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「やまご物語」

佐川 亀蔵 明治四十二年七月五日生(八十二才)



北海道の開拓は、先ず樹木を伐ることから始まった。しかも厳しい自然の雪と寒さに助けられる形で、「やまご」と呼ばれる人たちの手によって、進められたのであった。
現在では年間を通じて機械力を利用し、作業も能率的に行われているが、私の若い頃開拓に従事しながら冬期間の「やまご」として働いた時のことを、思い出しながら述べてみたい。


「やまご」とは
本州では「木樵(きこり)」又は「杣夫(そまふ)」と言うが、北海道では「やまご」(山子)と言って、山に入って木を伐ることを業とする人を言う。やまごも渡世人と言って、冬夏通して山を廻って歩く専門の人と、私共のような百姓の出稼ぎの者もいた。
渡世人は、犬皮のチョッキに、絹コールまたは、ラシャのズボンといういで立ちであったが、私共はよくて雲斉(うんさい)と言う木綿のズボンに、股下から紐で長い軍隊払下げの赤ラシャの脚絆(きゃはん)を着ける。履物はつまご「ツマゴ」(爪籠)、これは暖かく雪にぬかり難いので沢山作って持って行った。
角材を削る時は「金カンジキ」と言って三木爪の滑り止め金具をつける。軍手もあったが、指先のない自家製の手甲をはいた。指を差し込むところは糸で丸く輸にしてあって、指先が自由で作業し易く手も疲れにくい、しかも母親やオッカア(妻)の心尽くしだから、実に暖かく冷たさ知らずである。
鋸作り
やまごは鋸の作り方が一番大切、熟練した人は随分ゆっくり鋸作りに時間をかけるが、仕事にかかると飛び抜けて捗ることに感心したものである。
入り込みさい面(別名追い込みさい面)と言って、何人ものやまごが一緒に一つのさい面(区劃割)に入って、皆伐するやり方であるが、下手な人はただ夢中になって伐木するのに対し、鋸作りのうまい人は次のさい面の事も考えながらゆっくり構えて、鋸作りや道具の整備をするのである。
山小屋の様子
造材は秋のうちから段取りに取りかかるが、小屋掛けの場所は飯場の水の便、山仕事の下曳きの都合なども考えて、沢地の風当りの弱い所を選ぶ。柴木や笹を片付けて掘立小屋を建てる。高さはやっと人が出入りの出来る程度、屋根や壁は柴木や笹や松の枝で葺いたり囲ったりの粗末なものが普通であったが、中にはガンピ、シコロの皮で葺いた上等のものもあった。
入口から奥まで六尺幅位が土間のまま、通路兼いろりなのである。そして屋根の所どころに、明りとりの窓穴があけてあるので、案外煙いことはなかった。通路の両側は松の枝を敷きつめ、その上に筵(むしろ)を敷き一人一枚分が居住区で、夜はそこに布団を敷き、みんながずらり枕を並べて寝るのである。一間半位毎に石油ランプを吊したが、焚火も結構明りの役目を果たしてくれた。
事務所や物品売り場は、大抵別棟になっていたし、やまご、馬追い、人夫はそれぞれ別棟に居住し、親方を除いては、やまごが一番羽振りを利かしていた。
薮出しの人達も、やまごの木の倒し方によって、楽にも苦にもなるので大事にしてくれた。人夫の人達は、朝一番早く五時頃から出かけることもあった。
「今日も朝から出面鳥(でめんとり)は鳴きながら出て行く」とぼやきながら現場に向うのであった。
やまごの約束
やまごは木を倒す時、目的とする方向に倒すために「受け」と言って、切り口に段差をつける。この部分を「サルカ」と言い、伐り倒した後で必ず切り落すことになっている。もし違反が馬追いに見つかったら大変、勿論親方や山頭に発見されると、その材は受入れにならないのである。角材にも丸太材にも各山の印、○山とか田とかが打ってあるので、後日に見つかっても、誰の仕事かすぐわかり酒一升は免れない。
この他にも色々な掟がある。鋸を入れる鋸鞘に腰を掛けてはいけないと、神様の名を書くなど、鋸は神聖なものとして扱われた。また鋸を叩いたり楔(くさび)と楔を相打つこと、これは不慮の事故発生の場合の緊急信号になっているので、反した時は仕事を休むことさえある。
或は危険防止のため、木を伐りかけたまま放置したり、掛かり木と言って、隣の木に引っ掛けたままにしてはいけない。ところが面白いことに、自分のくじ木の隣に良い木があったりすると、故意に引っかけ「ああ引っかかった」と言えば、相手のやまごは「うまくやったな」と苦笑することもある。また木を倒す際、倒れる近くになったら皆に声掛けして知らせる。一回目は「行くぞ」、次は「返るぞ」、倒れる瞬間は「そおら」、倒れたら「ほおい」と、身の無事を仲間に知らせるのである。
この他、他人の鋸を断りなく見てはならない、楔を三丁以上打つな、朝から汁かけ御飯を食うな。或は、握り飯に味噌をつけるな等々、山の仕事には危険が伴うので、縁起を担ぐような申し合わせが随分沢山ある。
作業がはじまる
小屋掛けも終り、愈々伐採作業の始まり、親方は従業員一同を集めて、先ず鉞(まさかり)立てと言う儀式を行う。
事務所の近くに新しく鳥居を建て山の神を祀る。皆でお神酒(おみき)を頂いてその日は休み。次の日は、さい面分け、いよいよやまごの仕事も本番になる。
伐採には、皆伐と言って有効な立木全部を伐るのと、択伐と言って枯損木、切損腐敗等の故障木と、特に辺りの木を被圧する様な優勢木を調査して伐る山があるが、新(あら)さい面の日には、やまごには大きな期待がかかるのである。
調査木のさい面明けには、最初の一本目は良い木を選んでやまご一人一人に割り当てされる。やり方は山頭(やまかしら)が小枝を切って印をつけ、くじを引かせて決める。優勢木が当ったら酒一升つけろとか言って、幸運を掴みとろうとする。二本目からは腕次第で自分の好きな木を選んで伐って行く。それこそ新さい面の日は三日分も稼ぐと言われ真剣そのもので、前日から一応山全体を下見しておき、当日はくじ木を伐るためには、朝も暗いうちから山に入るのであった。
私にも一度こんなことがあった。径四尺もある楢の優勢木が当ったので、喜び勇んで、薄暗いうちから伐りにかかったが、前の日折角下見していたのに
どうしてもうまく倒れない。楔は三本以上かけないとの捉があるし、難儀に難儀してやっと倒すことが出来た。大道が近かったので十六尺の長材に切ったところが少し変色が出たので二尺落とし、更に二尺落として結局十二尺一丁と言う残念な結果に終り、私も親方も損をする羽目になったと言う一幕もあった。
木を倒すに当っては、先ず枝張りは勿論隣りの木との掛かりの有無や、斜面など地形によって足場作りから始め、倒した後の玉切り、角材削りのことを考えながら、自分の安全な方向に逃げる段取りも必要とする。
下手にトンボ(沢に向ってさかさ)に倒したりすると、後の作業が大変である。立木の姿勢をみて、多少無理だと思っても、出来るだけ斜面に対して横に倒れる様に、受けの方向、深さ、矢の打ち方の工夫をする。これは或る程度危険を伴うが、やまごの腕の見せどころでもある。
やまごの道具
道具は随分沢山ある。一口に鋸と言っても、青木目の鋸では堅い雑木類は引っかかって挽けない。また雑木目では青木類は、アサリが狭いので重くて挽けないのである。道具の持ち運びには、筵を四ツ折に畳み縄紐で両肩に掛ける背負子(しょいこ)を作った。鋸の他に鉞には、角材の荒落し用の大鍼(一貫目もある)、次にさって(中幅の鉞)と言って、受けを掘ったり、矢を打ったり角材の荒おとしにも使うものがあった。他に節切り(幅狭く鋭い鋼)という松の枝などを落す極細目の鉞、次に刃広と言って幅が広く、峯と刃先が鶴首の様になっていて、角材を仕上げるには、欠かせない鉞である。
次に角まわし(馬追いや薮出しでは、ガンタ)と言うのがあり、やまご用は釣針の様に曲ったものでそれに径五分の丸鉄で径五寸の輪を作って付けられてあり、角や丸太の太さに従って鳶の柄などに差し込んで使う。馬追い用は輪の所が柄に巻きつく様に固定され、先の方も爪が柄の先端に金具が巻きついている。薮出し用のは柄の中間を切り抜いてボートで止め、先端には爪もなく、辷り易い様に作られてある。
鳶口は、やまご用は鳶の嘴の様にやや丸目で背割りせず、丸太の切り目に差し込んで木口を開けるために都合よく出来ている。薮出し用のは軽く先端も細く、長いしなやかな柄がついている。馬追い用のはドットコと言って柄も鳶口も頑丈に出来ている。
他に小道具として墨壷(すみつぼ)がある。糸を巻く歯車がついて、長さ三十尺位の強い絹糸を使い墨汁が入れてあり、凍らないために塩を入れる。墨壷は角材を上手に削るためには、欠かせない重宝な小道具である。墨差(すみさし)と言って小さな竹べらの先を細かに裂いた竹筆があり、墨壷に添えて木材に印をつけるのに使う。これらの道具を揃えると、十二、三貫目にもなる。
山の楽しみ
山に入れば働き人は皆んな同じ気持ちになる。昼飯の一時も楽しかった。先ず昼三十分位前から枯れ枝を集めて焚火の段取りをする。この時ばかりは人夫もやまごも一緒に集まって食事をするのであるが、きつい山仕事は一升めしが通り相場。飯場の親父さんが作ってくれた頭程の握り飯も、一切れの鱒の塩引きで食べるのだが結構うまかった。時には我が家から持参のキュウリやナスビの味噌漬を、指先でさいて仲間と分け合って食べ、その味はまた格別であった。またお昼時間は、渡世人の人夫ややまごと、お互いに出身地の情報交換の場でもあるので、興味しんしん楽しい時間帯なのである。
山には度々お祭りがある。山開き、山の神、初午(はつうま)、これらのお祭りは山は休み、親方から心尽くしの御馳走、と言ってもスルメや鱈の煮染めであるが、それに一人に酒一合から二合飲めば上機嫌になる。時には親方や帳場も顔を出して、労をねぎらってくれたり、神様のお供え餅を頂いたら一同無事に働けた喜びと共に感謝感激するのである。
三月となって
厳寒の冬も三月ともなれば、ようやく日射しも高くなり暖かさも増して、彼岸頃になると角や丸太の上で一寸の昼寝を楽しんだり、また、そろそろ来る春の我が家の百姓の事も考える様になる。
しかし一冬中殆どの者が、留守家族との交信もなく過ごすのであったが、そんなに淋しいとも、辛いとも思わなかったことは、不思議な位であった。
三月の末には伐採作業も終りに近づく。調査木の山、皆伐の山それぞれに残木がないか、親方や帳場にやまごも加わり労資一体となって、違反の有無と後始末をする。愈々総切り揚げ、自分の道具や親方の荷物まで揃えて一切心残りない様に片付ける。お別れの宴には親方から御馳走や酒が振舞われ、飲み放題食べ放題、お国自慢の歌も出て楽しい一日を過ごすのである。
帳場から稼ぎ高、物品の使用料等の精算があり、確認の上判取帳に金額と名前を書き捺印して受領する。貸金の他に特別賞与金が一円札で二、三枚。これは稼ぎ高に関係なく平等に支給される。時には、五円札が出たりすると、それこそ山頭の受け入れの厳しさも、親方の作業督励の厳しさも忘れて只々感謝するのみ。その晩は現金を握って家族の夢をみながらゆっくり休む。帰りの荷物は親方の方で馬追いに頼んでくれ、場合によっては汽車賃も出してくれることもある。「来年もまた頼む」「お願いします」と言うことで一冬の山稼ぎも終り、人それぞれに辛かったこと、楽しかったことなどを思い出しながら、帰宅の喜びの中にも、半年間起居を共にした仲間との別れを惜しむのであった。

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一