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戦時中の「清富・日新」部落

山岡 寛 大正七年七月二十六日生(七十三才)

昭和十八年、村内の森林所有者一二八名による社団法人、上富良野村森林組合の事務所を村役場内に置き、時の金子浩村長が組合長となり発足しました。
私は、この組合の技術職員(技手)として同年四月一日拝命し勤務したのが実に、半世紀、五十年前のことです。
当時は、戦争の真只中、国を挙げての非常体制下にあり、森林資源の増強を国策とし、全国市町村に森林組合が創られ、森林の人口造林、撫育管理指導に大変な力が注がれていました。
私は毎日のように、カラマツの間伐指導や造林補助交付を受けた造林地の検査等で、現地を駆け回っていましたが、その中でも清富、日新地区は森林の多い部落で造林に熱心な白井弥八さん、竹内幸一郎さん等がおられました。この頃村では、東の横綱は白井弥八で、西の横綱は村上国二と言われていました。
清富、日新地区は、村の中で開拓が遅れた地帯でありますが、それは、北海道開拓初期の殖民区画設定の中で牧場と選定されていたことで判ります。
牧場となった選定基準は、農地としてではなく山岳の麓、丘陵地、沢の奥地等で、農地利用が困難だが放牧地として家畜の飼育に適すると思われる地帯だったので、明治三十四年日新地区に埼玉県の新井鬼司が牧場の貸下げ申請をし新井牧場として入地、同四十三年、清富に第二作佐部牧場(大正二年松井牧場に変る)、日新には第一作佐部牧場(大正二年細野農場に変る)と佐川団体(農業集団移住入殖で牧場とは入地形態が別である)が入り、大正三年には吉田牧場ができ開拓され、その名がいまだに地名として残っているのです。
ところが、この地帯の牧場として貸下げを申出た者(佐川団体は別)の目的は、農業的牧場経営よりも、土地を取得するための条件である畜舎を立て牛馬を飼育し放牧の柵を巡らし、附与検査を受ける条件を整え土地登記をすることで、後は、その土地にある原生林を造材し商業的、投資的な面を狙った牧場主が殆んどだったようです。
それは、この地帯の森林資源が良質で、伐り出された青木材(松丸太)は、その材質の優秀だったことから函館築港の工事に主として使用されたと言う話を部落の古老から聞いた程で、この地区の人達の森林についての熱心な事がこの辺からもあったように思いました。開拓当時でも、平坦の湿地で立木の少ない土地に入地した人の中には、森林があって乾燥した丘陵地の貸下げ地に変ろうと心を迷わせた人もあったようですが、この道材後、大正年代の欧州大戦で豆作りの高騰時代が押し寄せ、牧場が農場化し、好景気の中から地主と小作人の間で自作農の話が進められ、自分の土地を手にした人も次第に増してきたと言います。
私が部落に入った頃は折角手にした土地も、戦時中で子弟が兵隊に召集され働き手が減る一方なので畑にカラマツを植えるしか方法がなく、やっと荒れるのを防ぐための策の一方、木に関心の深いことに併せ、当時としては当然国策に従う行為だったのかも知れません。昭和十九年と記憶していますが、カラマツの苗木を九〇万本も植えたことがあります。
九〇万本植えると言うことは三〇〇町歩もの耕地を一年で植林化したこと、如何に人手が不足していたか解ります。当時はトラクターがある訳ではなし規模拡大はできなかったのです。
清富、日新部落は昭和の初期が最も戸数が多かったと聞きましたが、人手不足と言われた当時(昭和十八年頃)でも日新五十八戸、清富で三十九戸もあり現在(平成三年四月、日新十三戸、清富二十五戸)とは比較にならない程多くの人が生活していたのです。
その頃部落を訪ね廻った想い出のまま戸別地図を記してみましたが、日新部落の急減は日新ダムの建設で土地を提供した土地所有者二十六戸の転居によるものであることを特筆せねばなりません。ダムは地域農業振興のための農業用水施設として設けられたもので、血と汗で拓き子孫と住む土地として作りあげたふる里を後にされた方々のご心境を思うとき改めて感謝を申し上げ永くこのことを伝えたいと思います。
尚、この記述に当って、白井清氏、対馬正一氏、渡辺秋雄氏の助言を戴きましたことを感謝します。

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一