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7章 現代の上富良野 第2節 現代の農業と林業

976-978p

1、農業環境の変化

 

 農業戸数の減少

 上富良野の農業人口、農業戸数は昭和30年をピークに減少の一途をたどっている。表7−6は、各年度の『町勢要覧』などをもとに作成(耕地面積については、いくつかの統計資料によって違いがあるが、ここでは『町勢要覧』記載のものを掲載している)したものだが、昭和30年に比べると平成7年では農業戸数総数で60l、専業戸数では80l、また農業人口総数でも77.5lという大幅な減少を見せている。農業者が減少を見せはじめた昭和30年代は日本の高度成長期と重なり、農業従事者と他の産業に従事する人たちと収入の格差が目立ってきた時期である。そのため後継者問題などが浮上し、離農者が増加する大きな要因になった。

 だが、当時の農業政策自体が離農者の増加を助長した側面も見逃せないだろう。制定後、農業のあらゆる面での基本方針となった農業基本法が成立したのは昭和36年である。そこでは「他産業との生産性の格差が是正されるように農業の生産性が向上すること、及び農業従事者が所得を増大して他産業従事者と均衡する生活を営むこと」(第1条)を目標に掲げ、「農業経営の規模の拡大、農地の集団化、家畜の導入、機械化その他農地保有の合理化及び農業経営の近代化」(第2条)が推進されることになった。つまり、限られた農地のなかで経営の近代化や規模拡大、構造改善などが進められるということは、ある程度の離農は政策的にも予想されていたことだといえるのである。

 表7−6の推移からも分かるように、農業者の減少の一方で耕地面積に劇的な変化はほとんどない。ここからも離農が経営規模の拡大につながっていたことが窺える。また、上富良野町農協の『農協だより』(64号、昭44・11)でも、「経営面積の拡大など農業構造改善に資する方向で、離農を援助促進する対策に取組むことが重要である」と、「離農の援助・促進」に関した記事が掲載されている。当時、離農がどのような方向でとらえられていたかが、ここからも理解できるのである。

 一方、農業人口の減少はその後も続き、昭和50年代に入ると農業従事者の高齢化とともに、上富良野の経済基盤を揺るがす可能性も出てきた。これに関連して『上富良野町総合計画』(平成元年−平成10年)は、次のように記す。

 

 農家戸数減少の背景には、農産物価格の低迷、国際経済環境下での市場開放圧力の高まり、産地間競争の激化など、わが国農業をとりまく環境の悪化に加え、基幹労働力の流出による後継者不足、機械・施設等への過剰投資による経営環境の悪化など離農を促進する要因が複雑に重なりあっている。

 

 このような危機感を背景に、これまであった農村花嫁花婿相談所を昭和56年4月には上富良野町農業後継者対策協議会に改組、相談員や専任推進委員を置いたのをはじめ、様々な農業人口の減少や離農対策の本格的な取り組みが行われるようになるのである。

 

 表7−6 農業人口・耕地面積の推移

 

農家戸数(戸)

農家人口(人)

耕地面積(f)

総数

専業

兼業

総数

従事者

総数

畑ほか

昭和30年

1,421

1,260

161

9,557

6,148.45

1,632.73

4,465.72

昭和40年

1,179

986

193

7,124

3,936

5,973.45

1,875.10

4,178.58

昭和45年

1,027

708

319

5,493

3,318

5,751.16

2,271.50

3,446.09

昭和50年

916

550

366

4,572

2,760

5,535.78

2,344.03

3,191.75

昭和55年

844

451

393

4,012

2,483

5,991.52

2,325.79

3,665.73

昭和60年

775

437

338

3,624

1,624

6,304.87

2,313.31

3,991.56

平成2年

647

339

308

2,927

1,327

6,169.98

2,171.87

3,998.11

平成7年

570

256

314

2,147

1,221

5,973.71

2,045.51

3,928.20

   出典:各年度『町勢要覧』

 

 農業構造改善事業

 戦後のこうした基本農政の推進のなかで、もうひとつの柱になったのが、昭和37年から46年の10年間にわたって実施された、補助金の投入による第一次農業構造改善事業である。上富良野は40年度に計画地域に指定され、42年度に事業計画が農林省から認可になり、43年度から3カ年計画で行われている。

 『広報かみふらの』(108号)によれば、地区の指定は2地区で、富原地区328fの水田と102戸の関係者によって、経営近代化を図るためにトラクター50PS8台、付属作業機44台、格納庫2棟の導入など、また、馬鈴薯生産を主力とする江幌・江花地区の330fの畑と80戸の関係者によって、経営近代化を図るために暗渠排水33.5f、トラクター50PS5台、作業機29台、収納庫2棟の事業や導入が行われ、さらに流通対策や米の刈り取り作業、脱穀乾燥といった作業の近代化のために、コンバイン90PS2台、籾乾燥調整施設453.6平方b1棟、馬鈴薯集荷貯蔵所753.8平方b1棟の導入や建設が、全体で1億円を超える資金を投入して行われた。

 また、この農業構造改善事業は昭和45年度からの第二次農業構造改善事業、53年度からの新農業構造改善事業前期、58年度からの新農業構造改善事業後期と引き継がれて行くのだが、「上富良野町総合計画」(昭和54年〜63年)のなかで再び導入が掲げられ、62度年から総事業費約8億円、8年計画で、農業技術拠点施設の建設をはじめとする事業が進められている(『広報かみふらの』333号)。ただ、国の財政引き締めのなかで、多額の補助金に対する風当たりも強くなっており、こうした事業も大きな曲がり角にきていることも事実であろう。

 

 米の生産調整と農産物自由化

 昭和42年から44年まで続いた全国的な豊作は、毎年200万dともいわれる米の供給過剰を生んだ。詳しくは後述するが、上富良野の米の作付けも44年にピークに達している。そのためこの年、国の農政審議会は稲作の転換や休耕の奨励、米の政府買い上げ価格や買い上げ量の調整、制限を答申し、45年からは政府による米の生産調整が行われることになったのである。なかでも北海道に関しては全国平均の11.5lを上回る、率にして12.02l、生産量で13万d、作付け面積で3万3,000fという減反が割り当てられた。

 上富良野に関しては、各年度『上富良野町事務報告』によれば、初年度の45年で504戸、507.68f、翌46年度は702戸、703.97fが減反に応じ、さらに47年度は「町では、目標を1,879トン、面積に換算すると450ヘクタールにおいていたが、取りまとめの結果、1,149ヘクタールの生産調整を行うことになった」「これは目標に対し255%、昨年実績に対しては163%」(『広報かみふらの』156号)と上富良野の水田面積のうち半分以上が転作、または休耕することになった。しかも、50年度からの水田総合利用対策、53年度からの水田利用再編成対策と生産調整は厳しさを増し、59年度からは転作奨励金も減額されることになったのである。

 一方、44年には食糧管理法(以下・食管法)が改正され、自主流通米制度が導入されたが、やがて中曽根内閣のもとで行財政改革が日程に上り、いわゆる「3K赤字」解消が叫ばれ、食管法自体の廃止が議論を呼びはじめる。米の貿易自由化、国内流通の自由化を行えという圧力が、国内外から強まってきたのである。そうしたなかで62年には、生産者米価が戦後初めて引下げとなり、やがて食管法の廃止とともに、平成7年には新食糧法(主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律)が施行された。

 また、平成5年1月12日には農協大会議室を会場に、町、農協、農民連盟の共催で農畜産物市場開放阻止・緊急上富良野町民総決起大会を行った。大会には300名が参加、「米・乳製品・でんぷん等の市場開放阻止に関する決議」を可決した(『北海道新聞』平5・1・14)が、諸外国の圧力を前に7年から米のミニマムアクセス(最低輸入量)が始まり、輸入農産物との競合という、厳しい農業経営環境に直面することになった。