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ジンギスカン料理の普及

加藤 清 大正八年一月二十六日生(七十三才)

昨年の干支は末(ひつじ)年、私は七十三才の己未(つちのとひつじ)、こんなことから羊に因んで、我が町の「ジンギスカン料理」普及の経過について述べてみたいと思います。
明治の開拓以来、農家にとって馬は欠くことの出来ない家畜であり労働力で、戦後の復興期まで常に千数百頭が飼われていました。馬以外の家畜、家禽類はわずかな自家用の鶏ぐらいのもので、所謂無畜農家が大半でした。
本題にかかわる緬羊の飼育も不振そのもので、戦前の昭和十年の統計は飼育者十一戸で三十五頭と言う状態、その中に草分の寺田秋治氏がメリノー種を飼っていたことを思い出します。従って一般には「ジンギスカン」の名もその味も全く知られておりませんでした。
緬羊が本格的に飼育されるようになったきっかけは、綿や羊毛の需要の全量が海外からの輸入に依存していたのに、戦争によってその道が絶たれてしまったからです。繊維製品の殆どが店頭から姿を消し、農作業衣・防寒衣料の欠乏に苦しみました。
その対策の一環として緬羊の飼育が奨励され、各家族で婦人の手によって紡毛し、手袋・靴下・セーター等が編まれました。糸紡ぎは始めての体験でしたが、熱心に取組んだので上達も早く、窮乏生活の中にあって格段に暖かい純毛物が身につけられる喜びで大満足でした。
このようなことで緬羊の増殖には一層弾みがつき、昭和二十四年の飼育は六六二戸、一一四九頭にも達し、十年足らずのうちに二十倍にも伸びたのでした。
この様な急速な増殖の影には、町の施策として基礎羊の導入斡旋や助成に加え、適切な飼養管理の指導が行われたことにも依ります。
また、昭和二十八年から毎年開催された家畜綜合品評会には、予め緬羊一、二頭を屠殺解体し、前日から「タレ」に漬け込み、当日の出陳者及び一般の参会者全員に「ジンギスカン」の試食をして貰ったりしました。この企画は品評会を盛り上げたばかりでなく「ジンギスカン」の普及にとって大きな役割を果すことになりました。
緬羊の奨励には道庁でも力を入れましたが、特に記憶に残るのは、昭和の初期に月寒種羊場に勤務し、次いで道立滝川種羊場長になられた山田喜平氏で、氏は緬羊全般について当時全国的にも第一人者で、「成吉思汗(ジンギスカン)」についてはモンゴルの遊牧民に由来することや、特製の鍋で焼くことや、肉の臭味を除き軟らかく味よくするための「タレ」の調製法に御造詣が深く、ジンギスカン普及の国の原動力的存在であったと思います。
ここで、ちょっと本論からそれますが、ジンギスカンと浩宮様に関わる微笑ましいエピソードを紹介させて頂きます。
今から十余年前、勇駒別(ユコマンベツ)で御一泊、大雪登山を試みられた時のこと、宮様は随員警護の人達に囲まれ、分刻みの日程で、トイレの我慢も大変の御様子、宿舎での食事も保健所、道、宮内庁等関係機関によって決められ、生物(なまもの)は一切不可、お刺身も、夕張メロンも、また宮様は未成年なのでお酒も、それにお給仕のメイドの入室も不用と言う私達の目からは如何にも堅苦しい雰囲気でありました。
翌朝七時出発、姿見の池を経て正午に旭岳頂上をきわめ、層雲峡に四時下山の御予定。
地元の中川町長は、人間浩宮様をどのようにおもてなしするかと考えた末、ひそかに町職員を先行させ、旭岳の頂上で松尾ジンギスカンの準備をしました。宮様は丁度正午に頂上にお立ちになりました。
町長は違法のことは百も承知の上でおそるおそる侍従を通じ、ジンギスカンを御賞味頂けるようお願い申上げました。侍従は厚意を謝しながらも予定外だからと固く辞退されました。町長は勇を鼓して重ねてお願いしましたが、侍従の答は当然のようにノー、ジンギスカンの焼ける匂いがあたり一面に漂う中、宮様が口を開かれ侍従に向って「折角の好意だから一口だけ頂くことにしよう」結局宮様もジンギスカンの美味しさに御満腹の御様子、一行全員もひそかに宮様に感謝しながら御相伴に預かったのは勿論でした。
宮様が御帰京になられた数日後、侍従から町長に電話がかかって来ました。宮様が北海道旅行の模様を御両親殿下に御報告された際に、御両親から「今度の旅行で一番楽しく印象に残ったことは……」とのお問いに対し、言下に「旭岳の頂上で食べたジンギスカンの味が、忘れられない最高の思い出になる」と答えられました。ジンギスカンの件については、一抹の後ろめたさがあった侍従も、安堵と喜びのあまり早速町長に電話で知らせて下さったのでした。
本論に戻します。今日ではジンギスカンは、私達の思考に馴染み値段の安さもあって、家庭ばかりでなく各種会合、花見、ピクニックなどの行事には欠かせない程になって、身近に密着してしまいました。
しかし振り返ってみますと、戦後復興期から高度経済成長期に時代が変化するにつれ、緬羊事情が一変してしまいました。つまり、増大する羊肉の需要に対して、緬羊の増殖で対処する方向から、低コストの豪州産の輸入に転換してしまったのです。おそらく今では飼育最盛期の供給に数倍する輸入がなされているのではないでしょうか。現在の緬羊の飼育は、町内で僅か八戸、八十四頭にまで落込んで最盛期の面影もありません。
ただ最近になって、道内各地で一村一品運動の一環として、緬羊復活の兆しが見え始めました。緬羊単独では経済性で問題があるので観光と結びつける考え方が良いと思います。
色濃い緑の大地の広がる中で、羊の群れが無心に草を食む牧歌的風景は、府県や都市の人達には、北海道の顔を強く印象づけるので、中味は輸入ものでも北海道のジンギスカンは美味しいと好評です。これからは我が町でも緬羊牧場の看板にふさわしい充実したものにして、イメージを売り込む努力が必要でありましょう。
註 ジンギスカンは中国十二世紀後半に、現在のモンゴル人民共和国北東部ダダルの地に生まれ、かつては世界最大の版図を誇ったモンゴル帝国辺境の遊牧騎馬民族の諸族を精力的に統合統一しその礎を築きあげ、さらに西方へと進撃をくり返し遠征先の六盤山(現在の中国狭西省)で斃れた。
元朝秘史には東洋の英雄としてその生涯が記されている。本春から北海タイムスに連載中のモンゴルの風の報道より抜粋したが、更にこの遺跡の調査は継続して行われる模様である。

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一