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7章 現代の上富良野 第6節 十勝岳と防災

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2、昭和63年〜平成元年の噴火

 

 噴火の前兆

 昭和63年になると、十勝岳では有感地震が多発しはじめ、12月になっても火山性地震は収まらず、上富良野では14日に町、消防、自衛隊、警察、NTT、北電からなる火山情報連絡調整会議が開催され、今後の防災・情報連絡体制の確認と住民に対する避難の周知徹底を申し合わせた。ところがそれから2日後の12月16日午前5時24分、十勝岳が噴火し、これが平成元年3月5日まで計21回に及ぶ噴火の始まりであった。

 

 本格的な噴火の始まり

 その後18日にも小規模な噴火があり、上富良野ではこの間、火山情報連絡調整会議や消防全体会議、役場庁内関係会議などが開催され、白銀荘への情報収集用の消防雪上車を配置するとともに、防災無線で火山情報を提供したり、新聞各紙に火山活動情報のチラシを折り込むなど、一般住民への火山情報の周知徹底に努め、登山者に対しても注意看板を設置した。

 しかし19日の午後9時48分ごろ遂に62−U火口が噴火し、火柱をともない噴火口から約1`離れた避難小屋にむかって泥流が発生すると、上富良野では午後11時に酒匂佑一町長を本部長とする十勝岳火山噴火災害対策本部が設置された。

 11時50分には清富、日新、草分、日の出地区の住民に戸別受信機を通じて避難準備を呼びかけ、上富良野西小学校、農協、各地区の公民館、高田幼稚園などを緊急避難所として開設し、避難用のバスが用意された。

 翌20日午後3時30分には、町長以下幹部職員による防災会議が開催され、区域内の寝たきり老人を抱えた5世帯に非常用のタンカを備え、身障者世帯42戸に対し、万一の場合町立病院を避難所とすることが決定された。またこの日、災害対策本部から避難地区の小中学生に自宅待機が命ぜられたが、避難準備勧告の対象区域が徹底せず、登校した児童もあった(『朝日新聞』昭63・12・22)。

 翌21日午前9時からは住民会長会議が開かれ、役場等の関係機関から19名、住民会から28名が参加した。ここでは町長から現在の観測状況が報告され、泥流発生の際の避難場所、避難方法の確認、周知徹底が行われたが、住民側からは社会教育総合センターが避難場所から外れていることや、町の観測体制に対する質問がでた(『北海道新聞』昭63・12・21・夕刊)。一方午後3時15分には、避難場所別の世帯者を確認し名簿を作成することが決定された。

 

 写真 平成元年の十勝岳

 写真 町の災害対策本部

  ※ いずれも掲載省略

 

 情報伝達ルートの改善と泥流監視

 また22日以降、情報伝達ルートの整備も急がれ、同日午後には上川支庁と上富良野の間に災害情報FAXが開通し、翌23日1時30分には旭川地方気象台との直通FAXもつながった。特に気象台とのFAXは、19日の噴火で日新地区に第一報が伝わったのが、噴火から57分後の10時45分だった(『朝日新聞』昭63・12・23)こともあって、これまで旭川地方気象台→北大有珠山観測所→上川支庁→上富良野町→住民という順で送られていた火山情報を、気象台から上富良野町及び上川支庁へ直接に通報できるようにしたものであった。

 一方泥流監視装置の設置については、21日の住民会議で住民から提案があり、また22日午後には北大有珠火山観測所の岡田弘所長も、記者会見で一刻も早く泥流監視装置を設置する必要を訴えた。そこで24日上富良野、美瑛両町が自衛隊の協力のもと、共同で十勝岳の山腹に応急的な泥流監視装置を設置した。

 この装置はいわゆるワイヤーセンサーで、雪面にやぐらを組んで電線をはり、泥流が通ると電線が切れ、白銀荘に取り付けられたランプが消えてブザーが鳴り、白銀荘に常駐する上富良野町職員が異変を無線で町に連絡する仕組みであった。設置場所は十勝岳避難小屋上部から美瑛町白金温泉方向と上富良野町吹上温泉方向にむけて、それぞれ60b間隔で5ヵ所ずつ計10ヵ所だった。

 しかし泥流監視装置と白銀荘の間をケーブルで結ぶ作業に手間取り、24日中に作業が完了せず、翌日作動することとなった。

 

 写真 ワイヤーセンサーの設置作業

 写真 白銀荘の監視装置

  ※ いずれも掲載省略

 

 12月24、25日の噴火

 ところがその夜10時12分、再び本格的な噴火が起こった。この噴火にともない、美瑛町の望岳台・白金温泉方向に泥流(後に火砕流と判明)が発生し、火口から約2`離れたスキー場の第1リフト付近で止まった。また翌25日の午前0時49分にも再び噴火して火砕流が望岳台方向に発生し、途中で分岐して一方は上富良野町の振子沢方面に、もう一方は山の中腹にある避難小屋から100bの地点にまで迫った。このような状況に対応するため、道は午後10時42分に十勝岳噴火北海道災害対策本部を設置し、情報収集にあたることとした。またこの噴火により国道237号線、道道美沢上富良野線ほか3線が通行止めとなり、JR富良野線が運休し、26日からは暫定ダイヤで運行された。ちなみに道路、鉄道とも30日には平常通りとなった。

 一方上富良野では、この噴火が泥流警報装置が設置完了する前に起こったうえ、噴火から20分後の午後10時32分になって、やっと日新、草分、日の出地区の180世帯730人に「避難命令」が出された。これは旭川地方気象台が火柱を確認して、美瑛・上富良野両町に連絡するまでに13分、両町が「避難命令」を出すのに5〜7分かかったため、合計20分もの時間が必要だったのである。とすれば、もし大正噴火規模の泥流が発生していたら、火口から20`圏内の住民は土砂に飲み込まれていたことになり、観測・監視体制の不備が指摘された(『北海道新聞』昭63・12・26)。しかもこの「避難命令」にしたがい防災計画通りに町の指定避難所に避難したのは、47戸136名と住民全体のわずか18.6lに過ぎず、残りの住民は独自の判断で安全な場所を選んだり、親類や知人宅へ身を寄せ、家畜の世話を理由に全く避難しない住民も39名いた。これに対して町対策本部は、2度めの噴火直後の午前1時、日新、草分、日の出地区の命令に応じない住民に対して再度「避難命令」を出し、町職員や警察所員が説得にまわったが、結局全体の避難状況を把握できず、午前10時前にやっと全容を把握することとなった。さらに「避難命令」は続行中であるにもかかわらず、避難した226名のうち37名が自主判断で帰宅し(『毎日新聞』昭63・12・26)、噴火以前の避難訓練からは予測もつかなかった住民の意思と町の避難態勢のズレが明らかになった。

 

 避難解除をめぐって

 24、25日の噴火で一時中断していた泥流監視装置の取り付けは、26日午後4時15分に完了し、運用が開始された。

 また29日には旭川土木現業所が6基(上富良野側には3基)、31日には北海道開発局が6基(上富良野側には3基)の泥流監視装置の設置を完了し、これで町、道、国それぞれの泥流監視装置が作勤しはじめた。

 一方26日になると、町対策本部は、社会教育総合センターに寝泊まりしている避難住民の疲労と、事実上ほとんどの住民が在宅状態になっていることを理由に、監視装置の運用を機に「避難命令」を解除しようとしたが、道は「もっと大きな噴火が起こる可能性がある」とする専門家の見解を受けて、解除に慎重な態度をとり、泥流対策をより完全なものとするよう町に求めた(『北海道新聞』昭63・12・27・夕刊)。そのかわり翌27日からは、昼間だけ住民を一時帰宅させることとなった。

 28日午前8時には、横路孝弘北海道知事が視察に訪れた。その後知事は、記者会見で「避難命令」解除には否定的な見解を示した(『毎日新聞』昭63・12・29)が、同日午後酒匂町長はやはり記者会見で、29日に緊急避難訓練を実施すること、道の泥流監視装置の設置で当面の泥流避難対策が整備されることから、30日にも「避難命令」を解除し、住民に自宅で正月を過ごさせたいと述べ、道防災会議で認められない場合は、町長の決断を優先させることを表明した(『朝日新聞』昭63・12・29)。

 

 写真 横路道知事の視察

  ※ 掲載省略

 

 避難訓練と避難命令解除

 29日の緊急避難訓練は、午前10時より日新、草分地区の一部で実施され、29人が参加した。訓練は泥流の発生を想定し、役場職員の指示に従い住民が高台に避難するというもので、自衛隊のヘリコプターも参加して実施され、自宅から避難場所への所要時間、避難場所から救助ヘリコプターへの合図、家族内での避難場所の確認などが行われた。

 またこの訓練と泥流監視装置の設置、さらに31日には日新地区に避難着用救出へリポートも設置されることから、避難対策のめどはついたとして、町災害対策本部は再び「避難命令」の解除について道と協議した。道では29日午前中から知事も出席して北海道防災会議地震対策部会火山専門委員会が開催され、火山学者は十勝岳の活動がまだ上向き傾向で今すぐに終息はせず、今後も泥流に対する厳重な警戒と対策が必要として、解除には最後まで消極的な意見を主張した。しかし上富良野町の「避難命令」解除の要請を考慮した道は、@泥流監視装置が正確に機能する、A泥流発生の場合、安全かつ迅速に避難できる、B「避難命令」を再度出した場合、住民が確実に「避難命令」に従う、という3点が保証されることを前提に(『毎日新聞』昭63・12・30)、「避難命令」を「避難準備命令」に切り換える妥協案を認めた(『読売新聞』昭63・12・30)。これにより30日午後3時、「避難命令」は「避難準備」に変更され、住民は6日ぶりに自宅に戻った。

 

 避難体制の強化

 一方「避難命令」が解除された12月30日午前10時30分には、第1危険地域内の住民会長、農事組合長、町内会長による会議が開催され、避難態勢の説明がなされた。その席上で酒匂町長は、対策本部と住民との考え方に食い違いがあることを認めつつ、@泥流が発生したら状況に応じて小高い丘など安全な場所に避難すること、A泥流の速度が遅ければ町指定の17カ所の避難所に集まること、B町はどの避難所にだれがいるか把握する態勢を整えること、C市街地の住民は避難の際なるべく車を使わないこと、D体の不自由な人は地域全体で手助けすることなどを申し合わせた(『朝日新聞』昭63・12・31)。

 一方町対策本部は、危険区域のなかには「避難命令」がでた場合、とりあえず緊急に避難できる丘などがあること、また避難所を一括すれば本部は対処しやすいが、住民感情も無視できないことなどから、避難防災体制の全面的見直しに取り組んだ(『朝日新聞』昭63・12・29)。28日午後には日新、草分、日の出地区の住民に対して、「大噴火が起きた場合、どこへ避難しょうと思っているか」について意向調査を実施し、その結果を住民台帳に書き込むこととした(『朝日新聞』昭63・12・30)。さらに年明けの昭和64年1月3日には泥流緊急避難区域の再検討が行われ、泥流危険区域、避難場所を地域ごとに明示した新しい「地区別緊急避難図」を住民に配付し、5日には「全町危険区域図」も発送した。また11日には住民それぞれの避難場所を周知、徹底させるため、2,075世帯6,374名の「避難者カード」を手書きで作成し、翌日発送した。

 14日には草分、日の出地区の避難訓練が実施された。この日は前日から20回以上にわたる火山性地震が観測され、緊張のなかで午前10時から訓練が開始された。対象者は同地区の住民84世帯327名で、午前9時57分に十勝岳の泥流監視センサーが泥流を感知したという想定で、防災無線を使って各戸に連絡、住民らは「避難者カード」を携えて避難場所へ向かった。しかしこの日は雪のため、負傷者をヘリコプターで収容する訓練ができず、かわりに救急車による救助訓練が行われた。

 参加者は74世帯241名で、早い人は10時7分、遅い人で10時17分には避難が完了し、訓練は一応「成功」と位置づけられた(『毎日新聞』平1・1・15)。

 

 写真 消防職員による救助訓練

  ※ 掲載省略

 

 災害対策費補正予算の可決

 住民の避難体制の整備という短期的な対策と平行して、上富良野では災害対策に関わる予算審議が行われ、昭和63年12月29日と平成元年1月30日の両日、平成元年度臨時町議会が招集された。ここで可決された災害対策費補正予算案には、主な防災対策として、@避難路を確保するための圧雪車、雪上車の購入、A泥流監視装置の設置、B防災行政無線の戸別受信機の全戸配置、C屋外放送塔の増設、D移動無線機の購入、E噴火災害対策にともなう中小企業融資、及び利子補給制度等の経費などが挙げられていた。このうち圧雪車や雪上車は、既に1月6日に各1台ずつ購入され、防災行政無線の整備は、十勝岳が小康状態となった平成元年3月21日から行われた。また緊急避難区域→第2危険区域→その他の区域の順に全戸に戸別受信機が配置され、5月10日に設置が完了した(『1988−89年十勝岳噴火災害対策の概況』)。緊急危険区域の島津地区では、2基の屋外放送塔を設置するなど、災害時の迅速な連絡網の整備が行われた。さらに中小企業者への災害資金は、温泉地区や町の商工業者が、噴火による売上減収に見舞われたことから、経営安定を図る運転資金となった(『広報かみふらの』357号、平1・2)。

 

 関係官庁への陳情

 一方防災対策に対する関係官庁からの財政的援助を得るために、陳情も始まった。陳情は1月10日に上川支庁、旭川土木現業所、旭川開発建設部、翌11日に北海道、北海道開発局、札幌管区気象台、14日に工藤万砂美開発政務次官、18日に国土庁、文部省、消防庁、運輸省、気象庁、自治省、農林水産省、北海道開発庁、建設省に対して行われた。またその内容は、@十勝岳の火山活動観測体制の強化、A恒久的な泥流監視体制の早期設置、Bダムなど総合的な泥流防止のための諸施設の早期整備、C戸別受信機・屋外放送塔などの防災行政無線の整備、D十勝岳火山噴火対策にともなう財政措置、E避難駐車帯の設置と避難用道路、橋梁の拡幅などの整備、F旅館等の休業にともなう緊急資金の手当てなどの救済措置、G農業用水利の水質調査と確保などで、臨時町議会で決定された防災対策への援助を中心とするものであった。また道は、上富良野・美瑛両町の要望もあり、国に対して、これらの陳情内容とともに、両町に対する活動火山対策措置法に基づく避難施設緊急整備地域の指定を求めた。活動火山対策措置法は、噴火その他の火山現象により著しい被害を受けるか、または受ける恐れのある地域に避難施設などの整備を実施し、地域住民らの安全や生活の安定などを図ることを目的とした法律で、この指定を受けると補助金の交付に特別措置が講じられる(『十勝岳−防災のあらまし−』)。3月20日には、上富良野町は美瑛町(一部の地域を除く)とともに全域がその指定を受け、22日にはそれに基づく避難施設緊急整備計画を国に申請し、30日承認された。その内容は、@避難道路として道道、町道の整備、A災害弱者および負傷者等の緊急輸送に使用するヘリコプター離着陸用広場の建設などで、これらの計画を平成元年度から平成4年度を目標に推進することとし、計画達成に要する概算事業費は4,450億円と見積もられた。

 また3月25日には、避難情報施設等整備費補助金の補正予算が道議会で議決され、戸別受信機3,300台、屋外放送塔1基、移動系無線機35台、雪上車1台、圧雪車1台の購入に対する補助金8,410万円が、上富良野に交付されることとなった。

 

 その後の噴火と泥流監視体制の整備

 12月24日から25日にかけての噴火以降、十勝岳は12月30日、年明けの1月1日、8日と噴火を繰り返し、13日から14日にかけて20回以上の火山性地震が観測された。16日午後6時55分には通算10度めの噴火が起こり、直後小規模の泥流が発生した。午後6時58分には美瑛町側の泥流監視センサーが作動したことから、午後7時17分、日新、草分、日の出地区に「避難準備」の指示がだされ、日新地区では6世帯26人が高台などに自主避難した(『毎日新聞』平1・1・17)。ただこの日は悪天候のため、センサーの作動が泥流発生によるものかどうかは確認できず、18日にセンサーの点検を行った結果、泥流ではなく火砕流によるものと判明した。

 その後の十勝岳は、1月20日、22日、27日、28日、2月1日、4日、6日、7日、8日と小規模な噴火を繰り返したが、3月5日の噴火を最後に一応小康状態にむかった。この間上富良野では、1月23日に町独自で新たに泥流センサーを増設し(『毎日新聞』平1・1・23)、3月14日には道が設置した振動センサーが上富良野・美瑛両町一基ずつに引き渡され、午後1時より稼働した。しかし応急的に設置された泥流監視装置にはセンサーの誤作動もあり、1月18日には北海道開発局のセンサーが小動物にかじられたことから誤作動を起こした。また2月20日、28日にも、やはり開発局のセンサーが積雪による重みのため、センサーと無線機を結ぶケーブルが断線して誤作動を起こした。さらに4月17日、20日には、上富良野町の泥流センサーが接触不良のため誤作動し、泥流センサーの点検を頻繁に行う必要性が認識された。

 一方噴火のさなかに設置された仮設的な泥流監視装置ではなく、恒久的な泥流監視体制の早期設置は、国への陳情のなかでも大きな位置を占めていた。そこで平成元年12月23日、道が9基、北海道開発局が12基の計21基のワイヤーセンサーと振動センサーを設置した(振動センサーは計3基)。これにより泥流監視装置の恒久化がはかられ、泥流が発生した場合、テレメーターで上富良野・美瑛両町や国、道の監視盤に即時に状況を伝える体制ができあがった。

 

 噴火にまつわる調査

 平成元年1月下旬になると、噴火に関する本格的な調査も始まり、23日には北海道大学の勝井義雄教授を代表とする現地集中調査が行われた。研究課題は「1988年十勝岳噴火の推移、発生機構および社会への影響に関する調査研究」で、東北大学、東京大学、京都大学、九州大学、帯広畜産大学、道東海大学、弘前大学、岡山大学、東京工業大学の地球科学、砂防工学、人文科学の専門家28名が参加した。具体的な調査項目は、火山活動や泥流発生のメカニズム、危険地域住民の避難行動など多岐にわたり、3月には研究課題名で報告書を刊行した。特に危険地域住民の避難行動に関しては、町の「避難命令」に住民の2割しか従わなかった点に注目が集まり、2月20日に東京大学新聞研究所「災害と情報」研究班が、日新、草分、日の出地区の緊急区域と第二危険区域の全世帯に「十勝岳噴火への住民対応行動に対する調査」を実施し、先の報告書に大幅加筆して『1988年12月の十勝岳噴火をめぐる自治体、住民の対応−「見えない」危機との戦い−』(以下引用する場合は、『十勝岳噴火をめぐる自治体、住民の対応』と省略)をまとめた。

 

 対策本部の解散

 十勝岳が小噴火を繰り返しつつ次第に小康状態にむかうなか、上富良野では、1月21日に上富良野西小学校で避難訓練が実施され、24日にはアマチュア無線クラブと災害対策本部の緊急時の協力についての打ち合わせ会が開催された。また30日には日新、草分、日の出地区の健康調査が実施されるなど、避難・防災体制の整備が進んだ。2月になると、1日には上川南部消防事務組合の救助救出訓練が実施され、7日には第1監視所仮設監視小屋が完成した。10日には富良野川砂防除石工事にともなう避難訓練が実施され、翌11日には町、消防、自衛隊、警察による泥流センサーの点検、火山噴出物の採取など十勝岳火山現地調査が行われた。15日には上富良野小学校でも噴火を想定した避難訓練が実施された。3月になると、5日を最後に噴火が起こらなくなったが、7日には再び災害対策本部と上川南部消防事務組合の合同で、夜間の噴火を想定した防災訓練が行われた。4月3日には町民の防災意識の向上と現状への理解を求めるため、北大有珠火山観測所の岡田弘所長による防災講演会が開催され、「十勝岳の噴火と火山観測」と題した講演が行われた。ちなみにこのような講演会はその後も開かれ、5月24日にはNHK解説委員伊藤和明が「火山噴火と防災」と題して、また9月1日には再び岡田所長が「火山噴火予知と防災」と題して講演を行った。

 このように、十勝岳の火山活動が3月5日以降一応小康状態となり、各種の防災施設の整備が進められたことから、6月1日上富良野町は十勝岳噴火災害対策本部を警戒本部に改め、同日日新、草分、日の出地区の「避難準備」を解除した。また道でも十勝岳噴火北海道災害対策本部、および同上川地方本部が解散され、十勝岳情報連絡班を設置し、国、関係町と連携をとりながら、十勝岳の火山情報の収集に努め、即座に非常配備体制に移行できるようにした(『1988−89年十勝岳噴火災害対策の概況』)。

 

 写真 岡田所長による防災講演会

  ※ 掲載省略

 

 避難・防災体制の問題点総括

 結局上富良野の避難体制や防災対策は、噴火に直面したことにより、さまざまな問題点を表面化させた。噴火時期の予知に関しては、昭和37年の噴火の時も不備が指摘されていたが、その後観測体制が整備されたにもかかわらず、相変わらず予知の困難さが痛感させられた。一方泥流災害の特徴は、時速60`以上という泥流のスピードであり、その発生を探知するのは泥流監視装置である。この装置こそまさに「住民の命綱」(『毎日新聞』平1・1・18)だが、ただし積雪や雷、小動物にかじられて誤作動する場合もあり、その信頼性を高めるためには定期点検を欠かすことはできなかった。

 一方上富良野は、大正15年の泥流被害の教訓から一定の防災対策が事前にとられており、特に住民に対して「緊急避難図」を全世帯に配付し、泥流危険区域を明らかにしている数少ない火山周辺自治体(『十勝岳噴火をめぐる自治体・住民の対応』)として、火山関係者の評価を得ていた。ところが12月24日の噴火では、町が出した「避難命令」に従ったのが住民の2割足らずで、しかも「避難命令」の解除時期に関して、道と町の意見の対立がみられた。このような状況に対して、町はまず直ちに危険地区を見直して、住民の実情にあった「緊急避難図」を作成した。また道と町の意見対立に関しては、噴火の危険性とともに住民感情をより配慮しなければならない町と、噴火時期や終息時期の予知が困難で、しかも大規模な噴火の可能性がゼロとはいえない以上、より広範囲に長期的に避難体制をとろうとする火山学者、そして慎重になりがちな学者の意見と町の状況のバランスの上で判断を下そうとする道の立場の違いが浮き彫りになり、対立はある意味で当然であった。しかしそのなかで町は、あらゆる手段を講じて火山情報を住民に伝え、その要望に答えるべく最大限の努力を惜しまず、やるべきことは尽くしたといわれている(『十勝岳噴火をめぐる自治体・住民の対応』)。しかし国への陳情にみられるような抜本的な防災対策が実現し、防災の専門家でもない町長が、「避難命令」の発令や解除の最終決断をする現状が改善されたとしても、泥流災害が泥流のスピードとの勝負である以上、避難時期の判断や避難場所の選択は、実は住民個々の判断に負うところが少なくない。とすれば、昭和63年の噴火で「避難命令」が出されているにもかかわらず、「避難するほどの危険を感じなかった」(『十勝岳噴火をめぐる自治体・住民の対応』)という個々の判断で命令に従わなかった住民を、町がどう安全に導くかという問題は依然として残されている。