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7章 現代の上富良野 第2節 現代の農業と林業

989-994p

5、農業団体

 

 上富・東中両農協の合併

 昭和36年に農業基本法の関連法案として、農業協同組合合併助成法が制定されている。直接には合併による農協事業の能率化や近代化を意図したものであったが、この時期、全国で進められた町村合併ともからみ、この法律に沿って1町村1組合の方向や、農協広域化の促進が強く打ち出されてくるのである。

 上富良野でも早速、これに対応したものと思われる動きが出ている。翌37年4月、上富良野農業の振興のためには、2つの農協が1つになって事業を推進することが適切であると、農業委員会が海江田武信町長に善処を申し入れたのである。これをきっかけに町長、農業委員会、上富良野農協、東中農協の4者で合併に関する協議が、2年近く続くのだが、町政の混乱もあり39年から40年までの2年間は一時中断。41年2月に農業委員会から町長、両農協に合併の要望書が提出され、再び協議は再開されるのである(『組合の歩み』、『広報かみふらの』107号)

 北海道農業協同組合整備合併促進委員会などがまとめた「農協合併問答」が『組合の歩み』に引用されているが、そこには合併の効果として以下のような項目が掲げられている。@営農指導体制の充実を図ることができる、A共同利用施設の拡充を図ることができる、B大量取引による有利性が発揮できる、C信用力が増大し資金量が増加する、D市町村行政との密着化により農業経営改善の促進を図ることができる、E農協事業管理費の節減と農家負担の軽減ができる。

 合併のメリットは当然としても、組合員全体の賛同を得るためにはまた別の難問がある。協議が再開されて以降も、作業は慎事に進められている。例えば、協議の場は最初が農業行政調査会、次が農業振興協議会、そして農協広域化促進化協議会と順に名称を変更していることからもそれは分かる。両農協が総代会、総会をそれぞれ開き、合併についての調査研究に関する役員への一任を取ったのは42年2月。ここからようやく合併の具体的な作業が始まり、43年2月28日に合併の予備契約書に石川清一上富良野、中西覚蔵東中両組合長が調印。3月28日の両農協総会決議を経て、5月1日に新たな上富良野農協がスタートした。

 合併によって事務手続き上は上富良野農協が存続組合となったため、事務所は旧上富良野農協に置かれ東中農協は東中支所となった。また、役員は組合長に石川清一、専務理事に中西覚蔵が就任、理事・監事については旧両農協の役員全員が、合併後1年間留任することになった(『上富週報』昭43・5・3)。

 

 苦境からの再出発

 上富良野農協と東中農協が合併し新しい上富良野農協が発足した昭和43年は、既に述べたように第一次農業構造改善事業が上富良野においても実施に移された初年度であった。そのなかでライスセンター建設をはじめとする農業経営改善に関する様々な事業が着実に推進された。また43年11月にホクレン上富良野給油所オープン、翌44年6月には車両整備工場オープン、さらに44年8月初めての農協大型店舗であるかみふマーケットもとまち店のオープンといった新規事業も進められるなど、新たに出発した上富良野農協は合併によるスケールメリットを生かし、信用、販売事業を含め着実に事業を進展させていったのである。

 だが、昭和45年5月に組織を揺るがす事件が表面化した。当時の農協経理課長が雑穀相場に失敗、3億円近い公金を横領していた事実が発覚したのである。この時期の上富良野農協の年間の純利益は2,400万円程度(『北海道新聞』昭45・5・7)だったといわれる。事件に対する衝撃の大きさは想像できるが、石川清一組合長をはじめとする役員たちは連日のように役員会、総代協議会などを重ねて対応策を協議、全役員は責任をとるべきとの結論から辞表をとりまとめた上で、5月21日の総代会で再建特別委員会(委員長・谷与吉)を設置して再建に取り組むことになった(『農協だより』第67号、昭45・6)。

 再建はまず同年6月1日付の機構改革と、これに伴う人事異動からスタートしている。また、8月8日には組合員約200名が参加して臨時総会を開催、事件の全容が報告されるとともに、再建特別委員会から提出された損失処理案の骨子が原案通り承認された(『農協だより』68号、昭45・9)。具体的には約2億9,300万円の損失金のうち約4,800万円を役員負担の3,500万円や保証人などの弁済、法定積立金など約4,000万円の取り崩しで充当、残りの欠損金2億500万円については相場への投資を扱ったカネツ商事に弁済訴訟を提起する一方、残金は年次事業利益で補填するというものであった。また、運営資金確保のため全組合員に出資金1口当たり300円、田反当たり1,500円、畑反当たり600円の再建基金の積立を要請、これは組合員平均10万円に相当したが、この積立で1億円余りの資金を確保、組合員一丸となった再建の方向が打ち出されたのである。

 さらに、臨時総会を前に石川組合長、中西専務理事以下全役員が総辞職、総会では役員の改選も行われた。その結果、理事には20名の内新人が6名、監事は5名の内新人が3名選出され(『農協だより』68号、昭45・9)、組合長理事には高木信一、専務理事には菅野學、代表幹事には高士茂雄がそれぞれ就任、世代交代も行われるなかで上富良野農協再建の一歩が踏み出されることになった。なお、先に触れたカネツ商事に対する民事訴訟は昭和56年10月、札幌高裁の職権による和解が成立、8,200万円の和解金が支払われている(同138号、昭57・1)。

 

 農協事業の進展

 45年からは米の生産調整が始まり、翌46年は冷害・大凶作に見舞われるなど、再建へ向けて出発した上富良野農協を取り巻く環境は厳しいものであった。だが、事件発覚から1年後の46年6月1日付け『北海道新聞』に「再建へまい進・上富良野農協新役員らやる気十分」という見出しの記事が掲載されているように、厳しい環境のなかで農協は一歩ずつ再建を果たし、その後も上富良野における農業経営の改善や基盤強化のための多くの事業に取り組んでいったのである。

 そのなかから年度順に主な事業や取り組みを既に触れたものを含め列記すると、まず昭和40年代では47年の本所事務所・店舗の改修、48年の農機具整備工場の新設、黒毛和牛種子返し制度の導入、49年には馬鈴薯定温倉庫の新設などがあった。

 昭和50年代に入ると、50年の大規模畑麦作団地育成事業による麦乾燥貯留施設、稲作転換促進特別事業によるタマネギ貯蔵庫の建設、52年にはニンジン予冷庫の建設、54年には日本合同缶詰工場を買収、また豆類調整工場を新設した。55年にはニンジン選果施設を増設、56年には麦バラ保管出荷施設(サイロ)を新設、57年には東中支所事務所・店舗の新築があり、58年にはAコープかみふ店をオープン、馬鈴薯集荷貯蔵庫、農機具整備センターを新築、59年にはニンジン洗浄施設の新築、食品工場冷凍施設の増築などが行われている。

 昭和60年以降では60年に本所事務所が増改築されたほか、62年から町と農協が事業主体となり新農業構造改善事業がスタートしたが、61年に完成した上富良野町農作物試験場敷地内に農業技術センターを新設、土壌診断機器などが導入され、上富良野の農業技術拠点としての役割を担うことになった。また、新農業構造改善事業としては、平成2年、富原地区に堆肥盤(堆肥生産施設)が完成している。

 信用事業、販売事業については、ここ10年間の実績と推移を掲げると別表(表7−15、16)の通りだが、この節の冒頭でも述べたように、農業を取り巻く環境は、農民の高齢化や後継者不足、農産物の市場開放圧力、価格の低迷など多くの問題に直面し、厳しさは増す一方である。そのため昭和59年に町と農協は五カ年計画である第一次農業振興計画を策定、以来平成元年の第二次、平成6年の第三次と計画は引き継がれ、21世紀に向けた上富良野農業のあり方を探ると同時に、生産力や経営体質強化のための取り組みを進めている。そのほかの関連事業としては、63年に上富良野町農業大学校を開校、またこの年から日の出公園を会場に消費者との触れあいを目的とした第1回農業フェスティバルを開催し、年に一度のイベントとして育っていくなかで、農民と他産業に従事する町民たちとの交流に大きな成果をあげている。

 平成7年度における正組合員数は831名(個人828、法人3)。また、生産組合員の実践のなかでの意見が理事会に反映されることを目的に、昭和55年から従来の生産組織を15部会、3組織に統一して作物生産部会(表7-17)が設けられた。東中農協合併以降の歴代組合長については次の通りである。

  初代・石川 清一 就任・昭和43年3月

  2代・高木 信一    昭和45年8月

  3代・菅野  學    昭和54年4月

  4代・内村良三郎    平成4年12月

  5代・井村  寛    平成9年4月

 なお、平成4年に農協マークは「稲穂」から「JA」に変わり、呼び名も「JAかみふらの」の愛称に統一されたが、その一方で経営強化のため富良野沿線農協の合併に関する検討も進められており、それまで合併問題の基礎調査を行ってきた富良野地区農協組織強化研究会に代わり、平成5年には富良野地区農協合併検討委員会が上富良野農協をはじめとする沿線農協によって設置されている。

 

 表7−15 貸付金・預金の推移

 

貸付金

貯金

昭和61

13,379,675

8,463,290

昭和62

13,005,813

8,653,906

昭和63

11,788,514

9,568,871

平成1

11,359,000

10,264,000

平成2

11,072,000

12,387,000

平成3

10,410,000

13,289,000

平成4

10,271,000

14,019,000

平成5

10,723,000

14,684,000

平成6

10,978,000

14,529,000

平成7

10,988,000

14,217,000

   出典:各年度『農協案内』

 

 表7−16 農産物取扱高推移

 

米麦

青果

その他

総額

昭和61

2,640,377

1,827,107

1,620,515

6,087,999

晒和62

1,858,242

1,947,414

1,616,543

5,422,199

昭和63

2,108,089

2,170,410

1,758,677

6,037,176

平成1

2,039,538

2,022,091

1,491,601

5,553,230

平成2

2,014,977

2,537,904

1,506,085

6,058,966

平成3

1,844,700

3,332,893

1,957,102

7,134,695

平成4

1,485,559

2,925,519

1,785,819

6,196,897

平成5

553,286

2,917,117

2,265,908

5,736,311

平成6

1,978,676

2,643,544

1,567,060

6,189,280

平成7

1,531,416

2,627,774

1,505,982

5,665,172

   出典:各年度『農協案内』

 

 表7−17 作物別生産部会 (平成7年度現在)

名称

会長

大根部会

伊藤 孝司

キャベツ部会

道言  忠

人参部会

岩崎久仁男

花き部会

北村 碩啓

ビール大麦部会

富田庄四郎

豆作部会

富田 弘司

食用馬鈴薯部会

益山 裕和

種子馬鈴薯部会

石沢 賢一

甜菜部会

石沢 賢一

アスパラガス部会

斉藤 光久

たまねぎ部会

前浜 正一

メロン生産部会部会

西村 昭教

養豚部会

辻  利一

肉牛部会

篠原  弘

酪農部会

伊藤 貞夫

上富良野町米麦改良協会

内村良三郎

特産物生産組合

高橋 博男

小麦採種組合

松藤 良則

 

 

 写真 麦バラ保管出荷施設

 写真 昭和60年改築された農協事務所

  ※ 掲載省略

 

 農業委員会

 戦後の農地、農業調整、農業改良の3委員会を統合、昭和26年に発足した農業委員会だが、農地業務が主要な仕事であり、その後も農地の適正移動や売買による紛争の防止などに大きな役割を果たしてきた。通常の売買や移動のほか42年4月に作成し実施された農地等適正移動対策要綱などはそのひとつであり、零細な農家の離農が進むなかで意欲ある農家の経営規模拡大に手を差し伸べたのである。また、上富良野、東中農協合併に関しても重要な役割を果たしたことは既に述べたが、農業者の利益代表、普及指導機関としての仕事もその業務であり、後継者対策なども中心になって推進してきた。こうした業務に関連して委員会では平成6年12月、自らの意識改革と体質強化を目的に、次のような「農業委員会憲章」を定めている。

 

 一、委員会は、農業者の代表として、自覚と責任ある行動に努めます。

 一、委員会は、農用地の確保と有効利用をすすめ、法令に基づき適正な農地行政に努めます。

 一、委員会は、新時代にふさわしい魅力ある農業を築くため、担い手育成と後継者確保の支援に努めます。

 一、委員会は、地域農業の発展のため、構造政策の推進と地域の活性化に努めます。

 一、委員会は、農業経営と生活の向上のため、情報の収集・提供活動に努めます。

 一、委員会は、農業者の期待と信頼にこたえ、地域リーダーとしての知識の取得、研修、資質の向上に努めます。

 

 平成7年の時点での委員構成は、選挙で選ばれる委員が14名、選任による委員が4名(農協推薦1名、共済組合推薦1名、町議会推薦の学識経験者2名)の18名で、歴代の会長は次の通りである。

  初代・奥野 忠治 就任・昭和26年7月

  2代・林  財二    44年7月

  3代・大森  忠    53年7月

  4代・森口  勝    62年7月

  5代・小松  博    平成5年7月

 

 農業団体の統合と移転

 昭和40年代から50年代にかけて、上富良野で農業関係の業務を進めてきた団体の統合や移転が相次いで行われている。

 まず、昭和22年の北海道食糧検査所と北海道食糧事務所の合併により、検査業務に加え米穀などの買い入れ、売り渡し、貯蔵等の管理業務等も行うようになっていた北海道食糧事務所上富良野出張所だったが、48年の3段階制(本所、支所、出張所)から2段階制(本所、支所)への移行という食糧事務所の機構改革に伴い、東中出張所を吸収したうえで富良野支所上富良野分室となった。これは2段階制完全移行までの暫定的処置だったといわれるが、移行が完了する56年には富良野支所に統合され、分室は農産物上富良野検査所となった。

 また、広域化による統合としては、上富良野農業改良普及所が44年、富良野地区農業改良普及所に吸収統合され上富良野駐在所となった。駐在所事務所も58年4月に役場から農協へと移転している。さらに経費の削減、事業の安定化、獣医の専門化などのスケールメリットを生かすために懸案となっていた富良野地区農業共済組合の広域合併も49年に実現、本部は中富良野に置かれ上富良野は支所となった。