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活火山『十勝岳の噴火』

三原 康敬 昭和二十四年九月二十八日生(四十二歳)


十勝岳の麓で生まれ育った私が、十勝岳について興味を持ったのは、中学一年の初夏に起こった昭和三十七年の噴火であった。当時、中学校の前にあった我が家で、朝起きて窓越しに十勝岳を見ると、噴煙が空高く上昇し、東の方向へと流れており(ジェット気流といわれる偏西風の存在を身近に知ったのもこの時であった)噴煙の高さは、上空約一万二千mの成層圏に達していたとされている。
庭先の石に腰をかけて、火口から出る煙の塊が、風に流される一番上まで昇るのを時計で計ると、約三分四十秒位であったのをつい昨日のように覚えている。当日、中学校の当直であった美術の先生が天体望遠鏡を学校の前庭に出して覗いており、私はその先生に呼ばれて傍に行き、覗いて見ると火口の縁から白い煙の尾を引いて、ポーンポーンと石が飛んでいるのが見えたが、後で石と見えた噴出物は大きな岩であることを知った。朝夕眺めていた美しい山並みが、突如として眠りから覚め、火を吹いて黒い煙を上げるという、生きている地球の姿を見て感動を覚えたものであった。
十勝岳の誕生
十勝岳は、北海道の屋根を形成している、北海道中央高地の大雪〜十勝岳火山列の南西端に位置する十勝岳火山群の主峰で、標高二〇七七mの活火山である。文献によれば地質時代の新生代初めから中頃までの時代、約七千万年前から百万年前までの第三紀の末の頃、北海道で最大の規模といわれる火山活動から、十勝岳火山群の噴火の歴史が始まった。
約百万年前から二万年前までの新生代第四紀の前半、洪積世と呼ばれる時期の火山活動で、火山群の主体をなす古十勝岳火山群が形成される。新生代第四紀後半の時代、ほぼ二万年前から現在までの沖積世では、小規模な噴火活動が発生して現在に到っている。勝井先生他によりまとめられた十勝岳の噴火史(一九八五年編)に、今回の活動を加筆して資料として掲載した。
人類がこの地に生活を始めてから、最も古い噴火の記録としては、アイヌの古老の話として伝えられている安政の噴火と推定されるが、家族三人をこの時発生した泥流で失ったとある。明治時代になると開拓者が入植し、噴火も明確に記録されるようになり、人々の記憶に残る大きな被害をもたらした噴火の主なものは、大正十五年五月二十四日と昭和三十七年六月二十九日の噴火である。
大正十五年の噴火活動
十勝岳は一八八七年(明治二十年)の噴火後三十数年間はやや静穏であったが、一九二三年(大正十二年)頃から活動期に入り一九二八年まで続いた。
このうち最大の活動であったのが、一九二六年(大正十五年)五月二十四日の噴火である。十二時十一分(一回目)と約四時間後の十六時十八分(二回目)に爆発を起した。一回目の爆発では、小規模な泥流が現在の白金温泉まで流下した。二回目の爆発では、中央火口丘の西半分を崩壊して、岩層なだれとなって一気に流下。その後、急速に残雪を溶かした大泥流となって、火口から約二十五qの上富良野市街まで約二十五分(時速約六十qで到達。この泥流で、当時の上富良野の推計人口一万二十八人のうち、平山鉱業所二十五名、農場及び市街地で一一二名の死者及び行方不明者を出し、負傷者は二〇九名を数え、流失した家屋二三〇棟、破壊された家屋一〇〇棟の被害が生じた。(噴火直後の五月三十
日から十日間にわたって調査された、多田文男氏、津屋弘達氏のまとめた「十勝岳の爆発」より要約。被害の数字は、上富良野の被害状況を示す。)
昭和三十七年の噴火
十年前から活動が活発となり、一九六二年(昭和三十七年)六月二十九日午後十時四十分頃、第一回目の水蒸気爆発が起った。二回目の噴火は約三時間後の三十日二時四十五分に始まり、噴煙の高さ約一万二千mに達した。被害は、最初の噴火で硫黄鉱山の宿舎に落下した火山岩塊により、死者五名負傷者十一名であった。しかし、噴火活動の期間は短く、八月末には終息した。この噴火に際して発表された情報は、札幌管区気象台から三回、旭川地方気象台から十二回であった。
昭和六十三年から平成元年の噴火
私は昭和四十八年に消防職員として採用され、入校した消防学校で消防事務全般について学んだが、地域に特有の災害に目を向け、日頃から備えを怠るなと教わった。この上富良野では、十勝岳のもたらす災害が、地域的に特異な災害であると考え、十勝岳に関する文献と火山関係の本を収集し、十勝岳を眺めていた。
一九八五年(昭和六十年)頃から、62‐T火口から熱泥水を吹き上げたのが観測されたり、硫黄が自然発火した等を知り、十勝岳を眺めていて噴煙の量が多く色も変ったように思えて、活動を開始したのでは?という疑問が強くなり、関心をもっていた。
昭和六十三年(一九八八年)十二月十九日夜十時過ぎ、26年ぶりの噴火が始まった。凌雲閣社長の合田さんが火口の様子を見に崖尾根まで登っているので、アマチュア無線で交信してくれるよう消防から自宅へ電話があり、指定された周波数で交信すると、「黒い噴煙が千m位上っている」とのことであった。
暫くして職員に集合の指示があり、リュックに防寒具と下着を詰め込んで家を出る際、この時を予測していたので、何かあったとき(噴火した知らせのあったとき)は戸締りをして中学校に逃げるよう家族に伝え、「生徒玄関前で役場の人を待ち、役場の人が来ないうちに水が流れてきたら、戸を壊してでも中に入りなさい。人の命が助かれば戸一枚の弁償代は安いものだ」と金槌を渡して職場に向かった。
途中、タクシーの運転手をしている消防団員の金松さんから声をかけられ、今日乗務している人の中に噴火の火柱を見た人がいると教えてくれた。自分自身が爆発音も開かず噴火の火柱も見ず、活動が始まったのを実感としてとらえることは出来なかった。二十日の朝、夜が明けるにしたがって十勝岳が姿を現わすと、いつも雪に覆われた白い十勝岳が、火山灰で無残な黒い姿に変っており、予期していたが実際に目で見て「活動が始まったか、ついに来るべきものが来たか」と、噴火を経験する興奮と災害の起きる不安の入り混じった複雑な気持を強く感じた。
住民避難(昭和六十三年十二月二十四日)
二十四日は勤務割で白銀荘の監視勤務になっていたが、日中は山に登りワイヤー式泥流監視装置の設置作業を行うよう命令を受けた。町役場職員・消防職員・自衛官・電気工事業者等作業隊の一員として、望岳台から登山を開始し、大沢と呼ばれるフラノ川に流れ込む沢の上部に着いたのが午前十時頃であった。
凄い吹雪であったがたくさんの人間がいるので、迷うこともなく力を合せて作業できると思った。しかし、打合せでは班を編成し責任者を決め、系統立った作業を行うことになっていたのだが、風雪が強かったので一部が分散してしまった。異った組織の集りであるため現場での作業は難渋した。あとで判ったこと(十二時間後の噴火=後記)であるが、作業を行った場所は危険と隣り合せの場所であった。
吹雪の中で作業の方法がよく判らず、事前に決められていた班編成での責任者不在のまま、昼食も摂らず兎角班に割当てられた作業を終らすのが先決と、代行のような形で雪の中を右往左往した。少し下山すると吹雪は穏やかで、高度差によって随分違うものだと感じた。作業を終え午後三時すぎ白銀荘に着き、監視勤務を交代し遅い昼食にありついた。
午後五時過ぎ、観測に当たっている役場職員の交代勤務者が到着し、夕食の弁当を出してくれたが昼食が遅かったので食欲がなく、食べなかった。
初めて監視勤務に就くので、白銀荘に設置されている各機関の監視用機材を見せてもらった。中でも興味をもったのは、北海道立地下資源調査所が設置している地震計で、観測に当たっている大島さんから説明を聞き、その仕組みと働きについてある程度知ることが出来た。午後八時三十分頃、地震計に地震のようなものが記録され始め、噴火口の方を見ると、その地震に合わせて黒い煙の塊がポコッ・ポコッと上がっていた。午後十時過ぎ、空腹を覚えカップ麺にお湯を入れた時、噴火があったと各機関の無線交信が一斉に始まった。しかし、白銀荘では音も地震も感じなかったが、大島さんの説明では噴火地震が記録されていた。
腹が減っては戦が出来ないと、まずは腹ごしらえとカップ麺を食べ終った時だった。富良野警察署の瀬戸宏明さんから、泥流が流れていると警察無線で交信されていると全員に伝えられ、一瞬緊張感が漂った。十勝岳に関する書物を読んだ予備知識から、白銀荘の観測による町への通報が、人命を救うことにつながると思い立ち、晴れていれば山は見えるし、曇っていても水の流れる音で泥流が発生したか判断できるという考えが頭に浮んだ。
役場の勤務者は二人居るので、どちらか一人私と一緒に爆発記念碑(郷土をさぐる第八号一〇三頁参照)の位置へ行き、二人の目で泥流が流れているか確認すべく、白銀荘に備え付けの無線機を借用し、役場から監視用に持ってきている無線機はそのままにして、一人が残って交信にあたるようにしようと、防寒具を手早く着ながら話し合った。
役場の米田さんと二人で白銀荘を出発した時、本部から白銀荘勤務員は爆発記念碑の位置へ行き、泥流の状況を報告せよと指示があった。白銀荘を出て記念碑に向っていると携帯無線機で応答した。途中の林の中で、白金温泉地区の住民に避難を呼びかける美瑛町の広報が聞こえてきた。これは凄いことになったと思いつつ二人で先を急いだ。幸運なことに、白銀荘から記念碑までは泥流センサーの取り付け作業で雪上車と人が行き交ったため、圧雪状態で歩き易く、走って五分位で到着した。泥流が上富良野方向へ流れると予想される大沢を見ると、泥流の流れた形跡はなく、一緒に着いた米田さんと二人で確認し、それぞれ無線機で本部へ報告した。しかし、私達の情報は本部に理解されず、大沢にもう少し近づくべく、富良野川を間に挟み、九條武子の歌碑(郷土をさぐる第二号九〇頁参照)の対岸、ナマコ尾根の登山標識の場所に行き、何も形跡がないのを確認した。
記念碑に引き返し、テレビ放送の聞けるトランジスターラジオを聞いていると、泥流は避難小屋からスキーリフトの位置まで流れ下っていると放送されており、記念碑から見る状況と違っているので不思議に思った。暫くして、本部から雪上車を向けるのでそのまま監視を行うようにとの指示があり、記念碑のところで監視を行うことになった。時間が経つに従い気温は下がって寒さが増し、山と火口は雲に覆われて視界が悪くなってきた。雪上車で消防職員の山本さんと落合君が着いた午前零時三十分頃、雲が北西の風に流され噴火口から前十勝岳にかけて見えるようになり、落合君に大沢と噴火口・避難小屋などの位置を説明している時であった。
火砕流(十二月二十五日の噴火)
「ドーン」という音がして、拳骨のような黒い煙の塊が噴火口の上にあがった。その塊を押し上げるように、火柱がゴオーという音とともに約二〇〇m位上り、その火柱の中程で火山雷(火山噴火の噴出物が空中でぶつかり、放電する現象)が発生した。
真っ赤な火柱はすぐ黒い噴煙に変った。約二〜三秒後、二本目の火柱が同じように二〇〇m位上がり、黒い噴煙に変った。その約二〜三秒後、三本日の火柱が前十勝岳の斜面に添って、大正火口の壁が見えなくなるくらいの厚みで、真横に約三〇〇m位の長さで発生した。その火柱もすぐ黒い噴煙の塊に変化し、一団となった噴煙は北に向って流れ、美瑛岳の方向に消えた。
真横に発生した火柱に付き従うように、火柱の真下の白い雪面を黒く染めて、二筋の黒い帯のようなもの(噴煙に含まれた灰が降り注いだものと思う)が斜面を下った。約十秒程経って、前十勝岳の斜面の陰から水蒸気を上げて大沢の方向へ、噴火の熱で解けた流動性を帯びた雪解け水が火山灰と共に流れ下ってきた。(スケッチ参照)その流れは大沢に少し入ったところで止まった。流れの先端はなんと昨日作業を開始した地点を超えて大沢に入っており、作業の最中にこの現象が起きていたらと、背筋の凍る思いをした。
流れ下った物質からは以前として水蒸気が上り、水蒸気は前十勝岳の斜面へ風に吹き付けられて、その水蒸気に含まれた火山灰が薄い黒い筋を付けた。
噴火口から上る噴煙は、上空約千mに達しており、南東方向に流れていた。
噴火について本部から問い合せてきた。気にかかることがあったので、通信室のテープレコーダーで録音するよう依頼し、噴火の報告を行った第一報の内容を再度報告した。本部から三十分毎に定時連絡を行うよう指示があり、記念碑の所で毛布にくるまって四人で観測していたが、自分の見た噴火の現象が気にかかり、白銀荘にいる地下資源調査所の大島さんにそのことを伝えたく、また寒さで体が冷え、腹の具合が悪くなったこともあって、三時間位経ってから、山本さんに後を頼み白銀荘に向った。白銀荘に着き、大島さんに「すごく興奮したのですが三本日の火柱は真横に発生しました。これは火山関係の本で呼んだことのある、熱雲(ねつうん・火砕流に同じ)と言われる現象ではないでしょうか」と自分の見た全ての状況を伝えた。もしこれが事実とすれば約二千年ぶりという現象であり、十勝岳の噴火史上初めて人間が目撃したことになり、その現場に居合せた者として表現のできない感動を覚えた。
大島さんは『火砕流とは噴火の際に大量の火砕物が放出され、高温状態のままガス等と一団となって流下する現象の事であり、これは火砕流と思う』と説明してくれた。大島さんは噴火の発生を北海道防災消防課へ電話連絡していたため、自分の目で観測できなかったのが残念であったと言われた。
昭和最後の日(一月七日)
この朝、昭和天皇が崩御され、消防出初め式は取り止めとなり、上富良野神社において天皇陛下のご冥福と十勝岳の鎮静化を祈願することとなった。
あることが奇妙に合致することに気付き、消防団長の丸田さんと、「天皇陛下の崩御と十勝岳の噴火は、妙に一致するところがありますね、歴史は繰り返すといいますが、不思議ですね!」と話した。
大正十五年の噴火の時は五月二十四日の大きな被害をもたらした後の、十二月二十五日に大正天皇が崩御され、年号が大正から昭和に改元された。そして火山活動は鎮静化に向った。
今回の噴火では、十二月二十四日は避難命令が出され人々の生活に影響があり、大正十五年五月二十四日と昭和六十三年十二月二十四日と偶然にも「二十四日」という日が重なっており、昭和天皇が崩御され、年号が昭和から平成に改元された。大正の噴火と同じように、徐々に鎮静化し、翌年の平成元年三月五日の噴火を最後に噴火活動は休止した。
最大噴火のあった日(体験余話)
一連の火山活動の頂点である『一月二十日の最大噴火があった日』、監視勤務のため白銀荘で夜中一時頃まで、地下資源の高見さんの報告書作りを、談話室の地震記録計のそばで振幅を見ながら見学していた。高見さんが観測のため白銀荘の外へ出て戻り、キツネがいると教えてくれた。昨年の爆発以後は全く姿を見せず、危険を察知して逃げたと思っていたので、獣は敏感ですねと言われた。高見さんは、昨夜観測(マグマの動きを示す、火山性微動が連続したので)で一睡もしませんでしたと話され、キツネが出るくらいなら安心です、何かあったら直ぐに起こして下さいと言って、仮眠のため二階に行った。
午前三時頃、仮眠を取ろうとしたところ、警察の方が交代のため二階から下りてきた。寝る前に外の様子を見に行くと、キツネがいて追い払っても白銀荘と一定の距離を保って逃げようともしなかった。
中に戻って、警察の方にキツネがいることを知らせた。その時、炊事場で物音がしたので振り返ると何もない。二〜三度続いたので、周囲の人に尋ねると、何も聞かない神経質だねと言われた。再度物音を聞いたので、洗い場の裏へ行くとダンボール箱の中で音がした。ガス台の上に上がって、懐中電灯で中を照らすと、ネズミが一匹箱から出ようとしてジャンプを繰り返していた。光で距離感がつかめたのか、箱の縁に飛びつくとすぐに跳び降りて、冷蔵庫の陰に走り込んだ。(白銀荘に来て初めてネズミが騒いだ、何かの変化を予知したのだろうか?)その後、暫くしてから、地震記録計の針がカタカタと音を立てたので、急いで見に行くと大きく振れ始めた。他の人に「来た来た(地震が)外を見て」と声をかけたが、その言葉が終るか終らないうちに、白銀荘の建物が揺れて、ドカーンという物凄い音がした。
その時、外を見ていた人から、噴火した!(火柱を見て)という声が出た。無線機で本部へ一報を行い、窓の側へ行き状況を確め「火柱が三本程度立ち上り炎が広がっている」と無線でその状況を連絡した。
無線機を持ち観測を兼ねて外へ写真を撮りに行くと、火口の方からゴォーと言う音を立て噴火は継続していた。
炎と煙が火口全体(前十勝付近)に広がった形に見えた。外に約二分位居たが、ドーンという音から、約三分間ほどでゴオーという音は消え、噴火も収まった。その間外に出たのは私だけであった。
本部から無線で指示があり、応答したが通じない。急いで戻り、中の無線機で交信すると、「記念碑へ行き状況報告を行え」との指示を受け、身支度を整えて向った。記念碑に着くと、前十勝岳の中腹から上はガス(雲?)がかかり、火口を見ることが出来なかった。
噴火は収まっていたが、大正火口内には噴出物の発光が、ガスを通してかなり明るく見えた。
時々ガスが消えると、火口からは黒煙が昇り、火口近くの噴煙は明るく輝き火映現象が見られた。
空震体験
一月二十七日午前一時四十四分の噴火時、非番のため自宅で就寝中地響きのような物音を聞いた。それに伴い、窓ガラスも揺れた。朝、出勤してから同僚(消防職員)の勤務以外の十八名(自宅待機者)に確かめたところ、爆発によって生じたと思われる衝撃(空震)を感じたのは二名であった。
このことに関しては、日本火山学会の会報を購読したく、道立地下資源調査所の山岸さん、大島さんの推薦をいただき、会員となってから開催された日本火山学会一九八九年春季大会(平成元年四月六日・東京大学駒場教養部=十勝岳に関した研究成果が発表されると思い出席した)において、今回の観測上最大の空震を記録したと研究発表される。
噴火関係の記録
今回の活動のうち、私が直接体験した主な噴火の状況について述べましたが、参考までに噴火関係の昭和六十三年度の火山噴火連絡会開催状況及び火山情報発表回数の記録を以下に記します。
<昭和六十三年度火山噴火予知連絡会開催状況>
火山噴火予知連絡会 昭和六十三年五月二十七日、平成元年二月十日
伊豆大島部会 昭和六十三年五月二十七日、十月二十八日、平成元年二月十日
幹事会 昭和六十三年十月二十八日、平成元年二月十日
緊急幹事会 昭和六十三年十二月二十日、二十五日、二十八日
現地打合せ及び現地調査 昭和六十三年十二月二十六日〜二十九日
この表のうち、十勝岳に関する開催は、平成元年二月十日の火山噴火予知連絡会と、緊急幹事会、現地打合せ及び現地調査である。
<昭和六十三年度火山情報発表回数>
火山名 火山活動情報 臨時火山情報
雌阿寒岳
十勝岳 53
草津白根山
伊豆大島
阿蘇山
霧島山
桜島
気象庁では、火山現象に関する観測成果等に基づき、三種類の火山情報を発表している。
火山活動情報 火山噴火により、人体に被害が生じ、または生じるおそれがある場合に発表される。
臨時火山情報 全国の活火山について、火山現象に異常を認める等、必要と認めた場合発表される。また、火山噴火予知連絡会が統一見解等を発表した時、臨時火山情報として発表される。
定期火山情報 気象庁が常時観測を行っている火山について、定期的に発表される。
<十勝岳噴火記録1988年〜89年>
日   時 規      模
1 1988.12.16 05時24分 有感地震、小規模噴火(26年ぶり)、十勝地方(火口から南東80q)に降灰。
2 1988.12.18 08時38分 有感地震、小規模噴火、南東60qに降灰。
3 1988.12.19 21時47分 有感地震、火柱、火砕サージ、北東150q以上に降灰(降灰最大)。
4 1988.12.24 22時12分 有感地震、火柱、火砕サージ、小規模泥流、住民避難。
5 1988.12.25 00時49分 有感地震、中噴火、火柱3本、火砕流発生(約二千年ぶり)、黒噴煙1,000m。
6 1988.12.30 05時27分 有感地震、小規模噴火、火口から南東40qに降灰。
7 1989.01.01 02時12分 地震、火柱、噴火地震小さい。
8 1989.01.08 19時38分 地震、火柱、噴火後火映続く、火口から南東40qに降灰。
9 1989.01.16 18時55分 有感地震、爆発音、空震、火砕流1.3q、泥渡センサー作動、南東40qに降灰。
10 1989.01.20 03時21分 地震、火柱、爆発音、空震記録、火映、南東20qに降灰。
11 1989.01.22 00時14分 地震、空震記録
12 1989.01.27 01時44分 地震、空震記録、町(の一部)で音と揺れを感じる。
13 1989.01.28 05時18分 地震、爆発音、空電、火映、南東80qに降灰、小規模噴火。
14 1989.01.28 06時11分 地震、爆発音、空震、南東80qに降灰。小規模噴火。
15 1989.01.28 07時00分 有感地震、爆発音、空震、南東80qに降灰。小規模噴火。
16 1989.02.01 18時18分 地震、北東〜南東80qに降灰。小規模噴火。
17 1989.02.04 00時38分 有感地震、爆発音、南東110qに降灰。
18 1989.02.06 09時37分 地震、火口から南東40qに降灰。小規模噴火。
19 1989.02.07 23時54分 地震、空震。小規模噴火。
20 1989.02.08 04時02分 地震、爆発音、火柱200m、火砕流0.8q、南東120qに降灰。
21 1989.03.05 05時22分 小規模噴火、十勝地方に降灰。
※ 気象庁から発表された記録に一部加筆
資料
十勝岳の噴火の年表                 ★印は顕著な噴火
年   号 記                    事
★(紀元前240年頃) グラウンド火口噴火、スコリア流が白金温泉付近まで流下(学習院大学木越邦彦氏による放射性炭素による年代測定)。
★(西暦1670年頃) 中央火口丘噴火、溶岩が望岳台まで流下(学習院大学木越邦彦氏による放射性炭素による年代測定)。
★1857年(安政4年) 4月27日(旧暦)「焼山」周辺硫気活動(松田市太郎=石狩川水源調査に携わった人)。
5月23日(旧暦)山半腹にして火脈燃立て黒烟刺上がるを見る(松浦武四郎=北海道探検家)。
★1887年(明治20年) 常に黒烟を噴出、近傍に降灰(北海道庁第2部地理課大日方伝三技師、北海道鉱床調査報文)。
★1888年(明治21年)〜1897年(明治30年) 湯沼火口出現(児玉)
1917年(大正6年) 平山硫黄鉱業所、硫黄採掘事業に着手(大正15年噴火による中止まで)
1923年(大正12年) 6月溶融硫黄の沼出現、この頃丸谷温泉湯温上昇、湧出量増加。8月溶融硫黄7〜8m吹き上がる。
1925年(大正14年) 12月23日中央火口丘の中央の火口内に大境(おおぶき)火口出現。
★1926年(大正15年) 2月砂礫飛ばす。4月降灰・火柱。5月13〜14日山麓で地震を感じる。
5月24日大爆発・大泥流発生。死者及び行方不明144名。
9月8日爆発、行方不明2名。その後小爆発続く。
1927年(昭和2年) 小爆発続く。
1928年(昭和3年) 12月4日鳴動と共に噴火。その後治まる。
1947年(昭和22年) 旧噴火口の硫気孔増加。
1952年(昭和27年) 8月、昭和火口(新々噴火口)内に主噴気孔(直径50p)出現。
1953年(昭和28年) 磯部硫黄鉱業所、大正火口(新噴火口)にて硫黄採取事業に着手(1962年噴火で事業中止)
昭和火口=5月、上方に噴気孔出現。10月、主噴気孔の直径4mとなる。
大正火口=5月、火口壁東側と南側崖崩れ発生、6月丸山側に亀裂。
旧噴火口=6月、噴気孔最高温度318℃記録。
1954年(昭和29年) 昭和火口=6月、主噴気孔直径8.2m×6.8m、9月小爆発、主噴気孔直径8.7m×8m
大正火口=6月、亀裂顕著、6月〜9月一部崩落。
1955年(昭和30年) 昭和火口=6月、主噴気孔直径7.0m×8.2m。
1956年(昭和31年) 昭和火口=2月、主噴気孔6m×4m、6月小爆発、主噴気孔直径5.1m×4.7m。10月、主項気孔直径5.1m×5.6m。
大正火口=6月、亀裂顕著、10月一部火口壁崩落、12月東壁落石。
1957年(昭和32年) 昭和火口=2月、主噴気孔直径4.9m×4.6m、上方噴気孔の下方3mに新噴気孔出現。
大正火口=1月、南壁崩落、3月温湯噴出、土砂流出。旧噴火口=地形変化顕著。
1958年(昭和33年) 昭和火口=6月、主噴気孔直径3m×6m、9月、6m×6m。10月58‐1噴気孔出現、直径3.2m×3.7m。
大正火口=6月丸山付近火口壁崩落。
1959年(昭和34年) 昭和火口=3月、主噴気孔直径7m×7.5m、上方噴気孔停止、8月58‐1噴気孔小爆発、直径5.8m×7.3m、上方噴気孔再開、11月58‐1噴気孔小爆発、直径12m×15m、泥流100m。旧噴火口=硫黄の析出増加。
1960年(昭和35年) 昭和火口=3月、58‐1噴気孔直径15m×16m、10月主噴気孔直径4m×5m。
1961年(昭和36年) 昭和火口=8月、58‐1噴気孔直径16m×16m、主噴気孔直径7m×7m。
大正火口=6月〜7月、東壁一部の噴気孔自然発火。旧噴火口=8月弱い水蒸気爆発があり、ヌッカクシ富良野川の河水が灰色に濁った(凌雲閣創始者合田久左ヱ門氏による)。
★1962年(昭和37年) 昭和火口=3月、58‐1噴気孔直径16m×16m、主噴気孔直径9m×7m。6月、主噴気孔直径10m×7m。
大正火口=3月噴気活発化、6月東壁の温度上昇、硫気孔出現、落石、噴煙増加、亀裂出現。
5月から有感地震始まる、6月次第に多くなる。6月29日中央火口丘南側湯沼付近で噴火
噴煙12q上昇、東方に降灰、グラウンド火口南壁に沿い62年第0、3火口出現、第2火口に砕屑丘形成、死者及び行方不明5名。
1964年(昭和39年) 白金温泉に気象庁火山観測所設立される。
1968年(昭和43年) 1968年10月十勝沖地震直後火山性地震増加。火山性地震異常発生。
1968年(昭和43年) 火山性地震異常発生する。
1969年(昭和44年) 62‐第2火口、噴気活動活発。
1970年(昭和45年) 昭和火口=噴気活動衰微。
1974年(昭和49年) 62‐T火口が噴気活動を再開。
1983年(昭和58年) 地震回数やや増加、年末から62‐T火口の噴気活動が活発化。
1985年(昭和60年) 5月、62‐T火口が熱泥水を噴出。6月19日、20日62‐T火口小噴火、
高さ80、100mの黒灰色の噴煙上昇、20日夜及び21日夜半硫黄自然発火し燃焼。
★1988年(昭和63年) 12月、小規模噴火、十勝地方に降灰、26年ぶりの噴火活動
12月25日、火砕流を伴った噴火。約二千年ぶりに発生した。
以後、平成元年3月5日の噴火を最後に休止した一連の噴火回数21回
引用文献 勝井義雄先生ほか(1985):北海道における火山に関する研究報告書
       第11編「十勝岳」―火山地質・噴火史・活動の現況―北海道防災会議

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一