ですね」
更に尋ねてみた。
「麦七、米三の飯です……。次に行きましょう」
「……」
所長は歩きだした。信介は所長が言った麦七割の混入に驚かされ、次の質問の言葉を失って無言で後に従った。
「ここは風呂場です」
所長は、信介を風呂場に案内してくれた。
「わたし共職員も、収容者も、皆この風呂を使っています。大きいでしょう」
言われるとおり、本当に大きかった。
板張りの床に、厚板で組み込まれた大風呂が据付けられている。幅は約一・八メートル、長さは二・七メートル位はあるようだ。
「一度に二十人は入れます。どうです上田さん、今日帰りに入って帰りなさい」
所長は親切に言ってくれた。
「ありがとうございます。作業所の風呂は初めてなのでお願いします」
「最後になりますが、ここが収容者の居る監房ですよ」
所長が信介を振り返り指差した所は、炊事場と風呂場の中程の中央通路を鈎の手に折れた、一・八メートル程の奥である。正面は仕切られ木戸が設けられていた。木戸に窓は無く、大きな鉄製の錠が掛けられていた。所長は木戸の手前の一室に信介を導いた。
一坪半程の広さの部屋であった。監房に接した側の板壁には、六センチ角の堅木の垂木(たるき)が何本か嵌(は)め込まれた格子窓がある。窓から中を覗くと監房の内部が一目瞭然に見ることができた。
「ここは勤務所です。職員が夜、交代に詰めて収容者を監視する部屋ですよ」
信介はもう一度覗いて中をよく見た。囚人百二十人が寝る大部屋である。数箇所、風と明かりを取るための窓がある。全ての窓が堅木の太い格子が嵌め込まれていた。寝る部分は上げ床の板張りになっており、部屋の周囲に添った側は二階造りになっていた。梯子も据付けられてある。部屋の中央部にも寝床があり、毛布がたたまれて整然と置かれていた。
部屋は空気の通りが良いのか臭いは無かった。
イビキを覚(か)く者も相当居るだろう。四、五十人が一室での起居生活なら信介も戦時中に経験はあったが、百二十人が寝る毎夜のことを考えたら、信介は身震いし、恐怖さえ感じた。
「上田さんは初めてのようですが、どうでしたか。参考になりましたか」
事務室に戻ると、所長から感想を聞かれた。
「本当に参考になりました。ありがとうございました。初めてなので勉強になりました」
信介は心から礼を述べた。また、この機会にと一つのことを尋ねてみた。
「ところで所長さん、収容者の方の、あの薄青い灰色の衣服の色は、全国皆同じですか」
「あの衣服の色は浅葱色(あさぎいろ)と言って、収容者の衣服類は、総て全国あの浅葱色で統一されています」
信介は幼い頃、ひどい悪さをするたびに、母から人の者を盗んだりした者は青い着物。人を殺した者は赤い着物を着せられ、縛られて監獄に入れられるので決して悪いことをしてはいけないと、言い聞かされ叱られたものである。日々これ悪童そのものであった信介は、捕まり、縛られて、母に手を差し伸べ助けを求めるおののいた夢を幾度も見た。幼いときの記憶を思い出して尋ねたのだが、囚人の衣服の薄青い灰色を浅葱色と呼ぶことを初めて知った。
「ここの収容者は、詐欺・空巣・窃盗が主です。善時制と言う制度がありましてね、個人の毎日の勤務状態・作業量などを勤務評定して、一日を二日、または三日で換算し、刑期は短縮されて仮釈放される制度です。今、わたし連もこの制度をここで採っております。ここの作業が終りますと全員が社会へ帰られます。だが上田さん、一〜二年後に彼らの半数は戻って来るのですよ……。残念ですがね」
所長は話し終えてから、寂しそうに窓越しに外を眺め茶をすすった。
「本当にありがとうございました」
信介は、改めて古田所長に敬意を表し礼を言い表に出た。……時計を見る……。時刻は九時をとうに過ぎていた。初夏の太陽は既に高く強い日差しを肌に感じる。……今日は相当暑くなると覚悟する。
工事現場の源さんの居る所までは、事務所から四百メートルはある。源さん一人での遣形(やりかた)出しは大変であろうと思い、信介は急いだ。
途中の一軒の開拓者の家から人が出て、こちらに向って歩いて来る。姿でわかった。駐在の片桐巡査である。囚人がこのルベシベの開拓地に入ることになったので、旭川警察署は囚人が帰るまでの期間、駐在員をこの山奥に派遣してきたのである。派遣されたのが片桐巡査であり、峠からの坂を下り切った所の藤田某なる既存農家に寄宿して、駐在所の表札を掲げていた。
距離と現状から、避けることは不可能だ。
「いやーどうも、大変お世話になっております」
信介は鳥打帽子を脱いで礼をした。
「ご苦労さんです」
場所に似合わない大きな声で片桐巡査は信介に挨拶を返し、立ち止まり挙手の礼をした。
「毎日、大変お世話になっております。ありがとうございます。さっぱりお伺いもしませんで申し訳ありません」
信介は重ねて丁重に挨拶をした。
「工事は順調に進んでいるようですね。浜塚組の帳場さんから聞いております。囚人の方も、何らの問題も無いので喜んでいます。まあ、気を付けてやってください。何かあったら、直ちにわたしに通知してください。お願いします。」
そう言うと、片桐巡査は再び挙手の礼をして忙しそうに去った。
暫く挨拶に行っていないので、道で会ったのはまずかったな、と信介は少々悔んだ。
あるとき、源さんはどこから聞いてきたのか、
「監督さん、あの駐在の片桐の旦那ね、あそこの―ほら、藤田の家の娘とくっついちゃったそうですよ。二人居る娘の上の方の娘だそうだが、これも聞いた話では、娘の方が夢中だそうで」
「それなら源さん、くっついちゃったのではなく、くっつかれちゃったのではないの」
信介がチャチャを入れると、
「監督さんに言われると、それもそうだ……。あこの娘はちょっと、ベッピンだもんなぁ……。あの旦那……、うまいことしたもんだ」
昼どき二人で冗談を言い合って、片桐巡査を餌にして昼飯を食べたことがある。
立ち去る片桐巡査に信介も、(うまいことをしたなぁ)と思い、後姿を見送った。
工事現場に着く。現場では、それぞれの班ごとに囚人達は働いていた。
看守は、作業が見易い場所で作業状況を見守りながら、監視をしている。
一斑の編成は囚人が約三十人で看守は一〜二名。
通常四班編成で作業は行われている。切土をしている者、トロッコで土を運搬する者、盛土の土羽(どは)打ちをしている者など、数が多いから作業も多様で込み合っている。
いつも薄青い灰色の、浅葱色の衣服をまとい作業をしているが、今日は暑い故か、上半身裸の者が多い。信介は現場の空間を縫うように進んだ。
囚人が一斉に信介を見る。自由に闇歩している娑婆の人間がまた一人歩いて来たのだから、熱い目な差しで刺すように見詰める。無表情を装って歩くが、仕上がりに近い部分は特に注意して見て通る。
僅かであるが、盛土の法面(のりめん)を仕上げる際に行う土羽打ちを、土羽板を使わず、スコップの底で叩いて仕上げた箇所が目に付き足を止めた……。そのとき、
「旦さん……」
と、後から信介は声を掛けられた。振り向くと囚人のデカである。デカという呼び名は、名前もわからぬ囚人に、信介が便利と考えて自分用に付けていた名で、他の特定の囚人達にも付けてある。
「旦さん、すんまへん。煙草(たばこ)をくれへんか、二、三本で結構や、頼んまっせ。何んとかしてぇな」
デカは早口の関西弁で一気に自分の要求を述べる。
目が、手を出して求めているのがわかる。
「悪いけど、それはできないよ。所長さんから厳しく注意されているんでね」
「そないなこと、わかってますがな。それやったら落していってや。旦さん頼んます、落していってや。頼んます」
信介の視野に、百四十メートル程先に居る看守の動きが入る。デカも動きを察したようだ。軽く頭を下げ、きびすを返して元の位置に戻った。
来るな……、と感じた……。やはり小走りで看守は来た。長井という看守だった。
若いが信介より年上である。薄くて引き立たない髭を鼻の下に生やしている。挙手の一礼後、質問してきた。
「どうもご苦労さんです。何かありましたか」
「いや、盛土の法仕上げに土羽板を使わないで、スコップを使って仕上げたところがあったものですから、ちょっと呼んで聞いていたのです。後程、世話役を寄越しますので話を聞いてください」
信介は、さりげなく話の的を外して離れた。
工事に着手して間もなく、こういうことがあった。
道路用地内の草木の伐開が終り、土量を動かす切り盛り工事に入る時点で、看守を対象とした技術指導を現地で行った。
切り盛りを画(えが)く横断図面の見方。切土は、どう切る。盛土は、こう盛る。側溝の造り方。コンクリート管の入れ方など、わかり易く説明して理解させた。
ところが翌日、信介が現場に到着するのを待ちかねていたのか、到着するや早速看守に付添われた八人程の囚人が、入れ替わり立ち替わり、信介に改めて横断図面の見方を教えて欲しいと、本当にそれこそわずら煩わしい程幾度も聞きに来た。
執拗に他のことについても質問を繰り返す。信介も求めに応じて真剣に、切り深、盛り高、断面積などの見方。区間の平均断面積に区間距離を乗ずれば、その区間の動かす土量がわかるなど。また、トンボとは遣形の一つで、土木用語であり、トンボの天端から一メートル下った位置が道路の出来上がりの高さであれば、そのトンボを一メートルのトンボと言うことなど、意味・見方・使い方を囚人達が理解できるまで説明して納得させて帰した。
次の日、信介は現場に行って仰天した。昨日くどいほど聞きに来た囚人の彼らが今日はどうだろう。
あちらに立ち、こちらで坐り、中にほ六センチ程の太さの木の樹皮を剥いだ棒を頬杖にして、同じ仲間を顎で指示し、使っているではないか。
「オッタマゲタ」と言う方言で驚きを表す言葉があるが、正に信介は現状を見たときにはオッタマゲタ。
昨日は、随分熱心だと感心したのだが、まさか彼らが仲間の上に君臨するとは全く考えてもみなかった。頬杖をしている囚人などは、信介が戦時中の学生時代に体験した浅茅野の飛行場建設現場のタコ部屋で見た、棒頭(ぼうがしら)と全く同じであった。
この八人程の頭の中にデカも居たのである。体が大きく体重は九十キロ以上あり、顔に凄味がある。
元はヤクザであろうと信介は見ている。残念なことだが、常に肌着を来て肌を見せずにいればよいものを、厚い日は肌着を脱ぎ裸で入るため、背中に恰幅の良さとは裏腹な彫色にも深味のない、見た目にも貧相な図柄の『お多福』の刺青が見えて、信介をいつもがっかりさせていた。
他の七人もデカと同じように、どの顔を見てもどの体格を見ても、他の囚人には見られぬそれこそ頑丈で極めて腕力も強そうな囚人連だった。彼らも、元の社会ではヤクザの幹部級の地位に居た者達であろうと思われた。これらの者にも、誰が見てもなるほどもっともと納得できる呼び名を信介は考えて、自分なりに持っていた。カッパ・ホッケ・カバ・トド・ホヤ・ゴケゴロシ・デカを含めた彼らに呼び名を付けてからは、信介はここに来るのが非常に楽しくなっていた。
刑務所側は、工事に囚人の労働力を提供すると共に、災害事故も事件発生も起さないように、全員を確実に日々掌握していく義務が先づ絶対的にある。
労務提供とは言え、請負人と契約をしている以上は、計画に基いて大きな狂いが生じることなく工事量を確実に消化し、工期内完成に持っていかなければならないわけで、刑務所側としては囚人の中から頭と言うか、小頭と言うか、信介が見て驚いた班長的な立場に立つ者を選抜配置して、工事を進めていく最適手段を必要としたのであろう。
少ない職員数をもって規律を保持させ、秩序を守らせ、作業を消化させていかなければならない。管理運営の実施面では大変な苦労があるのであろう。
彼ら八人を多面的に上手に使い、円滑に処理しながら工事は進められていることを、信介は認識させられていた。
信介は源さんとの約束に狂いがでたので、更に急いだ。……居る、居る……。居た、居た。ホヤは座って見張りをして居り、カッパは突っ立って居た。彼の前を通り過ぎるとき横目でチラッと見ると、寝不足のような顔であった。目と目の間が少し狭く信介がカマイタチと名付けた囚人の前を通るとき、デカには悪いことをしたと思いながら看守の目を盗み、たばこ歩きながら煙草を二本ポッンと落してやった。
「旦さん、おおきに……。ありがとさん」
カマイタチの小声の礼が聞こえた。信介は振り向かず、源さんの居る所に向った。源さんは囚人に見えぬ蔭地の倒木に腰を掛け、一仕事を終えた跡なのであろう、煙草を吸いながら信介の来るのを待っていた。
工事も順調に進み、蝉の声も一段とうるさく聞こえる八月上旬の暑い日であった。信介は他の現場を見回ってから来たので、ルベシベに着いたのは午後の二時頃であった。
源さんと一緒に出来高の一部確認に出て、法長(のりなが)や側溝の寸法を図ると、一部の個所の側溝で寸法の不足が出てきた。更に柁意して調べたら他にもある。
「源さん、足り無いな……? 深さも足り無い……? ……敷幅も無いわ……!」
「監督さん、わしもこの頃感じているんだが、奴ら要領がうまくなって誤魔化しを覚えちゃったんだな……。わしも再々うるさく言っているんだが、すません」
と頭を下げた。
デカ・ホッケ・カマイタチ・ホヤ……。八人の頭の顔が浮かぶ。カッパも……、トドも……、皆んな覚えたのか、そう思うと信介は複雑な気持ちでつい思わず苦笑した。
「監督さん、笑わんでくださいよ」
「源さん、彼らは真剣なんだよ……。毎日毎日がね」
「何んとなくわかるような気もするが、どうしてです?」
「言えばわかると思うけど、乗り込んで来た頃と今とでは彼等の元気が違うでしょう。この頃は気合いが入っているよ」
「言われればそうですね」
「源さん、彼らは早くここから出たいんだよ。毎日、ただ、それのみを考えて働いているんだ。足り無いところは直してもらって、良い仕事をするように頼もうや」
信介は源さんを慰めた。また自身も、寸法不足という事実で目を覚まされた思いであった。
「ところで源さん、彼らは、トンボを操作していないだろうね」
「監督さん、それだけは絶対にないですよ。わしを信じてください」
道路の出来上がり高をいじられたら、と危供した信介の問いに、源さんは強い言葉で答えた。
彼ら囚人は、自身の労働実態で作業種別毎の一日当りの消化量を覚え、日々の計画量を割り出し工事を進めているのだろう。
囚人の労働作業は午前七時三十分に始まり、午後は四時三十分で終る。十時・十二時・午後の三時には休息と休憩時間があり、実働時間は八時間である。
これは昨年、立法化された労働基準法に基いて実施されていた。終業時の四時三十分前に、ショベルなどの器具を肩に隊伍を組み作業所に帰って来たのを見掛けたことがある。(そうだ……! 作業実態から一日の消化量を覚えれば)と信介は気がついた。
「源さん……、彼らは……、切り投げをやっているんじゃないのかなあ」
「全部じゃないが、やっています」
信介の重ねての問に源さんは答えて、今までに数回、彼らの相談に乗ったことを告白した。
古田所長が『善時制を採っています』と言った言葉を信介は思い出して囚人の彼らに重ね合せてみた。
彼らの立場からでは、働いた一日が善時制という制度で量られて二日で認められるか、あるいは三日に換算してくれるかでは天と地の差が生じ、結果において二カ月程早く釈放されるか据え置かれるかでは、それこそ彼らには一身上の大問題なのである。
囚人達は作業に慣れ覚えることによって、それこそ懸命に必死になって善時制にすがって働いたのであろう。他の班との競合も出てきたのだろう。
信介は彼らを哀れに思われ、言うに言われぬ寂しさを覚えた。
一定の確認を済ませ、不良個所の手直しを源さんに指示した。既に囚人達は帰り現場に残っているのは信介達だけであった。
事務所に帰って来ると、作業所の前の空地は囚人達で溢れていた。夕食も済んだのであろう。洗濯をする者、雑談をする者など、笑い声まで聞こえてくる。ほとんどの者が上半身裸で、下帯一つの者も見え、刺青をした者も居た。信介は事務所の戸口から彼らを眺めていたが、日頃、彼らとは時間帯のずれでこのような情景に出合うことがない。(そうだ、刺青を見よう。現場で彼らが働いているときは見れるものではない、看守も居ることだし心配はないだろう)信介は勇気を出して彼らに接し刺青を見ることにした。
何気ない振りをして近づくと、彼らは現場では見せない穏やかな目で信介を見る。現場とでは全く違うことがわかる。
カマイタチが居たので彼の傍に近寄った。仲間の者が知らせたようだ。振り向いた顔が信介を見つけるとニコッと笑った。
「旦さん、今日はありがとさん」
小さな声で礼を言い、チョコンと頭を下げた。一瞬、信介は戸惑ったが、替りの言葉で返事をした。
「刺青を見せてくれませんか」
「わいのでっか」
信介がうなずくと、
「若気の至りでこんなアホなもんしてしもうて、ここは夜冷えるよってな、来た頃は大変やった。こないなもんしてると血のめぐりが悪うて、寒うてあかんわ」そう言って、カマイタチは信介が見易いように背中を向けてくれた。現場ではチラチラと眺めて承知はしていたが、真近に見るカマイタチの全身に入れている彫りは、それは見事なものであった。渦巻く雲の中で龍がクワッと大きな赤い口を開け、髭を奮わせ、たて髪を逆立て、目を剥き、宝玉を掴んで天空をにらむ図柄は、一目で信介にもわかった。昇り龍で、物凄い迫力のある刺青だ。
彫りも墨と朱色を図柄に合せ、巧みな配色で見栄えが良く、それぞれの色のポカシもまた見事である。
墨は上手に青にも黒にも変化させ、特に黒の色合いは言葉では言い表わせぬ深みのあるものだった。
刺青を見ていると言う感じは全くない。画かれた芸術品を見るようで、素晴らしいと言う一言に尽きる。背中の彫りにソッと触ってみた。四十歳くらいと思うが皮膚には弛みがない。目を近付けて、もう一度よく彫りをみる。黒の墨色に深みがあるのは、黒を出すために幾度も墨を重ねて打ち込んで仕上げたことが、打ち込まれた墨の密度の濃さでよくわかった。
信介はカマイタチに礼を言い、改めて周囲を見回しながら歩いた。全身に刺青をした者は他にも居た。
滝を昇る鯉・緋牡丹に花札・桜の花びらを散らしたもの・八岐の大蛇・龍虎の絡みなど、全身に彫りを入れるだけあって、これらの図柄も色彩の濃淡も、カマイタチの場合と異なり近づけず、多少の距離を置いて見たのだが、見ごたえのある見事な彫りの刺青であった。信介は正直なところ、これほど美しいものなら自分もやってみたいと思った。
また外に、腕とか背中の一部に念仏・女の名前・お面などの彫りをしている者が多く居たが、これらのものは観賞には価しないものばかりである。
突然ざわめきがするのでその方を見ると、背中にばお化けの刺青をした若い囚人が、仲間からお化けの顔に薬液のマキュロを塗られ、更に塗られまいとして、お化けの顔から赤い薬液を滴らしながら逃げ回っていた。信介も、その悪戯の愉快さに引き込まれて笑いながら見ていた。
いつの間にか信介の背後にカマイタチが来ていたのを知らなかった。信介が気が付くと擦寄って来た。
「旦さん、煙草を頼んます、一箱握らせてえな」とせがんだ。
「そう何回もできないよ。煙草はもう無いし」
信介は断った。煙草は本当にあと僅かな本数より残っていないことを知っていた。
「旦さん、その代り、ウイスキーでも酒でもあげまっせ」
カマイタチは信介を見ないで、左右に目を配り話し掛ける。
「ウイスキーは有るの」
冗談のつもりで聞いてみた。
「そやから、欲しい物は何んでもあげまっせ」
確信に満ちた答えが帰ってくる。
そのとき、看守がこちらに向って来た。カマイタチは気が付かない。
「セーターでは、どうでっしゃろ」
カマイタチの声を聞き流して、信介はこの機会とばかりに彼から離れた。
‥‥‥いや……もう……本当に驚いた! どうして……? どこから……? どうやって……? ウイスキーや酒が彼らの手に入り、持つことができるのだろうか。それにセーターまで……? 考えれば真に不思議なことである……。看守に聞いてみよう、そのほうが手取り早い……。いや……、駄目だ……!
もし薮ヘビにでもなれば大変だ……。だが、待てよ……?煙草も思うように手に入らない彼らが……、なんでカマイタチが言うような馬鹿なことができるのか……? これは奴のハッタリだ……。間違いない、と結論づけた。急に笑いがこみ上げてきた……。やはり甘く見られたんだと自分に言い聞かせたが……、信介はベタルを踏み踏み帰る途中も、また、深夜まで……、「ウイスキーでも酒でもあげまっせ……。セーターではどうでっしゃろ……」と、あのカマイタチが言った言葉に拘(こだ)わり、寝付かれなかった。
八月中旬のある日のこと、川辺の木蔭で昼食を終らせ昼休みをしている班の前を通り過ぎようとした信介を、彼らと共に居た広島出身で、三十歳くらいと見られる佐々木看守が見つけ、
「上田さん、ちょっと休んでいきませんか」
と、気軽にねぎらいの声を掛けてくれた。昼休みを利用して、囚人達の目の届かぬ所でウグイでも釣ろうと川辺に来たのだが、好意の言葉で休むことにした。長井看守も居た。信介は佐々木看守の傍に寄り適当な草地を探して腰を下ろした。
「こいつとね、髭談義をしていたんですわ」
佐々木看守は、鼻の下の黒ぐろとした見事に刈り込んだ髭を摘まみ、ニヤリと長井看守を見据えて、
「何んですね、ここのルベシベは何も無いけん退屈じゃからね、皆んなで髭の伸ばしやっこをしようと始めたんじゃが、わしのが一番早よう立派に伸びよった。しかし、こいつは認めんのですわ」
「上田さん、こいつはこがいなこと言うとるが、それ程のものじゃないでしょうが」
長井看守は信介に同意を求めた。
「本当に皆さんは立派な髭を生やしていますね、わたしはツングース族直系なのか、生えるのは産毛(うぶげ)のような髭ですから恥ずかしくて伸ばされません」
信介は当り障りのない範囲で、いつも心に引け目を感じている髭に対する気持を正直に答えた。
「上田さん、こいつの髭を見ればわかるが、消しゴムで消しやいいような髭なら生やさん方がまだましじゃと言うとるんじゃが」
佐々木看守は長井看守の髭を指差しながら、ウハハハハ……と、それこそ遠慮のない大声で笑った。長井看守の髭を、消しゴムで消しやいいような髭。こう言い切る佐々木看守の真に的を射た表現に、信介も危やうく同じように口を開けて笑うところであった。ツングース族直系‥‥‥云(うん)ぬんと言ったことに対して当り障りがあったような気がした。そっと長井看守の顔を窺いながら、一言多くしゃべり過ぎたことには素知らぬ振りを決め込んだ。
長井看守は己に利あらずと見たのか話題を変えて信介に聞いてきた。
「上田さん、熊はここでも出ると聞いたんじゃが本当に出ますかな」
「今は八月ですからまだ出ませんが、九月に入ると、このルベシベは熊の巣と言われるくらい熊が多くいるので出てきますよ。わたしもこうして日中通って来ていますが、夜でしたらとてもじゃないが怖くてここには来れません」
「しかし、熊は体が大きいので動きが鈍いと聞いとるがな」
「とんでもない。大きな金毛の罷熊になると百貫は越えますが、本気で走ったら馬よりも早いとわたしは聞いています」
信介は話を続けた……「一撃で牛を倒すこと……。逃げるとき、薮に入っても葉音一つ立てないこと……。襲うときは、どこから襲ってくるかわからぬほど敏捷なこと……。いくら死んだ振りをして寝ていても駄目なこと……」など、子供の頃父から聞いていたことを、あたかも見たり経験したかのごとく手振り面白く話をした。看守の背後に居る囚人達も、目を輝やかして聞いている。
「上田さん、キンケの大きな罷熊とはどんな熊ですかな」
佐々木看守も質問してきた。
「熊も五、六歳になると顔の額から首の上部、それに背中の毛がそれは見事な黄金色になるんです。そのような熊を金毛と言うんです」
「よけいはおらんでしょうな」
「少ないですね。わたしもあまり見ていません」
信介は質問に釣られて、面白い程のめりこんで話をしている自分を自覚した。
「熊の肉はどんな味でしょうな」
「肉そのものを、煮たり焼いたりして食べると生臭くて全然駄目ですね。先づ味噌漬にして、それから焼いて食べるのが一番おいしいと思っています。味噌漬にすると獣特有の臭い匂いも取れますしね」
これも子供の頃、父から五、六回熊の肉を食べされられたり、強くなるからと半強制的に血を飲まされたことを懸命に思い出して話を続けた。
長井看守が切れ目を与えず問いかける。
「今までに何回くらい食べましたか」
「そうですね……、一五〜六回くらいですかね」信介は平然として、大きくサバを読んで答えた。
「ウェー!ぎょうさんじゃなあ――」
感嘆の声をあげたのはデカであった。他の囚人達も驚いてか、座はぎわめいた。
「九月に入ると出て来ますか……。気を付けんといかんな……」
長井看守は、川向いの山林の薮を眺めながら低い声でつぶやいた。
信介は次の質問に何を聞かれるかと、懸命に頭を働かしていた。
佐々木看守は、信介の詰も潮どきと読んだのか、終りと思ったのか、一人の囚人に話しかけた。
「おい、川田……。おまえ……ゆんべ、ニントクをしていたろうが」
「担当さん、わいは何もしていまへんで」
川田と呼ばれた四十歳くらいの中年で温厚そうな顔をした囚人は、軽く一蹴した。
「担当さんの見聞違いと違いますか」
笑いも交えて、ガヤガヤと他の囚人達も否定する。
「じゃけん、おまえより外に、あの位置でする者はいないけんね」
佐々木看守も、笑顔で同じように軽く応酬する。
話を聞きながら、ニントクという意味がキンケの熊のときとは逆に、今度は信介がわからず興味を持った。
「佐々木さん、ニントクというのは何んですか」
「これらは、ゆんべ煙草を吸うとったんですよ。暗闇の中で吸うけん、蛍の尻みたいにポーと赤い灯が動きよるんで、じやけん、すぐわかるんです」
「煙草を吸うことを、ニントクと言うのですか?……どうして、ニントクと言うのですか……?」佐々木看守に問いかけながら(あっ!そうか、わかった)信介はニントクの意味を理解した。
佐々木看守も信介の呑み込みを悟ったようだ。
「そうなんです。ニントクとは昔、ほら、仁徳天皇が民の竃(かまど)より立ち昇る煙を見て、民度を推し量ったというあの話のことです。煙草を吸うことは、煙を出すことにつながりますけんね。ですから、ここの社会では符丁(ふちょう)で仁徳と言うております」
「しかし、この方達にはマッチなんか与えていないでしょうし、どだい、持つこと事態が不可能じゃないですか」
信介は「煙草」「煙草」と日頃目の色を変えて煙草を求める囚人達が、どのようにして火を付けて吸うのか釈然としない疑問を持っていたので知りたかった。
「これらは何んですな……、マッチなんか無くても……やる気になれば簡単に火を出すけんね」佐々木看守は囚人達を見回して淡々と答えた。
「そのニントクを、後学のため是非わたしに見せていただけませんか。お願いします。」
ままよ当って砕けて元々、千載一遇のチャンスがあるやも知れぬと思い、佐々木看守に頼んだ。
「川田……。どうじゃ……、明日の昼休みにやってくれんか」川田と言う囚人に対して、長井看守も信介の望みを叶えさせようと額の中央に右の手を垂直に立て、片手拝みをして頼んでくれている。囚人は無言で頭をペコリと下げた。了解してくれたようだ。
「上田さん、明日の昼休みにここでやりますけんね、来てください……。……昼休みは終りじゃ……。長井君、やろうか」
佐々木看守は信介に告げ、同僚に声を掛けて立ち上った。
翌日、信介はニントクが見られることで現場に来ても昼になるのが待ち遠しく、気が落ち着かなかった。源さんも、監督さんのお蔭で見れないものが見られると喜び、張切っている。
やがて昼になり、信介は源さんと食事を済ませ、二人で約束の場所に行った。彼らも丁度食事が終ったばかりのようである。
「遅かったですな」
長井看守が信介の来るのを待っていたのか、薄い髭の顔をほころばして歩み寄ってくれ、佐々木看守は川田とわかる囚人に何やら語り始めた。
「昨日はありがとうございました。今日は世話役と一緒に来ました」
信介は挨拶した。囚人と話をしていた佐々木看守が振り向いて、
「準備はええそうです。こがいなものはなんですな、中々見れんですけんね」そう言うと、信介達が見易いように座っていた場所を離れてくれた。囚人は地下足袋を脱ぎ気軽に座り直すと、傍に置いてあった浅葱色の布包みを引き寄せ中味を取り出し足元に並べた。見たところ幅が九センチ程で長さが三十センチくらい、厚さは十二ミリ程度の二枚の板切れと、四方の灰色の布切れが一枚、それに長さが約九センチ程の稲藁の芯と思われるものが十五、六本である。直感的に発火の予見はできたが、道具はこれだけのようだ。
囚人は指先で稲藁の芯を揃えて束ね、それを布切れの端に乗せ、指先の強い力で布を巻着け海苔巻を作るように、一本の短い小さな布巻に仕上げた。巻着けた布がほぐれないように、布切れから取ったと見られる結び目の多い糸を、キリキリと上から巻いて結わえた。佐々木、長井両看守も目の前で見るのは少ないのであろうか、信介達と同様にジッーと見ている。板の上に布巻が置かれ、その上にもう一枚の板が置かれて布巻を挟んだと見るや、勢いよく上の板に両手を掛け前後に擦り始めた。ゴリゴリと擦るので、この動作も符丁でゴリと言うことを後で知った。……動作は早い……。実に早い……。匂いがする、焦げ臭い。擦る……、擦る……。かすかに煙が立ち昇る……。煙の色が薄紫に変わり、匂いも強く感じる。擦る……、擦る。時間にすれば十五秒足らずであろう、突然、囚人はゴリを止め、素早く上の板を外すと煙の出ている布巻を摘み二ッ折にして、折り曲げた先に口を近付け、フゥーと息を吹きかけた。
二ッ折にした先の部分にポッーと、火が着いた。
そして燃え出した……。驚きと感服で信介は言う言葉がなかった……。見終れば単純なことのような気もするが、やはり見事と言わざるを得ない業であった。火の気の全く無い所から火を出したのである。
煙草を落してくれる人はいても、マッチを落してくれる人は絶対に誰一人としていないだろう。厳しい掟(おきて)の中で、決して許されるべきことではないが、社会復帰の近い囚人達が小さな慈悲に毎日必死に綴り、今日一日の精神的苦しさから少しでも逃れようと、僅かな楽しみを追い求め、その僅かに得た幸せを明日につないで暮していく姿の過程の一ツを、信介自身が求めて見たことに見終った後で気が付き、囚人達に申し訳のないことをしたと、心で詫びた。
十月に入ると、ここルベシベの地にも秋が訪れた。
今年は、微妙な気象、気候に恵まれた故か、やがて山林はモミジ・サクラ・ナナカマド・ウルシなどの紅葉に、エゾマツ・トドマツの濃い緑と、シラカバ・カツラ・エンジュなどの黄色い葉が見た目にも実によく混じり合い、遠くから見ると錦織りを見るような北国ならではの見事な美しい景色に変った。この美しいルベシベの秋の中を囚人達は工事を終えて帰って行った。
作業所で仮釈放されて、美馬牛の駅から汽車で帰った者もいたそうだが、多くの者は旭川刑務所に行き、そこで仮釈放されて、それぞれの帰るべき所に帰って行ったと信介は聞いた。ただ一人で、今日も新しく出来上った道路を歩いてみた。毎日百人以上の囚人が汗を流して働いたことが嘘のように、道路には囚人の姿も無く、もの音もせず、沢沿いに流れてくる秋風を感じられるだけであった。
デカにも、カマイタチにも、またニントクを見せてくれた川田と呼ばれた彼にも、二度と会うことがないと思うと何んとなく妙な寂しさが心を離れず、彼らと過ごした短い期間の色々なことが思い出された。
一般的に囚人を使役のため外に出すときは、規則に基き、連鎖(囚人二人を、鎖でつなぐ)をして出すという。その場合、刑の重い者同志をつなぐと逃亡することがあるので、必ず刑の重い者と軽い者とを組み合せて出すそうだ。だがルベシベ作業所では、道路の建設作業が終れば全員釈放されるので、逃亡はしないと決断したうえでのことか、監房から外に出ても、腰縄も鎖も無かった。社会生活の中で自ら犯した罪によるとはいえ、懲役という厳しい掟の基で、諸々の規則、制約を受ける囚人は、精神的に非常に苦しい日々を送ることになり、大変であるらしい。いかに悔いて泣こうが、喚(わめ)こうが、許されて塀の外に出してくれるものでもなく、科せられ、決められた日が来なければ自由になれないのである。
ルベシベでは塀が無いうえに、鎖も無い。刑の軽い者ばかりとはいえ、意志の弱い者もいただろう。
逃げようと思えば一人や二人は逃げれた筈である。
佐々木看守がルベシベを離れる数日前に話したことを信介は忘れることができない。
「例え、一年か二年で……、なんじゃ……懲役の者がまた戻って来たとしてもですな、常日頃彼らを導いたわたし共も、導かれた懲役の彼らも、決してこのルベシベで過ごした期間は無駄じゃなく全く悔もなく、誇りを持って社会に出て行くことを彼らが自覚してくれればと思いますし、念じています。それがわたし共の毎日の願いでありましたけんね。精神的な苦痛をできるだけ忘れさせるように、あなたも知ってるでしょうが短い時間ながら競技会を行ったり、札幌刑務所から懲役の者によるS・K劇団なるものを呼び慰安を与えるなどして、後ろを振り向かさず前向きにもっていくように指導しましたけん」
佐々木看守は胸を張って言った。信介は佐々木看守の強い責任の自覚と誇りを持って話す言葉を聞き、一人の囚人も逃亡しなかったことが、職員の強い信念の指導にあったことがわかり、感銘を受けた。
佐々木看守は、更に胸を張って言う。
「塀の中での生活で最も必要なのは、なんじゃ、心と心が結び合う人間性が一番大切じゃと、わしらは思ってます。一般社会でも同じでしょうが、何事も円満にいくのは人対人がうまくいくことですけんね。くどく言うようじゃが、わしらは懲役の彼らに信じられるのが一番大切なことで、わしらも彼らを信じるように努力してます。お互いに信じ合うことが出来なくなると全てが駄目ですけん」
信介は道路を歩きながら、次から次と、佐々木看守が話した言葉を思い出していた。剛毛の髭の顔が懐しかった。信介に話すとき、顔は微笑んでいたが日は確信に満ち輝いていたのが忘れられない。言われたように、何事も信じ合うことが一番大事なことだと、信介は改めて自身に言い聞かせた。
佐々木看守はまた、このようなことも言って去った。
「ほかで苦労したのは部落の人達との問題じゃが、部落の人びとに刺激を与えず、進んで融和を求めるよう努力しました。まあ、お蔭で何もなくきました。土曜日の午後は休みですけん、懲役を連れて援農にも行きました。労力の見返りで貰うナンキン、こちらではカボチャと言いますな。それにトウキビ。これらを懲役は大変喜びましたなぁ……。来た頃は…、ここは何も無い所じゃと思っておったが……、なんじゃ……、さて帰るとなると……、思い出が結構ありましたな。……ウハハハハ……」
と豪快に笑って去って行った。その佐々木看守に、もう会えない。長井看守の薄い髭面の顔も、もう二度と見られない。
(ケシゴムで消しゃいいような髭か……。ニントクなぁ……)もうちょっと、多く煙草を落してやればよかったと信介は悔んだ。工事の期間を通して三十本くらいであったろうか。(……なんだ……、そうよ……、源さんが居たんだ)源さんが居たと気が着いたら急に気が楽になった。
(吸えるのは監房の中だけ……。皆んなで回したのであろう……。蛍の灯が飛ぶように……。ニントクなぁ……)信介は寂しい気持ちで敷砂利を踏みながら事務所に向かった。山林の木々の紅葉が実に美しかった。
事務所に帰るや、源さんは信介を待っていたかのように、
「監督さん、あの駐在の片桐の旦那ね、警察予備隊に志願したら合格して入隊するんだと。上の娘もね、付いて行くんだと。それで……、藤田の一家は家をたたんで美瑛の市街に出るんだそうですよ……。あの片桐の旦那、頭が良いんだな……、うまいことしたなぁ」
と、興味をそそるように話しかけてきた。
「……警察予備隊にね……。うまいことしたのかなぁ……」
信介は源さんに答えたが、何ら関心無く、片桐巡査や藤田の娘のことなど、どうでもよいことであった。信介の頭の中では、蛍の赤い灯が暗闇の中を、ポァー・……ポァー……と、あちこちで光りながら弧を描き、急がし気にいまだに飛んでいた。
ポァー・ポァー・ポァー……
(おわり)
「ニントク」の脱稿までの数々のドラマ
昭和六十二年の九月でした。春からの体の不調と、日々自動車に乗り、歩かないという生活環境からか足腰が弱り、五十歳台とは一段と違う六十歳台に入った体の衰えを確実に自覚しました。記憶力も落ち込んできていますので頭のボケないうちに何かを書いてみたい。素人は、素人なりに書いてみたい。読まれ、笑われて当たり前、素人が書くのだから。下手なりにでも、何かを書き綴ってみたい。このような意欲を突然持ちました。
早速、種々思案していたら、頭の底に残っていて浮んできたのが、青春時代に囚人現場で体験した思い出の数々です。
(よし! あのときのことを書いてみよう)そう考えて、思い出を綴ぎ合せ構想を練り、題名を『ニントク』と決めました。必然的に過去の実態に付随する資料が必要となりましたがほとんど手元には有りません。何はともあれ昔の資料を収集せねばと、旭川刑務所を訪れて、当時の資料が有れば閲覧させていただきたいと願い出ましたが、全く当時の資料などは皆無ということで、構想は諦めざるを得ませんでした。……だが、日が経つにつれて……諦めたものに対する意欲がまた以前に増して強くなります。
思い出に残っている人達は広島刑務所に所属する方が多かったので(広島に問い合わせれば、あるいはわかるかも知れない? 当ってみよう。それで駄目なら、そのときは潔く全てを諦めよう)そう心に決めて広島刑務所宛に、作文の趣旨を説明して、当時の資料の有無と、その折に来遺された職員諸氏の消息を、書状により依頼しました。六日程で返書が届きました。(やはり駄目か。返事が早過ぎる)そう思って開封し、内容に目を通しましたところ「昔の資料は見当らないが、当時来道して工事に携わった刑務官の一人で佐々木……某なる者が、貴殿の隣町である美瑛町の美馬牛という街に居住しているので、本人と会って直接話をしたら如何か」という文面でした。全く一瞬、エッと、息を呑みました。昔、ルベシベに来た職員一人の方の居場所がわかり、それも、車で行けば十五分で着く美馬牛の市街に居られたのですから、返書を見終ったときの驚きと嬉しさはどれ程のものであったかは、察していただけましょう。このような経緯があって、四十年降りで美馬牛の街でお会いしたのが『佐々木看守』こと『佐々木衛(まもる)氏』であります。
当時の現場で写した刑務官一同の記念写真に私も一緒に写っていることより、互いを確め、互いが元気で再会できたことを喜び合いました。
佐々木氏は広島刑務所に職を奉じてより、札幌・旭川・帯広・鳥取・松江と転じ、これら各刑務所の課長の要職を務め、昭和五十七年に最後の職場となった釧路刑務所の管理部長を辞され、永住の地を美馬牛に定められて、現在悠々自適の日々を過されています。氏が何故、美馬牛に居られるかについては、朝子令夫人の実家が津郷農場に住まわれる西出竹雄氏に当たることがわかりますと、概略摸しはできましたが、非常な愛妻家である氏と、氏の人柄から、むべなるかなと理解させていただいております。二人で四十年前の工事現場に行き、往時を偲びましたが、永い歳月の流れは、見るものをほとんど変えていました。
当時造った開拓道路は道庁の管理する道路になっており、道幅も広げられて広くなり、工事区間の一部は路面が舗装までされていました。記憶の中で、昔は原生林に近かったと思われた山林も見渡す限りその姿は無く、植林されたカラマツの林と、雑木の疎林に代っていました。昔日の面影は全く無く、自分が監督した工事現場の場所さえ見失う程でした。
藤田一家が住んで居た家屋も朽ち果て骸の姿を僅かに少し残すのみで、骸の傍に、昔は屋根の高さまでしかなかった一本の赤マツの木が、今は巨木となって背丈もある雑草の中に取り残され、主無き姿を見たときは、見るに堪え得ない憐みを覚えました。
唯、変らないで在ったのは囚人が寝起した作業所の跡です。広々とした草地は昔と全く同じでした。
忘れ得ぬ、懐しい思い出の地に来てみたとき、余りにも変化が大きく温め抱いてきたものが崩れようとしました。当時は若さと元気があり余る青年であった私も六十路の坂を越えており、記憶も一部が薄れてどうしても思い出せないなど、また、昔に戻りたくても戻れぬ現実に、改めて己が両の手の甲を見つめながら「心・気持」とは全く掛け離れた四十年という歳月の流れの早さを十二分に知らされました。
当時造られた区間の開拓道路が、道々美馬牛神楽線と呼ばれ、今日においては、天災地変の最悪の異常時に、旭川と上富良野を結ぶ国道に代る連絡道路になっていました。この道路が道々芦別美瑛線、更に道々留辺蘂上富良野線につながり、町道を考慮に入れない幹線道路としては、最も区間距離と利用時間が短くて済む連絡路線であること。多くの囚人が汗を流して造った道路が、重要な裏街道としてその役割を果すことがわかったとき、私はこのルベシベの地で囚人と共に道路建設に従事したことに、大きな喜びを感じました。
ルベシベで過した短い一夏の期間が、私にも、決して無駄じゃなかったことを、現実の実態が如実に示して教えてくれました。
今年の七月中旬でした。佐々木氏宅を訪れた折、美馬牛市街に住み、元は美馬牛の郵便局に勤めた経歴を持ち、年は私と同じくらいと思われる松本久夫氏を紹介されました。氏はルベシベに魚釣りに行った折、囚人が道路を造ったときに建てた記念碑を、薮の中で見つけたと言うのです。
私も、佐々木氏も全く知らぬことなので興味を持ちました。「案内しましょうか」と言う松本氏の好意に甘えて、早速、氏の運転する車で現地に向いました。
碑はありました。その碑は、私達が建設に従事した道路の先で町道につながる分岐点の町道側に在ったのです。町道と言っても現在は全く使われていない、廃道となった敷地内の薮の中にです。道路は薮、側も熊笹、誰に見て貰えるわけでもなく、雑木も生える薄暗い側の薮の中で、碑の頭部の極めて僅かを熊笹から覗かせて、ヒッソリと在りました。
工事中に土中から出たと考えられる野面石(のづらいし)に、囚人が行ったと思われる拙い彫りで、「道路竣工記念碑」……「美瑛名誉作業班」と、碑名などが刻まれていました。昭和二十五年十一月の彫りも読まれます。
私は一夏だけの工事を担当しましたが、道路建設は継続して、囚人の手で毎年行われていたのです。
さんさんと陽に当る道路もあれば、離農者に引きずられたかのように廃道となって忘れられ、雑草・雑木に覆われる道路もあったのです。
廃道となったその荒れ果てた道路を見たとき、昔、囚人の手で同じように造られた道路であったものが、このようになることは、その道路の運命と言うべきか、また宿命と考えるべきなのか、さて、どのように思い考えるべきなのか、……実に寂しく、空しいものでした……。
同一地点で、右と左、明暗の違いをこれ程ハッキリ、明らかに見せられると、あたかも人生の岐路、人生を暗示しているように思われて、私は、唯々、無量の感を抱くのみで……、いつの日か……、この廃道となった道路竣工記念碑に……、誰かが……必ずや、陽を当ててくれることを念じて。ルベシベの地を離れてきました。
「囚人現場の思い出・ニントク」は、佐々木衛氏の豊富な専門知識と記憶力の力添えで、昭和六十二年に「ニントク」として脱稿できました。此の度、地名個所などを書き加え、部分的に文章を書き改め寄稿させていただきました。
佐藤輝雄氏略歴
大正15年5月15日 父佐藤芳太郎・母サカエの長男として上富良野村二町内(現本町三丁目二‐四十六)にて生れる。
昭和8年4月 上富良野尋常高等小学校に入学。
昭和16年3月 同校高等科卒業。
昭和16年4月 北海道庁立旭川工業学校土木科に入学。
昭和17年9月 病気のため昭和18年3月まで休学。
昭和20年3月 同校土木科卒業。
昭和20年7月 特別幹部候補生として所沢航空隊に入隊。
昭和20年8月 終戦により復員、以後家事に従事。
昭和21年11月 北海道庁旭川土木現業所に雇として採用される。
昭和26年7月 北海道開発局設置により、同局旭川開発建設部に入る。
昭和35年4月 旭川開発建設部、美深出張所長。
昭和37年4月 同建設部、士別出張所長。
昭和39年4月 同建設部、富良野出張所長。
昭和45年4月 同建設部、旭川出張所長。
昭和47年4月 釧路開発建設部、道路第二課長補佐。
昭和50年4月 留萌開発建設部、道路第二課長。
昭和52年7月 室蘭開発建設部、道路第二課長。
昭和53年5月 網走開発建設部、網走道路事務所長。
昭和55年4月 北海道開発局を退職。
昭和55年4月 アトム化学塗料株式会社に入社。
昭和61年1月 北部アトムライナー株式会社に出向現在に至る
(編集委員注)

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一