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7章 現代の上富良野 第2節 現代の農業と林業

984-987p

3、現代の畜産

 

 酪農

 上富良野の酪農は専業化が大きく進んだ。45年10月2日付け『北海道新聞』には「上富良野酪農専業化進む乳牛ふえ飼育農家減少」との見出しで、次のような記事が掲載されている。

 

 最近、町内の乳牛の飼育頭数がめざましくふえている。この半面、飼育農家は減少傾向をみせており、これまで畑酪兼業農家から、酪農一本の専業化してきているのが大きな原因で米どころから、寒地農業に強い酪農地帝へとステップを躇み出したようだ。(略)このように兼業が減っているのは、ひところ畑作や稲作の補完として乳牛を導入したのだが、四頭前後の頭数では手数や経費のかかる割りにはもうからず、規模拡大を望んでも牧草地や放牧地などの用地が取得しにくいうえ、牛舎など施設整備に多額の資金が必要−などの理由があげられ、牛を手放す農家が続出していることが最大の原因。今後、ますます専業化の方向に進む−と町ではいっている。

 

 この記事が掲載された45年の上富良野における牛の飼育戸数は86戸で牛の頭数は735頭。2年後の47年からは5年計画で、町の酪農近代化計画がスタートし、酪農農家の経営改善に大きな役割を果たすとともに、専業化はさらに進んだ。52年の飼育戸数は32戸、頭数は811頭、1戸当たりの平均飼育頭数は25頭で、酪農近代化計画が目標としていたのは平均24頭であったから、計画を上回る成果をみせたのである。

 48年には任意団体だった酪農組合を、法人としての上富良野酪農協同組合(組合長・米谷亮蔵)に切り替え、飼育管理技術や乳質の改善を進め、アメリカやカナダから優良牛を導入するなど、経営をさらに改善させた。平成7年で飼育戸数は19戸、頭数は1,411頭、1戸当たり平均の飼育頭数は74頭余り。輸入乳製品との競合という問題は抱えているが、上富良野の酪農は専業化の進行とともにこの30年間で、大きく飛躍したといえる。

 

 表7−12 乳用牛飼育戸数及び頭数

 

農家数

頭数

昭和45

86戸

735頭

昭和46

77

766

昭和47

61

632

昭和48

47

762

昭和49

46

743

昭和50

38

748

昭和51

33

761

昭和52

32

811

昭和53

28

866

昭和54

28

938

昭和55

27

968

昭和56

25

972

昭和57

23

999

昭和58

25

1,055

昭和59

25

1,105

昭和60

24

1,032

昭和61

21

1,012

昭和62

21

1,012

昭和63

22

1,007

平成1

22

1,080

平成2

21

1,147

平成3

20

1,201

平成4

21

1,368

平成5

20

1,389

平成6

20

1,443

   出典『上富良野町統計要覧1983』、各年度『町勢要覧』

 

 肉用牛

 肉用牛の飼育も乳牛同様、大きく飛躍している。42年には上富良野町和牛生産育成組合(組合長・佐川亀蔵)が設立されたといわれているが、この年の飼育戸数は7戸、頭数はわずか28頭に過ぎない。それが平成7年には38戸、2,052頭と、極めて大きな規模で飼育が行われるようになっているのである。

 このように肉用牛の飼育が発展していくきっかけになったのは、42年7月に上富良野が肉用牛増殖地域の指定を受けたことだったと思われる。これによって1頭につき8万円の無利子融資(5年間)が受けられるようになり(『広報かみふらの』111号)、導入にはずみがついた。また、45年には町と農協によって家畜総合センターが建設され、11月からは共同肥育が行われるようになっている。ここでは生産農家から生後3カ月ないし5カ月の子牛の委託を受け、約1年間、500`まで肥育して上富良野の肉用牛が市場に送り出されていった。しかも、スタート1年目で市場に出した2頭の肥育牛(黒毛和種)が神戸牛並の評価を与えられる(『北海道新聞』昭46・10・15)という成果を上げたのである。さらに、48年からは畜産振興には最も効果的な「和牛の子返し」制度が農協などによって導入され、3年間計画で100頭が貸し付けられた(『北海道新聞』昭48・7・4)。

 昭和42年から平成7年までの飼育戸数、頭数の推移は別表(表7−13)の通りだが、このようにして上富良野の肉用牛生産の基礎は作られていったのである。なお、最初に触れた上富良野町和牛生産育成組合は50年に上富良野町肉用牛組合と改称、55年には上富良野町農協肉用牛部会として新たに発足している。

 また、乳牛や肉用牛にとって欠くことのできないのが夏季の放牧だが、上富良野はじめ富良野沿線5市町村の酪農、肉牛経営の振興を目的に、南富良野で進められてきた国営串内地区草地開発事業は、55年から放牧の利用が開始された。

 

 表7−13 肉用牛飼育戸数及び頭数

 

農家数

頭数

昭和45

34戸

178頭

昭和46

41

230

昭和47

39

268

昭和48

38

245

昭和49

46

343

昭和50

57

563

昭和51

56

660

昭和52

48

547

昭和53

45

414

昭和54

40

479

昭和55

43

454

昭和56

36

603

昭和57

39

671

昭和58

38

679

昭和59

35

777

昭和60

36

1,042

昭和61

31

1,079

昭和62

31

1,079

祀和63

31

1,164

平成1

30

1,010

平成2

27

1,481

平成3

27

1,254

平成4

28

1,348

平祀5

26

1,491

平成6

26

1,526

   出典『上富良野町統計要覧1983』、各年度『町勢要覧』

 

 養豚

 昭和54年3月11日付の『北海道新聞』には農林省札幌統計事務所富良野出張所の農業統計がまとまったのを機会に、富良野沿線5市町村の昭和40年代前期・後期の農業に関する動向を伝える記事が掲載されている。そこでは「上富良野町で伸びる養豚」と題し40年代の上富良野における動向が次のように報告されている。

 

 粗生産の伸びは年率11.3%、前期7.5%に対し後期15.2%となったのが目立つ。野菜が年率21.1%でトップだが、安定して伸びたのが養豚で、前期14.7%、後期24.7%の平均19.6%。52年の粗生産額は米の21億円に次ぐ11億円と40年の約10倍。

 

 このように上富良野の養豚が急速に伸びた背景には、48年12月、白樺製肉所に代わり1日の処理能力は沿線では最大規模の食肉センターを完成させ、空知ミートを誘致したことにあるだろう。

 また、この設立を機に48年度を初年度とする豚の増殖5カ年計画もスタートさせている。『広報かみふらの』(206号)によれば、48年度出荷実績の1万7,400頭を、5年後には3万5,000頭まで増やそうというもので、主な事業としては、49年に町と農協の融資で清富の一心生産組合(組合長・村上国夫)に指定種豚場を建設、優良種豚を養豚農家に送り込み、町融資で豚舎を27舎建設することなどが計画された。

 昭和42年から平成7年までの飼育戸数、頭数の推移をまとめると別表(表7−14)の通りだが、頭数の変動が大きいのは豚肉の市場価格の動きに左右された結果と考えられる。また、飼育戸数の減少と頭数の増加という、肉牛などと同様の経過をたどり経営の規模が拡大されており、養豚も着実に専業化へと向かっていることが窺える。現在の主要な養豚者としては、5,500頭を飼育する川井興業(旭野、昭和51年創業)、1万2,000頭を飼育するかみふらの牧場(旭野、平成元年創業)がある。

 

 表7−14 豚飼育戸数及び頭数

 

農家数

頭数

昭和45

85戸

2,300頭

昭和46

77

1,462

昭和47

70

2,388

昭和48

86

3,087

昭和49

75

3,449

昭和50

88

7,220

昭和51

73

6,138

昭和52

79

7.,324

昭和53

91

9,676

昭和54

90

13,216

昭和55

89

15,684

昭和56

67

12,314

昭和57

62

12,147

昭和58

56

9,771

昭和59

55

12,397

昭和60

54

11,115

昭和61

51

13,469

昭和62

50

12,858

昭和63

40

12,844

平成1

38

12,887

平成2

32

13,688

平成3

28

20,457

平成4

27

21,333

平成5

26

17,128

平成6

20

21,694

   出典『上富良野町統計要覧1983』、各年度『町勢要覧』