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7章 現代の上富良野 第7節 現代の社会

1075-1084p

4、環境衛生

 

 重点対策の変化

 上富良野の環境衛生対策は、昭和26年の行政区の設置にともない、町内会衛生組合を再編成し(『上富良野町史』)、町民の衛生に対する認識が増し、道環境衛生課と管内保健所長の現地審査によって「蚊とハエのいない北海道共励優良地区」として認められ、37年上川支庁表彰、38、39、40年知事表彰を受賞、42年には日本環境衛生協会長表彰を市街地区連合会衛生部(伊部酉市部長)が受賞した(『日刊富良野』昭42・10・19)。衛生的な町づくりへの協力を続けている陸上自衛隊上富良野駐屯地は、49年には5班に分かれた衛生隊員29名が「薬剤散布訓練の一環として」町の関係者たちと駐屯地周辺の各戸をまわり、便所、側溝などに薬剤を散布した(上富良野駐とん地広報『ふらの原野』昭49・7・15)。

 昭和30年代以降の経済が高度成長を遂げる一方で、環境衛生はそれまでの防疫対策から、大気汚染・水質汚濁・騒音などの公害や自然破壊が社会的にクローズアップしてきた。昭和40年度「事務報告」によれば、上富良野の町民は「住み良い街」のビジョンを強く望み、行政的見地からも上水道・し尿施設・塵芥処理施設・火葬場などの建設の実現に向けて、調査計画を推進するようになった。

 

 写真 自衛隊による薬剤散布作業

  ※ 掲載省略

 

 民営期の水道事業

 上富良野の戦後の水道事業は、民営期(昭和32年から47年)と町営期(昭和48年以降)に大きく分かれる。『上富良野町上水道利用組合解散式』(昭和48年)式次資料を参考に概略したい。

 水道敷設の声は、市街地とその周辺では酸性の地下水のために、戦前から強かった。大正4年頃に金子庫三、山本一郎、高畠正信、脇坂博夫らが共同して鉄道敷設地に良質の水の探索をしたが得られなかった。同5〜6年に旭野区の良質の地下水を竹筒を通して本町区までの導水に成功した。付近の人々に昭和10年ころまで無償で利用されていたが、水量は少なく、老朽化のため消滅した。

 昭和22年に旭野区中の沢(現演習場内)を水源とする、水道設置を金子庫三、高畠正信らが補助、起債により実現しようとしたが、結実しなかった。旭川鉄道管理局では、鉄道関係者用に富良野から上富良野まで飲料水を運んでいたが、27年に鉄道敷地内の弁天地区に飲料適水の井戸からひく鉄道専用水道を設置。31年に、鉄道沿いの町民は水道施設からの分水を請願した。時の樋口義雄分区長の奔走もあって、湧水量が多く良質なことから、分水の可能性が出てきた。

 そこで、建設準備委員会を発足、32年7月17日に分水戸数を限定50戸で許可を受け、鉄塔7b自然流下圧送方式による給水事業を開始。上富良野町上水道利用組合に改組、水道料金は基本料金4人家族で1戸180円、家族1人増すごとに20円の料金で始まった。

 さらに、38年に日の出水道組合が設立される際には、十勝岳爆発の被災地、西日の出地区の住民からも水道を希求する取り組みがあった。28年に水源地調査を開始したが、西1線北29号の湧水の利用を断念し、エホロカンベツ川西側の湧水を利用することになった。組合員24戸、会長岡久松太郎。翌39年に北栄区、40年はアカシア町、開発、農協、泉町と給水区域を拡大、43年に西小学校の全施設に給水した。

 上富良野の町内に設立された上富良野町水道利用組合と日の出水道組合は、双方が業務委託をしていたこともあって、42年11月6日に合併、給水口数は398件であった。折から、町営水道の計画が進展し、44年9月に次年度から3ヵ年継続事業で計画を開始することになった。次のような、水利権取得の同意依頼が出された。

 

 草分土地改良区       昭和四十四年十月八日

 理事長 仲川善次郎 殿         上富良野町長 村上国二

 上富良野町水道事業経営に伴う水利権取得の同意依頼について本町の飲料水は、十勝岳の影響により地下水よりの良水に恵まれず又、消防用水にも事欠く状態で、誠に憂慮され、上水道は二十年来の町の懸案事項として町民からの強い要望として取り上げられていた訳ですが、この度防衛施設周辺民生安定補助事業として認められ、明年より三ヵ年継続にて工事を行うことになり、長年の念願がここに達成されますことは誠に喜ばしい次第であります。

 ついては、これが上水道事業経営に伴う水利権取得については、貴土地改良区の条件通り実施致しますので、次の事項について同意下さいますよう、特段のご配慮方御願い申し上げます。

       記

 一 取水ヵ所  上富良野町字上富良野国有林地二二〇林班地先

 二 取水量   〇・〇四〇八 ㎥/秒

 三 取水方法  集水埋渠

 四 使用目的  水道用水

 

 町営期の水道事業

 昭和48年1月1日から上富良野の上水道は町の事業となった。49年に1日の給水量が1,000㎥を越え、上水道普及率は約78l、54年の普及率は約92lと受給者は拡大した。表7−48は給水事業の推移である。水道には、給水人口の規模によって上水道区域と簡易水道区域(対象人口規模100〜5,000人)があり、飲料水供給区域(対象人口規模100人未満)、そして独自に水道事業を行なう専用水道がある。上富良野の上水道は上富良野町上水道利用組合と日の出水道組合に加入給水されていた地域で、簡易水道は東中地区、里仁地区に敷設され、東中倍本や中の沢、江花三、江幌地区は飲料水供給区域となっている。専用水道は一カ所で陸上自衛隊上富良野駐屯地である。

 なお、給水事業では給水区域の拡大とともに、水源の確保と、老朽化した施設などの整備による安全な飲料水の安定的な確保が求められ、事業の計画化が進んだ。それでも、季節的に10月から2月にかけて、湧水量の減少傾向から52年度には補水工事を施工。水道水源確保のため調査を実施。54年に上富良野町飲料水供給施設設置条例を定め、給水区域を拡大した。61年2月『上富良野町水資源調査報告書』は日本上下水道設計株式会社の詳細な調査によって、10年後には「1日最大給水量は6,000㎥」が必要とされ、水不足に対応して「旭野地区かんがい排水事業によるダム計画に参画する以外水源確保は難しい」と報告した。町は水道事業拡張工事として倍本浄水場の建設を平成元年度から始め、同4年1月29日通水式を行なった。島津、草分地区の給水拡大を可能とした(『北海タイムス』平4・1・29)。

 また、上富良野はエキノコックス症の汚染地域に指定され、飲料水からの感染に注意を払うよう広く広報活動もなされた。

 

 表7−48 給水事業の推移

区分

年度

給水戸数(戸)

給水区域内人口(人)

給水人口(人)

普及率(%)

排水管延長(m)

給水総量(が)

1日平均給水量(㎥)

1日最大給水量(㎥)

料金収入(千円)

昭和49

2,870

9,759

7,643

78.3

52,350

420,870

1,088

1,358

26,105

50

3,104

9,942

8,129

81.8

59,130

490,000

1,342

2,970

30,210

51

3,104

10,204

8,556

83.8

59,130

596,000

1,632

2,700

34,601

52

3,262

10,407

9,150

87.0

59,130

664,000

1,819

2,909

37,553

53

3,277

10,450

9,322

89.2

59,130

675,000

1,849

3,098

57,743

54

3,013

10,576

9,714

91.8

50,074

645,845

1,769

3,656

56,858

55

3,052

11,253

10,376

92.2

50,480

648,070

1,776

3,238

61,442

56

3,119

11,383

10,621

93.3

50,480

676,914

1,854

4,900

60,252

57

3,166

11,408

10,655

93.3

51,947

798,011

2,186

3,762

61,375

58

3,189

11,326

10,574

93.4

52,880

816,922

2,232

3,459

62,196

59

3,194

11,186

10,326

92.3

52,880

855,579

2,344

3,532

64,592

60

3,187

11,347

10,488

92.42

52,880

871,466

2,388

3,618

66,466

61

3,190

11,278

10,418

92.37

52,880

905,401

2,481

3,758

78,396

62

3,175

11,113

10,276

92.47

53,700

730,782

2,002

3,527

82,006

63

3,304

10,855

10,018

92.29

53,700

745,262

2,042

3,685

83,517

平成元

3,409

10,729

10,007

94.02

54,400

765,870

2,098

3,646

83,366

2

3,466

10,643

10,021

94.16

54,930

832,054

2,280

3,520

95,984

3

3,543

10,672

10,064

94.30

76,550

799,810

2,191

3,919

97,632

4

3,594

10,697

10,190

95.26

76,550

834,440

2,286

3,816

101,715

5

3,684

10,938

10,491

95.91

99,540

913,973

2,230

3,331

120,674

6

3,801

10,949

10,547

96.33

102,920

817,352

2,239

3,849

125,760

   (資料)水道課

 

 公共下水道

 公共下水道は、「水洗トイレは文化のバロメーター」ともいわれ、生活排水や事業所などから排出される汚水を浄化して、水を川に戻し、自然を守り、蚊やハエの発生も防ぐために生活基盤の1つとして整備されるようになった。昭和40年代に下水道整備緊急措置法が制定され、全国的に下水道の普及がすすんだ。上富良野町は総合計画立案のために、54年に生活環境なども含めた「住民意識調査」を行った。市街地では、重点施策への要望「ベスト5」の3番目に公共下水道があがっている。

 また、汚水とともに雨水処理は環境衛生上、急がれるところであったが、上富良野では主に雨水を排出するための「都市下水路」を、42年から東南幹線下水路、北西幹線下水路、52年に西日の出都市下水路を着手、その後農村部の整備もほぼ終えた。

 「上富良野町公共下水道事業基本計画」は54年(1979)に策定され、57年から用地買収、59年に汚水幹線管渠埋設工事に入った。平成元年から、汚水処理、汚泥処理の各施設が設置され「上富良野町浄化センター」の第1期工事完成よって平成3年(1991)7月1日、約900世帯を対象に供用開始となった。汚水処理はオキシデーションデイッチ方式がとられ、微生物が水にとけた酸素で呼吸し、汚水中の有機物を吸収分解しながら沈殿し、上澄みの水を消毒して富良野川へ放流する。沈殿した汚泥は濃縮、脱水して農業用たい肥としてリサイクルをめざした。

 公共下水道の供用開始にあたり、下水道管や浄化センターの増設など完成目標(平成22年)までに巨額の費用を必要とすることから、受益者(処理区域内にある土地の所有者)が建設費の一部負担をする「受益者負担制度」・「使用料」・水洗化等改造資金補助金」などについて町民の理解をはかるため、パンフレット「公共下水道のあらまし」をつくり、『広報かみふらの』でも下水道使用料と工事費の周知をはかった。受益者は供用開始から3年以内に水洗トイレに、風呂や流しなどの排水設備は1年以内に下水道に接続しなければならなかった。排水設備工事や水洗便所の改造工事は町内15社の下水道排水設備等工事指定業者が受けた。

 表7−49は公共下水道計画と水洗化の普及状況をまとめたものである。

 なお水洗化の内訳は、全道では93lが公共下水道、浄化槽を7lが平成6年度に利用している(『北海道環境白書96』)。上富良野町における浄化槽の活用もみられる。

 

 写真 上富良野町浄化センター

  ※ 掲載省略

 

 表7−49 公共下水道計画

区分

全体計画

1期整備

計画地区

2期整備

計画地区(予定)

3期整備

計画地区(予定)

計画年度

昭和57年度〜

平成22年度

昭和57年度〜

平成5年度

平成4年度〜

平成13年度

平成14年度〜

平成22年度

区域面積

469.0ha

(用途区域360.1ha)

98.0ha

220.0ha

(320.0)

149.0ha

(469.0)

計画人口

12,800人

3,780人

3,720人

(7,500)

5,300人

(12,800)

計画汚水量

8,100ml/日

1,620ml/日

4,860ml/日

8,100ml/日

排除方式

分流式

同左

同左

同左

処理方式

オキシデーションディック法

同左

同左

同左

汚泥処理方法

濃縮→機械脱水

同左

同左

同左

汚泥処分方法

緑農地還元

同左

同左

同左

処理施設系列数

5系列

1系列

2系列

2系列

処理場敷地面積

21,654u

同左

同左

同左

概算事業費

内管渠分

内処理場分

130億円

87億円

43億円

33億円

20億円

13億円

48億円

32億円

16億円

49億円

35億円

14億円

   水道課資料より

 

水洗化の普及状況                    数値は年度末

行政

人口

処理区域面積

処理区域内

水洗化

普及率

C/A

水洗化率

水洗化資金内訳

戸数

人口

戸数

人口

戸数

D/B

人口

E/C

貸付

補助金

自己資金

A人

ha

B戸

C人

D戸

E人

3

13,256

79.9

959

2,775

38

1,029

20.9

38.1

37.1

32

328

21

4

13,187

(17.4)

(575)

(462)

(385)

(786)

24.5

48.7

56.1

(53)

(268)

(64)

97.3

1,574

3,237

766

1,815

85

596

85

5

13,412

(18.0)

(414)

(1,057)

(424)

(964)

32.0

59.9

54.7

(14)

(146)

(264)

115.3

1,988

4,294

1,190

2,779

99

742

349

6

13,239

(11.9)

(229)

(425)

(296)

(670)

35.6

67.0

73.1

(32)

(158)

(106)

127.2

2,217

4,719

1,486

3,449

133

900

455

7

13,163

(73.5)

(303)

(729)

(256)

(642)

41.4

69.1

75.1

(25)

(126)

(105)

207.6

2,520

5,448

1,740

4,091

156

1,026

560

8

13,132

(17.58)

(189)

(313)

(259)

(554)

43.9

73.8

80.6

(13)

(109)

(137)

225.18

2.709

5,761

1,999

4,645

169

1,135

697

   水道課資料より

 

 ゴミ処理

 環境衛生のなかでも日常生活に関わりが深いのは、ゴミ(塵芥)と、し尿である。これら汚物(ゴミ、燃えがら・汚泥、し尿、犬・ねこ・ねずみの死体)の処理を、町と町民の協力によって上富良野町清掃条例(昭和31年8月1日施行)にしたがって行なうことは、町の清掃美観を保ち、衛生的な環境づくりの第一歩であった。30年代は環境衛生の重点は、蚊やハエの駆除対策であったが、経済成長による消費物資が増え、40年代にはゴミの収集処理に試行錯誤をしながら衛生的処理をさぐることになった。

 ゴミ処理は、31年(1956)に町内会連合衛生部において、馬車による収集(週に、商店街は3回、一般家庭は1回)が始まったが、年々その扱い量は増加し、36年に収集運搬は小型トラックに変わった。

 43年にはゴミ収集の能率化を図るために、オルゴールを鳴らして巡回を知らせ、ゴミ容器の統一(あっ旋のポリ容器)をすすめた。44年度「事務報告」によると、塵介処理事業は市街地内特別清掃区域全域を民間塵介処理業者(上富良野町清掃協会代表高橋安次郎、従業員2名)が塵介車(1.5d)でゴミ収集をして、処理捨場(富良野川旧河川埋立地)に埋設した。翌45年には既設処理捨場が飽和状態となったことから、旧河川埋立地へのゴミ投棄を禁じ、処理捨場に冬季の12月から翌年5月までの期限付きで西富地区と日の出地区を新設(広報『かみふらの』昭45・12)。この年、町は他町村の塵介焼却炉を視察、ゴミ対策を急いだ。また、町は従量制の塵芥収集を開始、ゴミパック(紙袋1枚13円)を販売委託店から購入して、ゴミをつめてだすように指導したが、無料化の声があがっていた(『北海タイムス』昭46・1・18)。46年東中地区にゴミ埋立地を新設、使用開始。塵介車は3.5dとなった。

 やがて、「ゴミ戦争」というゴミをめぐる環境問題が全国で起こってくるが、上富良野にもみられた(保健課資料「上富良野町塵芥処理場の経過について」)。52年に東中地域住民から町へ提出された「上富良野町の廃棄物処理(ゴミ処理)に伴う最終処分場の管理に関する覚書」には、ゴミ処分場よりの(1)汚水、(2)火による民有林への損失、(3)交通に及ぼす影響が提起された。その後、各項目に対する対策、補償などに町は努めてきたものの、未解決の部分もあった。平成2年頃からゴミの減量化の推進のもとに、塵芥埋め立て候補地を検討しながら、翌3年にゴミの焼却処理をもり込んだ「ゴミ処理基本計画概要」を練るなど新たな段階に入った。4年には一般廃棄物処理施設設置地区連絡協議会(岩崎会長ほか26名加盟)が発足、引き続き町と住民によるゴミ処理施設の用地、最終処分の排水処理や水量などの課題を協議した。

 協議案件であったゴミ処理施設の設置地域は、東中地区を断念したあと、全町7箇所の候補地から日新地区を選定し、5年度に用地取得、7年度に最終処分場を設置した。焼却施設については広域化も一時は検討されたが、8年からゴミ処理の中間処理施設(焼却・リサイクル施設)の建設が日程にのぼり、社会的に問題となってきた焼却施設から排出される発ガン性物質ダイオキシンへの恒久対策にも注意をはらった。

 

 写真 ゴミ埋立地

 写真 最終処分場

  ※ いずれも掲載省略

 

 表7−50 ゴミ処理状況の推移

年度

収集区域面積:㎢

収集世帯:戸

収集人口

:人

収集量:l

収集車輌数:台

収集管理費用:千円

1世帯当り費用:円

49年

2.0

3,100

9,380

3,550

1

9,640

3,109

50年

2.1

3,110

9,300

3,600

1

10,686

3,436

51年

2.1

3,140

9,380

3,700

1

12,562

4,000

52年

2.1

3,180

9,410

3,800

1

19,842

3,239

53年

2.2

3,270

9,460

3,850

1

28,708

8,779

54年

2.2

3,260

9,310

3,327

1

14,778

4,533

55年

2.4

3,180

9,158

3,170

1

16,229

5,103

56年

2.4

2,869

9,265

3,200

1

23,691

8,258

57年

2.4

2,925

9,507

4,802

1

25,424

8,692

58年

2.4

2,981

8,481

5,093

1

26,631

8,934

59年

2.4

3,033

9,468

5,160

1

25,720

8,480

60年

2.4

3,042

9,385

5,270

1

32,433

10,662

61年

2.4

3,988

10,221

5,399

1

29,003

7,273

62年

2.4

4,026

10,169

5,654

1

28,977

7,197

63年

2.4

4,016

10,064

5,868

1

27,057

6,737

平元年

2.4

4,071

9,965

5,984

1

30,648

7,528

2年

2.4

3,905

9,847

6,072

1

34,870

8,930

3年

2.4

3,881

9,740

6,187

1

28,767

7,412

4年

2.4

3,928

9,741

7,250

1

31,091

7,915

5年

2.4

4,173

9,842

6,303

1

16,636

11,176

6年

2.4

4,198

9,859

6,331

1

67,673

16,120

   (資料)一般廃棄物処理実態調査・保健課

 

 し尿処理

 人口の集中と、経済生活の変化によって、し尿処理も衛生的な処理が不可欠となっていた。戦後から20年代後半までは上富良野市街地のし尿は町直営により馬車で回収し(肥え溜め)、農家の堆肥として利用してきたが、人口の増加はし尿の増量となり、農家では農業の肥料がし尿から化学肥料へと移り堆肥を必要としなくなった。そこで、山間部にし尿を捨てて処分していたことは不潔でもあり、し尿処理施設の建設を必要とするようになった。

 行政の広域化が進行するなかで、昭和42年2月に事務共同化調査特別委員会が上富良野と中富良野町とで持たれ、当面する、し尿処理・塵芥処理・給食施設などの問題を検討することが持ち上がった(『日刊富良野』昭42・2・4)。翌43年には、し尿処理施設を自衛隊駐屯地があることから、防衛施設周辺整備法で上富良野草分地区に単独に建設することになった(『日刊富良野』昭43・1・7)。

 昭和43、44年の2カ年をかけて建設された上富良野町衛生センター(町営し尿処理場)は、防衛施設周辺整備法の適用を受けて投入設備、消化槽、脱離液処理施設、汚泥処理施設などの施設を備え、1日の能力は25`gで約2万人分を悪臭、河川汚濁もなく処理することができた(『北海タイムス』昭44・10・24)。操業開始にあたり、施設が効率的に稼働するために、町は(1)汲み取りが困難な冬季に集中させず、地域毎に定められた収集曜日に依頼する計画収集をすすめ、(2)し尿に金属物やビニール類などの夾雑物が混じって機械の故障とならないように、町民へ協力を促した(広報『かみふらの』昭44・9)。

 同衛生センターの処理方法は二次処理方式をとり、一次処理で30日間消化槽で嫌気性微生物により大腸菌などの有害生物を死滅させ、脱離液・消化汚泥及び消化ガスに分ける消化方式で行なわれ、二次処理は一次処理されたものに、酸素を送ってかくはん、好気性微生物で有機物を処理、沈殿池をへて上澄液を放流する活性汚泥方式であった。

 し尿浄化槽汚泥の処理は、富良野圏域として広域処理を行い、農地などへの還元を行なう見通しとなり、平成9年3月に「富良野地区広域市町村圏生活排水処理基本計画」を作成した。

 

 表7−51 し尿処理状況の推移

年度

収集人口

収集量

kl

投入量

kl

10g当りの汲取料金

昭和49年

12,200

4,894

4,552

27

50年

12,650

5,189

4,934

27

51年

12,700

5,348

4,988

31

52年

12,800

5,452

5,078

31

53年

13,000

5,606

5,221

31

54年

12,300

5,630

5,580

33

55年

12,177

5,464

5,428

35

56年

12,130

6,361

5,808

37

57年

12,699

6,633

5,691

39

58年

12,646

6,735

5,691

80

59年

12,677

70,54

5,851

80

60年

12,593

6,940

5,894

80

61年

12,524

7,214

5,985

85

62年

12,490

7,718

6,194

85

63年

12,364

8,308

6,484

85

平成元年

12,323

8,120

6,532

87

2年

12,013

8,158

6,924

87

3年

11,297

8,142

6,646

 

4年

9,397

6,646

6,646

 

5年

9,036

5,646

5,646

 

6年

8,190

5,453

5,453

 

   (資料)保健課

   ※昭和58年から20g当りの汲取料金です。

 

 写真 衛生センター

  ※ 掲載省略

 

 公害対策

 経済発展を続けた高度成長は全国各地に、大気汚染、水質汚濁、騒音、振動、悪臭などの公害による自然破壊をもたらし、国は昭和42年に公害対策基本法を定めた。45年4月に北海道公害防止条例を施行、公害から道民の生存権や環境権を守るものとなった。公害を発生する箇所や事業所は公害を未然に防ぐ義務を負うことになった。全道の公害苦情件数を49年までの推移でみると、大気汚染、水質汚濁に関するものが48年以降の減少傾向のなかで、騒音、振動、悪臭に関するものが横ばいか漸増している(昭和50年度版『道民生活白書』)。

 また、平成に入ってからの道内の公害傾向は、騒音が第1番に多く、次に大気汚染と悪臭がほぼ同数となっている。上富良野は平成7年度道の「騒音に係わる環境基準の地域類型指定市町」に含まれ、上川支庁の4市8町の1つであり、また「悪臭防止法に基づく規制地域の指定市町」でもあって上川支庁の4市4町に含まれている(『北海道の環境白書96』)。

 

 病害虫対策

 病害虫から水田、畑、山林を守る防除事業としてさまざまな対策がとられた。なお、ヒグマの駆除事業は例年行なわれていたなかで、46年4月末に大クマ2頭(親クマ200`・子クマ100`)など、5月初めに東中倍本でクマ母子クマ3頭(親150`、子100`)を上富良野猟友会のメンバー4人が捕獲した(『北海タイムス』昭46・5・9)56年に東中ゴミ捨場へ群がるカラスを除去した上富良野猟友会は、翌年カラスの剥製108羽をつくり、農作物の被害防止に役立つように町へ寄贈した(広報『かみふらの』昭62・4)。

 また、61年にハチの異常な動きが道内でみられ、上富良野の旭野でもスズメバチが草刈り作業中の人間を襲い、ショック死が発生し、殺虫剤を散布してハチの巣駆除に消防署員らが取り組んだ(『北海道新聞』昭61・9・20)。

 さらに、農薬の活用が増えるなかで、さまざまな対応が迫られた。空中散布は山林の笹刈りの労力不足を補うものとして、管内初の試みとしてヘリコプターで富良野市民有林に除草剤が散布された(『日刊富良野』昭42・6・29)。46年には上富良野で山林の野鼠対策として空中散布を2度にわたって行なった(昭和47年度「事務報告」)。

 町では殺虫剤・除草剤を扱うことによる事故死や中毒などの予防にあたって、45年には農薬を多用する6月、また56年4月広報「かみふらの」によれば、道の「病害虫適期防除と農薬危被害防止運動期間」(5月1日〜8月31日)に準じて農業関係団体と次のような重点指導をした。5月(農薬の指導)、6月(除草剤の使用と注意事項)7月(農薬の保管と管理)8月(農薬の空ビンと空袋処理)。

 

 墓地

 上富良野には5つの共同墓地が存在するが、市街地に人口が集中するにしたがい、中央共同墓地への需要が増し、昭和54年に弘照寺より寄付を受けるなど、56年と平成3年に土地買収をして墓地区画を確保、整備改善を行なってきた。50年には中央共同墓地に併置された火葬場を改築、火葬炉と葬斎場を設けた。平成元年の「上富良野町総合計画」によれば、葬斎場は老朽化、設備の更新を必要とし、さらに同計画の総括意見のなかに、昭和63年に完成した国道237号線上富良野バイパスが、墓地や葬祭場が通行客の目に近い位置になったことから、墓地は人生の「終焉の地にふさわしい公園的な要素を持った整備」を要望する見解もあった。

 なお、さかのぼって昭和27年に制定された「上富良野町墓地火葬場使用条例」は50年1月1日に廃止され、あらたに同日「上富良野町墓地の設置及び管理等に関する条例」が施行され、主に葬祭場使用料が1体につき、15歳以上が6,000円、15歳未満は3,000円などであった。

 

 写真 上富良野町営葬斎場

  ※ 掲載省略

 

 表7−52 上富良野町の共同墓地

基地名

面積

所在地

登記年・月・日

中央共同墓地

130,544u

上富良野町1783〜2

大正2年〜平成3年

東中共同墓地

24,462u

上富良野町4136

大正15年

里仁共同墓地

4,904u

上富良野町3422

大正2年

江幌共同墓地

7,889u

上富良野町2219

明治44年

静修共同墓地

4,868u

上富良野町3401

大正2年

   (平成9年保健課調べ)