第7章 現代の上富良野 第1節 現代の町政
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2、町政の諸相
財政の推移
表7−1は昭和45年度から平成7年度までの一般会計の推移を、決算額で示したものである。一般会計は46年度から10億円台となり49年度から20億円台となる。その後も50年代後半まで急上昇を続け、52年度から30億円台、54年度から40億円台、56年度から遂に50億円台に達する。
特に伸びがいちじるしいのは48年度から50年度にかけてであり、毎年30l増の急上昇であった。これは経済の好況に支えられたものではなく、48年から貿易の自由化、円為替の変動相場制の移行と円高不況、中東戦争による石油危機などから発生した狂乱物価、異常インフレによる財政の増大であった。52年度から56年度にかけては、毎年10l強のコンスタントな伸びとみられるが、これも不況によるインフレ、物価値上げによるものであった。
それ以降も一般会計は膨張を続けるが60年度から60億円台、62年度から70億円台、平成2年度から80億円台となり、4年度が90億円台となった後、5年度より100億円台に至るのである。この時期は平成2年度から5年度にかけての伸びが顕著である。これはバブル経済と呼ばれた好景気によるものであったが、6年度以降は逆にバブル経済の崩壊を受けて、不況が到来し政府の財政悪化の影響を受けほぼ停滞の状態となっている。
次に歳入の内訳の推移をうかがってみると、表7−2は昭和45年度から平成7年度まで5年おきに地方交付税、国庫支出金、道支出金、町税、諸収入、町債、以上の総額、割合の推移を示したものである。歳入の中では地方交付税が最も多くの割合を占め、次いで国庫支出金となっている。昭和50年度、55年度は両者合わせて55l強にも及んでおり、中央依存の財政構造が顕著であった。平成期に入り50lを割るようになっているが、財源が少ないだけにこの傾向は続くとみなければならない。
かって最も主要な歳入源で割合も5割を超えていた町税は、現代になると平均して10l程度に下がっており、近年は諸収入と同額となってきている。また、財源不足を補うために多額の町債が起こされるようになり、割合も町税、諸収入を抜いて町側の財源(歳入)の首位となってきている。
このような傾向は国債発行により財源不足をカバーしている政府と同様なあり方であるが、将来的に財政危機を引き起こし、町民への負担に転化されていく恐れが多分にあり、是正が望まれるところである。
表7−1 一般会計の推移(決算)
年 |
歳入 |
歳出 |
昭45 |
9億1809万2513円 |
9億0573万0598円 |
46 |
10億0950万4645円 |
10億7339万2942円 |
47 |
11億9481万8102円 |
11億6378万3880円 |
48 |
15億7965万4860円 |
15億3001万1233円 |
49 |
21億3325万2523円 |
20億9296万5773円 |
50 |
27億6069万5090円 |
26億7703万4572円 |
51 |
28億9449万4387円 |
27億9648万9574円 |
52 |
33億5218万3644円 |
32億2475万9716円 |
53 |
36億5048万6536円 |
34億9763万3441円 |
54 |
44億3098万1950円 |
42億9213万2802円 |
55 |
46億9677万8942円 |
45億4140万5264円 |
56 |
52億5099万3646円 |
50億6291万3175円 |
57 |
55億5069万2046円 |
53億9077万3842円 |
58 |
59億3108万2112円 |
57億8346万0090円 |
59 |
59億3544万9583円 |
57億2070万4591円 |
60 |
63億3403万6757円 |
61億5710万0744円 |
61 |
65億1463万5205円 |
63億2238万3728円 |
62 |
72億5108万6583円 |
70億1931万4299円 |
63 |
75億6898万4034円 |
74億1100万6193円 |
平1 |
74億1729万2845円 |
73億5332万1691円 |
2 |
85億7166万6864円 |
85億1100万3312円 |
3 |
89億6110万4736円 |
88億5370万9124円 |
4 |
95億1286万0269円 |
94億3507万6010円 |
5 |
106億3563万0774円 |
105億6090万0631円 |
6 |
106億6628万7257円 |
105億8593万8086円 |
7 |
108億0672万6651円 |
106億9267万9343円 |
表7−2 歳入内訳の推移
科目 |
昭45 |
昭50 |
昭55 |
昭60 |
平2 |
平7 |
地方公付税 |
3億7123万 |
9億7420万 |
14億6316万 |
17億7667万 |
29億9250万 |
33億9494万 |
40.4% |
35.3% |
31.2% |
28.0% |
34.9% |
31.4% |
|
国庫支出金 |
9401万 |
5億9630万 |
12億4743万 |
15億7071万 |
11億6911万 |
16億4645万 |
10.2% |
21.5% |
26.6% |
24.8% |
13.6% |
15.2% |
|
道支出金 |
8253万 |
2億4606万 |
2億6088万 |
4億4025万 |
4億7615万 |
10億3252万 |
9.0% |
8.9% |
5.6% |
7.0% |
5.6% |
9.6% |
|
町税 |
1億0748万 |
2億2642万 |
5億1687万 |
7億1176万 |
7億4266万 |
9億0425万 |
11.7% |
8.2% |
11.0% |
11.2% |
8.7% |
8.4% |
|
諸収入 |
7443万 |
2億0951万 |
4億0620万 |
5億9297万 |
7億4172万 |
9億2216万 |
8.1% |
7.6% |
8.6% |
9.4% |
8.7% |
8.5% |
|
町債 |
6360万 |
2億3800万 |
2億7540万 |
4億3760万 |
12億8737万 |
14億1860万 |
6.9% |
8.6% |
5.9% |
6.9% |
15.0% |
13.1% |
|
歳入合計 |
9億1809万 |
27億6070万 |
46億9678万 |
63億3404万 |
85億7167万 |
108億0673万 |
助役・収入役
まず、この時期の助役の就退任を示すと以下の通りである。
氏名 |
就任 |
退任 |
加藤 清 |
昭和46年12月13日 |
50年12月12日 |
平井 進 |
50年12月13日 |
57年07月12日 |
倉本良輝 |
58年08月29日 |
62年08月28日 |
安田英雄 |
62年09月26日 |
平成05年01月16日 |
南田 猛 |
平成05年03月23日 |
07年05月01日 |
大測康弘 |
07年08月10日 |
09年09月30日 |
田中伴幸 |
09年10月01日 |
|
助役は町長の補佐役として町長の就退任にともない交替することが多く、任期は4年であったが、任期途中で退任することもあった。
和田町政の開始と共に加藤清が46年12月13日に選任され、次いで50年11月19日に平井進が選任となっている。平井進は57年7月12日に道議選出馬のために退職したが、助役の残りの任期が1年足らずということもあって和田町長がしばらく兼務した。この時期は町長が収入役も兼務しており、一人三役という変則状態が続いていた。
平井進は58年4月10日に道議に当選し、62年、平成2年と当選を重ねている。
58年8月29日に酒匂佑一町長の就任にともない倉本良輝が就任し、62年8月28日に退任した。酒匂町長が二期目に入った62年9月26日に、安田英雄が議会事務局長から就任し、平成3年9月に再任となるも、菅野學町長の就任にともない5年1月16日に退任した。後任には南田猛が5年3月23日に就任し、7年5月1日に退任した。その後、適任者がいないために道へ職員の派遣を要請していたところ、道企画振興部土地水対策課長補佐であった大測康弘の推薦を受け、7年8月10日に就任するに至った。
次に収入役であるが、収入役は40年4月に町指定金融機関の参入により町収入役事務兼掌条例が制定となり、しばらく町長が収入役を兼掌していた。
ところが町収入役事務兼掌条例は63年3月をもって廃止となり、4月1日に成田政一が出納室長から収入役に就任した。23年ぶりの収入役の復活であるが、この理由は特別会計も増え予算規模も増大してきたことから、再び収入役を置くことになったものである。
また、収入役の設置により役場の出納室も廃止となり、かわって会計課が新設となった。
収入役の就退任を示すと以下の通りである。
氏名 |
就任 |
退任 |
成田政一 |
昭和63年4月1日 |
平成5年3月31日 |
福塚賢一 |
平成5年4月1日 |
9年3月31日 |
植田耕一 |
9年4月1日 |
|
人口の推移
表7−3は昭和45年から平成8年までにおける人口の推移を示したものである。上富良野町は住民登録では45年まで人口が1万7,000人台を保っていたが、46年には過疎化を迎え始めていっきょに1万5,000人台に落ちこむ。これ以降、ゆるやかな過疎化の中で徐々に人口が減少をみせていき、55年には1万4,000人台になっていく。そして、平成元年からは1万3,000人台となり、やがてそれも割る日が近い状況となっている。
上富良野町には自衛隊が駐屯しているので、他町村のように昭和40年代以降に過疎が急速化することはなかった。しかしながら、離農による農業人口の減少は顕著となっていた。例えば昭和45年以降における農家戸数、農家人口を5年おきに平成7年までみてみると、以下のようになっている。
年 |
農家戸数 |
農家人口 |
昭和45年 |
1,027戸 |
5,493人 |
50年 |
916戸 |
4,752人 |
55年 |
835戸 |
4,012人 |
60年 |
775戸 |
3,624人 |
平成2年 |
697戸 |
3,171人 |
7年 |
570戸 |
2,547人 |
農家戸数はこの25年間に457戸、農家人口は2,946人が減少しており、平成7年は昭和45年と比べると農家戸数は55l、農家人口は46lとなっていた。
このように上富良野町の人口減少は、主に農家の離農によるものであったのである。
表7−3 人口の推移(昭45〜平8)
年 |
世帯数 |
男 |
女 |
合計 |
備考 |
昭45 |
3,646 |
8,109 |
7,682 |
15,791 |
国勢調査 |
5,305 |
9,031 |
8,317 |
17,348 |
|
|
46 |
4,703 |
8,036 |
7,649 |
15,505 |
|
47 |
4,762 |
8,005 |
7,410 |
15,415 |
|
48 |
4,819 |
7,947 |
7,337 |
15,284 |
|
49 |
4,696 |
7,934 |
7,396 |
15,330 |
|
50 |
3,731 |
7,681 |
7,189 |
14,870 |
国勢調査 |
4,779 |
7,941 |
7,337 |
15,278 |
|
|
51 |
4,790 |
7,958 |
7,399 |
15,357 |
|
52 |
4,795 |
7,897 |
7,365 |
15,262 |
|
53 |
4,835 |
7,914 |
7,300 |
15,214 |
|
54 |
4,818 |
7,857 |
7,231 |
15,088 |
|
55 |
3,827 |
7,511 |
6,930 |
14,441 |
国勢調査 |
4,747 |
7,723 |
7,084 |
14,807 |
|
|
56 |
4,692 |
7,574 |
7,008 |
14,582 |
|
57 |
3,753 |
7,578 |
6,963 |
14,541 |
|
58 |
4,797 |
7,564 |
6,921 |
14,485 |
|
59 |
4,848 |
7,534 |
6,924 |
14,458 |
|
60 |
3,868 |
7,328 |
6,799 |
14,127 |
国勢調査 |
4,872 |
7,502 |
6,889 |
14,391 |
|
|
61 |
4,881 |
7,442 |
6,837 |
14,279 |
|
62 |
4,855 |
7,370 |
6,771 |
14,141 |
|
63 |
4,872 |
7,316 |
6,684 |
14,000 |
|
平1 |
4,868 |
7,174 |
6,646 |
13,820 |
|
2 |
3,935 |
6,830 |
6,435 |
13,265 |
国勢調査 |
4,796 |
7,005 |
6,554 |
13,559 |
|
|
3 |
4,816 |
6,894 |
6,518 |
13,412 |
|
4 |
4,814 |
6,789 |
6,468 |
13,257 |
|
5 |
4,958 |
6,845 |
6,464 |
13,309 |
|
6 |
5,093 |
6,940 |
6,515 |
13,455 |
|
7 |
4,106 |
6,538 |
6,343 |
12,881 |
国勢調査 |
5,073 |
6,755 |
6,445 |
13,200 |
|
|
8 |
5,100 |
6,727 |
6,447 |
13,174 |
|
国勢調査以外は住民登録調査による。いずれも10月1日現在)
上富良野地区労
昭和34年に11単産、217名によって結成された上富良野地区労働組合協議会は、その後活動が一時中断していたが、39年に4単産、180名によって再結成となり活発な活動を続けていた。その上富良野地区労の組織、目的、活動の理念は次の「綱領」に基づいていた。
一、われわれは政党支配を排除し、組合の自主性を確立して上富良野地区の労働者の労働条件を維持改善し、その経済的・政治的・社会的地位の向上を図る。
一、われわれは自由にして民主的な上富良野地区の労働組合の団結を図り、一小組合といえども孤立させることなく緊密なる連携のもとに、未組織労働者の完全組織化を推進し労働戦線の統一を促進する。
一、われわれは労働戦線の結集された力によって、上富良野地区の産業の興隆と生活文化の確立を期し、勤労大衆の擁護のために努力する。
一、われわれは結集された労働者の力による民主的活動によって、地区の封建性を打破すると共に、日本民族の自主独立を達成して、自由と平等・平和な人類社会の実現に貢献する。
上富良野地区労では昭和50年代以降、革新政党の伸張と政治の盛り上がり、市民運動との連携、地方自治や教育問題への取組み、労働者世帯の生活危機などを背景に特に活発な活動を続けるようになっていた。例えば56年にハイヤー労組に対する支援活動があり、58年に雪害農家への援農、58年から61年には日米合同演習反対闘争などに取り組んでいた。また、季節労働者への支援、国鉄の民営化反対、農産物輸入の自由化反対闘争など、地域経済や生活に関わる問題にも積極的に取り組み、「町民の声」を代弁する町内では数少ないプレッシャー団体として貴重な存在となっていた。51年9月1日には、組織内部に青年婦人協議会を結成していた。
上富良野地区労は53年に結成15周年を迎えたが、この当時、加盟していた単産は北教組(組合員90名)、高教組(9名)、国労(15名)、全林野(17名)、全逓(28名)、全日自労(19名)、全農林(6名)、十勝ハイヤー(2名)、以上の8単産、195名であった(『上富良野地区労一五周年記念誌』)。しかし、その後は国鉄の民営化、食料事務所の廃止、営林署の縮小などで単産の解散、組合員の減少が目立つようになっていった。しかし、そうした趨勢の中で上富良野町職員組合が63年12月5日に上富良野地区労に再加盟したことは大きかった。同組合は役場職員組合として43年3月に加盟したものの、46年2月に脱退して独自の単産活動を行うようになっていた。同組合は57年に自治労に加盟し、地域に根ざした運動と組織力向上の必要性から、地区労とも交流を深めるようになっていく。特に62年に食肉センターが町営から民営に移管されることに対し職員組合が民営化阻止闘争を展開したが、その際に地区労が支援したことから再加盟への機運が高まり、63年の再加盟に至ったものである。
上富良野地区労は平成5年9月に結成30周年の記念式典を催したが、この折に参加していたのは全逓上富良野分会(25名)、北教組上富良野支会(86名)、自治労上富良野町職員組合(203名)、全林野上富良野班(9名)、山労上富良野班(23名)、以上の5単産、345名であった(『地区労三十年のあゆみ』)。平成3年1月27日に連合北海道上川地区労が結成となり、各地区労が連合に参加する中で上富良野地区労も間もなく解散し、連合北海道上川地区労の傘下に入ることになった。