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8章 地域の百年 第2節 地区の歴史

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2、日新

 

 開拓の始まり

 清富の項でも触れたように、現在の日新地区の区画が定まったのは、昭和16年に第一区が東西に分割され一区西が発足したときである。だが、第一区そのものの枠組みが定められたということでは、大正2年に「部長設置規則」が改正され、第十八部が設置された時点までさかのぼることができる。このとき既に明治34年の新井牧場、43年の第一作佐部牧場の2牧場が部内に開設されていた。

 新井牧場は埼玉県出身の新井鬼司が貸し下げを受けたもので、造材が最大の目的であったが、検査のための牧場施設作りも行われ、『上富良野町史』には「農場事務所附近に牛舎の沢という沢の名がのこっているが、牧場経営の一切はここに完備しており約200町歩に牧柵が廻してあった。しかし面積が多いので附与のときには他の牧場から牛馬を集めたが、ことに大多数で、行列が長々と続き、開拓地に時ならぬ馬市が出来た様だった」と記されている。一方、第一作佐部牧場は清富の項で述べた第二作佐部牧場との接続地だが、「第二の方は附与をうけないまま松井牧場となっているのに、第一は附与検査に合格している」(『上富良野町史』)ため、第一と第二の区別があったのだという。大正2年頃には当麻村の細野北六が譲り受け細野農場となっている。

 入植者については、明治末期の報告である『村勢調査基楚』(役場蔵)が新井牧場について「小作人50戸」、また作佐部牧場については「小作人30戸」と記すが、現在、その足跡をたどることのできるのは、明治42年に佐川岩吉をリーダーに新井牧場へ集団で小作入植した「佐川団体」と呼ばれる人たちだけである。

 その入植者の子孫である佐川亀蔵の「自分史」(『郷土さぐる』15号)によれば「入植戸数は40戸」で「開き分け式により、自作農を目指し入植した」とある。

 

 学校と宗教

 日新地区の学校としては、明治44年11月新井牧場内に上富良野第四教育所が開設されている。次第に入植者が増加しつつあるなかで、牧場と附近の子弟教育のため、牧場主の新井鬼司が校舎を寄贈したものといわれ、大正5年の「特別教育規程」改正に伴って翌6年4月には日新尋常小学校と改称された。

 しかし、大正15年5月24日の十勝岳噴火によって同校は大きな不幸に見舞われている。日新地区も泥流の直撃を受けたのである。そのため校舎は全壊、当日不在だった教員の菊池政美は難を逃れたが、同教諭の家族4名が死亡、在籍児童も46名中11名が死亡という被害を受けた。ただし復旧は早く、旧校舎位置から約4`離れたところに応急の校舎を建設、6月14日には授業を再開した。また、新校舎は昭和2年5月10日に新築に着手、11月31日には落成し、翌年3学期から新校舎で授業を再開している(『日新小学校沿革誌』)。

 その後、昭和15年の国民学校への改称に続き、戦後の新教育制度のもとで日新小学校へと校名を改めた同校だが、昭和40年代半ばから児童数が急激に減少した。離農と日新ダム建設による地区の過疎化が原因だったが、やがて学校統合問題が浮上するのである。既に述べたように学校には地域統合のシンボルという側面があり、児童の通学問題などもあった。地区住民と教育委員会との話し合いは難航したが、スクールバスの運行や住民集会施設「日新寿の家」の建設などを条件に、昭和53年12月、ようやく話し合いはまとまるのである。その結果、翌年3月には多くの住民が参加して閉校式が開催され、4月1日付で日新小学校は上富良野西小学校に統合されたのである。

 また、戦後の新教育制度のもとで新制中学校が発足した。日新地区の生徒は10`近い道のりを市街地の上富良野中学校へと通学することになったのだが、この遠距離通学を解消するため地区住民は分校設置を要望した。やがて敷地の提供や建設への協力などを示した地区の熱意が実り、25年10月、日新小学校に併設するかたちで校舎が落成し上富良野中学校日新分校が開校するのである。さらに、27年4月には日新中学校として独立している。

 ただ、30年代も半ばに入ると財政難などを背景に、学校規模の適正化という動きが浮上し、日新小学校より一足早い昭和41年4月、上富良野中学校へと統合されることになったのである。

 一方、地区の神社としては富良野川とピリカフラヌイ川分岐点に建つ日新神社がある。新井牧場の地神、細野農場(作佐部牧場)の山神を合祀したものといわれ、『旧村史原稿』では大正8年としている。さらに、大正12年には日新青年会が発起人になって神殿が建立(『上富良野町史』)された。

 

 日新ダム

 第6章第2節「戦後の農業と林業」の「土地改良」の項で既に述べられているが、上富良野の稲作地帯である富良野川流域、ヌッカクシフラヌイ川流域の水量と酸性水(鉱毒水)の問題を解決するために、稲作農民の悲願であった日新ダムの建設が決まったのは昭和40年である。当初は清富ダムと呼ばれていたが、設計調査の過程で名称が変更され、富良野川の支流ピリカフラヌイ川の上流にダムが建設されることになったため、日新地区住民に水没による立ち退きの必要が出てきたのである。

 『上富良野町史』によれば、水没関係者は以下の26名だった。

 

  尾形 喜一  喜多 久尚  及川 三治  及川富治

  渡辺 幸雄  渡辺 和雄  白井 東北  小泉伊作

  小泉  彰  小原ミサオ  小泉 宇一  木村すえの

  石川  勇  小泉 朝行  小泉 芳雄  白井 義雄

  尾形 喜蔵  喜多 久雄  及川  力  尾形 菊治

  小泉 綱雄  小泉 正義  小泉 朝雄  山岡 哲明

  松岡 信雄  北村 米昌

 

 そのため実施設計の調査が始まった38年には、海江田武信町長を委員長とする、日新ダム対策委員会とが設置され、上川支庁などとも連携して水没農家に対する対応が図られた。やがて、41年1月21日に町役場会議室で水没関係者が出席して、日新ダム補償協定調印式が行われた。この席で水没者を代表し、白井東北は「父祖の血と汗で開拓された土地を離れることはしのびがたいが、公共のため決意した」と述べたことが、『上富良野町史』には記されている。

 

 現在の日新住民会

 『昭和十三年版村勢要覧』では鰍の沢、清水の沢、日新の3組合、その後、日新1、日新2、日新3、日新4と拡大し、昭和42年の『上富良野町史』編纂時では日新6までの6組合が記載されている。昭和初期の民有未墾地開発、自作農創設、さらに戦後の農地解放によって新井牧場、細野農場がピリオドを打ち、自作農による耕作が進んだためであるが、昭和30年代から始まった離農と、日新ダム建設による水没農家の立ち退きによって、人口は大きく減少したのである。

 平成8年4月1日現在で、日新住民会(会長・白井弥太郎)を構成するのは日新農事組合(組合長・白井一宏)の12戸と、佐川亀蔵の1戸である。