第7章 現代の上富良野 第11節 現代の宗教
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2、寺院と仏教の動向
大雄寺
曹洞宗の佛国山大雄寺は、昭和44年12月29日に滝本幸朗が、滝本全應を引継いで第二世住職に就任し、就任にともなう晋山結制大法要が行われ、新しい時代を迎えていた。滝本幸朗は旭川共立高等女学校、上富良野中学校教諭などの教職を経、42年6月2日に副住職に就任していた。住職就任後も教育委員長などの公職を歴任し、63年に自治功労賞を授与されている。住職はその後、滝本良幸に引き継がれた。
滝本良幸は48年10月29日に副住職となり寺務についていたが、平成6年10月27日に第三世住職に就任した。
主要施設では53年に本堂が新築されている。旧本堂は大正12年に建築したものであるが、既に老朽化し狭隘となっていた。
新本堂は10月20日に落成したが、建物は2階建てとなっており、1階が本堂で585平方b、2階が納骨堂となっており351平方bの面積であった。55年10月24日に住宅(79平方b)の新築、62年8月10日に庫裡(354平方b)の増改築もされた。
諸仏、仏具などでは以下の安置・整備が行われている。
46年8月6日 葦駄天を安置
52年8月13日 水子地蔵を安置
56年12月19日 大般若経600巻を奉納
57年5月28日 薬師如来を安置
57年7月15日 歴住塔、法光塔を建立
58年12月24日 毘沙門天を安置
59年10月16日 僧形文殊菩薩像を安置
60年10月6日 稚児観音像を安置
61年5月25日 白山妙理大権現像を安置
61年9月4日 ぼけ封じ観世音菩薩像を安置
62年3月19日 唐獅子一対を安置
63年10月27日 鳥枢沙摩明王像を安置
現在の檀家総代は山本康夫(昭和51年就任)、菅野學(53年)、及川忠夫(45年)、守田秀男(60年)、大場健二(平成5年)である。
寺内の付属組織としては、まず曹洞宗の下部組織として平成元年に創設された大雄寺婦人会があり、毎月第2月曜日に例会がもたれている。現会員は28人で会長は長谷川シズ子である。梅花講はご詠歌の教修組織であり、月3回の例会が催され現講員は14人である。各種大会に参加するなど活発な活動がみられる。吉祥講は毎月18日に定例会をもっていたが、現在の活動はみられない。
現在の大雄寺における年間行事(法要)は以下の通りである。
1月16日 大般若祈禱会
2月15日 釈尊涅槃会
3月20日 春季彼岸会
4月8日 釈尊降誕会
8月16日 孟蘭盆会
9月3日 御開山報恩会
9月23日 秋季彼岸会
12月18日 釈尊成道会
写真 現在の大雄寺
※ 掲載省略
明憲寺
真宗大谷派の明憲寺では、寺の施設整備としては50年10月3日に庫裡を新築している。庫裡の建築面積は617平方bであり、総工費は約4,500万円であった。55年10月5日には離座敷を建築していた。その他に、62年9月に婦人会の寄進になる大門型六角灯篭を設置し、63年3月5日に中尊仏具(宮殿、須弥檀、前卓、上卓、輪灯、瓔珞)を購入していた。
住職は63年に近藤信行から2男の近藤義信に引き継がれ、6月29日に住職退任及び新住職就任式が行われた。近年の総代は浦島与三之(就任昭和28年)、仲川善次郎(49年)、伊部酉市(51年)、笠原重郎(51年)、白髭一雄(57年)、前川一雄(51年)、飛沢尚武(49年)、大角東巳雄(51年)である(以上は63年現在、『法流』による)。
現在の総代は仲川善次郎、飛沢尚武、大角東巳雄、勝井勇の4人がつとめている。寺内組織には明憲寺大谷派婦人会があり、同会の活動としては毎月5日に定例法要、11月28日の婦人会報恩講を行い、他に寺の法要奉仕、研修などが主な活動であり現会長は船引文である。
明憲寺における現在の年次法要は以下の通りである。
1月1日 修正会
3月 春季彼岸会
3月13日〜15日 春季永代経
8月 盂蘭盆会
8月24日〜26日 報恩講
11月7日〜9日 秋季永代経
9月 秋季彼岸会
12月31日 除夜の鐘
また、定例法要が毎月5日、宗祖聖人忌日法要が毎月28日となっている。
写真 現在の明憲寺
※ 掲載省略
聞信寺
浄土真宗本願寺派の聞信寺では、昭和62年に庫裏を増築し、平成2年に本堂の受付も増築しているが、本堂が老朽化したことにより現在、本堂・納骨堂・会館を新築計画中であり、10年9月の完成の予定となっている。
住職は平成8年1月10日に門上美義にかわり、誓明が第四世住職に就任している。総代は項在、
富山 正信 加藤 清 岡崎 豊勝 和田 正治 広川 義一
大谷 浩一 本間 平 竹山 善一 上田 良夫 大森 忠
竹内 正夫 及川 清 平塚 武 浦島 義三 上川 隆
以上の15人がつとめている。付属組織では昭和60年1月9日に聞信寺門徒会が創設された。同会の目的は、「会員相互の親睦を図り聞信寺の護持に寄与すること」にあり、会長は大森忠である。
聞信寺仏教婦人会は報恩講の法要修行、研修会、親睦などが主事な活動であり、現会長は横山房子である。
聞信寺における現在の年次法要は以下の通りである。
1月1日 修正会元旦法要
1月14日〜16日 御正忌法要修行
2月16日、17日 記念法要修行(聞信寺開基記念)
3月20日〜23日 春の彼岸会、永代経法要修行
6月17日 宗祖聖人降誕会法要修行
8月15日 お盆歓喜会法要修行
9月12日 門徒戦死者、物故総代、世話係合同追悼法要修行
9月12日〜14日 宗祖聖人報恩講法要修行
9月23日 秋の彼岸会法要
11月16日〜18日 秋の永代経法要修行
12月16日 御命日御初穂感謝法要修行
12月31日 除夜会修行
毎月7日(2月、3月、4月、11月、12月)常例法座
写真 聞信寺完成予想図
※ 掲載省略
専誠寺
真宗高田派の専誠寺では、昭和44年6月1日に増田修誠(修一)が第五世住職に就任し、新たな歩みを開始している。修誠は同年から寺報として『同朋通信』を発行し、寺と檀家との交流をはかるなど(平成9年まで30号を発行)、現代に即応した教法と寺院経営を展開していくことになる。
専誠寺での施設整備では46年6月に庫裡を増築、48年10月に納骨堂を増築していたが、平成6年11月に会館、納骨堂、庫裏からなる専誡寺総合教化会館が竣工・完成となっている。
また、主要事業や大規模な法要では、51年7月23日に第1回北海道高田派仏教文化研修講座を十勝岳にて開催し、同年7月23日から7月25日までは高田派法主の常盤井堯祺を迎え親鸞聖人誕生800年、立教開宗750年、専誠寺開基80年、寺子屋教育80周年、第三世住職内田是心・坊守てつ27回忌、第四世住職増田義秀13回忌、高田幼稚園15周年の専誠寺大法要を開催している。境内に現在安置されている「十勝岳爆発惨死者の碑」は、昭和63年8月31日に共和橋の拡幅工事中に発見されたものであり、その後は専誠寺に移され11月22日に慶置法要が行われた。
平成に入り元年5月に高田派本山の如来堂完成法要に60名が団参し、同年7月15日には高田派新々法主の常盤井慈祐が巡教に来寺し、記念法要と御教書の披露が行われた。さらに、7年8月26日から28日までの3日間、開基百年報恩大法要、第四世前住職〔義秀〕33回忌、総合教化会館落成慶讃、開基百年檀信徒物故者追悼、副住職〔第六世光義〕就任報告などが執行された。
現在の総代は田中一米(責任役員)、伊藤忠、伊藤誠市、布施武、田中実がつとめているが、専誠寺にて功労者として奉祀している昭和44年以降の総代関係者は、
分部 倉三(44年8月23日死去)
高田多三郎(46年7月21日)
鹿間 富二(47年7月21日)
伊藤 忠司(53年1月8日)
伊藤 鶴丸(60年1月16)
久野専一郎(62年2月8日)
伊藤 勝次(平成4年10月13日)
以上の7人である。
付属組織では専誠寺仏教青年団(団長伊藤栄一)と専誠寺仏教婦人会(会長伊藤ミヨ子)がある。前者は読経・研修旅行が主な活動であるが、現在は休止状態である。後者は約120人の会員があり同会の目的は規約によると、
真宗高田派の教義に基き婦人の信仰を高め、会員相互の親睦を図り、正しい念仏者としての向上発展に努めると共に、常に教法を聞信して専誠寺護持、諸法要に進んで奉仕して報恩の勤めとすることを目的とす
[る]としている。事業としては以下の6項目があげられている。
1、聞法と仏事作法の研鑽を行い、専誠寺報恩講法要に開扉・献灯・献華・献飯等の奉讃に勤める。
2、仏教婦人会報恩講、物故者追悼法会、読経会、講演会、講習会、座談会、スポーツ会を行い、必要に応じて娯楽会も取り入れる。
3、相互の連絡、会員の増強に勤め、親睦を図るために研修旅行等を行う。
4、専誠寺護持発展のため全ての諸法要に報謝の念を高め、お磨き・掃除会等奉仕に勤める。
5、専誠寺宗教情操教育事業(幼稚園行事)等に資金造成活動を取り入れる。
6、その他本会の目的達成のため必要なる事業。
講座、学習会、奉仕などの活動を行っている。
専誠寺における現在の年次法要は以下の通りである。
1月1日 |
新年修正会 |
1月13日、14日 |
御正忌報恩講 |
2月16日 |
婦人会法座 |
3月21日、22日 |
春季彼岸会、春季永代経 |
4月16日 |
定例布教 |
7月23日 |
特別永代経 |
8月15日、16日 |
お盆会法座 |
8月26日〜28日 |
報恩講法要 |
9月23日 |
秋季彼岸会 |
10月16日 |
定例布教 |
11月21日、22日 |
秋季永代経 |
12月16日 |
定例布教 |
12月31日 |
お餅つき、お磨き、大掃除 |
写真 現在の専誠寺
※ 掲載省略
新四国八十八カ所
富良野沿線に設置されている四国八十八カ所は、戦後は巡拝者も少なくなり衰微の状態であった。これを憂いた石川清一、岩井清一、高橋博男などにより信仰の復活がはかられ、折しも深山峠に信仰、健康、観光を兼ねた施設誘致の希望があり、この結果、八十八カ所の石仏を深山峠に集めて新たな八十八カ所の霊場がつくられることになった。
石川清一、岩井清一が上記の件を企図したのは47年3月であったが、その後、下準備を重ねた上で48年2月7日に深山峠観光開発振興会(会長高橋博男)が結成され、あわせて深山峠新四国八十八ヶ所移駐期成会(会長石川清一)もつくられた。同会では各札所の所有者、奉祀者から移駐の了解を得るなどの交渉を行い、2月27日に東中の18体が搬入されたのを皮切りに、了解を得られた81体がその後順次、運ばれていった。新霊場の配置は、
控所を起点に交通安全碑から山に入り、数百本の桜の木の下を鉄道用地に出て、その用地沿いに堀川休憩所まで、それから旧国道に行き、その道を沼崎道路に出て国道にいたる約四粁の路線に決定した。
という巡拝路であった(岩井清一「新四国八十八ヶ所の由来」『郷土をさぐる』第6号、昭62)。これ以降、石仏の安置、参道の整備、控所の設置などが進められ、8月27日に開眼式、31日に山開きが行われ深山峠新四国八十八ヶ所の開設をみることになった。
この完成を機に期成会は深山峠霊場奉讃会に改組された。一部移駐ができなかった石仏も、50年8月までにすべてが移駐を完了していた。
深山峠の名所となった新霊場も、河川改修工事、町有地の開発などにより分散的な配置が不可能となり、平成3年9月20日に1カ所に集結され、あわせて六角堂が建立され、例大祭は春5月10日と、秋10月10日に行っている。
なお、上富良野町内に所在した石仏の名称、発願者、移駐前の世話人、所在地は表7−92の通りであった。
表7−92 町内の新四国八十八カ所
番 |
仏像名 |
発願施主 |
移駐直前世話人 |
所在地 |
1 |
釈迦如来 |
|
出口さだよ |
宮町3 |
2 |
阿弥陀如来 |
|
同 |
同 |
3 |
釈迦如来 |
杉山九一 |
桐山英一 |
日の出、東2北27 |
4 |
大日如来 |
|
新屋政蔵 |
江花、西3北24 |
5 |
地蔵菩薩 |
|
墓地寺 |
上富良野墓地 |
6 |
薬師如来 |
|
出口さだよ |
宮町3 |
7 |
阿弥陀如来 |
岸入真市 |
墓地寺 |
上富良野墓地 |
8 |
千手観世音 |
城越源蔵 |
城越 登 |
富原、東4北22 |
10 |
千手観世音 |
樋口和三郎 |
西村又一 |
同、東4北22 |
11 |
薬師如来 |
|
弘照寺 |
東中、東8北18 |
12 |
虚空蔵菩薩 |
片山幸平 |
片山重綱 |
同、東9北19 |
14 |
弥勤菩薩 |
|
弘照寺 |
同、東8北18 |
15 |
薬師如来 |
松原勝蔵 |
松原照吉 |
同、同 |
16 |
千手観世音 |
松岡勘蔵 |
弘照寺 |
同、同 |
17 |
薬師如来 |
河田…郎 |
同 |
同、同 |
19 |
地蔵菩薩 |
有塚利平 |
同 |
同、同 |
20 |
地蔵菩薩 |
多津見… |
同 |
同、同 |
21 |
虚空蔵菩薩 |
木内小三郎 |
木内久雄 |
宮町3 |
24 |
虚空蔵菩薩 |
|
弘照寺 |
東中、東8北18 |
25 |
地蔵菩薩 |
長谷藤之進 |
同 |
同、同 |
26 |
薬師如来 |
中尾銀蔵、田儀三郎、阿部キン子 |
同 |
同、同 |
27 |
十一面観世音 |
森崎宗吉 |
同 |
同、同 |
28 |
大日如来 |
美濃寺太郎 |
同 |
同、同 |
29 |
千手観世音 |
谷島…、田畑… |
同 |
同、同 |
31 |
文殊菩薩 |
|
同 |
同、同 |
33 |
十二面観世音 |
|
西村又一 |
草分、西4北29 |
34 |
薬師如来 |
十川茂八 |
多田勘一 |
東中、東6北16 |
35 |
薬師如来 |
和田富次 |
弘照寺 |
東中、東8北18 |
36 |
不動明王 |
小川庄平、松尾… |
高津須栄 |
東中、東6北18 |
37 |
阿弥陀如来 |
田中八太郎 |
弘照寺 |
東中、東8北18 |
38 |
千手観世音 |
村木… |
村上国二 |
江花、西4北20 |
83 |
聖観世音 |
|
杉山芳太郎 |
日の出、西1北27 |
出典:深山峠新四国八十八カ所の掲示板による。
富良野聖観音
西島津の十勝岳連峰や富良野盆地を一望する絶景の地に立っている聖観音像は、元町長である和田松ヱ門の発起になるものであった。3期12年間にわたり町長をつとめ58年8月に退任した和田松ヱ門は、退職金をいかして郷土に役立つものと考え、平和と繁栄の象徴として聖観音像に思い到ったのであった。聖観音像により郷土愛と先人、祖先を思う気持ちを育成することを願ったのであり、聖観音像はそのシンボルであった。
この和田松ヱ門の建立計画に賛同した有志により59年6月9日に聖観音像建立期成会(会長和田松ヱ門)が発足し、募金活動も開始された。聖観音像の高さは台座から20b、素材は大理石の粉末を樹脂加工したもので建造費は5,200万円であった。
10月25日に門上美義が導師となり、上富良野仏教団によって開眼法要が厳修された。これ以降、富良野聖観音奉賛会によって8月20日に聖観音まつりが開かれ、開拓者たちの功績をたたえ、霊を慰めることになった。
建立後は富良野聖観音像奉賛会に改組されて同年12月9日に設立となり、会長には和田松ヱ門が就任していたが平成4年7月に死去し、後任会長として谷与吉が5年3月25日に就任した。
写真 富良野聖観音像
※ 掲載省略
上富良野尊霊会
上富良野尊霊会は町内の仏教信者の会で、50年に町内に放置されていた地蔵尊6体と鐘堂を葬斉場前に移転すると共に、有縁無縁地蔵と鐘を建立し、7月24日に供養祭を営んでいる。61年の会長は六平健、会員70人であった。