郷土をさぐる会トップページ     第10号目次

憶い出の風景写真「今・昔」

高橋 七郎 大正九年三月十五日生(七十一歳)

半世紀の移り変りに
「歳月巡りて、早やここに‥…」
昔の卒業式に唄った校歌の一節であますが、今年は平成三年(一九九一年)も暮れかけて居る。
開拓当時の上富良野村が、どの様な姿であったか想像するだけで、知る由もないところです。
この世に生を享けて七十一年間、三度、四度死線を乗り越えてこれまで命を保って来た私には、それなりに様々なドラマがあって、現在縮んだ頭脳の片隅に憶い出が甦って、あれは現実であったのか、夢であったのか幻か?色々と混り合って走馬灯の様に、クルクル巡り廻り、壊しさが一入、頭一杯になる今日であります。
物心が付き始め、三才の時に、伯母の背中で震えながら病院の火事で赤い焔に包まれて消火に励む、消防士の黒い影を観ていた、四つ角十字路での恐怖。
更に三年後に起きた大正十五年の十勝岳爆発。そして泥流災害時に、山のお寺の高台に避難して、目の前を泥流が牙をむいて家屋、田畑に襲いかかる様子の怖さ等、瞳のうらにこびりついて忘れられない恐怖の憶い出であります。
歳移り、月替って青年期。事変、戦争、敗戦そして復興と目まぐるしい移り替りの裡に在りながら、この上富良野も村から町になり、市街周辺の姿も変って見違える程立派に、又華やかに変った処もあって都会並みとは言えないまでも、七十年前〜五十年前の風景が偶々私の子供の頃流行った、東郷カメラに夢中になった時に撮った姿が一部残って居たので、それに加えて十勝岳災害写真集に載った部分等、昔の姿と今の姿を比べてみて、遠い昔を偲び繰りひろげられた様々な事柄を憶い起こすことも必要と想って、市街周辺ではありますが一部ここに掲げて頂いた次第です。
(注 東郷カメラは昭和初期に流行した小型カメラ。安価で持ち運びよく小型化の始まり)
▲明治32年開駅当時の駅舎。旭川方面(北方向)を望む。悲喜交交の思い出と、SLが煙を出し汽笛を鳴らして発着した当時が偲ばれる。
            上富良野駅
▼跨線橋があり国鉄からJRそしてジーゼルが走っているが、5年後には駅及び周辺は大きく変るでしょう。


▲大正15年爆発当時の市街、右が福屋薬局で向いは建設中の高橋商店、左遠方は上富良野駅。角の高橋家で子供の頃から独身時代まで25年間暮らした懐しい場所である。
              フクヤ薬局十字街
▼同じ場所を渋江医院屋上より撮る。高橋商店の所が現在は多田精肉店。


▲大正末期の市街本通りより北方を望む。
            大通りの商店街
▼錦町2丁目の大通りから中町・栄町を望む。


▲昭和27年の夏、3町内(現在の錦町)から上富良野小学校方面を望む。小学校1年生に入学する時、兄に付添われぬかるみを避けながら踏切を渡った記憶がある。
             25号踏切附近
▼今は学校も遠望できなく、ニュー富山・元及川化粧品店があり、写真にないが右側に郵便局がある。


▲昭和27年の開校50周年記念時の遠景。学校前にまだ池が残っている。
            上富良野小学校
▼池も埋められ、道路・校舎も整備された環境となり昔の面影は全くない。


▲昭和26年頃の上富良野神社。
             上富良野神社
▼鳥居も整備され、新社殿も昭和63年7月に完成。神社周辺も氏子・厄年会の奉仕により鎮守の杜にふさわしい雰囲気に。


▲昭和15年、上富良野神社境内の東側にある競馬場で、村祭りには草競馬が盛んに行われた。
         上富良野中学校グランド
▼中学校グランドが立派に出来、周辺は自衛隊官舎及び住宅街になる。
背景の山脈は同じ。


▲昭和15年6月15日の上富良野小学校運動会での団体競技の一コマ。
          上富良野小学校グランド
▼グランドは広々と整備され、校舎・体育館が整備された現在。


▲昭和11年12月、富良野川辺より通称丸一山を望む。高橋 安氏宅が一軒のみで、春夏秋冬を通じて子供の遊び場所であった。
             丸一山(通称)
▼昭和30年代は自衛隊員用の公園町住宅があったが、現在は一般住宅地となっている。


▲昭和11年12月の上富良野駅裏。遠くに故佐々木政男宅が一軒だけ見える状況である。
             上富良野駅裏
▼線路沿いは公園となっているが、そのむこうは本町4丁目で110戸の町内会となり、大住宅街に変貌す。


▲昭和38年深山峠中腹より市街方面を望む。昔は交通の難所であったが麓近くまで道路改修が行われている。(立松氏撮影)
              深山峠中腹
▼現在の深山園前より市街地を望む。道路は舗装・拡張され、深山峠からの鳥瞰は素晴らしい。


▲昭和26年8月、いしずえ通りの風景。役場・登記所・家畜診療所等があって官庁街であった。
              いしずえ通り
▼官庁としては郵便局・警察官派出所があるが、ガソリンスタンド、スーパーの進出と共に商店街を形成し大きく変貌した。


(十勝岳災害誌より)
当時6才、1年生になったばかりで、明憲寺裏の高台で家屋屋根の後方で災害時呆然と泥流を見つめた所で丸一山南面である。現在の西町公営住宅街となっている。


明憲寺坂下の涙橋たもとから大雄寺方面を望む。護岸整備、橋梁も改架されて川の流れも切りかえられている。


現在の泉地区変電所附近から南方向を望む。
左が大雄寺、右が明憲寺、橋は駅前通り五丁目橋。


現在アラタ工業所前の富良野線附近より草分〜江幌方面を望む。


現在の草分防災センター前附近から旭川方面深山峠を望む。


昭和11年12月現在の観音像北側より駅、日の出山方向を望む。


機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一