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8章 地域の百年 第2節 地区の歴史

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12、東中

 

 開拓の始まり

 冒頭でも述べたように、上富良野の行政区は地区形成に非常に大きな位置を占めてきたが、例外ともいえるのが東中地区である。

 面積や人口の関係もあっただろうが、部制が始まった当初から、この地区は3行政区に分割され、その後も4分割、5分割という時期を経ている。しかしながら東中地区は強烈な郷土性や郷土意識を放ち、1つの結束を保ってきたことは興味深い。

 東中地区における移住の状況を『東中郷土誌』にみると、有塚利平、神田和蔵、田中米八、長尾久蔵、田畑浅吉、六條牛太、松原勝蔵、丹羽の八名が明治31年の入植であり、最も早いということになる。一方この状況を『上富良野町史』をもとに、農場や牧場の開設の順でいうと、まず農場では人見農場、田中農場が明治30年、神田農場、倍本農場が31年、中島農場が32年、森農場が35年、五十嵐農場が40年、橋野農場が41年、佐藤農場が43年に開設されている。牧場では本間第一が明治35年、西谷牧場が大正2年などである。

 このなかで倍本農場などは畑作ということになるが、「明治三十三年一農民、山口五平なるものベベルイ川より無願にて五反内外の造田となして試作したるを嚆矢とした」(『東中郷土誌』)とあるように、草分と並びこの地区は稲作発祥の地であり、後の東中土功組合設立にもつながる潅漑開削も明治期から始まり、やがては稲作地帯ともなっていったのである。

 

 学校と宗教

 東中での子弟教育も寺子屋から始まり、明治32年、雑貨店を開業していた神田和蔵が自らの小屋で指導を行った。33年になると道庁の認可を得て9月には東中富良野簡易教育所が、東9線北17号の公共用地に校舎を建築し授業を開始した。さらに尋常小学校への組織変更が行われ、38年4月には東7線北18号に校舎を新築、移転した。その後大正4年には高等科を併置、尋常高等小学校となるが、12年3月に校舎を火災で焼失、東8線北18号(現在地)に再建されたのは翌年9月であった。東中国民学校、東中小学校と名称の変更が他校同様だが、戦後になってからの主な動きとしては、何度かの増改築が行われた後、昭和56年には開校80周年に併せ校舎の全面改築されている。さらに平成4年には屋内体育館が落成、現在に至っている。

 また、戦後の新制度に伴って中学教育が始まったが、東中地区には上富良野中学校東中分校が東中小学校に間借りして開校した。財政難もあって校舎の新築は難航したが、25年1月、東8線北18号に落成、また9月には東中中学校として独立し、現在に至っている。

 地区神社としては『石碑類宗教施設調書』には、東中、秋葉明神、金比羅の3社が掲載されている。東中神社は明治32年の創祀だが、大正期に倍本の八幡神社を合祀して遷宮したといわれ、昭和28年には本殿を新築、38年に熊野神社を合祀した。

 秋葉神社は明治38年の創祀、金比羅神社は明治43年の創祀とされる。

 

 現在の東中佐民会

 平成8年4月現在で東中住民会(会長・瀬川信市)を構成しているのは、東中五の17戸などを含む228戸と、次の20組合である。

 

 東中一東農事組合(組合長・三島永士、5戸)

 東中一西農事組合(組合長・神田武、4戸)

 東中興農農事組合(組合長・瀬戸勇三、11戸)

 東中曙農事組合(組合長・出倉哲夫、8戸)

 東中東栄農事組合(組合長・上田修一、6戸)

 東中三農事組合(組合長・岩田浩志、15戸)

 東中四東農事組合(組合長・太田信夫、8戸)

 東中四西農事組合(組合長・金田武、17戸)

 東中協和農事組合(組合長・石村秋穂、7戸)

 東中五東農事組合(組合長・鈴木靖士、8戸)

 東中五西農事組合(組合長・多田繁夫、10戸)

 東中六農事組合(組合長・山畑弘一、16戸)

 東中七東農事組合(組合長・北川正、14戸)

 東中七西農事組合(組合長・遠藤博光、6戸)

 東中八農事組合(組合長・尾崎英幹、13戸)

 東中九農事組合(組合長・金田浩、17戸)

 東中一〇農事組合(組合長・宮ヶ丁武、13戸)

 東中一一東農事組合(組合長・田中和正、6戸)

 東中一一西農事組合(組合長・藤森優悦、16戸)

 東中一二農事組合(組合長・神谷広、10戸)