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7章 現代の上富良野 第7節 現代の社会

1084-1091p

5、公安と人権擁護

 

 警察機構の変遷

 戦後昭和23年3月施行の警察法によって、国家地方警察・自治体警察が発足したが、29年6月新警察法により北海道警察に統合し、北海道警察本部の下に5つの方面警察本部が設置された。上富良野は富良野警察署の管轄となった。

 35年4月1日に富良野警察署上富良野町巡査部長派出所が、警部補派出所に昇格し、巡査駐在所は廃止された。

 37年9月には東中巡査駐在所の巡査勤務が廃止され、警部補派出所に集合勤務した。43年4月、全道一斉に派出所・駐在所に冠していた階級を廃したので、富良野警察署上富良野警察官派出所となり、平成6年4月に至って富良野警察署上富良野交番に改編した。

 

  上富良野警部補派出所歴代所長

  (昭和35年〜平成6年3月末まで)

順代

氏名

就任年月日

転出

初代

上野正三

昭和35

昭和

2

三宮秀義

36.8.1

41

3

伊藤正雄

42

43

4

鬼頭嘉一

43

46

5

谷脇 泉

46

52

6

篠原 潤

52

54

7

森田美樹夫

54.6

60.8

8

加藤道夫

60.8

63.4

9

羽田野昭夫

63.4

平成

10

松本 清

平成

7.3

  上富良野交番歴代所長

  (平成6年4月〜7年4月1日現在)

11

内田 誡

平成7.4

平成

 

 写真 上富良野交番

  ※ 掲載省略

 

 都市的犯罪の増加

 富良野警察署は1市3町1村の防犯活動を中心に、40年代の観光による交通事故の急増に対処し、住民生活の安定を図ってきた。富良野警察署の管内犯罪件数(刑法犯)は40年代前半には年間1,000件近くに達していたが、50年代に入って減少傾向を示し、件数の多い58年は800件を越えたが、それ以外の年は500件未満であった。60年代は全国的に暴力団の被害が多発した(『富良野市史』第3巻第11章平6)。

 上富良野の都市化に伴う窃盗などの都市的犯罪がしだいに増えいる。図7−1は55年からの犯罪発生(刑法犯)の推移であり、表7−53は60年以降の件数である。平成5年から8年までの99lが窃盗である(平成9年版『上富良野町統計要覧』)。

 なお、新聞報道によれば、昭和45年5月、上富良野農協経理課長による雑穀投機の損失に公金約3億円を流用した横領事件があった(『北海タイムス』昭45・5・5)。

 

7−53 富良野警察署上富良野派出所刑法犯取扱件数

年次

昭和60

61

62

63

平成元

2

3

4

5

6

7

8

9

件数

67

86

105

98

100

107

137

101

69

69

174

107

125

 

 図7−1 犯罪発生(刑法犯)の推移

  ※ 掲載省略

 

 防犯団体の活動

 上富良野における防犯体制は、富良野警察署上富良野警察官派出所と上富良野防犯協会と町が協力して、犯罪防止と防犯意識の高揚に努めてきた。

 防犯施設として、防犯灯設置助成制度により、防犯灯の整備に努め、53年11月には市街地を中心に603灯が設置され、市街地全域農村部の整備も急がれた。上富良野防犯協会は35年に結成され、41年度総会には「少年の非行防止」と「暴力排除」を重点に、町を明るくする運動、少年補導育成運動の推進、愛のひと声運動の推進、定期的防犯運動(春・夏・秋・歳末)や優良防犯器具の斡旋などを事業に計画し、その後継続的に取り組んだ。こうした活動が認められ、57年5月道警旭川方面本部長・旭川方面防犯連合会長から表彰を受けた(広報『かみふらの』昭57・6)。

 非行の低年齢化は急増し、上富良野でも55〜57年の刑法犯少年の状況は中、高校生が少年非行全体の70l以上を占める実態から、家庭・学校・地域のあり方を広報を通じて、喚起した。「防ごう非行、助けよう立ち直り」と呼びかけ、社会を明るくする運動に、役割を果たしてきたのが保護司であり、民生児童委員も参加して平成2年に発足した更正保護婦人会の人々であった。

 

 表7−55 保護司

1958年

33年以前

1958年

33.12

1968年

43.6

1980年

55.6

1988年

63.7

1997年

9.7

山口梅吉

滝本全応

及川熊夫

及川熊夫

千葉 誠

朝日彰雄

三好勇吉

松藤光太郎

金子政三

丸山喜久男

石川富一

松浦正子

滝本全応

谷 清吉

石橋コスギ

川野守一

松岡安司

柿原光夫

松藤光太郎

竹沢 強

朝日彰雄

高橋よしの

増田修一

増田修一

谷 清吉

及川熊夫

滝本全応

千葉 誠

柿原光夫

生出明臣

竹沢 強

川野守一

松藤光太郎

畠山三昭

朝日彰雄

高橋よしの

及川熊夫

菅野忠夫

川野守一

石川富一

高橋よしの

佐々木幸子

川野守一

鈴木弥江子

竹沢 強

佐川 登

 

澤田和雄

菅野忠夫

河村善翁

谷 清吉

赤川トイ

 

平倉範子

鈴木弥江子

大串利平

西 志美

久保栄司

 

有本保文

 

 

 

西口 登

 

 

 

 表7−54 防犯灯設置状況  昭和53年11月10日現在

地区名

設置数

管理主体

 

地区名

設置数

管理主体

春日区

42

各町内会

 

草分

0

常盤区

65

 

里仁

0

旭区

77

 

江幌

0

本町区

49

 

静修

0

東区

53

 

江花

0

西富区

71

 

日の出

0

中央区

49

 

島津

0

北栄区

85

 

旭野

0

住吉区

41

 

富原

10

東明区

61

 

東中

0

清富

0

 

十勝岳

0

日新

0

 

 

 

 

   資料:防犯協会(昭和54年『上富良野町総合計画』)

 

 「暴力追放宣言」

 暴力団追放の動きに、いろいろな団体が立ち上がった。61年5月、上富良野建設業協会と上富良野商工会工業部会は「暴力排除」の宣言を緊急動議で行い(『北海タイムス』昭61・5・8)、翌年5月には、かみふらの十勝岳観光協会の総会で「暴力団追放宣言」を行なった(『北海道新聞』昭62・5・1)。平成元年から始まった、「安全で住みよい社会建設」をめざした全国防犯協会などのキャラバン隊が上富良野へ同4年に来町し、「暴力追放宣言」を富良野地区防犯協会連合会が発し、翌5年に上富良野町防犯協会も「暴力追放宣言」行なった。さらに7年2月上富良野町暴力追放運動推進協議会(会長菅野學)が町、農協、議会、消防団、商工会、学校、自衛隊上富良野駐屯地、そして個人をもって設立した。

 

 「暴力追放宣言」

 私たちは、明るく犯罪のないまちづくりのため善良な住民の生活を侵害する暴力団の存在を認めず、暴力排除の確固たる信念のもとに一致団結して、

  一、暴力団を恐れない

  一、暴力団を利用しない

  一、暴力団に金をださない

  一、暴力団に施設を貸さない

  一、暴力団に泣き寝入りをしない

 を実践するとともに、暴力団集団等による「テロ」、「ゲリラ」事件の未然防止を図るなど、どんな暴力でも見たり聞いたり、或いは、被害を晋けたときは、速やかに警察に通報するとともに、私たちの住んでいる地域から一切の暴力を追放することをここに宣言する。

 平成五年四月三十日

 上富良野町防犯協会

 

 交通事故の急増

 自動車は、道路網の整備、鉄道網の縮小により、生活になくてはならない交通手段となり、生活を便利にしながら普及してきた反面、人間の命をおびやかす危険を伴っていた。

 自動車のなかでも自家用車(マイカー)の普及はめざましく、北海道における1人当たりの乗用車及び軽自動車の台数は昭和40年度は0.15台、50年度は0.56台、60年度は0.87台、平成2年度では1.06台と1台を越え、6年度は1.11台となった(平成7年度『道民生活白書』)。上富良野における自動車登録の総数は昭和50年度の3,805台に対して、60年度は1.7倍、平成2年には1.9倍に増え、6年度には8,088台と2.1倍に増加した。自動車の増加は、自動車事故を激増させた。

 交通事故の犠牲者は全国で、昭和42年に「1日平均1,800人、48秒間に1人が死傷」が交通事故の犠牲となり、上富良野でも、昭和38年の交通安全都市宣言を発して積極的に活動を展開していたが、19件の交通事故、死者2名、負傷者40名という憂慮する状況が続いていた(広報『かみふらの』昭43・6)。

 道の調べによると、45年までは自動車の保有数の増加に比例して増加、46年以降は発生件数は減少し、50年には全国平均を下回ったが、翌51年には北海道の死亡事故件数が全国一となり、汚名返上の安全運動が全道で展開されることになった。

 交通事故死は、原因にスピード違反と飲酒運転があげられ、死亡者のうち歩行者が約3分の1、高齢者と子どもが6割をしめていた(昭和50年度『道民白書』)。

 交通事故対策に信号機の設置、安全分離帯などが設けられたが、若者の無謀運転や無免許運転、冬道運転、近年では高齢者ドライバーへの注意が叫ばれている。

 表7−56は46年以降の交通事故発生状況である。

 

 表7−56 交通事故発生状況(上富良野町)

年次

発生件数

死者

負傷者

年次

発生件数

死者

負傷者

1971(昭46)

75

2

122

1984(昭59)

17

2

18

1972(47)

50

3

70

1985(60)

28

1

42

1973(48)

40

1

56

1986(61)

34

0

55

1974(49)

24

0

44

1987(62)

36

1

48

1975(50)

41

1

57

1988(63)

32

0

53

1976(51)

25

4

39

1989(平元)

53

1

79

1977(52)

22

1

32

1990(2)

35

2

51

1978(53)

27

0

31

1991(3)

38

4

50

1979(54)

◎33

4

45

1992(4)

△28

1

40

1980(55)

30

2

46

1993(5)

52

4

57

1981(56)

22

3

34

1994(6)

46

0

59

1982(57)

☆44

3

61

1995(7)

38

6

50

1983(58)

24

0

42

 

 

 

 

   *上富良野町『統計要覧』1977年、上富良野町統計資料より作成。

   昭和54年の◎印は、非常事態宣言の年。57年の☆印は全国死亡率の2倍を警告した年。平成4年の△印はシルバードライバーの運転に注意を促した年。

 

 交通安全運動の強化

 交通安全の施策は、道交通安全総合対策本部、交通安全道民運動推進委員会などと呼応し、上富良野としては道路のカーブに稲架[はさ]の設置をしないこと、北25号道路の歩道設置をはじめとする車道や歩道の整備、防犯灯の設置とともに、幼児、学童や母親、老人などへ交通安全指導を図るため、地域総ぐるみで交通安全協会との連携を図った。

 春・秋恒例の交通安全道民総ぐるみ運動は、42年5月の10日間に交通安全を理解する日、自転車の安全運転の日、幼児と老人をまもる日、道路環境を良くする日、母の交通安全日、交通安全家族会議の日など各階層、テーマ毎の目標を定め、上富良野でも展開した。そして7月、それまでは車両所有者で構成していた交通安全協会を歩行者を含めた体制とした(広報『かみふらの』昭43・6)。44年3月には、上富良野町交通安全大学を陸上自衛隊上富良野駐屯地への1日入隊(90人内女性7人)として開催、特訓、講義・安全映画鑑賞など、規律ある生活を送った(『北海タイムス』昭44・3・20)。

 各団体は創意ある取り組みを展開してきたが、次に記すのは50年代に実施された一部分である。

50年8月

恒例子ども会七夕祭交通安全あんどん行列(公民館と子供会育成協議会主催)

51年5月

深山峠安全祈願祭(中央老人クラブ参加)

52年5月

園児たちが派出所を訪れ、花束のプレゼントと安全指導(高田幼稚園)

53年8月

ラベンダー香り作戦 花束と交通安全パンフレット配布(連合婦人会)

54年6月

交通安全塔を深山峠に建立(ライオンズ・クラブ)

54年10月

手製のお守りを深山峠で配布(上富良野青少年団体協議会)

55年7〜8月

シートベルト着用調査(上富良野町交通安全協会)

56年4月

手製の交通安全お守り鈴のプレゼント(商工会婦人部)

 

 写真 交通安全週間啓蒙パレードに参加の小学生

  ※ 掲載省略

 

 「交通事故絶滅 非常事態宣言」

 継続した取り組みの成果から、交通事故発生件数は減少をみせていたものの、交通事故死は発生した。49年には「交通事故撲滅五十日作戦」を交通安全協会は取り組み、上富良野町交通指導委員会は毎月1日と15日を「交通安全日」と定め、54年1月27日に「交通事故死ゼロ五〇〇日達成記念と無事故祈願祭」を行い、上富良野町民の喜びとなった。しかし、同年5月10日に交通事故死4名が発生し、非常事態を宣言して引き締め、その後59年11月30日には、「交通事故死ゼロ851日」を達成した。

 

    交通事故絶滅非常事態宣言

 最近上富良野の交通事故による死者及び負傷者は急激に増加、昭和五十四年五月十日現在で死者四名、負傷者十三名と過去に例を見ない異常な発生状況にあり、富良野警察署管内の事故発生件数の約五割が本町で発生しております。

 交通事故のない住みよい町づくりを念願にご尽力されております町民各位の切なる願にもかかわらずスピードの出し過ぎや無理な追越しなど、また農業機械等による事故が後を絶たず極めて憂慮すべき事態となっております。

 この非常事態に対処し尊い人命が奪われたり、多くの方々が傷つく交通事故による悲劇の絶滅を期すため、各職域各関係機関団体の協力のもとに全力を挙げて事故防止のための諸対策を強力に推進する決意であります。

 町民各位も人命尊重の精神に徹し総力を結集し、我が家庭から、我が職場から、我が町から、悲惨な交通事故が発生しないよう、ご尽力を賜りますよう心より切望いたします。

  昭和五十四年五月十七日

                  上富良野町長 和田松ヱ門

 

 さらに、58年3月、上富良野交通安全協会は同婦人部(部長松浦正子)を結成、青少年の交通モラルの向上をはかるため、家庭婦人の役割が期待され、62年4月に北海道交通安全母の会に加入し、全道の運動にも寄与している。

 平成3年には、北海道は死亡事故死ワースト・ワンを12年振りに返上したが、この頃、上富良野建設業協会は「安全は出せるスピード 出さない勇気」といったスローガンで交通安全に取り組み、7年には「SS運動(スピードダウン・シートベルト着用)」を掲げた。同年5月上富良野町役場でも「ゼロ500日達成」を目標に「SS運動」を誓った。

 

 司法

 司法関係をみると、上富良野がその管轄下となるのは、富良野市に所在する次のような機関となる。

 民事事件と刑事事件を扱うのは富良野簡易裁判所である。家事審判法で定める、家庭に関する事件の審判及び調停を行なうのは、旭川家庭裁判所富良野出張所。富良野区検察庁は検察事件を受理し、旭川区検察庁の副検事が併任している。

 また、検察官の行なった不起訴処分(裁判所に訴えないことにした措置)の「善し悪し」を審査する検察審査会制度があり、検察審査員は6カ月間の任期である。選挙人名簿から抽選によって選ばれ審査員候補者は、さらに管轄内の候補者から抽選で検察審査員が選出される。上富良野の場合は旭川検察審査会の管轄で、審査員候補者など広報によって年2回、周知を図ってきた。

 登記簿の謄本・抄本をなどを扱うのは、旭川地方法務局富良野出張所である。昭和47年3月末まで存続、利用された旭川地方法務局上富良野出張所の廃止は、公共機関の統廃合によるものであった。

 

 写真 統合前の法務局上富良野出張所局舎

  ※ 掲載省略

 

 人権擁護

 基本的人権は、日本国憲法によって明記された権利である。国連が世界人権宣言を土台に提唱し、世界の国々が喚起された国際婦人年、国際障害者年、国際児童年、国際家族年、子どもの権利条約などが、55年(1980)以降、社会的弱者の人権を如何に保障することができるのか、問われるようになった。町民の生活と権利を保障するためのさまざまな相談業務が法務局、警察署、社会福祉協議会、人権擁護委員、弁護士など各専門機関との協力によって遂行されている。

 人権擁護委員は、法務大臣から委嘱され、人権侵害の問題で困っている人々の相談に、無料で秘密を堅く守り応じている。上富良野には3名の委員がいる。近年は社会や生活環境が複雑になり、問題も多く寄せられている。

 「特設人権心配ごと相談所」が、人権擁護委員及び法務局職員が相談員となって、昭和57年、平成6年、7年などに町老人身障者センターで開設され、同6年8月には旭川地方法務局人権擁護課が「いじめ・体罰特設相談所」を開き、現代の学校、不登校児問題などにも配慮した。北海道弁護士会主催の生活法律講座が昭和55年1月に、三井政治弁護士を講師に開催された。

 心配ごと相談は、社会福祉協議会のもとで、「心配ごと相談所」を定期的に開設。民生委員とともに、前章の社会福祉協議会の分野で記した。

 また、「無料調停相談会」が57年、58年などに富良野調停協会主催で、金銭問題や家庭間題などいろいろな紛争で困っている人々に応じた。

 さらに、「行方不明者相談所」が旭川警察署で、「交通事故巡回相談」が富良野市役所市民相談室で開催されることがある。年金、道路などの行政にかかわる苦情や要望などは行政相談員が受けており、上富良野には1名の配置である。

 

 表7−57 人権擁護委員(昭和38年以降)

1963年

1979年

1987年

1995年

38.10

54.9

62.6

7.6

佐藤敬太郎

飛沢 尚武

飛沢 尚武

飛沢 尚武

 

及川 熊夫

佐藤  操

佐藤  操

 

 

田中喜代子

佐々木幸子

   (広報『かみふらの』より)