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8章 地域の百年 第2節 地区の歴史

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1、清富

 

 開拓の始まり

 清富地区は美瑛町と境界を接し、上富良野のなかでは北東部に位置する。既に述べたように昭和16年4月の「上富良野村区設置規定」改正に伴い第一区(日新)が分割され、第一区東として行政区が設置されたときがその始まりである。清富という地区名の由来について、『上富良野町史』は次のように記している。

 

 日新と共に第一区という行政区画の中にあったが、昭和九年に今の清富を一つにして上清水農事実行組合をつくり、昭和十〔ママ〕年に学校が設立され上清水特別教授所と称した。これが小学校に昇格した時、村長の金子浩が清水沢と富良野の頭文字をとって清富と名をつけたのである。

 

 一方、『郷土をさぐる』15号(平9)所収の竹内正夫「清富の開拓」によれば、「昭和13年、特別教授所が小学校に認可され、遠藤(金吾)先生の草案であった『清富』が取り上げられ清富小学校と命名されたと聞いている」とある。ともに学校名を地区名の由とするわけである。ただ、昭和12年時点でのデータを収録する『昭和十三年版村勢要覧』には既に清富農事実行組合の名前が使われている。

 開拓の足跡としては、明治43年頃、作佐部牧場(第二作佐部牧場)が造材目的で開設されたことが『上富良野町史』に記されている。この牧場は付与検査に合格することができず大正5年頃には松井牧場へと代わり、また大正3年頃には当時の吉田貞次郎村長などが国有地の払い下げを受け吉田牧場を開設した。ほかに区内ということでは、新井牧場と細野農場の一部も含まれていた。

 清富の開拓が本格化したのは昭和期に入ってからで、昭和6年、民有未墾地開発による自作農創設事業で松井、吉田両牧場の開放が行われたためである。『上富良野町史』によれば、松井牧場で39戸、吉田牧場で2戸の開放が行われたことが明らかにされている。なお、第5章第8節「戦前期の生活」で既に述べられているが、この清富開拓の本格化のなかで開墾には朝鮮人労働者たちの労力が費やされたことも知られている。

 

 戦後開拓

 北海道では戦後、戦災者、復員者、引揚者などの受け入れるため緊急開拓事業が行われた。いわゆる戦後開拓である。上富良野でも静修地区と清富地区に戦後開拓による入植があり、昭和21年、清富では17戸が開墾に取り組んだ。ただ、第6章第2節「戦後の農業と林業」で既に述べられているが、このとき開放された土地は旧陸軍演習地であり、当初は美瑛と考えられていた。

 だがやがて境界が明らかになり、これらの開拓農家も上富良野開拓農協に参加することになったのである。

 このときの入植者の一人である金森市郎が『郷土をさぐる』15号に、清富戦後開拓についての文章を寄せている。それによると入植当初、配当になった土地は5町歩。地域の状態を勘案してやがて増地され、入植農家は1戸平均13町歩から15町歩を所有していたという。入植後から10年後の昭和32年、一人の落伍者もなく成功検査を終え、本格的な営農の段階に入ったのだが、市街からの距離、気候、標高、農地は全て傾斜地など、どれをとっても厳しい条件のなかで、昭和30年代半ばから40年代にかけて大半が離農し、50年代に入ると全員が離農してしまったのである。

 

 学校と宗教

 行政区が各地区の枠組み形成に重要な役割を果たしたことは既に述べたが、住民たちの横のつながりに強い影響を与え、各地区の郷土意識形成に大きな役割を持っていたのが学校や地区だった。これは学校や宗教施設の設立に当たって住民たちの協力関係が築かれたという側面に加え、運動会などの学校行事や神社の祭りといった年間行事を通して、住民たちの交流の場を提供したという側面も見逃せない。ただ、学校と宗教施設については、既に各章の「教育」の項、「宗教」項で詳しく述べられている。この章では地区に関する出来事に絞り、その概略についてのみ記すこととする。

 冒頭の地区名の由来に関連して既に述べたように、清富地区には初めての小学校として昭和9年12月、日新尋常小学校付属特別教授場が開校している。児童たちはそれまで約10`の悪路を日新尋常小学校まで通学していたのである。だが、教職員給与以外の全費用を地域住民で負担することが教授場開設の条件だったといわれ、開校直後から尋常小学校昇格の請願は始まっていた。

 こうした運動が実り清富尋常小学校が開校したのは13年8月である。その後、国民学校令の施行に伴い16年4月には清富国民学校と改称、戦後になると新教育制度のもとで清富小学校へと改称され、現在に至っている。この間、25年には校舎改築が行われ運動場が設置されたほか、38年には講堂兼屋内運動場が落成、58年には再び校舎を増改築、平成6年には開校60周年を機に校舎の全面改築が行われた。

 一方、地区の神社としては昭和7年に清富神社が創祀されている。松井牧場の開放のときに祀られたものといわれ、18年には神殿が造営されている。『石碑類宗教施設調書』(町史編纂室、平9)によれば、現在の祭日は9月13日とされている。また、境内には木柱の地神があり、これは昭和15年頃の創祀といわれている。

 

 現在の清富住民会

 清富地区は第一区から昭和16年に分離して現在の地域が形成されたが、地区内の組合の変遷については、地区名の由来でも述べたように、資料によって名称の表記は微妙に違う。『上富良野町史』は「昭和十三年に部落が急に発展したので上清水を廃し三つの農事実行組合が出来た」として柳乃沢(清富1)、本流乃沢(清富2)、上清水沢(清富3)を掲げる。一方、昭和12年時点での組合を掲載した『昭和十三年版村勢要覧』には上清水、清富、柳ノ沢の名前があり、資料によっては鹿の沢が加わる場合もある。

 戦後になると清富1、清富2、清富3の3組合に加え、清富開拓が加わり4農事組合で構成されることになるのだが、やがて離農が進むなかで統合が行われた。平成8年4月現在では、清富住民会(会長・村上武憲)のもと、22戸が清富農事組合(組合長・原田敏行)にまとまっている。