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続・戦犯容疑者の囹圉記(その10)

故 岡崎 武男 大正七年七月五日生(昭和四十三年没)


囹圉記(14)

自 昭和二十一年七月十八日
至 昭和二十一年七月二十八日


七月十八日
歩哨交替す、今度のも余り程度のよくない様な顔つきをしている。

七月二十日
菊部隊の工兵隊約百六十名入獄す。話によれば彼等は毎日の無類の労務作業から上官暴行を集団でやったため投獄されたとの事であった。

七月二十一日
夕方六時に点呼をとって直ぐ蚊帳を張り就寝する。
戸外はまだ夕日も落ちず真昼の様だ。
毎日この時間には復員後の事などあれこれと考える事にしているが、此の頃はそれももう尽きてしまった。日中の退屈も辛いことであるが、夜間に於ける退屈は何よりも辛い。

七月二十三日
復員船に依って内地の新聞が届けられた。始めて見る内地の実状は余りにも変っている。吾々も又今迄の様な気持で内地へ帰って生活しようと思うと大きな誤算を来たすのではあるまいか。思い切った心の切り替えも必要である。内地の食糧難を思えば獄中生活も又良い体験であろうか。

七月二十四日
呼び出しの英人がこのキャンプの出入に頻繁である。誰もが憂うつにならざるを得ない。今日も又新たな事件が出たようだ。

七月二十六日
入所以来二度目の内地通信用紙が渡された。今日のニュースではビルマの復員も八月上旬で一先ず打切るとの事、当分帰れる見込もなし。
便りは許されても思っている半分も書く事が出来ない。唯健在を通知するのみである。

七月二十七日
ゴルカ軍曹の指揮により消火演習を実施した。雨季のため毎日の雨降りの中で而も冷たい、煉瓦建に火事など凡そ想像もつかないのだが、彼等の規定に基づく実施であれば致仕方ない。

七月二十八日
「戦犯者遺書」
(此の遺書は独房に生存中、朝夕差入れる食事と一緒に戦友が隠して渡した一寸位の鉛筆で、煙草の包装紙等に手記したものを歩哨の目を忍んで持ち出したものである。以後入手の都度記録に残して来たものは何れも同様手段によるものである。一九六二、七、八筆者)
  「辞世」  
      緑川大尉(昭和二十一、七、一五 銃殺刑長野県南佐久郡桜井村)
   ○ 今日のため われを鍛えし ものなれば
        今の心に 満ちて消えなむ
   ○消え去りし 友のみたまを 伏し拝み
        同じ草葉の かげに入るかな
   ○吾が命 二十と八の 誕生に
        忠義の鬼と 化して行くなり

「師団長宛の最後の便り」
 師団長閣下
長い間御厚志身に余る程享受いたし乍ら、これと言う特別な働きも出来ず御迷惑をお掛けいたし何んとも申訳ありません。
又杉本副官からは閣下のことに関して特別依頼されましたが、こんな状況になってしまい、ついそれも出来ず了った事をお詫び致します。
市川部隊長以下小生等四名多分明日執行されると思いますが、静かに冥して行きます。草葉の蔭にて閣下の御壮健にて御帰国なされ再建日本にお働き下さる様御守護いたします。
書きしこと洵につたなきことなれど誠心何卒御含みとり下され度
                   昭和二十一、七、一四      緑川大尉
(以下続く)

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一